話が逆になりますが 逆うちの時の話も記録しておきます。
逆うちの時は三角寺から三島の方に降りる道も迷います。逆打は標識がないので聞きながら降りるほかありませんが、人家はありません。勘を頼りに降りていくと目的から4キロも外れたところに出てしまいました。それでもなんとか予約した遍路宿大成荘につきました。あさから何も食べずに、水だけだったのでコンビニでおにぎりやパン、牛乳を買い、一挙に食べました。やはり食べてないと長い遍路道道中は不安なものです。最近の遍路宿はおにぎりを作ってくれないので、朝早く出るとどうしてもこうなるのです。
大成荘につくと何の気なしにテレビをつけました。するとそこには亡父が子守歌代わりにいつも山寺で歌ってくれた「月の砂漠」がかかっていたのです。「月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました。金と銀との 鞍置いて 二つならんで 行きました。金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕・・・先の鞍には 王子さま 後の鞍には お姫さま・・」という歌詞です。この歌を聞くとどこにいても亡父がそこにいる気がします。この歌を聞いて、今回のお遍路行にも亡父がついてきてくれているのだと確信しました。
66番雲辺寺と65番三角寺の間は3つルートがありますが地元の人に聞くと皆さん佐野峠越えを勧めます。多くの人がこのコースを通るからという理由のようです。わたしも遍路地図の距離が短く表示されていることもあって、毎回このコースを通ります。何年か前に知り合いになった「へんろみち保存協力会」の山下さんに聞くと曼荼羅峠越えもなかなかいいコースだということです。前日遍路宿で話した初老のお遍路さんも曼荼羅峠を越えてきたといいました。 次は此のコースをと思っています。
佐野峠越えの下りも大変な難所です。急坂で足が地に着きません。長い錫杖を先に立ててかろうじて体を支えながら降りていきます。何度も転びそうになりますがその都度錫杖が支えてくれました。それにしてもこの錫杖には何度助けられたかわかりません。いままでの遍路行でも数えきれないほど転倒を防いでくれました。太龍寺の求聞持行のときも深夜の山中巡りを支えてくれ、蝮から三度も護ってくれました。我が家の家宝として子々孫々に伝えたいと思っています。
やっとのおもいで麓の県道にたどり着きます。何度目かの遍路の時にはここで歩けなくなってタクシーを呼んだことを思い出します。しかし今回は何としても歩こうと決めていますので、よろよろしながらも椿堂を目指します。途中で佐野郵便局がありここで最初の目印の境目トンネルをきくと若い女性職員の方が気の毒そうに「この道をまっすぐでいいのですが、相当先ですよ」と教えてくれました。
猛スピードで走り去るトラックの風にあおられつつ県道を行くとやっとトンネルが見えてきました。以前も歩いているはずですが全くこのトンネルには記憶がありません。横に旧道があると地図に書いてあるので旧道を通ったのかもしれません。今回は旧道を探す余裕もありませんでした。トンネルに入ると人がやっと一人通れるだけの幅四〇センチくらいの通路が確保されています。しかし踏み外したり転倒したりすると後ろからくる車に確実に轢かれます。恐ろしい道です。トンネルを通る遍路道はどこもこういう危険な道ばかりです。このトンネルは九〇〇メートルもありました。途中排気ガスが充満して異様な臭いがしました。やっとの思いでトンネルを抜けましたが、三角寺まではここからまだ11キロもあります。宿から此処までも大凡11キロですから此処がちょうど半分です。
途中の椿堂に寄るとバスがとまっていて団体さんが大きな声で読経しています。
寺には縁起がかいてあります。「お大師様が弘仁6年(815)この地を訪れ、疫病に苦しむ住民のために杖を逆さにさして祈祷し病を土中に封じ込められた。後このつえから椿が生えたので椿堂とよび大師像をおまつりした。」
以前は観音様のようなお顔の寺族の方が「歩いてお参りのかたからは納経料は頂きません」とおっしゃった上、お菓子までお接待してくださったことがあります。今回は納経所の若い女性の方は事務的で無言でした。
