極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

お互いのかけらを交換し合う

2017年04月03日 | 環境工学システム論

 



       北冥に魚あり、その名を錕(こん)となす。錕の大いさ、その幾千里なるを
       知らざるなり。化(か)して鳥となる。その名を鵬(ほう)となす。鵬の背、
       その幾千里なるを知らざるなり。

                       「逍遙遊」(しょうようゆ)/『荘子』(そうじ)                   

                                               

      ※ 作為を捨てて悠々自適し、なにものにもとらわれることのない生き方こそ、
        自
由の極致といわねばならぬ。荘子が理想とした「逍巡遊」の境地が、奔
        放な想像の翼に乗って展開される。
 



    
 読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅰ部』      

     8.かたちを変えた祝福

  翌日の一時半に彼女はうちにやってきて、我々はいつものようにすぐにベッドの中で抱き合っ

 た。そしてその行為のあいだ二人ともほとんど日石きかなかった。その日の午後には雨が降った。
 秋にしては珍しい激しい通り雨だった。まるで真夏の雨のようだった。風に乗った大粒の雨が音
 を立てて窓ガラスを叩き、雲も少しばかり鳴ったと思う。分厚い黒雲の群れが谷間を通り過ぎ、
 雨がさっと降り止むと、山の色がすっかり濃くなっていた。どこかで雨宿りをしていた小鳥たち
 が一斉に姿を現し、賑やかにさえずりながら、懸命に虫を探し回っていた。雨上がりは彼らにと
 っての格好のランチタイムなのだ。雲の切れ目から太陽が姿を見せ、あたりの本の彼に水滴を煌
 めかせた。雨が降っているあいだ、我々はずっとセックスに夢中になっていた。雨降りのことも
 ほとんど考えなかった。そしてひととおりの行為が終了するのとほぼ同時に雨があがった。まる
 で待ち受けていたみたいに。

  我々は裸のままベッドに横になり、薄い布団にくるまって話をした。主に彼女の二人の娘の学
 校の成績の話をした。上の娘は勉強もよくしたし、成績もかなり良かった。問題のない落ち着い
 た子供だ。しかし下の娘は勉強が大権いで、とにかく机の前から逃げ回っていた。しかし性格は
 明るく、なかなかの美人だった。物怖じもせず、まわりの人々にも好かれた。運動も得意だ。い
 っそ勉強のことはもうあきらめて、タレントにでもした方がいいのかしら? ゆくゆくは子役を
 育てる学校に入れてみようかとも思っているんだけど。

  考えてみれば不思議なものだ。知り合ってまだ三ケ月ほどにしかならない女性の隣で、会った
 こともない彼女の娘たちについての話に耳を傾けている。進路の相談すら受けている。それも二
 人とも一糸まとわぬ姿で。でもとくに悪い心持ちはしなかった。ほとんど未知の人と言ってもい
 い誰かの生活をたまたま覗き込むこと。この先まず関わりを待つことはない人々と部分的に触れ
 あうこと。それらの情景は目の前にありながら、遥か遠くにある。そんな話をしながら彼女は私
 の柔らかくなったペニスをいじり、やがてそれはまた少しずつ硬さを帯びていった。

 「最近は何か絵を描いているの?」と彼女は尋ねた。
 「そうでもない」と私は正直に言った。
 「あまり創作意欲がわかないってこと?」

  私は言葉を濁した。「……でも何はともあれ、明日からは依頼された仕事にかからなくちやな
 らない」

 「依頼を受けて絵を描くの?」
 「そうだよ。たまには稼がなくちやならないからね」
 「依頼って、どんな依頼?」
 「肖像画を描くんだ」
 「ひょっとして、昨日電話で話していたメンシキさんっていう人の肖像画?」
 「そうだよ」と私は言った。彼女には妙に勘の鋭いところがあって、ときどき私は驚かされた。
 「それでそのメンシキさんについて、あなたは何かを知りたいのね?」
 「今のところ彼は謎の人物なんだ。コ皮会って話してはみたけれど、どういう人なのかまだぜん
 ぜんわからない。自分かこれから描こうとしているのがどんな人物なのか、絵を描く人間として
 少しばかり興味かおる」
 「本人に訊けばいいじやない」
 「訊いても正直には教えてくれないかもしれない」と私は言った。「自分に都合の良いことしか
 教えてくれないかもしれない」
 「調べてあげてもいいけど」と彼女は言った。
 「調べる手だてはあるの?」
 「心当たりが少しはあるかもしれない」
 「インターネットではまったくヒットしなかったよ」
 「インターネットはジャングルではうまく働かない」と彼女は言った。「ジャングルにはジャン
 グルの通信網があるの。たとえば太鼓を叩くとか、猿の首にメッセージを結びつけるとか」
 「ジャングルのことはよく知らないな」
 「文明の機器がうまく働かないときには、太鼓と猿を試してみる価値はあるかも」

