日々の恐怖 6月23日 大阪
十数年前の夏のことです。
それは雨の夜でした。
残業が酷く長引いて深夜になり、私は人通りのない帰り道を急いでいました。
近道をしようと角を曲がり路地に入ると、年老いた風の男女二人連れが、ゆっくりとこちら側へ向かってきました。
お爺さんが銀色の自転車を押し、その後ろからお婆さんがお爺さんに傘を差しかけて、自分は少し濡れながら歩いています。
譲り合ってようやく傘同士がすれ違えるような狭い路地なので、私は立ち止まって道を譲りました。
すると、お爺さんが、
「 ○○病院はどこかいな?」
と私に尋ねてきました。
地元に長く住んでいる私でしたが、その名前の病院に心当たりがありませんでした。
困って後ろのお婆さんを見ると、片手を拝むように目の前にした後、私が歩いて来た方を指差し、もう一度拝むように頭を下げました。
“ ああ、このお爺さんはきっと少し呆けているんだな。
そういえば、着ているものもパジャマみたいだし・・・。”
そう思って私は、お婆さんの指差すまま、
「 あっちです。」
とお爺さんに告げました。
「 おおきにな、あっちやな。
ホンマに、オカンは何さらしとんのや。
オカンおらへんかったら、ワシ道全然分からへんがな。
ホンマおおきに・・・。」
ブツブツ言いながらお爺さんは歩き出し、お婆さんはまた私にお辞儀をしながら後に続きました。
“ きっと呆けてしまって、奥さんがついて来ている事にも気がつかないのだ。”
そう思った後、何となく可哀想に思えて振り返ってみると、路地の向こう少し先を歩いているお婆さんの後姿しかありませんでした。
「 エッ・・・!?」
私は凄く驚きました。
お爺さんも自転車も、どう目を凝らしても見えないのです。
その路地は大きな工場の裏手で、どこにも隠れるところはありません。
また、自転車に乗って走り去るほどの時間は無かったと思います。
雨の夜とは言え、シルバーの自転車とネルっぽいパジャマだけを着たお爺さんを見失うわけなどありません。
お婆さんは傘を何も無い空間に差しかけて、自分は肩を濡らしたままゆっくりと歩いていました。
その姿が路地の角を曲がって見えなくなるまで、私は茫然と立ち尽くしていました。
童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