以前と比べてどこも納経所の方が事務的になっておられるように思いました。前日遍路宿で話した遍路さんは、そういう対応が嫌で「納経帳はもっていかないことにしている」といいます。それも極端ですが、遍路は寺の方の一言に万鈞の重み、有難さ、を感じるのです。霊場会でも「四国遍路を世界遺産に」との運動をされているようですが、それ以前にまず納経所の対応を改め、お遍路さんを修行者として遇する事が先と思います。しかしお遍路さんもいちいち納経所の対応に腹を立てないで対応の悪い納経所はこちらの業をそれだけ深くとってくれているのだと思うことです。実際、納経を担当されていた方が急死したケースも知っています。これはお遍路さんにも言えることで、納経所で順番を急ぐ遍路や、大声で本堂の真ん中に立ち独りよがりに読経したりしているお遍路さんはそれだけ他の遍路さんの業をとってくれていると思うことです。
平成20年の逆打ちのときは雲辺寺の下で突然軽四輪がよってきました。中年の男の人がおずおずと「お接待させてほしいがどうですか」と言うのです。迷いましたが足も痛かったので遠慮なく乗り込みました。すると三角寺の麓まであっという間に着きました。運転していた人は「われわれはお遍路さんをみるとお大師様と思っています。こうしてお接待させていただくのが嬉しいのです。遠慮されなくていいですよ。」ともいってくれました。納札を御礼に渡し足取りも軽く朝日のなかを三角寺へ登りました。
三角寺では本堂、大師堂といつものごとく縁に座して理趣経を上げていると縁の下に二十人ほどの僧侶の一行がきて並び、私をおがむようにうしろから般若心経をあげます。あまりのもったいなさに涙をながしておりてくるとこんどはなんとこの正月に霊鷲山の清掃に連れていっていただいた高野山の浅井僧正に会ったのです。俗人のかたを数十名バスでおまいりにつれてきていたのでした。車のお接待がなければ浅井僧正にもお会いできなかったところでした。
あとでわかったのですがなんとここ三角寺の先住は父と仲のよい修行仲間だったということでした。さらに三角寺のご本尊は生家の寺のご本尊と同じ十一面観音様だったのです。
逆うちの時は三角寺から三島の方に降りる道も迷います。逆打は標識がないので聞きながら降りるほかありませんが、人家はありません。勘を頼りに降りていくと目的から4キロも外れたところに出てしまいました。それでもなんとか予約した遍路宿大成荘につきました。あさから何も食べずに、水だけだったのでコンビニでおにぎりやパン、牛乳を買い、一挙に食べました。やはり食べてないと長い遍路道道中は不安なものです。最近の遍路宿はおにぎりを作ってくれないので、朝早く出るとどうしてもこうなるのです。
大成荘につくと何の気なしにテレビをつけました。するとそこには亡父が子守歌代わりにいつも山寺で歌ってくれた「月の砂漠」がかかっていたのです。「月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました。金と銀との 鞍置いて 二つならんで 行きました。金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕・・・先の鞍には 王子さま 後の鞍には お姫さま・・」という歌詞です。この歌を聞くとどこにいても亡父がそこにいる気がします。この歌を聞いて、今回のお遍路行にも亡父がついてきてくれているのだと確信しました。
66番雲辺寺と65番三角寺の間は3つルートがありますが地元の人に聞くと皆さん佐野峠越えを勧めます。多くの人がこのコースを通るからという理由のようです。わたしも遍路地図の距離が短く表示されていることもあって、毎回このコースを通ります。何年か前に知り合いになった「へんろみち保存協力会」の山下さんに聞くと曼荼羅峠越えもなかなかいいコースだということです。前日遍路宿で話した初老のお遍路さんも曼荼羅峠を越えてきたといいました。 次は此のコースをと思っています。
佐野峠越えの下りも大変な難所です。急坂で足が地に着きません。長い錫杖を先に立ててかろうじて体を支えながら降りていきます。何度も転びそうになりますがその都度錫杖が支えてくれました。それにしてもこの錫杖には何度助けられたかわかりません。いままでの遍路行でも数えきれないほど転倒を防いでくれました。太龍寺の求聞持行のときも深夜の山中巡りを支えてくれ、蝮から三度も護ってくれました。我が家の家宝として子々孫々に伝えたいと思っています。
