さらに上流に進もう。白髭橋が見えてくる。ただ、工事中で橋がカバーで覆われている。アーチのすっきりした姿が見えないのが残念、
この橋も厩橋と同様に地元有志が基金を募って架けられた民間の橋だった。1914年完成で、当時の通行料は一人一銭だったという。
ここも関東大震災で破壊され、その後東京府が買い取って現在の橋に架け替えられた。
橋が出来る前は、平安期に設けられた隅田川最古の渡し「橋場の渡し」があり、伊勢物語の在原業平が渡ったとされる渡しはここだったというのが有力だ。
この付近からも東京スカイツリーの全体がすっきりと見渡される。
司馬遼太郎は著書「街道をゆく」の本所深川編で、この白髭橋について触れている。
源頼朝は1180年に挙兵したが、石橋山で平家に敗れた。舟で安房の国に一旦逃れ、再び平家に対峙しようとした時、隅田川の水かさが増していた。
それで舟を横並びにつなげた浮橋を造り、川を渡って武蔵の国に入った。そうして時間をかけていた間に周辺の軍勢が次々と味方に付き、やがて平家を討つ結果となった。
その舟橋が造られたのが、今の白髭橋あたりだったという。
橋の西詰にある石浜神社に「名にしおはば・・・」の都鳥の歌碑があると聞いて訪ねてみた。だが、よくわからない。神社の窓口で「あのあたり」とさされた場所でいくつかの石碑を見てみたが、どれも刻まれた文字が薄れていて特定できなかった。
このいくつかの碑のうちのどれかのようです。
さらに西側には平賀源内の墓があった。住宅地の中にぽつんと。ここにはもともと総泉寺という寺があり、そこに葬られたのだが、寺が板橋区に移転した。
ただ、源内の墓だけがここに残されたのだという。源内はエレキテルの発明などで有名だが、1778年誤って2人を殺傷、
伝馬町の牢屋敷で獄中死している。
この周辺の川岸を見ても緩やかな護岸と川岸公園的な水に親しめる形が広がっている。このような堤防はスーパー堤防と呼ばれる。
以前高度成長期の1960年代からは水害防止のため水面から切り立ったコンクリート護岸の堤防=カミソリ堤防=が続々と築かれ、その結果人と川とが完全に分離されてしまった。
この反省を踏まえて1985年以降は傾斜は緩やかでも決壊しないような幅広い岸辺を設ける現在の堤防方式が採用されて、隅田川でも川と人との交流が各所で見られるようになっている。
その上流にあるのが水神大橋。こちらも平成になってから架けられたもので(1989年)、中央に大きなアーチがついている。
東岸にある隅田川神社の別名「水神宮」にちなんだネーミングだ。
水神大橋の北側、隅田川が大きく西へカーブした先にあるのが千住汐入大橋だ。
千住地区の再開発によってマンション群が増え、川横断の需要が増したことから、2006年に架けられた新しい橋だ。
かつては汐入地区と千住曙町の鐘ヶ淵紡績とを結ぶ「汐入の渡し」があったところだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます