11/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館
11/02 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
11/04 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
11/05 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
11/06 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家
11/08 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(6)和敬塾本館
11/09 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(7)旧細川侯爵邸
11/11 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸
11/12 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ
11/13 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸
11/15 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸
11/16 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
11/18 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
11/19 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
11/20 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
11/22 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
11/23 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
11/25 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
11/26 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)
11/27 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
11/29 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)蜂葡萄酒で乾杯
11/30 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり
2011/11/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館
10月1日、茅ヶ崎へ行きました。
茅ヶ崎市美術館で開催されている「音二郎没後100年貞奴生誕140年記念、川上音二郎・貞奴展」という展覧会のイベントで、小川稔館長と木下直之東京大学教授との対談があったのを聞くために出かけたのです。
茅ヶ崎は、50年も昔に海水浴に行って以来、一度も出かけたこともなかったので、町の中を少し見物したいと思いました。50年経って、どんな海になっているんだろう。
小学生のとき、ひさお叔父に連れられ、妹や従妹たちと茅ヶ崎の海岸に行きました。
私は、小学校1年生のとき鎌倉で初めて海で泳いで、「海の水はしょっぱくてイヤ、川がいい」と泣きました。そのあとの海水浴は、毎年新潟の海でした。新潟の海がしょっぱくなかったわけではないのだけれど、群馬は太平洋に出るのも日本海に出るのも、汽車に長時間ゆられなければならない海無し県です。同じ長時間電車に乗っていくなら、日本海のほうがまだ浜辺がきれいで人出が少なかったから、ほとんどの海水浴は新潟の鯨波海岸でした。
私は小学校1年生のときに海水浴デビューできたのに、妹は身体が弱く、私と姉が海水浴に連れて行ってもらうときも、母とお留守番していました。妹は、1年生の夏にはまだ「自家中毒」と診断された虚弱体質が向上していなくて、2年生の夏、やっと電車旅行に耐えられると判断され、ようやく「海水浴デビュー」となりました。昔、「子どもの自家中毒」といったのは、周期性嘔吐症(アセトン血性嘔吐症)のことで、虚弱体質の子どもがなる病気でした。
群馬から横浜へ出て、ひさお叔父の家に泊まり、そこから茅ヶ崎までなら電車で1時間もかかりませんから、なんとか大丈夫ということになり、茅ヶ崎海岸へ出かけました。私は新しい水着がうれしくて、妹の体調など気にせずに泳いでいましたが、この日の写真を見ると、妹は泣きそうな顔をして写っています。きっと疲れが出てそれでも海にいたくて、我慢していたのでしょう。
そんななつかしい海辺が50年もたって、どういう風になっているのだろう、茅ヶ崎の町のことなどまったく覚えていないけれど、どういう町だったのだろうと思い、茅ヶ崎駅から町の中をぐるりとまわるコミュニティバスに乗りました。どこにもあるような住宅街をぬけて、海辺へ。途中の開高健記念館前で下車。
開高健記念館は、一家が1974年から住んできた住宅をそのまま記念館として残した施設です。開高健の仕事部屋などが、ありし日のまま保存されています。開高夫人の牧羊子さんが亡くなったあと、遺産継承者である夫人の妹の馬越君子さんが土地建物を茅ヶ崎市に寄贈し、記念館として保存されることになりました。瀟洒な住宅で、海辺へは300mくらいのところに建っています。
私は庭をまわって、ベランダ側から入館しました。土曜日の昼頃。私のほかに入館者はありませんでした。著作も全作品が棚の本棚にありました。
<つづく>
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2011年11月02日
ぽかぽか春庭「開高健の海」
2011/11/02
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
開高健は、夫が大好きな作家で、よく読んでいました。夫は、岡村昭彦とか開高健とか、とにかく本当にベトナム戦争を見てきて書いたジャーナリストや作家を尊敬していたのです。『南ベトナム従軍記』を書いた岡村昭彦にあこがれて新聞記者になったのに、フリージャーナリストを目指すも「チャンスがあったのに、結局タイ奥地からゴールデントライアングルに密入国取材する決意ができなかった。本当に従軍取材できたってことは、それだけでたいしたことなんだ」と、私に言ったことがありました。岡村はベトコンの捕虜となって生死あやうかったし、開高は激戦にあってかろうじて生き残ったひとりです。
