芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

インドでも地震

2011年09月19日 | Weblog
昨夕、ラーイ学長宅にお邪魔していたら、シッキムで震度7前後の地震があり、コルコタ、ラックノウでも相当揺れたことがテレビで報じられていた。つい先だってデリーでも地震があったようだが、北と東インドで大きな地震があり、日本でも東北を中心に地震があったので、どちらも北東部の地域である。ここは、西になるから大丈夫だとラーイ学長はいうが、なんだか追いかけられてきたような気分だ。
日本とインドは、離れているようで、地勢的に共通している面がある。インドの雨期の雲がヒマーラヤ沿いに日本まで伸びていることは、天気予報の雲の流れで分かる。地盤も共通性があるのかもしれない。
東京外国語大学との留学生交換の覚え書き署名にラーイ学長が行く時に私も同行することになりそうだ。その時期について、亀山郁夫学長と相談しなければならない。

但願人長久の練習

2011年09月17日 | Weblog
昨日の夜、落雷に遭ったワイファイがやっと直された。
昨日のブログは、その前に夕方の授業時間に入る直前、研究室で書いた物だ。であるから、写真が入れられなかった。今日は、月見の時の写真がぼけているが中国人達が入っているのを載せる。
中国人学生達は、春望や、春眠、論語などは、小学校前に覚えさせられたと言う。
西安の近くの学生は、小学校低学年で習ったという。中国も地域によっては、教育内容が少し違うようだ。
それでも日本では中学校で習っている。米語の会話を習うより春望や春眠、論語を早くから習ったほうが、これからの中国と付き合うのに英語よりもっと役に立つであろう。
なんといったったて、中国の文化の厚みは、まだ、2,3百年の歴史しかない国の日ではないのだから。

停電で授業ができず

2011年09月15日 | Weblog
昨日から、また強烈な雷雨が続けざまに来て、インターネットができなくなり、今日、係りに聞いてみたら、ワイファイの器械の電灯が消えているのは、もう使えないという。
朱君という中国人留学生が、メモリーを持ってきて、日中友好音楽祭で歌われた月見の歌の動画をパソコンに入れてくれた。ワンフェイという中国の人気歌手が歌っていて、歌の題は、「但願人長久」である。
ネットで調べると、以前、テレサテンが歌っていたようだ。
昨日、語学科が主催した新入生歓迎会が夕方の4時から6時まで開かれ、実際には5時に始まり、私の授業にかかって困ったことになったと思っていたら、停電して、どちらにしても授業はできなくなった。歓迎会のほうは続けられ、教師も学生もそれぞれ、挨拶した。
わたしは、学長や副学長との話し合いで、日本語科が今のディプロマ・コースにさらにアドヴァンスト・ディプロマ・コースができて、中継コースを経て修士課程ができることを話した。
学長からは、授業が増えてもいいのかといわれたので、両国の交流の強化のためにがんばると話しておいた。

中国とインドの文化の伝統

2011年09月14日 | Weblog
中国人学生達が歌っていた仲秋の名月を愛でていた歌が美しかったので、聞くと蘇軾の詩だと言う。昨日、朱君という学生がその歌を携帯からわざわざ私のパソコンに入れにきてくれた。
蘇軾は蘇東坡ともいうことは、何となく記憶しているが、日本の平安時代にあたる中国の不遇の政治家・詩人が作った詩が今でも口ずさまれていることに驚いた。メロディーは今の物であろうが、大半の意味は分からなくても、ともかく聞いていて美しい。日曜日には、高校英語教師の家で、ガネーシャ神を川に流しに送り出す儀式で歌われたヒンドゥー教の讃歌を子供達も覚えているのに驚き、さらに、中国人学生達が千年前の歌を皆で歌って踊っているのを見て驚かされた。
翻って、日本の都会の子供達は、どうであろうか。新しい輸入学問を学校教育のみに頼っているのかもしれない。昔からのしきたりは田舎でしか見られないが、その田舎も今は、年寄りばかりになり、あまり、文化の継承が出来なくなってきている。
そこに持って来て、放射能禍である。

昨夜は仲秋の名月

2011年09月13日 | Weblog
昨夜は仲秋の名月で、夕食を中国人学生達が作ってくれた。久しぶりで食べる中華料理というか日本で食べているのと変わらない食事であった。仲秋の名月を祝う習慣といい、中華料理といい、日本人の習慣に中国の影響が大きく残っていることがよく分かった。
本来は、彼らは月餅を食べるらしい。白い団子も食べるというから、日本のとの違いは、団子に餡を入れているという点くらいか。
食後、噴水のある小広場で名月を楽しんだ。彼らが買ってきていた水瓜をご馳走になった。
それに加え、仲秋の名月を祝う歌を彼らが合唱しているのが、なかなか、良い曲と歌詞で、口と耳から楽しませてもらった。

