2011/12/02
春庭@アート散歩>美術という見世物(1)浅草寺境内の油絵茶屋
11月14日の仕事帰り、浅草に寄り道したのは、浅草寺境内で行われていた「油絵茶屋再現」を見るためでした。月曜日だから、土日よりは混雑していないだろうと思って出かけたのに、鷲(おおとり)神社の二の酉があったので、境内、平日の夕方とは思えない人出。
おまけに途中で天気予報にはまったく出ていなかったにわか雨。浅草寺五重塔の先、西の方にはお日様が見える天気雨ですが、かなり強くふったので、境内の人々はそれぞれ本殿や門のひさしに寄り集まって雨宿り。境内には菊の展示会なども開催されていたのですが、なんとも予報外の雨で、菊の花見もままならず。
油絵茶屋再現は、10月15日から11月15日までの催しとしてGTA(芸大、台東、墨田観光アートプロジェクト実行委員会)が主宰し、芸大の小沢剛(油絵科非常勤講師)が中心となって行われました。
日本で初めて一般の人が油絵を目にした見世物「油絵茶屋」を、1875(明治7)年の新聞記事などの資料からできる限り当時のままに再現してみよう、という試みです。
油絵茶屋再現を紹介しているサイト
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/4b97252396444c9d5a45c073bac58060
浅草浅草寺参詣を済ませた人々が物見遊山に集まる「奥山」。文化文政から幕末、そして明治以後も、浅草界隈は東京でもっとも賑わう盛り場でした。手品、からくり人形からろくろっ首まで、さまざまな見世物小屋が呼び込み口上を張り上げ、人々は看板を見上げてどこが一番面白そうか、浅草遊山のみやげ話に一番よさそうなのはどれかと、楽しんでいました。
明治時代も娯楽の殿堂浅草は、文明開化を囃し立て、西洋サーカスから人間ポンプまで、さまざまな見世物が客を集めました。
幕末、明治の油絵について。
鎖国中の江戸にも、オランダなどから油絵が伝来して将軍に献上されたり、長崎に出て油絵を習う者もいたし、江戸後期になれば西洋風に遠近法などを用いて絵を描いた司馬江漢や平賀源内もいました。しかし、一般の人にとって、絵といえば浮世絵、大和絵などであり、油絵を親しく見ることができる層は限られていました。
五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)1827(文政10)~1892(明治25)は、10歳ころ、歌川国芳に入門し、20歳ごろには長崎で油絵を見ています。そののち、日本画に用いる絹地に西洋風の絵を描いて「横浜絵」として、横浜居留地の外国人への「日本土産」として売り出すようになりました。
1873(明治6)年には浅草に進出し、ジオラマや油絵を弟子とともに制作、明治天皇や皇后の肖像画を描くなど、上野に美術学校ができる以前の、明治最初期の画家として活躍しました。
入り口で配布されていたこの催しの解説のを引用コピーします。(by木下直之・東京大学文学部教授文化資源学)「油絵茶屋と浅草寺」第3~7段からコピー。
~~~~~~
横浜から 五姓田芳柳という画家が門人らを連れて浅草に移り住み、「西洋画工」を名乗り、二度にわたって奥山で油絵を見せました。門人の証言が残されており、その内容がわかります。明治7年のそれは役者絵が多く、翌年のそれは、当時「東京日日新聞」が出版し人気を博した新聞錦絵を油絵にしたもので、市井の事件を伝えるものでした。まだ日本のどこにも美術館というものがなかった時代です。いわば、庶民に向けた最初の美術館でした。
明治9年に、写真師として知られる下岡連杖(しもおかれんじょう)が、やはり奥山で開いた油絵の見世物については、その様子が次第に明らかになりつつあります。屋屋を会場にしたこと、コーヒーを出したことなどがわかり、新聞は「油絵茶屋」と名付けました。箱館戦争と台湾戦争の大作2点が評判になり、それらは奇跡的に靖国神社の遊就館に現存しています。「鮭図」(重要文化財 東京藝術大学蔵)で有名な高橋由一も、この見世物に参加しています。
しかし、明治10年代に入ると、上野寛永寺の焼け跡が公園として整備され、繰り返し博覧会が開かれ博物館が開館し、美術学校が開校することで、上野は美術のメッカになっていきます。それは、浅草から上野に、美術の中心が移ったことを意味しています。
現在、浅草寺五重塔内に大切に保管されている高橋源吉(由一の息子)のヤマサ醤油の絵馬奉納(明治27年)は、その最後の時代をしますものです。油絵を神仏に捧げるということが、その後の美術品の制作や展示と決定的に異なっています。近代の武術は神仏不在、人年中心、さらにいえば作者中心となるからです。
~~~~~~~~~
以上は、木下教授の「油絵茶屋再現」のための口上です。
<つづく>
