2011/12/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(1)満月復活&日はまた昇る
真央ちゃんのいないフィギュアスケートファイナルグランプリは、ちょっと寂しいけれど、フィギュアスケート大好き一家なので、ショートもフリーも放映される全種目見ます。
10日夜の放映では、男子SPでは羽生結弦が4位、高橋大輔は5位でしたが、フリーでの挽回を期待しましょう。女子は、鈴木明子が2位になって、メダルに期待。
浅田真央選手、21歳でのお母さんとの別れは、どれほどつらいことでしょう。私も、母と永訣したのが23歳のとき。真央ちゃんとお母さんがそうだと言われているように、母娘一体型の親子(美空ひばりもそうだった)だったので、自分も死んだようになってしまって、生きる気力を取り戻すのには、3年かかりました。
真央ちゃんが再びリンクで舞う日の一日も早くなることこそお母さんへの供養だと信じて、冥福を祈りたいと思います。
10日夜、っていうか、11日のミッドナイト、月の復活に祈りました。
月と地球と太陽が一直線に並んで、月を地球の影が覆う皆既月食。
10日午後6時ごろ、自転車で池袋から明治通りを走り、満月が輝くのを見ながら帰宅しました。
深夜、ベランダから見上げる月は地球の影によって欠け、午前1時すぎには再び満月にもどりました。復活満月。
真央ちゃんも、再び満月のように笑顔を輝かせ、美しい舞を見せてほしいです。
10日土曜日、池袋へ行ったのは、ミサイルママほか、ダンス仲間が3人所属している合唱団のコンサートがあったから。K子さんと隣の席で、「少年時代」から「世界にひとつの花」まで、年の瀬の夜に美しい歌声にひたって過ごしました。
合唱団の歌った中の一曲。『日はまた昇る』、合唱団を指導している指揮者坂本和彦さんが歌詞を朗読してくれました。
谷村新司作詞作曲『日はまた昇る』
http://www.youtube.com/watch?v=RVtJspVe0E0&feature=related
夢を削りながら 年老いてゆくことに
気がついた時 はじめて気付く 空の青さに
あの人に教えられた 無言のやさしさに
今さらながら 涙こぼれて
酔いつぶれた そんな夜
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
冬晴れの空 流れる煙 風は北風
鉢植えの紫蘭の花 朝の雨にうたれ
息絶えだえに ただひたすらに 遠い窓の外
もしかして言わなければ 別離ずにすむものを
それでも明日の 貴方のために
あえて言おう「さよなら」と
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
~~~~~~~
(歌詞引用は、引用の許容範囲内と思うので、JASRACに文句付けられることはないと思うけれど、youtube谷村新司の歌唱は、そのうち著作権で文句が出てyoutubeから削除されるかも。お聞きになりたい方はお早めに)。
<つづく>
01:37 コメント(5) ページのトップへ
2011年12月13日
ぽかぽか春庭「回顧2011」
2011/12/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(2)回顧2011
12月に入れば、世には「今年の漢字」だの「十大ニュース」発表だのがあふれ、誰もこの1年を振り返る気分になる。世の流れには一応首をつっこんでおきたい、はやりモノ好きとしては、12月には私なりの2011年を振り返っておかずばなるまい。
とは言うものの、誰も私の十大ニュースなどに構っているヒマはないことは承知のすけですが、世の中には御用とお急ぎでないムキもあろうかと、世界70億の人々にはまったく影響のなかった「私的2011」を回顧する。
私的十大ニュースとは言っても、大震災では倒れてきた本棚で頭を打って、たんこぶをこしらえた程度の私、世の中に寄与することもひとつも行わず、誉められもせず苦にもされぬ1年であったことを言祝ぐべきでしょう。
つらつら思い返すに、2011年1月から「日録」の記録を復活させたことが1月1日から変わったことのひとつ。
私は小学校入学以来、断続的にではあるけれど、日記をつけることを継続してきました。「日記大好き民族」のひとりです。しかし、ブログに日々の記録も書くようになった2003年以来、この「Hal-niwa annex」ブログ更新を優先させているうち、日録(日々雑記)のほうは、断続的になり、更新しないことも多くなっていました。毎日の、何をしたか、どこに行ったか、だれに会ったか、という日々の記録より、見たこと聞いたこと考えたことをブログ上で開陳するほうを優先するようになったのです。
どんな日にどんなことをしたのか、なんぞあったときに、アリバイを主張する役には立つ。ただしネットの中の記録は証拠としては採用されないんじゃないかしら。あとから書き直しが出来るから。
証拠にはならぬが、読み返して見れば、姑の誕生日祝いとして、娘息子と横浜散歩したのは、2月14日とわかる。わかったところで、何の得もないけれど。
~~~~~~
2011年1月1日の日録。
8時起床。9時まで寝床で朝刊。9~12時までメール、ブログ管理。3年近く放置していたヤフージオログにたどり着く方法がやっとわかった。「ゴールデンライフ」に付けられたトラックバックを削除するのに時間がかかった。日記のタイトルに気をつけないとあやしいトラックバックがどっさりくることがわかった。「ヌレエフ栄光と悲惨」というタイトルに50コもトラックバックがくっついていた。タイトルに気をつければ、タイトル検索でトラックバックする連中はこないことに気づいた。
12時、ブランチ。夕べの残り物の蕎麦を息子と分ける。娘だけ豆餅を焼いて食べた。
~~~~~~~
自分で読み返しても、なんだか情けないような元日の記録です。そういえば、この日やっとわかったというヤフージオログはその後、また放置。まあ、毎年こんなふうでショーモナイ1年がはじまり、しょーもない1年が終わっていくのです。
<つづく>
07:03 コメント(5) ページのトップへ
2011年12月14日
ぽかぽか春庭「私的10大ニュース」
2011/12/14
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(3)私的10大ニュース
2011年を振り返って見るに。
1)3月11日の震災と原発事故。
