日々の恐怖 6月3日 ただいま
Aちゃんが住んでいた家の玄関はガラスの格子戸で、腰掛けて靴を脱ぐ上り框、そのすぐ後ろにもすりガラスの引き戸が嵌っていた。
だから、Aちゃんのお父さんが、
「 ただいま。」
と帰ってきて靴を脱ぐと、その影がすりガラス越しに見える。
お母さんは廊下に顔を出してその大きなシルエットに、
「 お帰りなさーい。」
と声をかけるのがいつもの光景だった。
だけどAちゃんが6年生のとき、お父さんは家で突然倒れて、そのまま運ばれた先の病院で亡くなってしまった。
前ぶれもなく伴侶を失ったお母さんの悲しみようは深かった。
玄関のコート掛けには、倒れる前日、会社から帰ってきたお父さんがハンガーにかけた背広がそのままになっていた。
いや、お母さんがそのままにしていたのだ。
まるで、そうしていればひょっこりお父さんが帰ってくるとでもいうように。
Aちゃんにも、その気持ちはよくわかった。
だけど、三ヶ月ほど経ったある夕方、背広を見ているうちにちょっとイタズラしてやろうという気持ちが湧いてきた。
いつまでも泣いてちゃダメだよお母さん、お父さんだって浮かばれないよ、という思いもあったのだろう。
お父さんの背広をそっと羽織って、格子戸をわざと大きな音をさせて開ける。
すぐさま上り框に腰掛けて靴を脱ぐ仕草。
背広はブカブカだったけれど、夕陽に照らされてすりガラスに映った影は、お父さんのように大きく見えているはず。
「 はーい、どちら様で・・・。」
お母さんが息を呑む気配がした。
「 あなた・・、なの?」
その瞬間、Aちゃんの胸に後悔の念が押し寄せた。
その声はお母さんではなく、夫に呼びかける妻のものだったから。
ちょっとからかうつもりだったのに、心の底からお父さんが帰ってきたと思っている。
“ ごめん、お母さん、ほんとはアタシだよ!”
あわててそう言ったつもりだった。
でも、口から出た言葉は違った。
「 ただいま。」
Aちゃんの耳に太い男の声が聞こえた。
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