 
 彼女の柔らかく忙しい指の下で、私のペニスは十分な硬さを取り戻していた。それから彼女は
 何と舌を巧妙に貪欲に使い、我々のあいだにしばらく意味深い沈黙の時間が降りた。鳥たちがさ
 えずりながら忙しく生命の営みを追求している中で、我々は二度目のセックスにとりかかった。

  間に休憩を挟んだ長いセックスを終えた後、我々はベッドを出て、気怠い動作でそれぞれの服
 を床から拾い集め、身につけた。それからテラスに出て、暖かいハーブティーを飲みながら、谷
 間を隔てた向かい側に建ったその白いコンクリートの大きな家を眺めた。色穏せた木製のデッキ
 チェアに並んで腰を下ろし、新鮮な湿気を含んだ山の空気を胸に深く吸い込んだ。南西の雑木林
 のあいだから、まぶしく光る小さな海が見えた。巨大な太平洋のほんのひとかけらだ。あたりの
 山肌は既に秋の色に染まっていた。黄色と赤の精緻なグラデーション。そこに常緑樹の一群が緑
 色の塊を割り込ませている。その鮮やかな混合が、免色氏の屋敷のコンクリートの白さをいっそ
 う鮮やかに際だたせていた。それはほとんど潔癖に近い白で、これから先どんなものにも――雨
 風にも土埃にも、たとえ時間そのものにも――汚されることがないように、既められることがな
 いように見えた。白さも色のうちなんだ、と私は意味もなく思った。決して色が失われているわ
 けではない。我々はデッキチェアの上で長いあいだ口を閉ざしていた。沈黙はごく自然なものと
 してそこにあった。

 「白いお屋敷に往むメンシキさん」、しばらくあとで彼女はそう口にした。「なんだか楽しいお
 とぎ話の出だしみたいね」
 
  でももちろん私の前に用意されていたものは、「楽しいおとぎ話」なんかではなかった。ある
 いはかたちを変えた祝福でもなかった。そしてそれが明らかになってきた頃には、もう後戻りは
 できなくなっていた。

    9.お互いのかけらを交換し合う

  金曜日の午後一時半に、免色は同じジャガーに乗ってやってきた。急な坂道を上ってくるエン
 ジンの大い唸りが次第に大きくなり、やがて家の前で止んだ。免色は前と同じ重厚な音を立てて
 ドアを閉め、サングラスを外して上着の胸のポケットに入れた。すべては前回と同じ繰り返しだ。
 ただ今回の彼は白いポロシャツの上に、ブループレイの綿のジャケット、クリーム色のチノパン
 ツに、茶色の革のスニーカーという格好
だった。着こなしのうまさはそのまま服飾雑誌に出して
 もおかしくないほどだが、それでいて「隙がない」という印象はなかった。すべてがさりげなく
 自然で清潔だった。そしてその豊かな髪は、彼の往んでいる屋敷の外壁と同じくらい混じりけな
 く純白だった。私はその様子をやはり窓のカーテンの隙間から観察していた。

  玄関のベルが鳴り、私はドアを開けて彼を中に入れた。今回、彼は握手の手を差し出さなかっ
 た。私の目を見て軽く微笑み、小さく会釈をしただけだった。それで私は少なからずほっとした。
 会うたびに堅い握手をされるのではないかという不安を密かに抱いていたからだ。私は前と同じ
 ように彼を居間に通し、ソファに座らせた。そして作ったばかりのコーヒーを二つ台所から運ん
 できた。

 「どんな服を着てくればいいのか、わからなかったのですが」と彼は言い訳をするように言った。
 「こんな服装でいいのでしょうか?」
 「今のところはどんな服装でもかまいません。どんな格好にするかは最後に考えればいいでしょ
 う。スーツ姿だろうが、ショートパンツにサンダルだろうが、服装はあとからなんとでも調整で
 きます」