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2011年12月03日
ぽかぽか春庭「油絵茶屋の時代」
2011/12/03
春庭@アート散歩>美術という見世物(2)油絵茶屋の時代
今年の夏休みの、ぐるっとパスでのアート散歩、初めて入った美術館がいくつかありました。前々から行きたいとは思っていたのだけれど、駅から遠い所にあったり、興味のある展覧会がなかったりして足が向かなかったところに、この夏はせっせと行って絵をたくさん見ました。
美術の先生でもないし、ましてや画家や美術評論家でもないのに、単に絵を見るのが好きというだけで、どうしてこんなにも美術館通いを続けたのだろうと思っていたとき、ちょうど必要があって『美術という見世物 油絵茶屋の時代』(講談社学術文庫)を読みました。
江戸と明治の美術界を、細工物、油絵、写真掛け軸、生人形(いけにんぎょう)、西洋目鏡、戦場パノラマなど、見世物小屋で観客に供された、かっては「これを美術と呼ぶなど、美術への冒涜」として扱われたものを通して、造形美術の再評価を行った画期的な美術評論です。
著者の木下直之(東大教授・文化資源学)は、1990年に兵庫県立近代美術館学芸員として「日本美術の19世紀」というユニークな展覧会を企画し、美術界に衝撃を与えた人です。その図録解説から発展したのが、筑摩書房から1999年に発行された『美術という見世物 油絵茶屋の時代』で、ちくま学芸文庫になり、さらに去年講談社学芸文庫になって、ようやく私はこの本を読むことになりました。ほんと、面白かった。
私は「昭和の子」ですから、「美術」というのは高級なアートであり、見世物小屋の見世物なんてのは、子どもが見ちゃいけないような低級なもの、という「まともな」美術教育を受けて育ってしまっており、昔かろうじて残っていたお祭りの見世物小屋だって、覗いたこともありませんでした。(ささやかな小遣いを有効利用するにあたって、見世物を見るより屋台の食べ物を買いたい子であった、という理由もありますが)。
ちゃんとした「美術」を美術館で見ることが「よい観覧」だと思っていたのです。中学3年生のとき、西洋美術館で「モロー展」を見た時から私の美術館巡りがはじまりました。
木下は、江戸と明治の見世物を「アートシーン」の中にとらえ、生人形や細工物を高く評価しました。「生人形(いけにんぎょう)」という造形物が幕末明治の世を席捲する評判を取っていたことすら、私はまったく知りませんでした。木下自身、生人形を「なまにんぎょう」と読むのか「いけにんぎょう」と読むのかも知らなかった、というところから出発し、各地から再発見されてきた生人形や細工物を収集展示し、再評価したのです。
明治初期の工芸品と同じく、これらのものは日本国内には保存されていないことが多く、近年になって西欧からの里帰りや、寺に寄進されたものの再発見などが続いたことが再評価につながりました。
私は、美術館巡りをしながら、「私の絵の見方は、結局は江戸時代の人が見世物小屋に集まって、珍しい動物や石の標本なんかをおもしろがるのと、あまり変わっていないなあ」と思うことがしばしばでした。恐竜の骨を見るのも、絵を見るのも、単に「非日常を楽しむおもしろがり」だと感じていたからです。そういう感じ方に対して、「専門の美術の先生から見たら、シロートのしょうもない観覧態度なのだろうなあ」とうしろめたさも感じていたのです。物見遊山、見世物小屋めぐりと同じような態度で、真の芸術たる美術館の絵、画家が精魂傾けて描いた絵をオモシロ半分で見ちゃいかんなあ、という気持ちもあったのです。
見世物小屋で「河童のミイラ」なんかを見るのと、科学的な発掘を経た「恐竜化石」を見るのは違わなければならないし、おどろおどろしいのが売り物の「お化けや妖怪の絵」や「地獄図」、売り物買い物のカタログである「吉原花魁図」「新吉原図鑑」なんぞを見るのと、「ちゃんとした美術」の美人肖像画を見る視線は、同じであってはいけないんじゃないか、という「きちんとした美術鑑賞教育」を受けて育った者の、指導要領風の「鑑賞の心構え」が根強く残っていたからです。
でも、そうじゃないことがよくわかりました。
<つづく>
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2011年12月04日
ぽかぽか春庭「見世物vs美術」
2011/12/04
春庭@アート散歩>美術という見世物(3)見世物vs美術
子どものころ「見世物小屋」に近づくこともできなかった私ですが、舞台芸術の面からは「見世物小屋」について興味を持つようになりました。
1977~79年頃、私が演劇学を学んでいたころの教授のひとりが、郡司正勝先生です。先生は、『見世物雑志』の編集を行っています。(1991年12月発行 三一書房 関山和夫との共同編集)
この本は、1818(文政元)年から1843(天保13)年までの24年間、名古屋の、主として大須の清寿院、若宮神社の境内で行われたさまざまな種類の興行物の詳細を、文章と絵で記録したものです。日本で最初に見世物を記録した大衆芸能に関する資料で、たいへん貴重な記録です。記録したのは、小寺玉晁(1800-1878)。名古屋藩の家臣であり、好事(こうず)家として、さまざまな分野の随筆を150冊も書き残しました。
演劇学を学んでいた頃、見世物小屋芝居小屋の芝居と西洋流の「演劇」の違いを鮮明にしたかったのが、明治の演劇改良運動であったことも教わりました。しかし、美術界での見世物小屋から美術館への移行については、ほとんど知りませんでした。
見世物小屋で供覧された、生人形、西洋油絵、細工物など、奇々怪々な造形表現のかずかずは、市井の人びとや外国人を驚かせ、惹きつけました。そのほとんどの作品は、明治初期に日本の異国情緒に惹かれた外国人が買って、自国へ持ち帰りました。国内には菩提寺に寄進されたものなど、わずかに残されただけで、ほとんどの作品が海外流出してしまいました。
しかし、近年西欧での発掘発見が続き、日本へ里帰りする作品が多くなりました。西洋文明模倣の近代化渦中で排除され忘れ去られ、「美術」という基準からはずれされた造形美術が、ようやく「幕末・明治の驚くべき想像力」として、木下らの手によって再評価がはじめられたのが1990年代。百年間の「眠れるお宝」状態でした。
松本喜三郎が1871(明治4)年から1875(明治8)年に浅草奥山で興業した「西国三十三所観音霊験記」は、4年も続く大人気の見世物となりました。この興行は、松本喜三郎が10年の歳月をかけて計画し150体以上の生き人形が出展されたということです。しかし、それらの人形も散逸し、興業を伝える報道記録も多くはありません。
以下の浮世絵は、歌川国芳が「浅草奥山の生人形」と題して幕末の生人形の興業を描いたものです。これは、松本喜三郎が、1855(安政2)年に興業した「異国人物」を浮世絵に描いたものです。
お腹に穴があいていたり、足が極端に長いなどの奇妙な「異国人」が描かれています。外国を見知らぬ幕末日本の庶民にとって、異国の人々の姿がどのようにイメージされていたかがよくわかるとともに、生人形の興業が大評判であったことがわかります。
http://www.minpaku.ac.jp/e-news/89otakara.html
http://camk.glide.co.jp/artist/kisaburomatsumoto/index.html
松本喜三郎の傑作のひとつ谷汲観音像は、お寺(熊本県浄国寺)に寄進されたため、保存状態もよく現在まで残され、熊本県の有形文化財に指定されています。
http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/65_ikini.htm
喜三郎は67歳で亡くなるまでに、数百体の人形を作っています。
しかし、明治政府は、官が主導した西洋美術の彫刻は保護したのに対して、見世物小屋の人形など顧みなかったために、保存が行き届かず、空襲で焼かれたり、海外に流出したりして、現在日本で見ることができるのは、多くはありません。
大阪歴史博物館で開催された特別展「生人形と松本喜三郎」
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2004/ikiningyo/tuika/html/ikiningyo_it-01.html
<つづく>
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2011年12月06日
ぽかぽか春庭「生き人形」
2011/12/06
春庭@アート散歩>美術という見世物(4)生き人形
スミソニアン博物館やライデン博物館などに所蔵されている生き人形に評価が高まったのちになって、日本の美術界も、ようやく「生人形」も日本の重要な美術品であったことに気づくようになりました。今まで私は、美術の教科書に生き人形が掲載されているのは見たことがありませんし、東京近辺の美術館博物館で生人形展が開催されたというニュースも聞いたことがありませんでした。(熊本と大阪では生人形展が開催されていますが)
(「生人形」は、江戸明治の時代には「いきにんぎょう」として知られていましたが、この名の呼び方すら忘れられた時代を経たため、「なまにんぎょう」と誤読される恐れもあり、「生人形」とカギ括弧つきで示す場合以外には、”生き人形”と送り仮名「き」を入れることによって読み方をはっきりさせようと思います。)
スミソニアン自然史博物館に所蔵されている『貴族男子像』は、松本喜三郎が2年かけて作りあげ、毛髪、陰毛、脇毛は人毛が使われているという「写実」を徹底した生き人形です。