わが家の物的被害は、本棚の倒壊と食器棚の食器が落ちて割れたこと。私の頭のたんこぶ程度だったけれど、精神的には落ち込む気分が5月ごろまで続きました。つらい被害を受けた方に比べれば、一ヶ月間崩れた本の山と格闘した程度の者が落ち込んではいけないと思っても、気持ちの落ち込みが回復しませんでした。危ないとは思いつつ、これまで何の行動もとらず電気を使ってきたこと、安全神話を信じこもうとしてきたことへの落ち込み、多くの人が感じたみたいです。
夏、東京に咲く花の花びらが、変に捻れて咲いていました。この捻れた花びらは、雑誌で見た藤原新也の写真コラムに「フクシマ近くの野原の花が、放射能の影響で捻れていた」と掲載されていたのと同じ形。藤原新也が撮影したのは、ハンカイソウというキク科の植物で、本来、その花びらは放射状に伸びている。その花びらがよじれているのです。私が見た雑誌の藤原新也の写真とたぶん同じ時期の撮影と思われるものが、9月に朝日新聞にも載ったそうですが、こちらは気づかなかった。私が見たのは、『トリーノToriino』という日本野鳥の会が出している小冊子の2011Autumn号で、「流の章 花は語る」と題されたフォトエッセイです。
藤原や私が目にした花のねじれが本当に放射能の影響なのかどうか、検証した報告は読んだことがありません。でも、これまで見たことが無かった奇妙な捩れ方の花を見ると、今さらながら、目に見えないものの怖さが身にしみました。
震災のあと、皆が復興へ向けて力を合わせているけれど、原発の後始末は、まだまだ先の長い話のようです。染井吉野はクローン栽培育ちだからか、放射能の影響を受けやすいそうです。原発付近の桜の花の異常率、新潟の調査では、2011年4月の開花時には、平年より花の異常が多かったということなのですが。
2) 3月に博士号を授与される。
自分的には、3年間博士論文と格闘してやっと提出したものが評価されたのですから、うれしかったですが、祝賀会も中止になったし、家で何のお祝いをするわけでもなし、出版する予定もなし。非常勤講師の時給が上がるわけでもなし。単純に自己満足のための博士号。「バカセ、おめでとう」と自分でチャカして落ち着く程度の。
3) 息子が卒業。
息子が大学を卒業し、大学院に進学。やれやれです。ちゃんと育ち上がった子の場合、卒業したら就職して、親にも初月給の一部なんぞをプレゼントして、長い間の養育に感謝するってなことがあるみたい。親として養育者の肩の荷を下ろす感慨にもふけれるってもんですけれど、私はまだまだ食い扶持稼ぎを続けねば。ただ、学費と本代など勉学に掛かる費用は、いっさいを奨学金とアルバイトでまかなうことになったので、その分は楽になった。
息子、水曜日と金曜日は授業を終えてから大学事務のバイト、木曜日は授業補助者として、学部学生の世話をするバイト。週3日のバイトでなんとか本代やらゼミ研修旅行費用など間に合わせています。4年間の学部在学中は夫の会社でのアルバイトしかしたことなくて、よそ様のところで働けるものかと案じていたのですが、「学生相手の木曜日はつらいけど、コンピュータあいてに仕事していられる水曜日金曜日は、別段つらくない」というので、対人関係が苦手な息子でも、なんとか働くことができそうなことがわかってほっとした気持ち。この先はまたどうなるかわからないけれど。
<つづく>
05:50 コメント(2) ページのトップへ
2011年12月16日
ぽかぽか春庭「絆」
2011/12/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(4)絆
4)一人旅、一人歩きの復活。
11月のはじめに、ひとりでバスツアーに参加し、立山周辺、黒部ダム周辺のバスハイクを楽しみました。
一人で参加していると言うと、バスの同乗者は「あらぁ、勇気がありますね」とか、「思い切りましたね」と驚く。バスツアーにひとりで参加するのはそんなに驚かれるようなことなのか、と世間を知らない私のほうが驚く。これまでこの種のバスツアーにひとりで参加したのは、白川郷に行った1回だけだったので、これが2回目。
娘に聞いたら、「ひとりで参加したら、友だちもいない人、と思われそうだから、みんな嫌なんじゃないの」と言います。え~、そうだったの?私、ごくわずかだけれど、友達いるし、たまたま友達と旅行のスケジュールあわなかったときは一人で参加するってだけで、別段勇気ふりしぼって参加したんじゃないのに。
ほんとうの一人旅だったら、ホテル予約とか電車の切符手配とか面倒だけれど、バスツアーなら申し込むだけで、何の面倒もないってだけじゃないの。私の周囲の人は、ミサイルママは一人で登山にでかけるし、みな一人旅が普通、という人ばかりなので、特別なことと思ったこと無かった。
まあ、格段の勇気もなく参加した立山ツアー。トロッコ電車に乗ったり、ロープウエーに乗ったりして、黒部ダムやら立山周辺やらを歩いて、たのしゅうございました。
夏休みから11月にかけて、ぐるっとパスやら招待券やらを活用して、東京都内のおひとり様散歩、楽しく続けました。スケジュールが合えば、ミサイルママといっしょに出かけたり、ヨコちゃんとごいっしょできたり、二人連れもまた楽し。無理に合わせることもないので、一人で出かけることがほとんどだけど、別段それが「残念な人」になるとも思わずに、せっせと歩きます。
5)絵葉書「青い鳥通信」、年末に90号を送付
震災が人々に与えた影響のひとつとして「絆」の大流行。同棲中のカップルの多くが、婚姻届を出したそうですし、これまで音信がなかった人たちの間にも、手紙やらメールの通信復活が多くなったと聞きます。予想通り「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」でした。
友達がごく少ない私も、4月から人とのつながりのひとつとして「青い鳥通信」を始めました。3日に1枚、1ヶ月に10枚のハガキを、ウェブ友のちるちるさんに送ることにしたのです。ちるちるさんに「私のハガキを受け取るボランティアになってください」とお願いして、これまでで85枚の絵はがきを送りました。12月30日付けで90号。
異なる絵柄の絵はがきに異なる文面をと、心がけています。と言っても、たいしたことは書いていません。季節のことだったり、絵はがきの絵柄にまつわることだったり。
ちるちるさん、ハガキ受け取りのボランティアをしていただくことによって、こうして春庭に生き続ける気持ちを与えてくれて、ほんとうにありがとう。