私は、『パニック』『裸の王様』『ロビンソンの末裔』など初期の作品は読んだのに、『ベトナム戦記』以後の開高健を読まなくなった。「男は外へ出ていく者」という開高健が遠い存在に思えたからかもしれません。私はドメスティック人生。身の回り5mの範囲で生きています。「男は危機と遊びに生きる」と言い切る開高健、夫にはあこがれの人でしたけど。
今、本棚を見ると、水漏れ事故でも大震災後でも「捨てる本」のほうに入れずの残された、夫が買った開高健の文庫本は16冊。きっともっとたくさん買ったのでしょうが。せめて残った文庫は、私が活用しましょう。
開高健記念館のガラスケースの中、ベトナムから家族に宛てたハガキも展示されていました。200人のアメリカ人部隊と行動をともにしてベトコンの襲撃にあい、17人しか生き残らなかった、その17人のひとりが開高健。そんな戦場に家族を残して出かけて、そのさなかに、家族にユーモアあふれ愛情こまやかな文のハガキを書く。
遺品などの展示のほか、モニターに開高健がインタビュアーを相手に語っているところが映されていました。「男はね、危機と遊び」とパイプを吹かしながら語っている。
9月22日にNHKBSで放映された、「釣って、食べて、生きた!作家 開高健の世界(1)巨大オヒョウを食らう」を録画しておいて、10月15日に見ました。記念館で放映されていたインタビューがこのドキュメンタリーでも使われていました。
アラスカのセントジョージ島での巨大オヒョウ釣りに挑んだ開高健の足跡を、開高健といっしょにすごした料理人谷口博之がたどるという番組。アラスカで開高とともに過ごしたガイドのトムさんとか、アリュート人の大工さんたちが開高健の人柄をなつかしみ、谷口がオヒョウを料理してセントジョージ島の人にふるまったりする。旅番組としてはよい出来だし、開高健の人柄がとてもすばらしかったことはよくわかったけれど、なぜ、開高健がそこまで「釣って、食べる」ことにこだわったのか、という作家魂に迫る作りではなかった。それを知りたいなら、本棚にある『オーパ』ほかを読む方がいいのだろう。
開高健記念館を出たあと、300m歩いて海岸へ行きました。なにやら子どもがいっぱいのイベントが開催されていました。「海をきれいに」というようなエコロジー団体の催しらしい。
子どもの頃の私にとって、「海へ行く」というのが1年1度の「夏休み最大の行事」でした。海無し県の山のふもとの田舎町では「海水浴に行ってきた」というのが何よりの自慢のタネになったころの私と、海辺に育ち海が日常である茅ヶ崎の子どもと、巨大魚と格闘しながら海を渡った開高健と、それぞれに海のイメージは異なるのだろうなあと思いながら、茅ヶ崎海岸を歩きました。
帰るときになって、私が昔をなつかしみながら歩いた浜辺は菱沼海岸であって、子どもの時泳いだ海岸ではなかったことに気づきました。昔泳いだのは、もっと江ノ島に近い鵠沼(くげぬま)海岸でした。ま、いいか。
子どもの頃泳いだ鵠沼海岸も、開高健が散歩した菱沼海岸も、アラスカの海も、み~んなつながっている。
<つづく>
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2011年11月04日
ぽかぽか春庭「武者小路実篤邸」
2011/11/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
10月29 日午前中、新宿から京王線に乗って千川駅へ。武者小路実篤邸を見学しました。1955(昭和30)年、実篤が晩年70歳のとき、「水辺のある庭」に住みたいと希望して設計したお気にいりの住まい。実篤は「仙川の家」と呼び、90歳で大往生するまでの20年間をこの家で暮らしました。夫人の死後、調布市に寄贈され、庭は実篤公園となって公開されています。
今回は、実篤邸を見学しただけで、記念館は見ませんでした。
http://www.mushakoji.org/info24.html
実篤の書斎などが往時のようすを再現して保存されていました。おなじみのカボチャやナスの絵が描かれた画室、お気に入りの絵筆なども展示されています。
私は若い頃に「友情」などを読んだきりで、再読もしていないので、細かいところは忘れています。
団塊の世代が生意気盛りのころは、何につけても「仲良きことは美しきかな」とつけると冗談のタネにできたほどで、「老人はすっこんでろ。仲良きことは美しきかな」「男だからって威張るな。仲良きことは美しきかな」「だれが、お前みたいな甲斐性なし男と結婚するもんかよ。仲良きことは美しきかな」なんて言って笑っていたのです。武者小路実篤などは「古い作家」と思っていました。
ちなみに、今日この頃、発言をおちゃらかしたいときは「人間だもの」または「人間だもの。泥鰌(どじょう)」をくっつけます。「年金ちゃんともらえるかなあ。人間だもの、どじょう」「健康被害のない野菜が食べたい。人間だもの」「東電はちゃんと補償しろよ。人間だもの」などなど)
共同体の意味を考え直すべき今、実篤と同志たちが宮崎に建設した「新しき村」のこととか、埼玉県毛呂山町に現在も存続している共同体「新しき村」のことなど、もう一度実篤を読み直すのも必要かも。
実篤が愛し丹精した庭をしばし散歩しました。調布仙川の南斜面に広がる1700坪約5,000平方メートルの庭です。池のまわりに黄葉がはじまった木々や赤い木の実をつけた木々が立ち、四阿では中高年ウォーキンググループが休憩していました。
千川駅に戻ると、2時から始まるという「ハローウインパレード」に参加する子どもたちが魔女のコスプレで集まっていました。商店街の服屋にはちゃんと「ハロウイン用魔女の衣装」が売られていて、三角の帽子や長い飾り爪がついた手袋やらも売られています。
みんな楽しげに「魔法の杖」などを手にしていました。魔女っこたちのパレードも見たかったけれど、午後は旧岩崎邸にまわる予定だったので、残念。
もともとはケルト人の行う収穫感謝祭だったというハローウイン。クリスマスだってセントバレンタインデーだって面白そうなことは何でも自分たちの行事にしてしまう、折衷取り入れ民族、われら。
仲良きことは美しきかな。
<つづく>
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2011年11月05日
jぽかぽか春庭「徳田秋声旧居」
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。
徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。
秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。
普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。
10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html
徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。
居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。
秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。
私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。
山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。
http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html
また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。
秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。
徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイト
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/
木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。
11月4日の夜は金沢駅前に宿泊したのですが、これから黒部ダムに向かうので、金沢の徳田秋声記念館に立ち寄る時間はなさそうです。またの機会に。
<つづく>
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2011年11月06日
ぽかぽか春庭「林芙美子落合の家」
2011/11/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家
BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも、私は中国赴任中で日本のニュースが遠かった。やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。
森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、1幕ごとに区切って見ました。
『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。
次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。
2009年の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には見えない背の丸まりようが気になった。小説家としてのスタートを喜ぶでんぐり返しは、バンザイに変更。
ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。
終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。
舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。
10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。
家は山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だった)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中、資材節約という国策により30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と夫の緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。
流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆に忙しい日々をおくっていました。
舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。
前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらに
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm
今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。
また、展示室(芙美子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビで、NHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃、なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。芙美子は画家になりたかったと答えており、展示室にも芙美子の自画像がかけてありました。
このインタビュー番組は、ラジオ放送録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の死の直前の姿が1分ほど映像記録されています。
このインタビューでの芙美子について、「晩年の姿」と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。
芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。
今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。
芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるような、すっきり立つ竹でした。
今年は1951年に林芙美子が亡くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。
<つづく>
