四には正覚等持の義、大日経ならびに疏に依らば、ただ本不生を覚るをもっての故に三昧と名ずくと云々文の如し之を知るべし。
五には二字義に云く、自性清浄にして改転無し故に本不生と名ずくといへり。意の云はく一切諸法は本より染と云ひ塵といふ等、無明染法を離れて常にこれ浄妙法身の凝然不変の理体智体法体といはんとぞ。
六には三句の義をもて本不生といふ、本とは菩提心為因の句、菩提心の種子の因は行果の本源本初なるがゆえに、不とは大悲為根の句、いわく不とは空なり、無なり、すなわちこれ第一義諦の心、無所住の心なり、万行の妙行に皆無住の心と実相の大空とに依って建立することを得、若しこの心に住せざる者は所行の功徳実行にあらざるが故に。また不とは八不なり、すなわち文殊の行の義なり。故に行の句に之を配す。また不とは空の義なりとはしばらく二義あるがゆえに大悲の義なり。いわく譬へば虚空の広大にして能く一切の万物を含容し生長せしめてあへて損害せざるが如く、大悲もまた爾なり。能く普遍く一切衆生をはぐくみおよび能く長養して損害を生ぜざるが故に、また虚空の能く一切の物を生長し含容して更に簡別なきが如く、大慈悲も亦しかなり、普く群類を利し等しく衆生を憐んで差別あること無しと云々。生とは方便為究竟といふ句に摂す。
いわく方便に二あり。向上向下なり。すなわち自において佛果の万徳を発生するは即ち向上方便なり。生とは顕発の義なり。即ち顕徳の即身成仏の義なり。他において無量の大利を生成するはこれ向下方便なり。生とは生成生作の義なり。故に総じて生を方便為究竟といふなり。
五には二字義に云く、自性清浄にして改転無し故に本不生と名ずくといへり。意の云はく一切諸法は本より染と云ひ塵といふ等、無明染法を離れて常にこれ浄妙法身の凝然不変の理体智体法体といはんとぞ。
六には三句の義をもて本不生といふ、本とは菩提心為因の句、菩提心の種子の因は行果の本源本初なるがゆえに、不とは大悲為根の句、いわく不とは空なり、無なり、すなわちこれ第一義諦の心、無所住の心なり、万行の妙行に皆無住の心と実相の大空とに依って建立することを得、若しこの心に住せざる者は所行の功徳実行にあらざるが故に。また不とは八不なり、すなわち文殊の行の義なり。故に行の句に之を配す。また不とは空の義なりとはしばらく二義あるがゆえに大悲の義なり。いわく譬へば虚空の広大にして能く一切の万物を含容し生長せしめてあへて損害せざるが如く、大悲もまた爾なり。能く普遍く一切衆生をはぐくみおよび能く長養して損害を生ぜざるが故に、また虚空の能く一切の物を生長し含容して更に簡別なきが如く、大慈悲も亦しかなり、普く群類を利し等しく衆生を憐んで差別あること無しと云々。生とは方便為究竟といふ句に摂す。
いわく方便に二あり。向上向下なり。すなわち自において佛果の万徳を発生するは即ち向上方便なり。生とは顕発の義なり。即ち顕徳の即身成仏の義なり。他において無量の大利を生成するはこれ向下方便なり。生とは生成生作の義なり。故に総じて生を方便為究竟といふなり。