  手にしたスターバックスの紙コップだろうが、と私は心の中で付け加えた。
  免色は言った。「絵のモデルになるというのは、どうも落ち着かないものですね。服を脱がな
 くてもいいとわかっていても、なんとなく裸にされてしまうような気がしてならない」
  私は言った。「ある意味ではそのとおりかもしれません。絵のモデルになるというのは、往々
 にして丸裸にされることでもあります――多くの場合実際的に、またときとして比喩的に。画家
 は目の前にいるモデルの本質を、少しでも深く見抜こうとします。つまりモデルのまとった見か
 けの外皮を剥がしていかなくてはならないということです。しかしもちろんそのためには、画家
 が優れた眼力と、鋭い直観を持ち合わせている必要があります」

  免色は膝の上で両手を広げ、点検するようにしばらく眺めていた。それから顔を上げて言った。

 「あなたはいつもは実際のモデルを使わずに肖像画を描かれる、と聞きましたが」
 「そうです。相手の方にコ皮実際にお目にかかって、膝をまじえて話をしますが、モデルになっ
 ていただくことはありません」
 「それには何か理由があるのですか?」

 「理由というほどのものはとくにありません。ただその方が経験的に言って、作業を進めやすい
 からです。最初の面談にできるだけ意識を巣申し、相手の姿かたちや、表情の動きや、癖や性向
 みたいなものを把握し、記憶に焼き付けます。そうすればあとは記憶から形象を再生して
 とができます」

  免色は言った。「それはとても興味深いくこい。つまり簡単に言えば、脳裏に焼き付けられた
 記憶を
後日、画像としてリアレンジし、作品として再現していくということですね。あなたには
 その上
うな才能が具わっている。人並みではない視覚的記憶力みたいなものが」

 「才能と呼べるほどのものじやありません。おそらくただの能力、技能という方が近いでしょ
 「いずれにせよ」と彼は言った「私かあなたの描いた肖像画をいくつか拝見して、他のいわゆる
 肖像画とは――つまり純粋な商品としてのいわゆる肖像画とは――何かが違っているように強く
 感じたのは、そのせいかもしれません。再現性の新鮮さというか……」

  彼はコーヒーを一口飲み、上着のポケットから淡いクリーム色の麻のハンカチを出して口もと

 を拭った。それから言った。
 「でも今回はとくべつにこうしてモデルを用い――つまり私を目の前にしてて、肖像画を描く
 とになった」

 「そのとおりです。それがあなたの望まれたことですから」

  彼は肯いた。「実を言いますと、私には好奇心があったんです。自分の目の前で、自分の姿か
 たちが絵に描かれていくというのはいったいどんな気持ちがするものなのか。私はそれを実際に
 か二時間、何もしないでじっと使い椅子に座っているという苦役を猷わないのであれば、あなた
 をモデルとして絵を描くことにまったく異存はありません」
 「けっこうです」と免色は両手の手のひらを上に向け、軽く宙に上げて言った。「もしよろしけ
 れば、そろそろその苦役にとりかかりましょう」

  我々はスタジオに移った。私は食堂の椅子を持ってきて、そこに免色を座らせた。好きなかっ
 こうをさせた。私は彼と向かい合うように古い本製のスツールに腰を下ろし(それはおそらく雨
 田具彦が絵を描くときに使っていたものだろう)、柔らかな鉛筆を使って、まずスケッチにかか
 った。彼の顔をどのようにキャンバスの士に造形していくか、その基本方針をおおまかに決めて
 おく必要があった。

 

"Roses of the Roses" by Richard Strauss, commanded by Georg Shorty


 「ただじっと座っていても退屈でしょう。よければ何か音楽でもお聴きになりますか?」と私は
 彼に尋ねた。
 「もし邪魔にならなければ、何か聴きたいですね」と免色は言った。
 「居間のレコード棚から、どれでもお好きなものを選んで下さい」

  彼は五分ほどかけてレコード棚を見渡し、ゲルオグ・ショルティが指揮するリヒアルト・シュ
 トラウスの『薔薇の騎士』を持って戻ってきた。四枚組のLPボックスだ。オーケストラはウィ
 ーン・フィルハーモニー、歌手はレジーヌ・クレスパンとイヴォンヌ・ミントン。