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11/02 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
11/04 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
11/05 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
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11/08 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(6)和敬塾本館
11/09 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(7)旧細川侯爵邸
11/11 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸
11/12 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ
11/13 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸
11/15 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸
11/16 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
11/18 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
11/19 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
11/20 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
11/22 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
11/23 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
11/25 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
11/26 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)
11/27 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
11/29 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)蜂葡萄酒で乾杯
11/30 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり
2011/11/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館
10月1日、茅ヶ崎へ行きました。
茅ヶ崎市美術館で開催されている「音二郎没後100年貞奴生誕140年記念、川上音二郎・貞奴展」という展覧会のイベントで、小川稔館長と木下直之東京大学教授との対談があったのを聞くために出かけたのです。
茅ヶ崎は、50年も昔に海水浴に行って以来、一度も出かけたこともなかったので、町の中を少し見物したいと思いました。50年経って、どんな海になっているんだろう。
小学生のとき、ひさお叔父に連れられ、妹や従妹たちと茅ヶ崎の海岸に行きました。
私は、小学校1年生のとき鎌倉で初めて海で泳いで、「海の水はしょっぱくてイヤ、川がいい」と泣きました。そのあとの海水浴は、毎年新潟の海でした。新潟の海がしょっぱくなかったわけではないのだけれど、群馬は太平洋に出るのも日本海に出るのも、汽車に長時間ゆられなければならない海無し県です。同じ長時間電車に乗っていくなら、日本海のほうがまだ浜辺がきれいで人出が少なかったから、ほとんどの海水浴は新潟の鯨波海岸でした。
私は小学校1年生のときに海水浴デビューできたのに、妹は身体が弱く、私と姉が海水浴に連れて行ってもらうときも、母とお留守番していました。妹は、1年生の夏にはまだ「自家中毒」と診断された虚弱体質が向上していなくて、2年生の夏、やっと電車旅行に耐えられると判断され、ようやく「海水浴デビュー」となりました。昔、「子どもの自家中毒」といったのは、周期性嘔吐症(アセトン血性嘔吐症)のことで、虚弱体質の子どもがなる病気でした。
群馬から横浜へ出て、ひさお叔父の家に泊まり、そこから茅ヶ崎までなら電車で1時間もかかりませんから、なんとか大丈夫ということになり、茅ヶ崎海岸へ出かけました。私は新しい水着がうれしくて、妹の体調など気にせずに泳いでいましたが、この日の写真を見ると、妹は泣きそうな顔をして写っています。きっと疲れが出てそれでも海にいたくて、我慢していたのでしょう。
そんななつかしい海辺が50年もたって、どういう風になっているのだろう、茅ヶ崎の町のことなどまったく覚えていないけれど、どういう町だったのだろうと思い、茅ヶ崎駅から町の中をぐるりとまわるコミュニティバスに乗りました。どこにもあるような住宅街をぬけて、海辺へ。途中の開高健記念館前で下車。
開高健記念館は、一家が1974年から住んできた住宅をそのまま記念館として残した施設です。開高健の仕事部屋などが、ありし日のまま保存されています。開高夫人の牧羊子さんが亡くなったあと、遺産継承者である夫人の妹の馬越君子さんが土地建物を茅ヶ崎市に寄贈し、記念館として保存されることになりました。瀟洒な住宅で、海辺へは300mくらいのところに建っています。
私は庭をまわって、ベランダ側から入館しました。土曜日の昼頃。私のほかに入館者はありませんでした。著作も全作品が棚の本棚にありました。
<つづく>
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2011年11月02日
ぽかぽか春庭「開高健の海」
2011/11/02
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
開高健は、夫が大好きな作家で、よく読んでいました。夫は、岡村昭彦とか開高健とか、とにかく本当にベトナム戦争を見てきて書いたジャーナリストや作家を尊敬していたのです。『南ベトナム従軍記』を書いた岡村昭彦にあこがれて新聞記者になったのに、フリージャーナリストを目指すも「チャンスがあったのに、結局タイ奥地からゴールデントライアングルに密入国取材する決意ができなかった。本当に従軍取材できたってことは、それだけでたいしたことなんだ」と、私に言ったことがありました。岡村はベトコンの捕虜となって生死あやうかったし、開高は激戦にあってかろうじて生き残ったひとりです。
