福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

先祖の霊についての体験談

2020-08-15 | 先祖供養
今日はお盆の中日です。先祖の霊についての体験談を残しておきます。(順不同)
・東日本大震災で被災者は無数の霊体験をしています。河北新報では「魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く」(新潮社、奥野修司著)を紹介しています。
「「どこにも行かないよ」とほほ笑む39歳の妻と1歳の娘。「56歳の兄から届いた「ありがとう」のメール。」「仮設住宅の天井に響く8歳の息子の足音。」「ハグしてくれる57歳の夫」。「「イチゴが食べたい」とねだる3歳の孫。」この他にも無数の霊体験が残されています。
・NHKスペシャル「亡き人との再会」(2013年8月27日放映)では
「目の前で水の中に沈んでいった義母が、ある晩、先に亡くなっていた義父と仲良く一緒に、庭の窓から部屋に入って来ました」。「幼稚園で死んだ子どもが、仏壇の前に座っていて、私(母親)の方を見ていたのです」。「妻と息子2人が死んだのですが、ある日、不思議な少女に手を繋がれて、長男と二男が部屋の中に立っていました」などとありました。昨年高野山東京別院の法話では「東日本で胃震災で犠牲になった幼児の誕生日に玩具が突然動き出した」「避難所の寺に犠牲になった老婆が幽霊になって家族を探しに来た」という話もありました。


・「死んだらおしまい、ではなかった (大島祥明 (2000人の葬儀を行った僧侶)PHP研究所)」は「4人に1人が、自分の死を認めていない。霊魂として迷っている。葬儀は、故人に死を理解させるために行っている。」といっていますし、
・「あの世はあった。文豪たちはみた、震えた」(三浦正夫著)では遠藤周作、三浦朱聞、菊池寛、土井晩翠、小山内薫、新渡戸稲造、夏目漱石などが神秘体験を作家活動のエネルギーにしていたことがリアルにかかれています。
・佐藤春夫の「幽香嬰女伝」には佐藤の昔の水子の霊が、長男の結婚を祝うかの如く「息子の縁談が始まったばかりの秋の一夜、私のベッドの裾の方にあるカーテンの入り口のところの造り付けの洋服箪笥のほの白い扉を背景にカーテンをくぐり抜けて部屋に進み入ろうとする姿でためらふやうに佇んでいる人影がぼんやりと見えるのであった・・あれはせがれの妹に相違ないと思った・・」と現れた様子が書かれています。
・矢作直樹東大医学部教授の『人は死なない』は自身の医者としての見取り体験から『人は死なない、魂は残る』という趣旨を述べています。その中で母の霊と話すところがあります。著者の母は一人暮らしでしたが心臓発作で死後数日して発見されます。その後霊媒体質をもつ人が現れ母の霊が心配していると著者に告げ著者はその人を通じて母の霊と話すことになります。「・・まず最初にFさん(場所を提供した人)がEさん(霊媒体質の人)に向かそって「矢作美保子さんですね」と声をかけました。するとそのときです、いきなりEさんが前かがみになり・・『直樹さんごめんなさいね。心配かけてごめんなさいね、ごめんなさいね』と話し始めました。」・・筆者は母に心配してないことを告げ、死因や死亡日時をきくと検死結果通りの答えが帰ってきます。さらに霊界でお祖父さん、お祖母さん、伯母さんにもあったといいます。そしてなぜ母が自分に謝るのか聞くと著者が毎晩母への対応を悔やんでいることがわかるからと答えます。そしてここが重要ですが著者が『毎月いっている納骨堂へのお参りは続けていいんでしょう』と聞くと『それはうれしいわ』と答えています。最後に「『これでもうこちらには来ないのですね』と聞くと『ええお別れよ元気でね』と晴れ晴れした口調に、わたしは拍子抜けしました。親が子を突き放す動物の子別れのようでした・・、とあります。

・最近の映画にも霊の存在が前提に作られているものが出てきました。「岸辺の旅(2015)」では残された妻の前に亡夫が出てきますし、「母と暮らせば」でも原爆で死んだ息子が残された母と暮らします。
・「・・靖国神社で昭和52年に職員が通路の隅でクシャクシャになった戦闘帽を発見して展示ケースに入れたところ翌日早速老婆が現れ、「夢に息子が出てきて靖国神社に来てくれというのできたら展示ケースで息子の名前がはいった帽子をみつけた」(「大師は今だおわしますか」添田隆昭)」
・2009-11-14の福聚講ブログには、Sさんから頂いた「同僚が戦没者を供養した話」を載せています。
「戦後50年に合わせた企画で、ミクロネシア・トラック島に沈んだ旧日本軍徴用の船の残骸に潜るという取材でカメラマンや照明の取材者達が同じように「助けてくれー」とか軍歌の大合唱まで聞いた。取材帰りにタクシーが迷って靖国神社まで行った。」
・インターネットには次のような投稿もありました。
「「昨日、靖国神社の境内で、血だらけの兵隊さんを見た」「課外学習の時間に靖国に行ったら、木の影に立ってた。かわいそうに、やけどしてたの」とか。そういう話は、靖国神社近くの学校だったので、しょっちゅうでした。高校時代のある夕方、部活も終わっての帰り道。わたしは駅へ急ごうと、友達と近道をしていました。靖国神社を通り抜けるコースです。まだ夕日は明るく残っていました。境内の銀杏の葉が金色に色づいて、散歩するにはちょうどいいような夕方でした。すると突然、背後から「すみません!」と男の人の声がしました。 振り返ると、そこには軍服を着た若い軍人さんがにっこり笑っているのです。
「すみません。友達と約束をしているんですが、いま何時でしょうか?」
「あ…あの…、○時です。」 慌てて答える私に、 「そう。ありがとう!」 兵隊さんはまた微笑むと、くるっと背を向けて、銀杏の木の下に消えていきました。しばらく口も利けなかった私達は、靖国を抜けてから、やっと口を開きました。「ね、今の兵隊さん、背中に弾の跡があった…。」 「うん。こめかみにも跡があった…。」 弾に当たると、服の周りが焦げるんだね、などと取りとめのない話をしながら、私達はなんだか悲しくてたまりませんでした。・・・わたしは靖国神社というと、あの兵隊さんを思い出します。
明るい笑顔やはきはきした口調を思い出す度に、ただ純粋に悲しくなります。今でも時々、思うのです。あの兵隊さんは、友との約束を守るために、いまでも銀杏の木の下で待ち続けているのだろうか。友達をずっと待ちながら、彼は何を思っているのだろうか、と…。」

・私自身も学生時代の下宿で電気コンロをつけたまま寝てしまい、布団に火がついていたのですが夜中に亡母が出てきて「こうちゃん、こうちゃん」と私の名を呼んで揺り動かして起こしてくれて間一髪で消火でき助かったことがあります。

また数十年前に笠岡沖の神島八十八所を巡っていた時、遍路宿に突然霊媒体質の中年婦人が現れ、其の人に亡父の霊が乗り移りしばらく話したことがあります。「今どこにいるの」と聞くと「奥の院」といいました、その直後、奥の院に墓を移転することになったのも不思議な因縁です。
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