 「『薔薇の騎士』はお好きですか?」と彼は私に尋ねた。
 「まだ聴いたことはありません」
 「『薔薇の騎士』は不思議なオペラです。オペラですからもちろん筋立ては大事な意味を持ちま
 すが、たとえ筋がわかっていなくても、音の流れに身を任せているだけで、その世界にすっぽり
 と包み込まれてしまうようなところがあります。リヒアルト・シュトラウスがその絶頂期に到達
 した至福の世界です。初演当時には懐古趣味、退嬰的という批判も多くあったようですが、実際
 にはとても革新的で奔放な音楽になっています。ワグナーの影響を受けながらも、彼独自の不思
 議な音楽世界が繰り広げられます。いったんこの音楽を気に入ると、愉になってしまうところが
 あります。私はカラヤンかエーリッヒ・クライバーの指揮したものを好んで聴きますが、ショル
 ティ指揮のものはまだ聴いたことかありません。もしよければこの機会に是非聴いてみたいので
 すが」

 「もちろんかまいません。聴きましょう」

  彼はレコードをターンテーブルに載せ、針を落とした。そしてアンプのボリュームを注意深く
 調整した。それから椅子に戻り、適正なポジションに身体を落ち着け、スピーカーから流れてく
 る音楽に意識を集中した。私はその顔をいくつかの角度から素適くスケッチブックにデッサンし
 た。彼の顔は端正でありながらも特徴的で、ひとつひとつの細部の特徴を捉えるのはそれほどか
 ずかしいことではなかった。三十分ほどのあいだに、私は五枚の異なった角度からのデッサン
 仕上げた。しかしそれらをあらためて見直したとき、一種不思議な無力感にとらわれることにな
 った。私の描いた絵は彼の顔の特徴を的確に捉えてはいたが、そこには「上手に描かれた絵」と
 いう以上のものはなかったからだ。すべてが不思議なほど浅く表面的で、しかるべき奥行きを欠
 いていた。街頭の似顔絵描きが描く似顔絵とたいして変わりはない。私は更に何枚かのデッサン
 
を試みてみたが、結果はほとんど同じだった。

  それは私にとって珍しいことだった。私は人の順を画面に再構成することについては長い経験
 を積んでいたし、それなりの自負も持っていた。鉛筆なり絵筆を持って人を前にすれば、いくつ
 かの画像がだいたい苦労なく自然に順に浮かび上がってきた。絵の構図を確定するのに苦労した
 ことはほとんどない。しかし今回、免色という男を前にして、そこにあるべき画像はひとつとし
 てうまく焦点を結ばなかった。

  私は大事な何かを見落としているのかもしれない。そう思わないわけにはいかなかった。免色
 はそれを私の目から巧妙に隠しているのかもしれない。あるいはもともとそんなものは彼の中に
 存在しないのかもしれない。
 『薔薇の騎士』四枚組レコードの一枚目B面が絵わったところで、私はあきらめてスケッチブッ
 クを閉じ、鉛筆をテーブルの上に置いた。プレーヤーのカートリッジを上げ、レコードをターン
 テーブルから取り、ボックスの中に戻した。そして腕時計に目をやり、ため息をついた。

 「あなたを描くのはとてもむずかしい」と私は正直に言った。

 彼は驚いたように私の順を見た。「むずかしい?」と彼は言った。「それは私の順に何か、絵画
 的な問題があるということなのでしょうか?」

  私は軽く首を振った。「いや、そうじやありません。あなたの順にはもちろん何も問題はあり
 ません」

 「じゃあ、何かむずかしいのでしょう?」 
 「それはぼくにもわかりません。ただむずかしいと、ぼくが感じるだけです。あるいはひょっと
 したら我々のあいだには、あなたの言うところの『交流』がいくぶん不足しているのかもしれま
 せん。つまり貝殻の交換がまだ十分にできていないというか」
  免色は少し困ったように微笑んだ。そして言った。「それについて何か私にできることはあり
 ますか?」

  私はスツールから起ち上がって窓際に行き、雑木林の上を飛んでいく鳥たちの姿を眺めた。

 「免色さん、もしよろしければ、あなたについてもう少しばかり情報をいただくことはできませ
 んか? 考えてみれば、ぼくはあなたという人について、ほとんど何も知らないも同然なので
 す」
 「いいですよ、もちろん。私は自分についてとくに何かを隠しているわけではありません。大そ
 れた秘密のようなものも抱えていません。たいていのことはお教えできると思います。たとえば
 どのような情報でしょう?」
 「たとえばあなたのフルネームをまだうかがっていません」
 「そうでしたね」と彼は少しびっくりしたような顔をして言った。「そういえばそうだった。話
 をするのに夢中になっていて、うっかりしていたようです」