ちるちるさんからは、ヘルパーさんボランティアさんが協力してくれたという2012年のカレンダーをいただきました。毎月1枚、ちるちるさんの書いた詩にボランティアさんが絵をつけたカレンダーです。えへへ、海老で鯛釣ったのかも。ありがとう、ちるちるさんの詩を机の前に貼って、2012年をすごします。。
<つづく>
06:08 コメント(2) ページのトップへ
2011年12月17日
ぽかぽか春庭「国民総幸福度」
2011/12/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(5)国民総幸福度
さてはて、10大ニュースと言いながら、1年間を振り返って見ても、去年と変わったことが10コもなかったことが判明。5大ニュースで終わりです。
ほんと代わり映えのない1年、変わりばえのない人生を送っているもんだと実感。でもね。かわりばえのないことこそ幸せなのだと痛感させられた1年でもありました。
月蝕を見上げて宇宙進行の恙なきを喜び、なかなか紅葉しない楓の葉を見れば異常気象かと心配する。暑い日が続けば暑いと文句を言い、寒い日には寒いと嘆く。そんな繰り返しで、こうして平凡に日常が過ぎていくことが、何よりの幸福なのだと、それぞれが身に染みた1年でもありました。自分がかわりばえのない分、よそ様が親しい人を失った悲しみや、住み慣れた家を離れなければならない苦しみの中にあることのつらさも、いっそう身にしみました。
変わらぬ1年。私自身は持病はあれど入院などの大きな病気もなく、87歳の姑も7歳の黒ウサギも、それなりに元気にすごしていて、娘息子が飢えもせず毎日を暮らしているのですから、それでよしとしましょう。夫は、、、、、ま、いてもいなくてもおんなじってとこがこれまでの年といっしょ。
国王夫妻が強い印象を残したブータン王国。国民総生産では世界の中で低い方のランクだけれど、「国民総幸福」では、世界トップレベなのだそうです。国民の97%が「私は幸福者」と思っているのだとか。3%くらいは、お身内を亡くした方とか、悲哀のさなかにいる人もいるでしょうから、幸福と思えない人もいるでしょう。それ以外の人はみな自分が幸福だと思っているって、ほんとうかいと思ってしまうのも、年間3万人が自殺する国に住んでいるからゆえか。
NEFというイギリスのシンクタンクが生活満足度・寿命・環境負荷などから算出した「幸福度指数、Happy Planet Index、HPI2.0」によると、2009年に143カ国地域対象で行った新指標によると、幸福指数トップ15位に入ったうちの11ヶ国は中南米の国々です。アジアの中ではベトナム5位、フィリピン14位、ブータン17位、中国20位。日本は75位。アメリカは114位、最下位143位はジンバブエ。こう見ると、ラテンアメリカの陽気な人々は皆しあわせいっぱい。
1位にランクインしたコスタリカは、戦争放棄・平和主義」を憲法にし、非武装中立、環境保全、教育重視の平和政策を薦めています。(オスカル・アリアス・サンチェス大統領は、ノーベル平和賞を受賞)
物質的には最も恵まれているように見えるアメリカが114位というのもわかる気がします。
幸福指数では17番目にすぎないブータンの国民が、気持ちとしては97%が「私は幸福」と感じるのも、ヒマラヤ山中の豊かな自然、隣近所の交流などを総合してのことなのでしょう。
日本蝶類学会調査隊が「ブータンシボリアゲハ」を追うドキュメンタリーをBSで見ました。新発見以来80年間「幻の大蝶(おおちょう)」とされてきた「ヒマラヤの貴婦人」と呼ばれる蝶の再発見を記録している番組でしたが、そこに写されたブータンの人々は、ほんとうにすてきな笑顔を見せていました。
さて、大災害に揺れた今年のこの国全体の幸福度はいかに。「環境負荷」が幸福指数に関係するとするそうですから、やっと原発処理第一段階が終わったとはいえ、完全廃炉まであと40年50年かかるとすると、日本の幸福指数は今年大きくさがったのだろうと予測がつきます。
さはさりながら、私の幸福度。物質的に恵まれたことは何ひとつなかったし、仕事もこの先の先細りは見えていて不安はいっぱい。幸福度指数からいえば低ランクになりそうだけれど、ブータンのように、指数ではなく、気持ちが感じる幸福度から言うと、まあまあそこそこだったと思います。とりあえず来年度は、週5日、国立2校私立大3校を日替わりで教える日雇い教師、続けていけそうだし、持病の急激な悪化ということもなさそうだし。
さまざまな場所を探して最後に家の中の幸福を見つけるメーテルリンクの『青い鳥』。青い鳥通信を出し続けることができる私は、幸福者です。
つらいことも多かった2011年。きたる日々には、「国民総幸福度」が、ブータンの「国民の97%が幸福者」には及ばないまでも、ひとりでも多くの人の幸福度が上がりますように。
<つづく>
10:53 コメント(2) ページのトップへ
2011年12月18日
2011年12月20日
ぽかぽか春庭「遺されたもの」
2011/12/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(7)遺されたもの
北朝鮮の金正日総書記、17日に死去。移動の列車中での心筋梗塞という。病体であることは何度か報じられてきたけれど、この年末とは思わなかった。びっくり。
北朝鮮の重要ニュースを報道する女性アナウンサー、独特の調子でニュースを読み上げるので、印象が強い人だったけれど、50日ほど前からパッタリテレビに出なくなり、19日になって突然「重大ニュースの発表がある」と言ったあと喪服で「偉大なる将軍様のご逝去」を報じました。もしかしたら、すでに50日前に亡くなっていて、この50日間は、事後処理のおおわらわだったのではないかなあ、なんてかの国の事情を勝手に想像しています。
学生時代には海外ですごすことが多かったという将軍さまの三男金正恩坊ちゃま。学生時代とは顔がすっかり変わりました。偉大なる初代そっくりに整形したとの報道。ほんとかどうか知りませんけれど。初代の威光と二代目の権力を三代目がすんなり継承できるのかどうか。はたして今後の混乱必至だろうとの観測から、韓国の株価も一時下がったし、来年アジアの情勢は予断を許さないでしょう。
2007年に中国の北の国境の町から川をはさんで対岸の北朝鮮を眺めたときのことを思い出します。あの川を必死で泳ぎ、中国側に逃れてくる人々が続いていたそうですが、これからあの川はどうなるでしょうか。難民が増えることが警戒され、国境警備が強化されているそうです。
