地蔵菩薩三国霊験記 3/14巻の3/7
三、地蔵講行不同の事。
常陸の國筑波山の傍に圓坊と云ける僧あり。人を語ひて結縁し月の廿四日に地蔵講を興行しけるが人数多く集会して張行しける餘財甚だ巨多なりければ後日には是が為に欲心ををこし講行の事は跡なく残米等の利欲を沙汰し施食利益は不通にして餘りあるをば己が眷属に扶持しつつ或は馬を飼ひ牛を養ふ縁とぞしたりける。或傍に栖居ける法師に圓了坊と白しける行人、これも人をかたらひあつめ、里を催し邑を勧めて地蔵講をぞ興行しける。志更に以て日圓坊には似ず、法用をば形の如くなして唯偏に目を塞ぎ合掌して一時ばかり地蔵の宝号を唱へたてまつり衆人の持参したりし米錢を當日に尽くさんと嗜みて尚一粒のあまりあればこれを貧乏に施し乞食に與へ猶あまりあるを江河の群類に施すとて水に入り尚恐らくは餘瀝あらんことを器物を洗ひて犬鳥にあたへて一粒の事も大切にぞ施しけり。或時日円坊病に犯されて他界しけり。去る程に其の講も退転しければ志有る人々彼の円了房の講人にぞ加り、又さるから弥益(いやまし)に講衆も繁昌してんげり。円了房思惟しけるには、さてしも日円房の未来のほど何になりぬらんと、ゆかしくぞ思入れて偏に本尊の加被を憑(たのみ)奉り祈念して果報のほど夢中になりとも見度事にぞ願ひけるに或僧来たりて白しけるは、此の菩薩は六趣に遍満し玉ひて至らざる所やまします。信心に真あるべき人は争(いか)で望みを空しくせん。いざや人々越中の國立山に登りて目前に獄苦を見て一の罪障をも懺悔し玉へかしと云ければ、實(げ)にもと云て人々彼の立山にぞ登りける。山の半腹に入りて日俄かに暮れて東西を失ひ足に任せて行けるほどに、或谷底に人音の聞へけるを尋下りて見ければ、頭とおぼしき方は円(まる)く色白ふして形は人の衣服を引きかずきてぞ伏したりける。大小の鱗かさなりて其の間ごとに鳥の羽のごとき毛の生たるものを大小の鬼王ども集りて思ひ思ひの器杖を執りて手ごとに其の毛を抜取ける。實にや苦しみあるやらん、赤肉より血を流して地の膚をぞ染めけり。鬼王ども鐵の箸を以て其のいろこをはさみおこして抜きとり、又其の苦しみあまりに口なんといへども百千の牛の吠るよりも大きなり。其后鬼王劔鉾を捧げ来たり玉ひければ鬼王ども各々をそれ奉りて散々にぞなりゆきける。彼の僧鉢の中より白乳を汲みて彼の円き形の者にぞそそぎ玉ひければ口もなくして白き玉のごとくなる下(した)より白き鱗を振り起して彼の乳を吸ひければ又本の形に毛生けり。円了心に思ひけるは是は音に聞くこともなき業報かな天晴明眼ならば實体を見つべけれども、凢見なれば如是とばかり見ることよと心中に観念しければ彼の御僧、我如来の智見力を以ての故に彼の久遠を観ずれば猶今日の如しとて錫杖を振てぞ誦し玉ひける。円了恐怖しながらも近付奉りて申しけるは是はいかなるもににて侍るやと問ければ、沙門御涙を拭玉ひて是こそ汝が古郷にありし日円房が業力の所感、汝顛倒の見、近しと雖も而も見ず、能々これを見、耳根更にさしといへども羅刹の怒りに肝を消し都て眼目はあらざれども鬼王の責めに血の涙を流せり。日夜百千の苦を受け壽命又百千劫を經べきなり。我は其の講行讃歎せられし地蔵なりとて消すごとくにぞ失玉ひぬ。円了房不思議に貴く思奉りて目を閉じて合掌して一心に地蔵菩薩を念じ奉りつつ良(やや)久しくありて目を開きて四方を見ければ世の中急に明かになって日未だ禺中(ぐちゅう。昼四つ時。 今の午前一〇時前後)にぞありける。夢の覚めたる心地して弥よ心を専らにて口には名号を唱へ内心に慚愧を生じて諸の大小の地獄を相見るに因果明々として各々の果報を得たり。