ストラスブールはフランスの東端、ドイツとの国境に位置する都市だ。ラテン民族とゲルマン民族がぶつかり合う文明の衝突点だった。従ってヨーロッパの歴史を振り返ると、何度もこの地が戦いの場となってきたことが明らかになる。そんな歴史を踏まえながら街を歩いた。
まずは国鉄駅から散策をスタートさせよう。
駅舎はドームのようなガラスに覆われている。というより旧駅舎をすっぽりドームで包んでしまった。
だから、外から見ると楕円形だが、中はそっくり以前のままの建物が残されている。
その2階部分には、バラ窓形のイルミネーションも。
駅のプラットホームは半円形の屋根がスマート。
ホームのガードレールが洗練されたデザインで、まるで美術館構内みたい。
街に向かって歩き出すと、すぐイル川がある。この川はヨーロッパ大陸を横断して流れるライン川の支流だ。駅発のトラムに乗れば数10分でライン川を越えてドイツ領であるケールという街まで直行できてしまう。もちろんパスポートなど不要。互いの街を通勤している人もいるという。
イル川を渡って旧市街に入る。このトラムを使えば市内散策を自由自在。1日券4・5ユーロを買って使い倒した。
駅から旧市街の繁華街クレベール広場までは「11月22日通り」が繋いでいる。
この通りはその名前がある意味ストラスブール現代史を象徴している。というのは、1912~14年にかけて建設されたこの通りは最初「新大通り」と命名された。
しかし1918年、「11月22日通り」に名前が変わる。
だが、1940年には「6月19日通り」と改名され、
さらに1944年にはまた「11月22日通り」に戻ったという歴史を持つ。
なぜなのか。それには国際情勢が大きく関係している。まず「新大通り」が建設された当時はストラスブールはドイツ領だった。しかし、1918年第一次世界大戦によってフランスがドイツに勝利し、凱旋記念日の11月22日が通りの名称となった。
だが、また戦争が始まる。1940年6月19日、ナチスのドイツ軍がストラスブールに進駐して「6月19日通り」となり、第二次世界大戦で再びフランスが勝利して「11月22日通り」に戻るという、半世紀に4回も名前が変わった特別な通りだ。
もちろん、こうした歴史はこの半世紀だけではない。
「明日から母国語が使えなくなります」という授業の模様を描写したドーデの小説「最後の授業」は、1871年普仏戦争でプロイセンがフランスに勝利してフランス語が禁止される前日の授業の物語。これもアルザス地方が舞台だ。
「ヨーロッパの平和は独仏の和解が不可欠」との主旨でこの地に欧州議会が置かれたのもそうした歴史が背景になっている。
同通りの中ほど「12番地」の建物にプレートがあった。
「星の王子様」などの作品を残した作家サン・テグジュベリが、ストラスブールの第2飛行連隊に入隊した時に住んでいた場所がこの建物だ。