年末に喪中葉書も来て、今年もお悔やみを述べなければならない人がいました。3月の震災で亡くなった方々をはじめ、ひとりひとりの命が消えていくこと、重くつらいことです。無名人も有名人も、家族や親しい人にとっては、かけがいのない大切な命です。
金正日のほかにも、世界史的にもその死去が大きく記憶される有名人も多かった。10月5日に56歳で没したスティーブン・P・ジョブズとか、10月20日に殺されたことが確認されたリビアのカダフィ大佐(ムアンマル・アル=カッザーフィー)とか。
個人的には、12月に亡くなった脚本家市川森一さんとか、7月10日に亡くなった振付家のローラン・プティなどの死、もっと作品を残して欲しかった、と残念に思います。プティ振り付けの『ダンシングチャップリン』を草刈民代が踊った映画を見たところだったり、市川脚本で『蝶々さん』を見たところだったので特に。「蝶々さん」市川森一さいごの作品。宮崎あおい、けなげでよかった。
27歳で戦死した山中貞雄は「『人形紙風船』が最後の作品では寂しい」ということばを残したそうですが、市川森一は「『蝶々さんが遺作なら、いいかな」と言ったそうです。生涯に満足のいく作品が残せたのなら、その寿命も、以って瞑すべし。
今年、私の生は、「もしここで命運尽きるとも満足できるものだった」と言えるものであったかというと、まだまだ「何も満足のいくものは残せていない」という状況です。
来年こそは、きちんと「仕事」を残せるよう、亡くなった方々ひとりひとりの貴重な一生に敬意を払いつつ、決意したいと思います。
<つづく>
10:27 コメント(4) ページのトップへ
2011/12/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(9)冬休み
多くの小学校中学校は、22日に2学期が終わり、23日から冬休み。大学のいい所は、小学校中学校より1週間2週間早く冬休み夏休みになることだったのに、文科省が「1年通年で30週、セメスター(半年)の場合には15週の授業時間を確保することが望ましい」なんていう「ご指導」をしたようで、大学も22日まで授業をして23日から冬休みってところが多くなりました。私なんぞ21日まで授業をしたあと1月6日から授業です。冬休みが大幅に減りました。と、愚痴を言いつつ、22日からようやく冬休み。
22日は一日、洗濯やらお茶碗洗いやら。世間様は働いているのだからと、たまった家事にいそしみました。ただし、掃除はあいかわらずやらない。服は脱ぎ散らかされたまま、本は部屋に散乱したまま。
23日は祝日で、みんなお休みですから、ようやくのんびりと冬休みを楽しみました。22日に録画しておいた『34丁目の奇跡』1996年版リメイクを見ました。とってもすてきなクリスマス映画でした。私は1947年のオリジナルを見たことがなかったのですが、1996年リメイク版、アッテンボローのサンタ役がとてもよかった。
私も、目に見えないものを信じる心を持ちたい。本物のサンタに会ったことはないけれど。
そのほか、録画しておいた「ピカソ青の時代」と「画家堀文子93歳の決意」を見ました。ピカソと親友カサヘマスについて。また、カサヘマスの死後、娼館に出入りして娼婦達を描いたころの青く沈鬱な絵を紹介していました。
私も2009年1月に「ピカソとカサヘマス」についてのエピソードを書いたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1725#comment
ピカソがピカソとして確立するために、青の時代の暗く沈んだ年月が必要だった、と番組は、ピカソのつらく悲しい時代を紹介していました。
敬老の日の放映を見逃してしまって、再放送を今か今かと待っていて、ようやく「画家・堀文子 93歳の決意」を見ることができました。
1918年生まれというので、私の父より1歳年上です。父は76歳で亡くなりましたが、それから20年以上、堀さんは93歳の今も現役画家として、毎年個展も開いています。
東京のど真ん中、麹町区平河町に生まれ、女子美術専門学校に入学したのも、「絵はそれほど上手とは思っていなかったけれど、他の仕事なら女というだけで差別があったけれど、絵描きなら女でも出来上がる作品は平等に見て貰えるだろうと思ったからだそうです。
学校からの帰り道、2・26事件に出くわして、「早く帰れ」という命にさからって、一部始終を見届けようと思ったというそのころから、反骨と自由に生きる心を絶やしたことがない生涯。
29歳のときに外交官の男性と結婚、43歳のときに夫と死別。1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出て、絵を描き続け、それ以来、「群れない、慣れない、頼らない」生き方を貫き通し、画壇とはいっさいかかわらずに、権威やお金には関わらずに93年を貫き通しました。
1987年、古稀を迎える前にイタリアに移住。アレッツオ市で堀文子個展を開催し、1995年には75歳でアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。2000年、82歳のときには、高山植物ブルーポピーを描きたいと、ヒマラヤ山脈の高地を走破しました。
2001年に病に倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなりましたが、友人のアーティスト坂田明が自身が飼育している「ミジンコ」を見せたことから、微生物の美しさに魅了され、生命をテーマに描き続けています。
親子のような親友という戸井十月のインタビューに答える堀文子は、足腰は弱ったとはいえ、凛としてとても美しかった。孤独を己の芸術の糧とし、権威によりかからず、自由な精神を失わずに生きる。口では言えるけれど、それを貫くには強く大きな精神が必要なことでしょう。
憧れるけれど、私などヘナヘナよぼよぼの愚痴オバアになることは目に見えている。でも、一歩でも憧れの生き方に近づきたい。
絵も、いっぱい見たい。散歩もしたい。冬の冷たい風に出渋る日が多くなるとは思うけれど、冬休み、楽しく過ごしたいです。
<つづく>
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(1)満月復活&日はまた昇る
真央ちゃんのいないフィギュアスケートファイナルグランプリは、ちょっと寂しいけれど、フィギュアスケート大好き一家なので、ショートもフリーも放映される全種目見ます。