スミソニアンには「各国の人種」を集める部署があり、『貴族男子像』は日本人の典型として収蔵されました。『貴族男子像』は、アメリカ合衆国農務局長を勤めたホーレス・ケプロン(Horace Capron 1804~1885)が、北海道開拓使顧問として日本に在住していた時代、1878(明治11)年、スミソニアン博物館人類学部門(Department of Anthropology, Sumithsonian Institution)のために、松本喜三郎に発注したもので、注文書から納品、領収書まできちんと保存されている作品です。
現在は裸体で展示されているのですが、本来は衣装をつけた姿で納品されました。
松本喜三郎「貴族男子像」や三代目安本亀八「人形頭部」の写真が掲載されているサイト。安本亀八の俳優の似顔による生き人形が浅草花やしきで興業されていることを知らせる浮世絵の興業チラシが一番上にあり、その下に生人形の写真があります。リアルです。
http://web.me.com/jimoto/ilife/Blog1005/Entries/2010/5/27_0527.html
練馬美術館の「松岡映丘展」を見たのは、日本画家松岡映丘への興味というより、映丘が「柳田国男の弟」にあたるという興味からでした。日本民俗学の泰斗柳田国男は、方言学(社会言語学)の分野でも『蝸牛考』「方言圏周論」の論者として重要です。(松岡五兄弟は、養子に出た泰蔵と圀男を含め、五人ともそうそうたる立身出世をとげた兄弟として有名です。長兄は、医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、農商務省高官にして民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学言語学者の松岡静雄、末子松岡輝男が日本画家映丘。
小川芳樹東大教授冶金学、貝塚茂樹京大教授東洋史学文化勲章受章、湯川秀樹京都大学教授ノーベル物理学賞文化勲章受賞、小川環樹京大教授中国文学、という小川四兄弟と並んで、すんごい兄弟!)
松岡映丘の作品では、新進スター初代水谷八重子をモデルにした、1926年の作品『千草の丘』が印象的でした。二代目を襲名した娘の現・水谷八重子が練馬美術館を訪れ、「実物の母より美しいです」と評したと報道されています。21歳の水谷八重子が秋の野に立つ、匂い立つような美人画で、映丘の日本画家としての力量がよくわかる絵でした。
若い八重子がもともと美人であることは確かですが、画家の目を通した「理想の美」が顕現していました。この絵は個人蔵で、普段は美術館などで見ることができないので、練馬美術館の映丘展で見ることができ、よかったです。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=75260
『千草の丘』の八重子像は、八重子の実際の面影がよくわかり「モデルに即しすぎている」という悪評もたったそうです。しかし、映丘が追求したのは、単なる「モデルの似顔絵」ではなく、「理想の美」を追求することにありました。美術界ではすでに「モデルそっくりに生きているように写す」ということが「美術の本道から外れた」ことになっていました。「生人形」は「芸術」の枠からはずされ、肖像画や人物彫刻像と「生人形」が同じ美術としての価値を持つとは思われなくなっていたのです。
練馬美術館の1階に、展覧会の参考出品として、松岡映丘をモデルにした「生人形」の写真が展示されていました。写真ですから実物の「生人形」を見るのとは印象が異なりますが、生き人形いうのがどのようなものであったのか、知ることができました。映丘本人に生き写しの等身大の人形。写実に徹し、生きているその人がそこにいるとしか思えないように作り出す生き人形の写真でした。
<つづく>
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2011年12月07日
ぽかぽか春庭「生人形師」
2011/12/07
春庭@アート散歩>美術という見世物(5)生人形師
国内にはごくわずかしか作品が残されなかった生人形。
現在知られている人形師は、江戸時代末から明治にかけて活躍した人たちです。
初代安本亀八(やすもとかめはち1826(文政9)年~1900(明治33)年)と、松本喜三郎(まつもときさぶろう1825(文政8)~ 1891(明治24)年)は、生人形師の双璧で、人気を競いました。
安本亀八は、1880(明治13)年に内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加して審査員をつとめるなど、「文化人」として著名な存在でした。しかし、上野に美術学校が開設され、官主導の美術界編成が進むと、生人形など「見世物小屋のアート」は排除され、世間から忘れ去られていきました。
