66番雲辺寺と65番三角寺の間は3つルートがありますが地元の人に聞くと皆さん佐野峠越えを勧めます。多くの人がこのコースを通るからという理由のようです。わたしも遍路地図の距離が短く表示されていることもあって、毎回このコースを通ります。何年か前に知り合いになった「へんろみち保存協力会」の山下さんに聞くと曼荼羅峠越えもなかなかいいコースだということです。前日遍路宿で話した初老のお遍路さんも曼荼羅峠を越えてきたといいました。 次は此のコースをと思っています。
佐野峠越えの下りも大変な難所です。急坂で足が地に着きません。長い錫杖を先に立ててかろうじて体を支えながら降りていきます。何度も転びそうになりますがその都度錫杖が支えてくれました。それにしてもこの錫杖には何度助けられたかわかりません。いままでの遍路行でも数えきれないほど転倒を防いでくれました。太龍寺の求聞持行のときも深夜の山中巡りを支えてくれ、蝮から三度も護ってくれました。我が家の家宝として子々孫々に伝えたいと思っています。
やっとのおもいで麓の県道にたどり着きます。何度目かの遍路の時にはここで歩けなくなってタクシーを呼んだことを思い出します。しかし今回は何としても歩こうと決めていますので、よろよろしながらも椿堂・三角寺を目指します。途中で佐野郵便局がありここで最初の目印の境目トンネルをきくと若い女性職員の方が気の毒そうに「この道をまっすぐでいいのですが、相当先ですよ」と教えてくれました。
猛スピードで走り去るトラックの風にあおられつつ県道を行くとやっとトンネルが見えてきました。以前も歩いているはずですが全くこのトンネルには記憶がありません。横に旧道があると地図に書いてあるので旧道を通ったのかもしれません。今回は旧道を探す余裕もありませんでした。トンネルに入ると人がやっと一人通れるだけの幅四〇センチくらいの通路が確保されています。しかし踏み外したり転倒したりすると後ろからくる車に確実に轢かれます。恐ろしい道です。トンネルを通る遍路道はどこもこういう危険な道ばかりです。このトンネルは九〇〇メートルもありました。途中排気ガスが充満して異様な臭いがしました。やっとの思いでトンネルを抜けましたが、三角寺まではここからまだ11キロもあります。宿から此処までも大凡11キロですから此処がちょうど半分です。
途中の椿堂に寄るとバスがとまっていて団体さんが大きな声で読経しています。
寺には縁起がかいてあります。「お大師様が弘仁6年(815)この地を訪れ、疫病に苦しむ住民のために杖を逆さにさして祈祷し病を土中に封じ込められた。後このつえから椿が生えたので椿堂とよび大師像をおまつりした。」
以前は観音様のようなお顔の寺族の方が「歩いてお参りのかたからは納経料は頂きません」とおっしゃった上、お菓子までお接待してくださったことがあります。今回は納経所の若い女性の方は事務的で無言でした。
以前と比べてどこも納経所の方が事務的になっておられるように思いました。前日遍路宿で話した遍路さんは、そういう対応が嫌で「納経帳はもっていかないことにしている」といいます。それも極端ですが、遍路は寺の方の一言に万鈞の重み、有難さ、を感じるのです。霊場会でも「四国遍路を世界遺産に」との運動をされているようですが、それ以前にまず納経所の対応を改め、お遍路さんを修行者として遇する事が先と思います。しかしお遍路さんもいちいち納経所の対応に腹を立てないで、対応の悪い納経所はこちらの業をそれだけ深くとってくれているのだと思うことです。実際、納経を担当されていた方が急死したケースも知っています。これはお遍路さんにも言えることで、納経所で順番を急ぐ遍路や、大声で本堂の真ん中に立ち独りよがりに読経したりしているお遍路さんはそれだけ他の遍路さんの業をとってくれていると思うことです。
佐野峠越えの下りも大変な難所です。急坂で足が地に着きません。長い錫杖を先に立ててかろうじて体を支えながら降りていきます。何度も転びそうになりますがその都度錫杖が支えてくれました。それにしてもこの錫杖には何度助けられたかわかりません。いままでの遍路行でも数えきれないほど転倒を防いでくれました。太龍寺の求聞持行のときも深夜の山中巡りを支えてくれ、蝮から三度も護ってくれました。我が家の家宝として子々孫々に伝えたいと思っています。
やっとのおもいで麓の県道にたどり着きます。何度目かの遍路の時にはここで歩けなくなってタクシーを呼んだことを思い出します。しかし今回は何としても歩こうと決めていますので、よろよろしながらも椿堂・三角寺を目指します。途中で佐野郵便局がありここで最初の目印の境目トンネルをきくと若い女性職員の方が気の毒そうに「この道をまっすぐでいいのですが、相当先ですよ」と教えてくれました。
猛スピードで走り去るトラックの風にあおられつつ県道を行くとやっとトンネルが見えてきました。以前も歩いているはずですが全くこのトンネルには記憶がありません。横に旧道があると地図に書いてあるので旧道を通ったのかもしれません。今回は旧道を探す余裕もありませんでした。トンネルに入ると人がやっと一人通れるだけの幅四〇センチくらいの通路が確保されています。しかし踏み外したり転倒したりすると後ろからくる車に確実に轢かれます。恐ろしい道です。トンネルを通る遍路道はどこもこういう危険な道ばかりです。このトンネルは九〇〇メートルもありました。途中排気ガスが充満して異様な臭いがしました。やっとの思いでトンネルを抜けましたが、三角寺まではここからまだ11キロもあります。宿から此処までも大凡11キロですから此処がちょうど半分です。
途中の椿堂に寄るとバスがとまっていて団体さんが大きな声で読経しています。
寺には縁起がかいてあります。「お大師様が弘仁6年(815)この地を訪れ、疫病に苦しむ住民のために杖を逆さにさして祈祷し病を土中に封じ込められた。後このつえから椿が生えたので椿堂とよび大師像をおまつりした。」
以前は観音様のようなお顔の寺族の方が「歩いてお参りのかたからは納経料は頂きません」とおっしゃった上、お菓子までお接待してくださったことがあります。今回は納経所の若い女性の方は事務的で無言でした。
以前と比べてどこも納経所の方が事務的になっておられるように思いました。前日遍路宿で話した遍路さんは、そういう対応が嫌で「納経帳はもっていかないことにしている」といいます。それも極端ですが、遍路は寺の方の一言に万鈞の重み、有難さ、を感じるのです。霊場会でも「四国遍路を世界遺産に」との運動をされているようですが、それ以前にまず納経所の対応を改め、お遍路さんを修行者として遇する事が先と思います。しかしお遍路さんもいちいち納経所の対応に腹を立てないで、対応の悪い納経所はこちらの業をそれだけ深くとってくれているのだと思うことです。実際、納経を担当されていた方が急死したケースも知っています。これはお遍路さんにも言えることで、納経所で順番を急ぐ遍路や、大声で本堂の真ん中に立ち独りよがりに読経したりしているお遍路さんはそれだけ他の遍路さんの業をとってくれていると思うことです。