10日夜の放映では、男子SPでは羽生結弦が4位、高橋大輔は5位でしたが、フリーでの挽回を期待しましょう。女子は、鈴木明子が2位になって、メダルに期待。
浅田真央選手、21歳でのお母さんとの別れは、どれほどつらいことでしょう。私も、母と永訣したのが23歳のとき。真央ちゃんとお母さんがそうだと言われているように、母娘一体型の親子(美空ひばりもそうだった)だったので、自分も死んだようになってしまって、生きる気力を取り戻すのには、3年かかりました。
真央ちゃんが再びリンクで舞う日の一日も早くなることこそお母さんへの供養だと信じて、冥福を祈りたいと思います。
10日夜、っていうか、11日のミッドナイト、月の復活に祈りました。
月と地球と太陽が一直線に並んで、月を地球の影が覆う皆既月食。
10日午後6時ごろ、自転車で池袋から明治通りを走り、満月が輝くのを見ながら帰宅しました。
深夜、ベランダから見上げる月は地球の影によって欠け、午前1時すぎには再び満月にもどりました。復活満月。
真央ちゃんも、再び満月のように笑顔を輝かせ、美しい舞を見せてほしいです。
10日土曜日、池袋へ行ったのは、ミサイルママほか、ダンス仲間が3人所属している合唱団のコンサートがあったから。K子さんと隣の席で、「少年時代」から「世界にひとつの花」まで、年の瀬の夜に美しい歌声にひたって過ごしました。
合唱団の歌った中の一曲。『日はまた昇る』、合唱団を指導している指揮者坂本和彦さんが歌詞を朗読してくれました。
谷村新司作詞作曲『日はまた昇る』
http://www.youtube.com/watch?v=RVtJspVe0E0&feature=related
夢を削りながら 年老いてゆくことに
気がついた時 はじめて気付く 空の青さに
あの人に教えられた 無言のやさしさに
今さらながら 涙こぼれて
酔いつぶれた そんな夜
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
冬晴れの空 流れる煙 風は北風
鉢植えの紫蘭の花 朝の雨にうたれ
息絶えだえに ただひたすらに 遠い窓の外
もしかして言わなければ 別離ずにすむものを
それでも明日の 貴方のために
あえて言おう「さよなら」と
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
陽はまた昇る どんな人の心にも
ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
春まだ遠く 哀しむ人よ 貴方を愛す
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(歌詞引用は、引用の許容範囲内と思うので、JASRACに文句付けられることはないと思うけれど、youtube谷村新司の歌唱は、そのうち著作権で文句が出てyoutubeから削除されるかも。お聞きになりたい方はお早めに)。
<つづく>
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2011年12月13日
ぽかぽか春庭「回顧2011」
2011/12/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(2)回顧2011
12月に入れば、世には「今年の漢字」だの「十大ニュース」発表だのがあふれ、誰もこの1年を振り返る気分になる。世の流れには一応首をつっこんでおきたい、はやりモノ好きとしては、12月には私なりの2011年を振り返っておかずばなるまい。
とは言うものの、誰も私の十大ニュースなどに構っているヒマはないことは承知のすけですが、世の中には御用とお急ぎでないムキもあろうかと、世界70億の人々にはまったく影響のなかった「私的2011」を回顧する。
私的十大ニュースとは言っても、大震災では倒れてきた本棚で頭を打って、たんこぶをこしらえた程度の私、世の中に寄与することもひとつも行わず、誉められもせず苦にもされぬ1年であったことを言祝ぐべきでしょう。
つらつら思い返すに、2011年1月から「日録」の記録を復活させたことが1月1日から変わったことのひとつ。
私は小学校入学以来、断続的にではあるけれど、日記をつけることを継続してきました。「日記大好き民族」のひとりです。しかし、ブログに日々の記録も書くようになった2003年以来、この「Hal-niwa annex」ブログ更新を優先させているうち、日録(日々雑記)のほうは、断続的になり、更新しないことも多くなっていました。毎日の、何をしたか、どこに行ったか、だれに会ったか、という日々の記録より、見たこと聞いたこと考えたことをブログ上で開陳するほうを優先するようになったのです。
どんな日にどんなことをしたのか、なんぞあったときに、アリバイを主張する役には立つ。ただしネットの中の記録は証拠としては採用されないんじゃないかしら。あとから書き直しが出来るから。
証拠にはならぬが、読み返して見れば、姑の誕生日祝いとして、娘息子と横浜散歩したのは、2月14日とわかる。わかったところで、何の得もないけれど。
~~~~~~
2011年1月1日の日録。
8時起床。9時まで寝床で朝刊。9~12時までメール、ブログ管理。3年近く放置していたヤフージオログにたどり着く方法がやっとわかった。「ゴールデンライフ」に付けられたトラックバックを削除するのに時間がかかった。日記のタイトルに気をつけないとあやしいトラックバックがどっさりくることがわかった。「ヌレエフ栄光と悲惨」というタイトルに50コもトラックバックがくっついていた。タイトルに気をつければ、タイトル検索でトラックバックする連中はこないことに気づいた。
12時、ブランチ。夕べの残り物の蕎麦を息子と分ける。娘だけ豆餅を焼いて食べた。
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自分で読み返しても、なんだか情けないような元日の記録です。そういえば、この日やっとわかったというヤフージオログはその後、また放置。まあ、毎年こんなふうでショーモナイ1年がはじまり、しょーもない1年が終わっていくのです。
<つづく>
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2011年12月14日
ぽかぽか春庭「私的10大ニュース」
2011/12/14
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(3)私的10大ニュース