ガネーシュ像とのお別れの儀式

2011年09月12日 | Weblog
昨日は、ガネーシュ祭りの最終日で、朝、散歩で良く会う高校の英語の先生宅に呼ばれて、昼食をご馳走になり、その祭りに参加させてもらった。まだ8ヵ月しか経っていない新築のお宅に大勢の同僚を呼んで食事を何回かに分けて供し、それが終わった4時過ぎにアーラティーという、灯明を回しながら、お祈りをしてバイクでガネーシュ像を運んでいった。
家族全員が参加してのお祈りで、ご主人がアーラティーをした。そしてそれぞれの人にお菓子を分けてくれそれを食べた。

大学図書館

2011年09月11日 | Weblog
日ごろお世話になっている図書館の副館長の家に呼ばれていった。かねてから呼ばれていたが、大学構外で、歩くと20分くらいかかるので、なかなか行けなかったが、今日は、バイクでお迎えを受けたので、行った。しかし、バイクは、怖い。ヘルメットもないし、結構曲がり角が多いので、そこで転んだらどうしようかと心配である。
中学の頃良くバイクに乗った。何度か転んで、地べたに叩き付けられたが、若かったので、あまり気にもしなかった。当時のバイクは、陸王とか目黒とかいう会社のバイクであった。
インドのバイクは、ホンダ、ヤハマ、スズキなどである。バイクで通っている学生に時々、帰りに乗せてもらったりする。これも坂を下るとき、エンジンを止めてしかもスピードを出しすぎるので、卵形曲がり角などでは、ハラハラする。
図書副館長は、教育家一家で、親の代から大学教授をしているような家系だから、教育に熱心だ。
一般にインドの知識人は、教育に熱心だ。あるいは、あまり私が熱心でないから、そう見えるのかもしれない。ここに勤める前は、マトゥラーの州立大学で、心理学を教えていたと言う。国立のほうが、待遇がいいから、州立大学をやめて、この国立大学に来たと言う。
図書館の建物はまだ建築中で、ネルー大学のそれに比べれば小さいが、それでも相当大きい。開架式だから、ザックは、受付で預ける。相当の予算がついているらしく、毎日、数人で到着した本の整理をしている。

映画の娯楽性と芸術性

2011年09月10日 | Weblog
昨日、マスコミ科で俳優オーム・プリー氏の講演があった。4時15分前からというので、三時半に行って、席をやっと確保できた。
ところが、実際にオーム・プリー氏が来たのは、4時15分過ぎで、それから付き添いの教授達が話をしてからであるから、私の授業が始まる、5時15分になっても終わらず、やむを得ず途中退席した。
話しの内容は、文学の永遠の主題である、娯楽性と真理の両立であり、インド映画のほとんどが、娯楽だけで成り立ち、インドの巨大な映画人口に支えられているから、なかなか、世界に通用する映画が出来ないが、国際化の時代に適した映画をこれからは造らなければならないと言う。質問の時間になって、学生がオスカーを取る重要性について話すと、賞の問題ではなく、民衆に受け入れられなければならないという結論であった。どこも同じ問題を抱えているのが分かっておかしかった。

映画俳優オーム・プリー氏と会う

2011年09月09日 | Weblog
私の宿舎の向かいに、オーム・プリーという有名俳優が泊まっていて、昨日も映画の始まる前に挨拶をしていた。いつも学長が付き添っているから、相当なVIP待遇である。
今朝、散歩から帰ったら、学長がどこかに出かける前にオーム・プリー氏を訪れ,居合わせた私を紹介してくれたところ、オーム・プリー氏は私をすでにテレビで見たと言う。大学の紹介かなんかのテレビに出ていたらしい。ここのドラーマ科の教授からインタヴューを受けたことがあるから、その時のものかもしれない。
学長には、日本語科の学生が10人になったことを報告した。
しかし、昨日の出席学生数は、映画祭と急な大雨で一人であった。この田舎で映画を見に町まで行くのは大変であるから、この機会に是非見たいという学生が多いと思われることと、殆どの授業を休みにしていることが関係しているのであろう。
語学部の校舎の左寄り中央部に私の研究室がある。

首都デリーのネルソン・マンデラ通り

2011年09月08日 | Weblog
どういうわけか、午前中は宿舎のインターネットが繋がり、午後に繋がりにくくなるので、係りに聞いたら、午後になるとインターネットを使う人が多くなるからだと言う。
「ヴィダルブ・バースカル」という日刊紙は、記事が前回載せたのと同じだが、題が「インドに私の前世があったのだろう」となっているので、面白いからこれも載せる。このごろ何かと直ぐ忘れるので、記者に何をしゃべったか忘れたが、記事を各紙に送ってくれ、100以上のヒンディー語紙に載ったと言う。100というのは、ちょっと大げさかもしれないが、バナーラスなどの新聞にも載ったらしい。
昨日の映画で思い出すのは、デリーで宿泊したネルー大学の近くに、ネルソン・マンデラ通りというのがある。映画は、ネルソン・マンデラの幼友達、グレゴリーが獄吏となって、ネルソン・マンデラの解放までつきそい、ともに息子を交通事故で亡くすというところが、事故なのか他殺なのかわからないままで終わっている。
インド政府がネルソン・マンデラ通りを首都デリーの通りに名付けていることが強く記憶に残っているが、他国の独立運動家の名前を通りにつけるというほどに連帯感を表明しているということだろう。