2004年に「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展が熊本市現代美術館と大阪歴史博物館で巡回展示されたとき、私は「生人形」という言葉すら知らず、その第2弾、2006年の「生人形と江戸の欲望」展の開催も知りませんでした。
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou2/index.html
私は、造形作品としては近代美術館に展示されている「彫刻」よりも、工芸館に展示されている「人形」のほうが好きです。鹿児島寿蔵、堀柳女、四谷シモンから、村上隆のフィギュアまで、人形作品を楽しみつつ眺めてきました。近代美術館工芸館に展示されている四谷シモンの『解剖学の少年』は、松本喜三郎らの生き人形の精神を現代に引き継いでいる感じがします。医学用の人体を造型するのも、生き人形の重要な分野でした。
四谷シモン『解剖学の少年』
http://www.simon-yotsuya.net/oeuvre/galerie07.htm
「生人形」は「写実の極地」の人形です。
千葉のホキ美術館のように、写実絵画だけを集めた美術館も設立され、近年写実の復権が著しい。この夏練馬美術館で見た磯江毅(スペインでの名はグスタボ・イソエ)も、すぐれた写実の絵画でした。一時期、写実絵画はカメラで描写する写真にはかなわない、という見方がされていました。しかし、写真は写真としての描写があるし、写実絵画には絵としての表現方法があるのです。
生き人形には、「西洋美術流の彫刻」とは異なる表現方法をとった造形作品であり、これはこれでひとつの表現として価値あるものです。
<つづく>
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2011年12月09日
ぽかぽか春庭「高級芸術vs大衆娯楽」
2011/12/09
春庭@アート散歩>美術という見世物(6)高級芸術vs大衆娯楽
映画もまた、初期は爆走する機関車が客席側に向かってくる、というような映像をキャーキャー言いながら楽しむ「見世物」として出発しました。映画はたちまち進化して、芸術性を獲得するようになったけれど、見世物、娯楽としての要素を捨て去ったことはなかった。それは、映画が常に大衆の側にあったからだと思います。多数の大衆から見物料金を徴収することによって制作費回収を見込むという興業形態が、映画の娯楽性見世物性を保持する要因のひとつでした。
映画が常に娯楽としての要素を保持したのに対して、彫刻や絵画は、見世物・娯楽としての要素を極力減らし、「高級な芸術」になっていきました。たとえば、五姓田芳柳が「娯楽としての油絵」興業を2回の開催でやめてしまったのは、庶民の側にいることがはばかられる立場になったからではないか、と思います。五姓田は、1873(明治6)年、明治天皇と美子皇后の肖像画を描くよう依頼されました。また、1977(明治10)年には、「明治天皇傷病兵御慰問図」を描き、この絵は靖国神社の所蔵となっています。宮内省御用を退官してからは、もっぱら高位高官の肖像画を描き、もはや見世物とは無縁の人になりました。
美術は権威あるものとなり、見世物小屋などという「下賤の娯楽」とは相容れないものになっていったのです。彫刻は、偉人の姿を造型し、国や企業、お金持ち個人がそれを高値で買い上げる、という方向に進み、「高級な芸術」であるほど尊ばれました。
明治中期以後、美術界は内紛に次ぐ内紛で、己の立場を有利にするためには官の側を取り込むことが必要でした。政府は、各国博覧会への工芸品出展などを通じて、海外への国勢誇示には日本の工芸技術や絵画の紹介が有力な宣伝材料となることに気づき、美術発展に力を注ぐようになっていきました。文部省が入選を決める文展を開催し、文展についで帝展へと、官の展覧会が開かれるようになっていきます。
1984年から1893年まで9年にわたるパリ留学から帰朝するや、黒田清輝は1896年に東京美術学校の西洋画科を設立し、「油絵の権威」を確立したのです。子爵にして貴族院議員の黒田の権勢は、明治大正の美術界に大きな存在となっていきました。国家権力による芸術の統制も行われるようになり、美術は「庶民の娯楽」の要素を切り捨てました。
1907年、政府による初めての公募展、文部省第一回美術展覧会(文展)開催後、美術アカデミーが構築され、絵画は黒田清輝を中心とする「官」の側が権威をふるうものになっていきました。
油絵はもはや「見世物」ではなく、西洋文明の最先端としての芸術を高尚な気分で鑑賞するものとなりました。画家も、浮世絵師などの在野の絵描きとアカデミズムの中にいる画家は区別されました。たとえば、日本画家松岡映丘は、1908(明治41)年に東京美術学校助教授となり、1933(昭和8)年には、明治天皇の肖像画を描いています。「恐れ多くも主上のお姿を写す光栄」を持つ存在となった「高級な画家」は、在野の見世物興行に関わるような人形師や浮世絵師とは別種の存在として扱われなければならなかった。
現代の我々にもまだ「官」の側がエライという感覚は残っています。「お笑い芸人と大学教授」を比べたら、教授のほうがエラソーだと感じる人が多いのではないでしょうか。芸人ビートたけしが映画監督北野武として東京藝術大学教授に就任したとき、映画を撮る人としての「北野武」の中身は変わっていないのに、なんだか急に遠い人、エライ立場の人になったような感覚がありましたもの。
芸人たけしが、相変わらずかぶり物をつけてテレビの中でおちゃらけたことをすると何だかホッとしながら見てしまうのは、たけしからの「おいらはエライ人の立場なんか気にしちゃいないよ」というメッセージ発信に安心するからでしょう。たけしは、頭のいい人ですから、大学教授というエラソーな立場になってしまうことが、自身の映画の大衆性を損なうことを危惧し、巧妙にそれを避ける方法をとっているのです。
<つづく>
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2011年12月10日
ぽかぽか春庭「物見遊山的鑑賞法」
2011/12/10
春庭@アート散歩>美術という見世物(7)物見遊山的鑑賞法
木下直之の『美術という見世物 油絵茶屋の時代』を読んで、恐竜化石の復元骨格を見て「わぁ、デカイ」と驚くのも、現代美術館、最先端のアート造型(たとえば、ヤノベケンジ『ロッキング・マンモス』)を見て、なんだか笑いたくなるような気持ちになりながら、「スゲェ」と思うのも、私自身の感覚で見て楽しめばよいのだ、と納得されました。
豊田美術館に展示されたときの「ロッキングマンモス」
http://www.youtube.com/watch?v=T_M7WXtkHLg
シベリアの凍土から掘り起こされたマンモスの化石復元標本も、ヤノベケンジが廃車スクラップから作り上げた「ロッキングマンモス」も、動物園の象さんも、わたしにとって「わぁ、デケェ、すごい!」でよいのだと、自己流に解釈。これまでの「私の単純な見方は、アートの見方がわかっていない者の鑑賞法なのだろうなあ」と思っていたのですが、これでイイのだ、と納得することができたのでした。
また、見世物小屋にはそれなりの存在価値があり、「子どもがそんなもの、見るんじゃありません」と顰蹙を買うものだとしても、それが大勢の人の興味を集めたのなら、供覧する価値のあるものであったのだと思います。
見世物小屋で展覧された生人形や油絵の中にもすぐれた表現があったことを改めて認識しました。見世物小屋であっても、美術館であっても、展覧の方法はさまざまで、表現の方法もさまざまですが、それぞれの存在意義があるのです。
江戸後期から明治時代にかけて、人々は浅草奥山などの盛り場や村祭りに出かけていきました。さまざまな見世物小屋で珍奇な動物や植物標本を見たり、油絵を見世物の一つとして見たり、生人形の相撲取りや役者を見て、「わあ、生きているみたいだ」とびっくりしました。
はじめて象を見たあと、世の中の生き物への見方に以前とは異なる感覚が付け加わった人もいただろうし、のぞきカラクリ眼鏡で外国の風物を見て、世界の広さや文化の違いに驚いた人もいたでしょう。
美術館博物館で「高級なアート」として「精神の向上」に寄与するような見方もある。それはそれでいい。物見遊山のひとつとして、絵や工芸品を見て楽しむのも、自由な感覚で見て良い。工芸館の茶碗や着物の展示を見ながら、ひとつひとつに「これ、デパートの美術品売り場に出したらいくらかな」と、値札をつけながら見て歩いていた人がいたけれど、それもひとつの見方です。○○展入選とか○○展無審査というような「肩書き」によって絵の価値を決めるのもそういう見方が必要だからでしょう。
見たいものを見たいように見ればいい。
「生人形」などの「見世物小屋のアート」は日本の美術界から一掃され、大部分の生人形は散逸焼失して、国内にはほとんど残されていないということになりましたが、百年を経て、江戸や明治初期には「見世物」として人々に供覧されていた生人形などが、ようやく復権を果たしました。油絵を、見世物小屋で「見世物」として供覧する、ということの復元も、浅草寺境内油絵茶屋復元によって体験することができました。油絵見世物はとってもキッチュで偽物っぽくて、たぶん、それが狙いなのかも知れません。
機会があれば、生人形もジオラマも、覗きからくり写真も、楽しんで見ていきたいと思います。