2011年を振り返って見るに。
1)3月11日の震災と原発事故。
わが家の物的被害は、本棚の倒壊と食器棚の食器が落ちて割れたこと。私の頭のたんこぶ程度だったけれど、精神的には落ち込む気分が5月ごろまで続きました。つらい被害を受けた方に比べれば、一ヶ月間崩れた本の山と格闘した程度の者が落ち込んではいけないと思っても、気持ちの落ち込みが回復しませんでした。危ないとは思いつつ、これまで何の行動もとらず電気を使ってきたこと、安全神話を信じこもうとしてきたことへの落ち込み、多くの人が感じたみたいです。
夏、東京に咲く花の花びらが、変に捻れて咲いていました。この捻れた花びらは、雑誌で見た藤原新也の写真コラムに「フクシマ近くの野原の花が、放射能の影響で捻れていた」と掲載されていたのと同じ形。藤原新也が撮影したのは、ハンカイソウというキク科の植物で、本来、その花びらは放射状に伸びている。その花びらがよじれているのです。私が見た雑誌の藤原新也の写真とたぶん同じ時期の撮影と思われるものが、9月に朝日新聞にも載ったそうですが、こちらは気づかなかった。私が見たのは、『トリーノToriino』という日本野鳥の会が出している小冊子の2011Autumn号で、「流の章 花は語る」と題されたフォトエッセイです。
藤原や私が目にした花のねじれが本当に放射能の影響なのかどうか、検証した報告は読んだことがありません。でも、これまで見たことが無かった奇妙な捩れ方の花を見ると、今さらながら、目に見えないものの怖さが身にしみました。
震災のあと、皆が復興へ向けて力を合わせているけれど、原発の後始末は、まだまだ先の長い話のようです。染井吉野はクローン栽培育ちだからか、放射能の影響を受けやすいそうです。原発付近の桜の花の異常率、新潟の調査では、2011年4月の開花時には、平年より花の異常が多かったということなのですが。
2) 3月に博士号を授与される。
自分的には、3年間博士論文と格闘してやっと提出したものが評価されたのですから、うれしかったですが、祝賀会も中止になったし、家で何のお祝いをするわけでもなし、出版する予定もなし。非常勤講師の時給が上がるわけでもなし。単純に自己満足のための博士号。「バカセ、おめでとう」と自分でチャカして落ち着く程度の。
3) 息子が卒業。
息子が大学を卒業し、大学院に進学。やれやれです。ちゃんと育ち上がった子の場合、卒業したら就職して、親にも初月給の一部なんぞをプレゼントして、長い間の養育に感謝するってなことがあるみたい。親として養育者の肩の荷を下ろす感慨にもふけれるってもんですけれど、私はまだまだ食い扶持稼ぎを続けねば。ただ、学費と本代など勉学に掛かる費用は、いっさいを奨学金とアルバイトでまかなうことになったので、その分は楽になった。
息子、水曜日と金曜日は授業を終えてから大学事務のバイト、木曜日は授業補助者として、学部学生の世話をするバイト。週3日のバイトでなんとか本代やらゼミ研修旅行費用など間に合わせています。4年間の学部在学中は夫の会社でのアルバイトしかしたことなくて、よそ様のところで働けるものかと案じていたのですが、「学生相手の木曜日はつらいけど、コンピュータあいてに仕事していられる水曜日金曜日は、別段つらくない」というので、対人関係が苦手な息子でも、なんとか働くことができそうなことがわかってほっとした気持ち。この先はまたどうなるかわからないけれど。
<つづく>
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2011年12月16日
ぽかぽか春庭「絆」
2011/12/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(4)絆
4)一人旅、一人歩きの復活。
11月のはじめに、ひとりでバスツアーに参加し、立山周辺、黒部ダム周辺のバスハイクを楽しみました。
一人で参加していると言うと、バスの同乗者は「あらぁ、勇気がありますね」とか、「思い切りましたね」と驚く。バスツアーにひとりで参加するのはそんなに驚かれるようなことなのか、と世間を知らない私のほうが驚く。これまでこの種のバスツアーにひとりで参加したのは、白川郷に行った1回だけだったので、これが2回目。
娘に聞いたら、「ひとりで参加したら、友だちもいない人、と思われそうだから、みんな嫌なんじゃないの」と言います。え~、そうだったの?私、ごくわずかだけれど、友達いるし、たまたま友達と旅行のスケジュールあわなかったときは一人で参加するってだけで、別段勇気ふりしぼって参加したんじゃないのに。
ほんとうの一人旅だったら、ホテル予約とか電車の切符手配とか面倒だけれど、バスツアーなら申し込むだけで、何の面倒もないってだけじゃないの。私の周囲の人は、ミサイルママは一人で登山にでかけるし、みな一人旅が普通、という人ばかりなので、特別なことと思ったこと無かった。
まあ、格段の勇気もなく参加した立山ツアー。トロッコ電車に乗ったり、ロープウエーに乗ったりして、黒部ダムやら立山周辺やらを歩いて、たのしゅうございました。
夏休みから11月にかけて、ぐるっとパスやら招待券やらを活用して、東京都内のおひとり様散歩、楽しく続けました。スケジュールが合えば、ミサイルママといっしょに出かけたり、ヨコちゃんとごいっしょできたり、二人連れもまた楽し。無理に合わせることもないので、一人で出かけることがほとんどだけど、別段それが「残念な人」になるとも思わずに、せっせと歩きます。
5)絵葉書「青い鳥通信」、年末に90号を送付
震災が人々に与えた影響のひとつとして「絆」の大流行。同棲中のカップルの多くが、婚姻届を出したそうですし、これまで音信がなかった人たちの間にも、手紙やらメールの通信復活が多くなったと聞きます。予想通り「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」でした。
友達がごく少ない私も、4月から人とのつながりのひとつとして「青い鳥通信」を始めました。3日に1枚、1ヶ月に10枚のハガキを、ウェブ友のちるちるさんに送ることにしたのです。ちるちるさんに「私のハガキを受け取るボランティアになってください」とお願いして、これまでで85枚の絵はがきを送りました。12月30日付けで90号。
異なる絵柄の絵はがきに異なる文面をと、心がけています。と言っても、たいしたことは書いていません。季節のことだったり、絵はがきの絵柄にまつわることだったり。