私は、『パニック』『裸の王様』『ロビンソンの末裔』など初期の作品は読んだのに、『ベトナム戦記』以後の開高健を読まなくなった。「男は外へ出ていく者」という開高健が遠い存在に思えたからかもしれません。私はドメスティック人生。身の回り5mの範囲で生きています。「男は危機と遊びに生きる」と言い切る開高健、夫にはあこがれの人でしたけど。
今、本棚を見ると、水漏れ事故でも大震災後でも「捨てる本」のほうに入れずの残された、夫が買った開高健の文庫本は16冊。きっともっとたくさん買ったのでしょうが。せめて残った文庫は、私が活用しましょう。
開高健記念館のガラスケースの中、ベトナムから家族に宛てたハガキも展示されていました。200人のアメリカ人部隊と行動をともにしてベトコンの襲撃にあい、17人しか生き残らなかった、その17人のひとりが開高健。そんな戦場に家族を残して出かけて、そのさなかに、家族にユーモアあふれ愛情こまやかな文のハガキを書く。
遺品などの展示のほか、モニターに開高健がインタビュアーを相手に語っているところが映されていました。「男はね、危機と遊び」とパイプを吹かしながら語っている。
9月22日にNHKBSで放映された、「釣って、食べて、生きた!作家 開高健の世界(1)巨大オヒョウを食らう」を録画しておいて、10月15日に見ました。記念館で放映されていたインタビューがこのドキュメンタリーでも使われていました。
アラスカのセントジョージ島での巨大オヒョウ釣りに挑んだ開高健の足跡を、開高健といっしょにすごした料理人谷口博之がたどるという番組。アラスカで開高とともに過ごしたガイドのトムさんとか、アリュート人の大工さんたちが開高健の人柄をなつかしみ、谷口がオヒョウを料理してセントジョージ島の人にふるまったりする。旅番組としてはよい出来だし、開高健の人柄がとてもすばらしかったことはよくわかったけれど、なぜ、開高健がそこまで「釣って、食べる」ことにこだわったのか、という作家魂に迫る作りではなかった。それを知りたいなら、本棚にある『オーパ』ほかを読む方がいいのだろう。
開高健記念館を出たあと、300m歩いて海岸へ行きました。なにやら子どもがいっぱいのイベントが開催されていました。「海をきれいに」というようなエコロジー団体の催しらしい。
子どもの頃の私にとって、「海へ行く」というのが1年1度の「夏休み最大の行事」でした。海無し県の山のふもとの田舎町では「海水浴に行ってきた」というのが何よりの自慢のタネになったころの私と、海辺に育ち海が日常である茅ヶ崎の子どもと、巨大魚と格闘しながら海を渡った開高健と、それぞれに海のイメージは異なるのだろうなあと思いながら、茅ヶ崎海岸を歩きました。
帰るときになって、私が昔をなつかしみながら歩いた浜辺は菱沼海岸であって、子どもの時泳いだ海岸ではなかったことに気づきました。昔泳いだのは、もっと江ノ島に近い鵠沼(くげぬま)海岸でした。ま、いいか。
子どもの頃泳いだ鵠沼海岸も、開高健が散歩した菱沼海岸も、アラスカの海も、み~んなつながっている。
<つづく>
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2011年11月04日
ぽかぽか春庭「武者小路実篤邸」
2011/11/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
10月29 日午前中、新宿から京王線に乗って千川駅へ。武者小路実篤邸を見学しました。1955(昭和30)年、実篤が晩年70歳のとき、「水辺のある庭」に住みたいと希望して設計したお気にいりの住まい。実篤は「仙川の家」と呼び、90歳で大往生するまでの20年間をこの家で暮らしました。夫人の死後、調布市に寄贈され、庭は実篤公園となって公開されています。
今回は、実篤邸を見学しただけで、記念館は見ませんでした。
http://www.mushakoji.org/info24.html
実篤の書斎などが往時のようすを再現して保存されていました。おなじみのカボチャやナスの絵が描かれた画室、お気に入りの絵筆なども展示されています。
私は若い頃に「友情」などを読んだきりで、再読もしていないので、細かいところは忘れています。
団塊の世代が生意気盛りのころは、何につけても「仲良きことは美しきかな」とつけると冗談のタネにできたほどで、「老人はすっこんでろ。仲良きことは美しきかな」「男だからって威張るな。仲良きことは美しきかな」「だれが、お前みたいな甲斐性なし男と結婚するもんかよ。仲良きことは美しきかな」なんて言って笑っていたのです。武者小路実篤などは「古い作家」と思っていました。
ちなみに、今日この頃、発言をおちゃらかしたいときは「人間だもの」または「人間だもの。泥鰌(どじょう)」をくっつけます。「年金ちゃんともらえるかなあ。人間だもの、どじょう」「健康被害のない野菜が食べたい。人間だもの」「東電はちゃんと補償しろよ。人間だもの」などなど)
共同体の意味を考え直すべき今、実篤と同志たちが宮崎に建設した「新しき村」のこととか、埼玉県毛呂山町に現在も存続している共同体「新しき村」のことなど、もう一度実篤を読み直すのも必要かも。
実篤が愛し丹精した庭をしばし散歩しました。調布仙川の南斜面に広がる1700坪約5,000平方メートルの庭です。池のまわりに黄葉がはじまった木々や赤い木の実をつけた木々が立ち、四阿では中高年ウォーキンググループが休憩していました。
千川駅に戻ると、2時から始まるという「ハローウインパレード」に参加する子どもたちが魔女のコスプレで集まっていました。商店街の服屋にはちゃんと「ハロウイン用魔女の衣装」が売られていて、三角の帽子や長い飾り爪がついた手袋やらも売られています。
みんな楽しげに「魔法の杖」などを手にしていました。魔女っこたちのパレードも見たかったけれど、午後は旧岩崎邸にまわる予定だったので、残念。
もともとはケルト人の行う収穫感謝祭だったというハローウイン。クリスマスだってセントバレンタインデーだって面白そうなことは何でも自分たちの行事にしてしまう、折衷取り入れ民族、われら。
仲良きことは美しきかな。
<つづく>
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2011年11月05日
jぽかぽか春庭「徳田秋声旧居」
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。
徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。
秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。
普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。
10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html
徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。
居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。
秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。
私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。
山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。
http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html
また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。
秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。
徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイト
http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/
木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。
11月4日の夜は金沢駅前に宿泊したのですが、これから黒部ダムに向かうので、金沢の徳田秋声記念館に立ち寄る時間はなさそうです。またの機会に。
<つづく>
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2011年11月06日
ぽかぽか春庭「林芙美子落合の家」
2011/11/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家
BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも、私は中国赴任中で日本のニュースが遠かった。やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。
森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、1幕ごとに区切って見ました。
『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。
次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。
2009年の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には見えない背の丸まりようが気になった。小説家としてのスタートを喜ぶでんぐり返しは、バンザイに変更。
ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。
終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。
舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。
10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。
家は山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だった)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中、資材節約という国策により30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と夫の緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。
流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆に忙しい日々をおくっていました。
舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。
前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらに
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm
今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。
また、展示室(芙美子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビで、NHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃、なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。芙美子は画家になりたかったと答えており、展示室にも芙美子の自画像がかけてありました。
このインタビュー番組は、ラジオ放送録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の死の直前の姿が1分ほど映像記録されています。
このインタビューでの芙美子について、「晩年の姿」と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。
芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。
今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。
芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるような、すっきり立つ竹でした。
今年は1951年に林芙美子が亡くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。
<つづく>
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