やっとのおもいで麓の県道にたどり着きます。何度目かの遍路の時にはここで歩けなくなってタクシーを呼んだことを思い出します。しかし今回は何としても歩こうと決めていますので、よろよろしながらも椿堂を目指します。途中で佐野郵便局がありここで最初の目印の境目トンネルをきくと若い女性職員の方が気の毒そうに「この道をまっすぐでいいのですが、相当先ですよ」と教えてくれました。
猛スピードで走り去るトラックの風にあおられつつ県道を行くとやっとトンネルが見えてきました。以前も歩いているはずですが全くこのトンネルには記憶がありません。横に旧道があると地図に書いてあるので旧道を通ったのかもしれません。今回は旧道を探す余裕もありませんでした。トンネルに入ると人がやっと一人通れるだけの幅四〇センチくらいの通路が確保されています。しかし踏み外したり転倒したりすると後ろからくる車に確実に轢かれます。恐ろしい道です。トンネルを通る遍路道はどこもこういう危険な道ばかりです。このトンネルは九〇〇メートルもありました。途中排気ガスが充満して異様な臭いがしました。やっとの思いでトンネルを抜けましたが、三角寺まではここからまだ11キロもあります。宿から此処までも大凡11キロですから此処がちょうど半分です。
途中の椿堂に寄るとバスがとまっていて団体さんが大きな声で読経しています。
寺には縁起がかいてあります。「お大師様が弘仁6年(815)この地を訪れ、疫病に苦しむ住民のために杖を逆さにさして祈祷し病を土中に封じ込められた。後このつえから椿が生えたので椿堂とよび大師像をおまつりした。」
以前は観音様のようなお顔の寺族の方が「歩いてお参りのかたからは納経料は頂きません」とおっしゃった上、お菓子までお接待してくださったことがあります。今回は納経所の若い女性の方は事務的で無言でした。
以前と比べてどこも納経所の方が事務的になっておられるように思いました。前日遍路宿で話した遍路さんは、そういう対応が嫌で「納経帳はもっていかないことにしている」といいます。それも極端ですが、遍路は寺の方の一言に万鈞の重み、有難さ、を感じるのです。霊場会でも「四国遍路を世界遺産に」との運動をされているようですが、それ以前にまず納経所の対応を改め、お遍路さんを修行者として遇する事が先と思います。しかしお遍路さんもいちいち納経所の対応に腹を立てないで対応の悪い納経所はこちらの業をそれだけ深くとってくれているのだと思うことです。実際、納経を担当されていた方が急死したケースも知っています。これはお遍路さんにも言えることで、納経所で順番を急ぐ遍路や、大声で本堂の真ん中に立ち独りよがりに読経したりしているお遍路さんはそれだけ他の遍路さんの業をとってくれていると思うことです。
平成20年の逆打ちのときは雲辺寺の下で突然軽四輪がよってきました。中年の男の人がおずおずと「お接待させてほしいがどうですか」と言うのです。迷いましたが足も痛かったので遠慮なく乗り込みました。すると三角寺の麓まであっという間に着きました。運転していた人は「われわれはお遍路さんをみるとお大師様と思っています。こうしてお接待させていただくのが嬉しいのです。遠慮されなくていいですよ。」ともいってくれました。納札を御礼に渡し足取りも軽く朝日のなかを三角寺へ登りました。
三角寺では本堂、大師堂といつものごとく縁に座して理趣経を上げていると縁の下に二十人ほどの僧侶の一行がきて並び、私をおがむようにうしろから般若心経をあげます。あまりのもったいなさに涙をながしておりてくるとこんどはなんとこの正月に霊鷲山の清掃に連れていっていただいた高野山の浅井僧正に会ったのです。俗人のかたを数十名バスでおまいりにつれてきていたのでした。車のお接待がなければ浅井僧正にもお会いできなかったところでした。
あとでわかったのですがなんとここ三角寺の先住は父と仲のよい修行仲間だったということでした。さらに三角寺のご本尊は生家の寺のご本尊と同じ十一面観音様だったのです。