ちるちるさん、ハガキ受け取りのボランティアをしていただくことによって、こうして春庭に生き続ける気持ちを与えてくれて、ほんとうにありがとう。
ちるちるさんからは、ヘルパーさんボランティアさんが協力してくれたという2012年のカレンダーをいただきました。毎月1枚、ちるちるさんの書いた詩にボランティアさんが絵をつけたカレンダーです。えへへ、海老で鯛釣ったのかも。ありがとう、ちるちるさんの詩を机の前に貼って、2012年をすごします。。
<つづく>
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2011年12月17日
ぽかぽか春庭「国民総幸福度」
2011/12/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(5)国民総幸福度
さてはて、10大ニュースと言いながら、1年間を振り返って見ても、去年と変わったことが10コもなかったことが判明。5大ニュースで終わりです。
ほんと代わり映えのない1年、変わりばえのない人生を送っているもんだと実感。でもね。かわりばえのないことこそ幸せなのだと痛感させられた1年でもありました。
月蝕を見上げて宇宙進行の恙なきを喜び、なかなか紅葉しない楓の葉を見れば異常気象かと心配する。暑い日が続けば暑いと文句を言い、寒い日には寒いと嘆く。そんな繰り返しで、こうして平凡に日常が過ぎていくことが、何よりの幸福なのだと、それぞれが身に染みた1年でもありました。自分がかわりばえのない分、よそ様が親しい人を失った悲しみや、住み慣れた家を離れなければならない苦しみの中にあることのつらさも、いっそう身にしみました。
変わらぬ1年。私自身は持病はあれど入院などの大きな病気もなく、87歳の姑も7歳の黒ウサギも、それなりに元気にすごしていて、娘息子が飢えもせず毎日を暮らしているのですから、それでよしとしましょう。夫は、、、、、ま、いてもいなくてもおんなじってとこがこれまでの年といっしょ。
国王夫妻が強い印象を残したブータン王国。国民総生産では世界の中で低い方のランクだけれど、「国民総幸福」では、世界トップレベなのだそうです。国民の97%が「私は幸福者」と思っているのだとか。3%くらいは、お身内を亡くした方とか、悲哀のさなかにいる人もいるでしょうから、幸福と思えない人もいるでしょう。それ以外の人はみな自分が幸福だと思っているって、ほんとうかいと思ってしまうのも、年間3万人が自殺する国に住んでいるからゆえか。
NEFというイギリスのシンクタンクが生活満足度・寿命・環境負荷などから算出した「幸福度指数、Happy Planet Index、HPI2.0」によると、2009年に143カ国地域対象で行った新指標によると、幸福指数トップ15位に入ったうちの11ヶ国は中南米の国々です。アジアの中ではベトナム5位、フィリピン14位、ブータン17位、中国20位。日本は75位。アメリカは114位、最下位143位はジンバブエ。こう見ると、ラテンアメリカの陽気な人々は皆しあわせいっぱい。
1位にランクインしたコスタリカは、戦争放棄・平和主義」を憲法にし、非武装中立、環境保全、教育重視の平和政策を薦めています。(オスカル・アリアス・サンチェス大統領は、ノーベル平和賞を受賞)
物質的には最も恵まれているように見えるアメリカが114位というのもわかる気がします。
幸福指数では17番目にすぎないブータンの国民が、気持ちとしては97%が「私は幸福」と感じるのも、ヒマラヤ山中の豊かな自然、隣近所の交流などを総合してのことなのでしょう。
日本蝶類学会調査隊が「ブータンシボリアゲハ」を追うドキュメンタリーをBSで見ました。新発見以来80年間「幻の大蝶(おおちょう)」とされてきた「ヒマラヤの貴婦人」と呼ばれる蝶の再発見を記録している番組でしたが、そこに写されたブータンの人々は、ほんとうにすてきな笑顔を見せていました。
さて、大災害に揺れた今年のこの国全体の幸福度はいかに。「環境負荷」が幸福指数に関係するとするそうですから、やっと原発処理第一段階が終わったとはいえ、完全廃炉まであと40年50年かかるとすると、日本の幸福指数は今年大きくさがったのだろうと予測がつきます。
さはさりながら、私の幸福度。物質的に恵まれたことは何ひとつなかったし、仕事もこの先の先細りは見えていて不安はいっぱい。幸福度指数からいえば低ランクになりそうだけれど、ブータンのように、指数ではなく、気持ちが感じる幸福度から言うと、まあまあそこそこだったと思います。とりあえず来年度は、週5日、国立2校私立大3校を日替わりで教える日雇い教師、続けていけそうだし、持病の急激な悪化ということもなさそうだし。
さまざまな場所を探して最後に家の中の幸福を見つけるメーテルリンクの『青い鳥』。青い鳥通信を出し続けることができる私は、幸福者です。
つらいことも多かった2011年。きたる日々には、「国民総幸福度」が、ブータンの「国民の97%が幸福者」には及ばないまでも、ひとりでも多くの人の幸福度が上がりますように。
<つづく>
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2011年12月18日
2011年12月20日
ぽかぽか春庭「遺されたもの」
2011/12/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(7)遺されたもの
北朝鮮の金正日総書記、17日に死去。移動の列車中での心筋梗塞という。病体であることは何度か報じられてきたけれど、この年末とは思わなかった。びっくり。
北朝鮮の重要ニュースを報道する女性アナウンサー、独特の調子でニュースを読み上げるので、印象が強い人だったけれど、50日ほど前からパッタリテレビに出なくなり、19日になって突然「重大ニュースの発表がある」と言ったあと喪服で「偉大なる将軍様のご逝去」を報じました。もしかしたら、すでに50日前に亡くなっていて、この50日間は、事後処理のおおわらわだったのではないかなあ、なんてかの国の事情を勝手に想像しています。
学生時代には海外ですごすことが多かったという将軍さまの三男金正恩坊ちゃま。学生時代とは顔がすっかり変わりました。偉大なる初代そっくりに整形したとの報道。ほんとかどうか知りませんけれど。初代の威光と二代目の権力を三代目がすんなり継承できるのかどうか。はたして今後の混乱必至だろうとの観測から、韓国の株価も一時下がったし、来年アジアの情勢は予断を許さないでしょう。