  彼はチノパンツのポケットから黒い革製のカード人れを取りだし、その中から名刺を一枚出し
 た。私はその名刺を受け取って読んだ。真っ白厚手の名刺には、


 とあった。そして裏面に神奈川県の住所と電話番号とEメール・アドレスが書かれていた。それ
 だけだ。会社名や肩書きはない。

 「川を渉るのわたるです」と免色は言った。「ど
うしてそんな名前がつけられたのか理由はわか
 り
ません。これまで水とはあまり関係のない人生を歩んできましたから」
 「鬼瓦さんというのも、あまり見かけない名前ですね」
 「四国にルーツかおるという話を聞きましたが、私自分は四国とはまったく縁がありません。東
 京
で生まれて、東京で育ちました。学校もずっと東京です。うどんよりは蕎麦の方が好きです」、
 そ
う言って免色は笑った。
 「お歳をうかがってもよろしいでしょうか?」
 「もちろんです。先月、五十四歳になりました。あなたの目にはだいたい何歳くらいに見えます
 
か?」

  私は首を振った。「正直なところ、まったく見当がつきませんでした。だからうかがったんで
 す」

 「きっとこの白髪のせいですね」と彼は微笑みながら言った。「白髪のせいで、年齢がよくわか
 らないと言われます。恐怖のために一夜で白髪になるというような話をよく耳にしますね。私も
 ひょっとしてそうじやないかとよく訊かれるんですが、そんなドラマチックな経験はありません
 ただ若い頃から白髪の多いたちだったんです。四十代半ばにはもうほとんど真っ白になっていま
 した。不思議です。というのは祖父も父親も二人の兄も、みんな禿げているからです。一族の中
 で総白髪になったのは私くらいです」
 「差し支えなければ教えていただきたいのですが、具体的にどんなお仕事をしておられるのです
 か?」
 「差し支えなんてちっともありません。ただ何といえばいいのか、ちょっと言い出しにくかった
 だけです」
 「もし言いにくいのであれば……」
 「いや、言いにくいというより、少し気恥ずかしいだけのことです」と彼は言った。「実を言え
 ば、今のところ何も仕事をしていないんです。失業係険こそもらっていませんが、公式には無職
 の身です。一日に数時間、書斎のインターネットを使って株式と為替を動かしていますが、たい
 した量じやありません。道楽というか、暇つぶし程度のものです。頭を働かせておく訓練をして
 いるだけです。ピアニストが日々音階練習をするのと同じです」

  免色はそこで経く深呼吸をして、脚を組み直した。「かつてはIT関係の会社を立ち上げて経
 営していましたが、少し前に思うところがあって、持ち株をすべて売却し引退しました。買い主
 は大手の通信会社でした。おかげでしばらく何もせずに食べていけるくらいの蓄えができました。
 それを機会に東京の家を売り払って、こちらに移ってきました。早い話、隠居したわけです。蓄
 えはいくつかの国の金融機関に分散されており、為替の変動に合わせてそれを移動させることで、
 ささやかですが利ざやを稼ぎます」

 「なるほど」と私は言った。「ご家族は?」
 「家族はいません。結婚したこともありません」
 「あの大きな家にI人きりで往んでおられるのですか?」

  彼は肯いた。「一人で往んでいます。使用人は今のところ入れていません。長いあいだ一人で
 暮らしていて、自分で家事をすることには馴れていますし、とくに不便もありません。ただかな
 り大きな家ですので、一人ではとても掃除をしきれないし、週にコ皮専門のクリーニング・サー
 ビスを入れていますが、それ以外のことは、だいたい一人でやっています。あなたはいかがです
 か?」

  私は首を振った。「一人で生活するようになって一年も経っていませんから、まだまだアマチ
 ュアのようなものです」
  免色は小さく肯いただけで、それについて何も質問はせず、意見も述べなかった。「ところで、
 あなたは雨田号泣さんとは親しいのですか?」と免色は尋ねた。
 「いいえ、雨田さんご本人にお目にかかったことは一度もありません。ぼくは雨田さんの息子と
 美術大学が一緒で、そういう縁があり、ここで空き家の留守番のようなことをしないかと持ちか
 けられました。ぼくもいろんな事情かおり、ちょうど往むところがなかったので、とりあえず一
 時的に住まわせてもらっているわけです」