私が美術館博物館へ行って、絵画や工芸品を見たり、動物標本を見るのも、そのときどきの感じ方でいいのだと思う。私の「物見遊山的美術鑑賞」も、「これでいいのだ」と納得した上で、これからもあちこちの美術館博物館で、私なりに絵も彫刻も人形も楽しんで見ていきたいと思います。
<おわり
春庭@アート散歩>美術という見世物(1)浅草寺境内の油絵茶屋
11月14日の仕事帰り、浅草に寄り道したのは、浅草寺境内で行われていた「油絵茶屋再現」を見るためでした。月曜日だから、土日よりは混雑していないだろうと思って出かけたのに、鷲(おおとり)神社の二の酉があったので、境内、平日の夕方とは思えない人出。
おまけに途中で天気予報にはまったく出ていなかったにわか雨。浅草寺五重塔の先、西の方にはお日様が見える天気雨ですが、かなり強くふったので、境内の人々はそれぞれ本殿や門のひさしに寄り集まって雨宿り。境内には菊の展示会なども開催されていたのですが、なんとも予報外の雨で、菊の花見もままならず。
油絵茶屋再現は、10月15日から11月15日までの催しとしてGTA(芸大、台東、墨田観光アートプロジェクト実行委員会)が主宰し、芸大の小沢剛(油絵科非常勤講師)が中心となって行われました。
日本で初めて一般の人が油絵を目にした見世物「油絵茶屋」を、1875(明治7)年の新聞記事などの資料からできる限り当時のままに再現してみよう、という試みです。
油絵茶屋再現を紹介しているサイト
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/4b97252396444c9d5a45c073bac58060
浅草浅草寺参詣を済ませた人々が物見遊山に集まる「奥山」。文化文政から幕末、そして明治以後も、浅草界隈は東京でもっとも賑わう盛り場でした。手品、からくり人形からろくろっ首まで、さまざまな見世物小屋が呼び込み口上を張り上げ、人々は看板を見上げてどこが一番面白そうか、浅草遊山のみやげ話に一番よさそうなのはどれかと、楽しんでいました。
明治時代も娯楽の殿堂浅草は、文明開化を囃し立て、西洋サーカスから人間ポンプまで、さまざまな見世物が客を集めました。
幕末、明治の油絵について。
鎖国中の江戸にも、オランダなどから油絵が伝来して将軍に献上されたり、長崎に出て油絵を習う者もいたし、江戸後期になれば西洋風に遠近法などを用いて絵を描いた司馬江漢や平賀源内もいました。しかし、一般の人にとって、絵といえば浮世絵、大和絵などであり、油絵を親しく見ることができる層は限られていました。
五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)1827(文政10)~1892(明治25)は、10歳ころ、歌川国芳に入門し、20歳ごろには長崎で油絵を見ています。そののち、日本画に用いる絹地に西洋風の絵を描いて「横浜絵」として、横浜居留地の外国人への「日本土産」として売り出すようになりました。
1873(明治6)年には浅草に進出し、ジオラマや油絵を弟子とともに制作、明治天皇や皇后の肖像画を描くなど、上野に美術学校ができる以前の、明治最初期の画家として活躍しました。
入り口で配布されていたこの催しの解説のを引用コピーします。(by木下直之・東京大学文学部教授文化資源学)「油絵茶屋と浅草寺」第3~7段からコピー。
~~~~~~
横浜から 五姓田芳柳という画家が門人らを連れて浅草に移り住み、「西洋画工」を名乗り、二度にわたって奥山で油絵を見せました。門人の証言が残されており、その内容がわかります。明治7年のそれは役者絵が多く、翌年のそれは、当時「東京日日新聞」が出版し人気を博した新聞錦絵を油絵にしたもので、市井の事件を伝えるものでした。まだ日本のどこにも美術館というものがなかった時代です。いわば、庶民に向けた最初の美術館でした。
明治9年に、写真師として知られる下岡連杖(しもおかれんじょう)が、やはり奥山で開いた油絵の見世物については、その様子が次第に明らかになりつつあります。屋屋を会場にしたこと、コーヒーを出したことなどがわかり、新聞は「油絵茶屋」と名付けました。箱館戦争と台湾戦争の大作2点が評判になり、それらは奇跡的に靖国神社の遊就館に現存しています。「鮭図」(重要文化財 東京藝術大学蔵)で有名な高橋由一も、この見世物に参加しています。
しかし、明治10年代に入ると、上野寛永寺の焼け跡が公園として整備され、繰り返し博覧会が開かれ博物館が開館し、美術学校が開校することで、上野は美術のメッカになっていきます。それは、浅草から上野に、美術の中心が移ったことを意味しています。
現在、浅草寺五重塔内に大切に保管されている高橋源吉(由一の息子)のヤマサ醤油の絵馬奉納(明治27年)は、その最後の時代をしますものです。油絵を神仏に捧げるということが、その後の美術品の制作や展示と決定的に異なっています。近代の武術は神仏不在、人年中心、さらにいえば作者中心となるからです。