2007年に中国の北の国境の町から川をはさんで対岸の北朝鮮を眺めたときのことを思い出します。あの川を必死で泳ぎ、中国側に逃れてくる人々が続いていたそうですが、これからあの川はどうなるでしょうか。難民が増えることが警戒され、国境警備が強化されているそうです。
年末に喪中葉書も来て、今年もお悔やみを述べなければならない人がいました。3月の震災で亡くなった方々をはじめ、ひとりひとりの命が消えていくこと、重くつらいことです。無名人も有名人も、家族や親しい人にとっては、かけがいのない大切な命です。
金正日のほかにも、世界史的にもその死去が大きく記憶される有名人も多かった。10月5日に56歳で没したスティーブン・P・ジョブズとか、10月20日に殺されたことが確認されたリビアのカダフィ大佐(ムアンマル・アル=カッザーフィー)とか。
個人的には、12月に亡くなった脚本家市川森一さんとか、7月10日に亡くなった振付家のローラン・プティなどの死、もっと作品を残して欲しかった、と残念に思います。プティ振り付けの『ダンシングチャップリン』を草刈民代が踊った映画を見たところだったり、市川脚本で『蝶々さん』を見たところだったので特に。「蝶々さん」市川森一さいごの作品。宮崎あおい、けなげでよかった。
27歳で戦死した山中貞雄は「『人形紙風船』が最後の作品では寂しい」ということばを残したそうですが、市川森一は「『蝶々さんが遺作なら、いいかな」と言ったそうです。生涯に満足のいく作品が残せたのなら、その寿命も、以って瞑すべし。
今年、私の生は、「もしここで命運尽きるとも満足できるものだった」と言えるものであったかというと、まだまだ「何も満足のいくものは残せていない」という状況です。
来年こそは、きちんと「仕事」を残せるよう、亡くなった方々ひとりひとりの貴重な一生に敬意を払いつつ、決意したいと思います。
<つづく>
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2011/12/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(9)冬休み
多くの小学校中学校は、22日に2学期が終わり、23日から冬休み。大学のいい所は、小学校中学校より1週間2週間早く冬休み夏休みになることだったのに、文科省が「1年通年で30週、セメスター(半年)の場合には15週の授業時間を確保することが望ましい」なんていう「ご指導」をしたようで、大学も22日まで授業をして23日から冬休みってところが多くなりました。私なんぞ21日まで授業をしたあと1月6日から授業です。冬休みが大幅に減りました。と、愚痴を言いつつ、22日からようやく冬休み。
22日は一日、洗濯やらお茶碗洗いやら。世間様は働いているのだからと、たまった家事にいそしみました。ただし、掃除はあいかわらずやらない。服は脱ぎ散らかされたまま、本は部屋に散乱したまま。
23日は祝日で、みんなお休みですから、ようやくのんびりと冬休みを楽しみました。22日に録画しておいた『34丁目の奇跡』1996年版リメイクを見ました。とってもすてきなクリスマス映画でした。私は1947年のオリジナルを見たことがなかったのですが、1996年リメイク版、アッテンボローのサンタ役がとてもよかった。
私も、目に見えないものを信じる心を持ちたい。本物のサンタに会ったことはないけれど。
そのほか、録画しておいた「ピカソ青の時代」と「画家堀文子93歳の決意」を見ました。ピカソと親友カサヘマスについて。また、カサヘマスの死後、娼館に出入りして娼婦達を描いたころの青く沈鬱な絵を紹介していました。
私も2009年1月に「ピカソとカサヘマス」についてのエピソードを書いたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1725#comment
ピカソがピカソとして確立するために、青の時代の暗く沈んだ年月が必要だった、と番組は、ピカソのつらく悲しい時代を紹介していました。
敬老の日の放映を見逃してしまって、再放送を今か今かと待っていて、ようやく「画家・堀文子 93歳の決意」を見ることができました。
1918年生まれというので、私の父より1歳年上です。父は76歳で亡くなりましたが、それから20年以上、堀さんは93歳の今も現役画家として、毎年個展も開いています。
東京のど真ん中、麹町区平河町に生まれ、女子美術専門学校に入学したのも、「絵はそれほど上手とは思っていなかったけれど、他の仕事なら女というだけで差別があったけれど、絵描きなら女でも出来上がる作品は平等に見て貰えるだろうと思ったからだそうです。
学校からの帰り道、2・26事件に出くわして、「早く帰れ」という命にさからって、一部始終を見届けようと思ったというそのころから、反骨と自由に生きる心を絶やしたことがない生涯。
29歳のときに外交官の男性と結婚、43歳のときに夫と死別。1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出て、絵を描き続け、それ以来、「群れない、慣れない、頼らない」生き方を貫き通し、画壇とはいっさいかかわらずに、権威やお金には関わらずに93年を貫き通しました。
1987年、古稀を迎える前にイタリアに移住。アレッツオ市で堀文子個展を開催し、1995年には75歳でアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。2000年、82歳のときには、高山植物ブルーポピーを描きたいと、ヒマラヤ山脈の高地を走破しました。
2001年に病に倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなりましたが、友人のアーティスト坂田明が自身が飼育している「ミジンコ」を見せたことから、微生物の美しさに魅了され、生命をテーマに描き続けています。
親子のような親友という戸井十月のインタビューに答える堀文子は、足腰は弱ったとはいえ、凛としてとても美しかった。孤独を己の芸術の糧とし、権威によりかからず、自由な精神を失わずに生きる。口では言えるけれど、それを貫くには強く大きな精神が必要なことでしょう。
憧れるけれど、私などヘナヘナよぼよぼの愚痴オバアになることは目に見えている。でも、一歩でも憧れの生き方に近づきたい。
絵も、いっぱい見たい。散歩もしたい。冬の冷たい風に出渋る日が多くなるとは思うけれど、冬休み、楽しく過ごしたいです。
<つづく>