新イタリアの誘惑

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東京探訪・石川啄木編① 啄木北海道から上京、「もし女だったら、この人を恋しただろう・・」

2017-04-29 | 東京探訪・石川啄木編

 これまで樋口一葉の生涯について、その足跡をたどってきたが、最も中心的な場所となった本郷地区は、もう一人、忘れがたい早世の詩人・石川啄木晩年の足跡と重なる部分が多い。
 その青年の東京生活をたどってみよう。


 一葉が貧困の中で懸命に生きた菊坂町近く、菊富士ホテルそばにあった下宿屋「赤心館跡」を訪ねた。ここは一葉が早世してから12年後の春、北海道から上京した22歳の青年が、成人後初めて東京に住まい始めた下宿だ。

 名は石川啄木。文学を志し、盛岡中学時代の2年先輩金田一京助の援助を得て、この下宿・赤心館に住み始めたのは、1908年(明治41年)4月のことだった。

 啄木はこの地で処女詩集「一握の砂」に収録されることになる歌を書き始める。跡地近くのマンション一階に「東海の小島の磯の白砂に 我泣きぬれて 蟹とたはむる」の歌が掲示してあった。

 ただ、赤心館暮らしはあっという間に終わりを告げる。精力的に創作活動を始めたものの、収入はなく、下宿代不払いで部屋を追い出されてしまう。

 この時の啄木の日記。「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引っ越さないかといふ。午後5時少し過ぎて森川町新坂359蓋平館別荘という高等下宿に移った」「家の造りの立派なことは東京中の下宿で一番だといふ」。

 そんな風に、金田一は常に後輩の啄木の面倒を見ており、啄木もそれに関しては大きな敬意と共に接していた。
 「金田一君という人は世界で唯一の人である。かくも優しい、情を持った人、かくも懐かしい人、若し予が女であったならきっとこの人を恋したであらうと考えた」。

 蓋平館別荘は、直線距離にすれば赤心館から約200m。旧森川町の新坂という、言問通りから東に上る急な坂を上りきったところにあった。

 文京区によるプレートも立っていた。

 建物はその後太栄館という施設に変わった。

 ただ、私が行ったときは工事中で更地になってしまっていた。

 旧森川町には徳田秋声の家もある。竹林に囲まれた板塀の家は、いかにも文豪の住まいといったたたずまい。
 これまでに紹介した著名人たちはほとんど様々な事情で短期間に転居を繰り返していたが、徳田は金沢から上京して、1905年から73歳で亡くなるまで38年間もここに住み、第一回菊池寛賞受賞作品「仮装人物」を始め、著作のほとんどをここで完成させた。

 また、博文館に編集者として在籍していたことがあり、ちょうど同社で発行した一葉の「にごりえ」の編集を担当、一葉と顔を合わせている。

 この立派な竹林は、同じ金沢出身の室生犀星から贈られたものだという。



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