  免色は小さく何度か肯いた。「このあたりは普通の勤め人が住むにはずいぶん不便な場所です
 が、あなたがたのような人にとっては素晴らしい環境なのでしょうね」
  私は苦笑して言った。「同じ絵描きとはいっても、雨田典彦さんとぼくとではレベルが違いす
 ぎます。同列に並べられると、恐縮するしかありませんが」
  免色は順を上げ、真面目な目で私を見た。「いや、そんなことはまだわかりませんよ。あなた
 だってゆくゆくは名を知られる画家になるかもしれません」

  それについて目にするべきことはとくになかったので、私はただ黙っていた。

 「人は時として大きく化けるものです」と免色は言った。「自分のスタイルを思い切って打ち壊
 し、その荒磯の中から力強く再生することもあります。雨田典彦さんだってそうだった。若い頃
 の彼は洋画を描いていました。それはあなたもご存じですね?」
 「知っています。戦前の彼は若手の洋画家の有望株たった。でもウィーン留学から帰国してから
 なぜか日本画家に変身し、戦後になって目覚ましい成功を収めました」
  免色は言った。「私は思うのですが、大胆な転換が必要とされる時期が、おそらく誰の人生に
 もあります。そういうポイントがやってきたら、素通くその尻尾を掴まなくてはなりません
 っかりと堅く握って、二度と離してはならない。世の中にはそのポイントを掴める人と、掴めな
 い人がいます。雨田具彦(ともひこ)さんにはそれができた」

  大胆な転換。そう言われて、『騎士団長殺し』の画面がふと順に浮かんだ。騎士団長を刺し殺
 す若い男。


「大胆な転換が必要とされる時期」「素通くその尻尾を掴まなくてはなりません」の免色の言葉に自
分を重ねてしまい、リアルな世界は、それの連続、自己責任の日々なのだと、思わず苦笑する。次回
はこの第9章から第10章にかけて読むことになるだろう。それにしても、今日も足早に時が通り過
ぎていった。

                                       この項つづく

 

 

【RE100倶楽部:エネルギー貯蔵篇】

● アラスカの街を照らすフライホイールと蓄電池

先月13日、アンカレッジの沖合4キロメートルに浮かぶファイア島にはアラスカ州初の洋上風力発
電所(出力17メガワット)用の大規模風力発電所の電力を利用して孤立した都市の電力を得るため
に急速な電力変動を蓄電池単体とフライホイールを組み合わたシステムをスイスABB社がアラスカの
電力事業者と共同でハイブリッド蓄電システム――重量物が高速回転することで運動エネルギーを蓄
え、高速応答が可能な蓄電池として働く「フライホイール」。このフライホイールを大容量の蓄電池
と組み合わせて電力を安定供給する。「高速応答+大容量」というハイブリッド蓄電システムが稼働。
風力発電で起こりがちな短周期の変動をフライホールで吸収する(上図)。出力は1
MW、容量は16.5
メガワット秒。1メガワットの出力を16.5秒間継続できる計算であり、急激に電力が変動した際
に役立つ。 蓄電池だけで高速応答に対応しようとすると、蓄電池の並列化が必要になり、割高にな
り、高速
応答を続けると、蓄電池の寿命が短くなるためフライホイールでカバーする(スマートジャ
パン 2017.03.28)。

 Mar. 13, 2017

※ 特許事例:特開2017-015133 回転慣性質量ダンパー 日本精工株式会社 20170119

歩行時などの微小な振動を制振することができるとともに、巨大な地震時のエネルギに対する損傷を
防止することができる回転慣性質量ダンパーを提供(下図ダブクリ参照)。

【符号の説明】

1  回転慣性質量ダンパー   2  第1構造体  2a  第1ユニット体  2b  第2ユニット体  3  第2構造体  4  軸
受  5  ネジナット  6  フライホイール  7  ネジ軸  8  ネジ軸側連結部  9  キー溝  10  スプラインナット
11  スプライン軸  11a  スプライン軸側連結部  12  固定部  13  キー溝  15  過負荷調整機構  16  カ
ップリング   17  第1キー  18  第2キー  19a  第1締付けボルト 19b  第2締付けボルト    20  スリット
21  第1円筒挟持面  22  第2円筒挟持面  23a  ボルト頭部係止穴  23b  ネジ穴    24a  ボルト頭部係
止穴   24b  ネジ穴   25  変形促進溝    26,27  キー溝

                                                            

 

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