見る所の瑞相も怖ろしくなりて各の(をのをの)皈國して弥々無欲清浄の講行を発して一結の衆中集まる次(ついで)には此の事を語りて慚愧して手に汗を掬りければ聞く人悲しみて皆涙をぞ流しけり。去程に弥よ餘残一粒をも忌むこと偏に猛火に手を指す如くに怖れけり。尚日円房の罪障目前して我が将来も如何と猛く思ひければ所詮かやうの講行一結の衆を集るには信施を受くることを止んと思立ちける暁の夢に高顕の沙門来たりて円了房に立ち向ひて打傾て宣(のたまひ)けるは、汝が修する所の地蔵は我なり。汝が如く清浄の発心こそ我もなつかしく思ふなり。又天衆も喜玉ふべし。冥官も歓喜し玉へ利益は方便門より出て廣く衆生を度せり。汝何ぞ方便を捨てて早く功徳を退転し玉はんや、とて御衣袖をあいぼり玉ひければ、円了房白しけるは、我未だ愚暗の内に有りて未證の凢夫たるに依りて當来の果を恐れて如是に存ずるなり、と白しければ、汝が願力清浄堅固にして得度の縁を発すに依りて當来に證すべき報を粗(ほぼ)見せしめんとて遥かの高門の内に入り円了が手を引いて是の相を具さに見て疑を止めよとの玉ひける。されば門の内を見れば四方四間ばかりも有るらん鐵の鼎を建てて百千の鬼王立ちて廻りて思々の器を引そばめて釜の下に猛火しきりにもえたちて、釜中の熱湯涌上がりて其の沫炎に変じて盛んにもへあがるに、初めは四間ばかりと見へしに後は方四町ばかりになりてぞ焼上がりける。其の炎の隙には百千の罪人ども見つ熱炎の中にぞありける。其の中にも我が勧しところの講に入りたる人もありける。浅間敷く思ひて身もすくみ氣も縮りて前後を忘却して居るところに彼の僧指して、あの見ゆる所の高き所に登りて能々釜の中を見るべし。然るべき利もあらんとの玉ひければ円了房彼の教に随って振々(ふりひふるひ)ぞ高所に登りて釜の底を見んと思ひてのぞきみければ、円了の眉間より明々たる光明出現して釜中をぞ照らしけり。光にしたがひて釜すなはち傾きけるを鬼王どもは肝を消して何なる由にて角はあるぞと仰天してぞありける。後には熱湯ことごとく清涼の水となりて、猛火も変じ紅の蓮となり、又獄中の罪人化して三歳の小児の如くして其の花の上に戯れけり。花傾き凋まんとしければ地蔵薩埵の光明赫耀として飛び下り玉へば、彼の化菩薩手を合わせ雲に乗り地蔵の御影に随ひ奉り皆天宮に飛登りて去ぬ。大小の鬼王手を合わせて跪きけり。火中に見へし講衆も諸共に天上すると見ければ歓喜の涙に夢覚めにけり。さては講演一結の衆をば諸天も加護し済度し玉ふよと思て弥よ無欲清浄の願を起て称名弘願の講行を成しければ勧めざるに人来て衆に入り催さざるに望んで結縁しけり。されば閑かなる暁には必ず菩薩應跡の光を放って円了に御法を示し玉ふこともありしとなん。凢そ一生の講席は諸佛所會の根本なり、いかにもして勧めて白善親近の結縁を施し玉ふべき者なり。されば法華経には佛種は縁より起るとぞ説き玉ふ(妙法蓮華經方便品第二「諸佛兩足尊 知法常無性 佛種從縁起 是故説一乘」)。如是に纔なる称名の講演等の縁を本として其の功を積みて遂に成等正覚の位に到りて果たして度脱衆生の主とは成故なり。いかに物憂きも愚なる人をもすすめて一結の講席に契をなし、一佛成道の覺路に向ひ玉ふべし。凢そ一座の講演は萬劫の善根を植る種、片時の称名は衆佛隨逐の田地なり。必ず廃退することなかれ。されば善にも悪にもその縁成就せずんば得益更に以てあるべからず。其の故は敵を待って楯の前にも因縁成就せざれば弓箭の功を空しくして正に害を遁るべき者か、況や善根もはかなき一結の席に連られ一念称名を初めとして遂に成仏の直道に入る。末世の衆民如是の書付るを虚偽と思はず信に心に入りて一会の講をも営むべきものなり。