~~~~~~~~~
以上は、木下教授の「油絵茶屋再現」のための口上です。
<つづく>
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2011年12月03日
ぽかぽか春庭「油絵茶屋の時代」
2011/12/03
春庭@アート散歩>美術という見世物(2)油絵茶屋の時代
今年の夏休みの、ぐるっとパスでのアート散歩、初めて入った美術館がいくつかありました。前々から行きたいとは思っていたのだけれど、駅から遠い所にあったり、興味のある展覧会がなかったりして足が向かなかったところに、この夏はせっせと行って絵をたくさん見ました。
美術の先生でもないし、ましてや画家や美術評論家でもないのに、単に絵を見るのが好きというだけで、どうしてこんなにも美術館通いを続けたのだろうと思っていたとき、ちょうど必要があって『美術という見世物 油絵茶屋の時代』(講談社学術文庫)を読みました。
江戸と明治の美術界を、細工物、油絵、写真掛け軸、生人形(いけにんぎょう)、西洋目鏡、戦場パノラマなど、見世物小屋で観客に供された、かっては「これを美術と呼ぶなど、美術への冒涜」として扱われたものを通して、造形美術の再評価を行った画期的な美術評論です。
著者の木下直之(東大教授・文化資源学)は、1990年に兵庫県立近代美術館学芸員として「日本美術の19世紀」というユニークな展覧会を企画し、美術界に衝撃を与えた人です。その図録解説から発展したのが、筑摩書房から1999年に発行された『美術という見世物 油絵茶屋の時代』で、ちくま学芸文庫になり、さらに去年講談社学芸文庫になって、ようやく私はこの本を読むことになりました。ほんと、面白かった。
私は「昭和の子」ですから、「美術」というのは高級なアートであり、見世物小屋の見世物なんてのは、子どもが見ちゃいけないような低級なもの、という「まともな」美術教育を受けて育ってしまっており、昔かろうじて残っていたお祭りの見世物小屋だって、覗いたこともありませんでした。(ささやかな小遣いを有効利用するにあたって、見世物を見るより屋台の食べ物を買いたい子であった、という理由もありますが)。
ちゃんとした「美術」を美術館で見ることが「よい観覧」だと思っていたのです。中学3年生のとき、西洋美術館で「モロー展」を見た時から私の美術館巡りがはじまりました。
木下は、江戸と明治の見世物を「アートシーン」の中にとらえ、生人形や細工物を高く評価しました。「生人形(いけにんぎょう)」という造形物が幕末明治の世を席捲する評判を取っていたことすら、私はまったく知りませんでした。木下自身、生人形を「なまにんぎょう」と読むのか「いけにんぎょう」と読むのかも知らなかった、というところから出発し、各地から再発見されてきた生人形や細工物を収集展示し、再評価したのです。
明治初期の工芸品と同じく、これらのものは日本国内には保存されていないことが多く、近年になって西欧からの里帰りや、寺に寄進されたものの再発見などが続いたことが再評価につながりました。
私は、美術館巡りをしながら、「私の絵の見方は、結局は江戸時代の人が見世物小屋に集まって、珍しい動物や石の標本なんかをおもしろがるのと、あまり変わっていないなあ」と思うことがしばしばでした。恐竜の骨を見るのも、絵を見るのも、単に「非日常を楽しむおもしろがり」だと感じていたからです。そういう感じ方に対して、「専門の美術の先生から見たら、シロートのしょうもない観覧態度なのだろうなあ」とうしろめたさも感じていたのです。物見遊山、見世物小屋めぐりと同じような態度で、真の芸術たる美術館の絵、画家が精魂傾けて描いた絵をオモシロ半分で見ちゃいかんなあ、という気持ちもあったのです。
見世物小屋で「河童のミイラ」なんかを見るのと、科学的な発掘を経た「恐竜化石」を見るのは違わなければならないし、おどろおどろしいのが売り物の「お化けや妖怪の絵」や「地獄図」、売り物買い物のカタログである「吉原花魁図」「新吉原図鑑」なんぞを見るのと、「ちゃんとした美術」の美人肖像画を見る視線は、同じであってはいけないんじゃないか、という「きちんとした美術鑑賞教育」を受けて育った者の、指導要領風の「鑑賞の心構え」が根強く残っていたからです。
でも、そうじゃないことがよくわかりました。
<つづく>
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2011年12月04日
ぽかぽか春庭「見世物vs美術」
2011/12/04
春庭@アート散歩>美術という見世物(3)見世物vs美術
子どものころ「見世物小屋」に近づくこともできなかった私ですが、舞台芸術の面からは「見世物小屋」について興味を持つようになりました。
1977~79年頃、私が演劇学を学んでいたころの教授のひとりが、郡司正勝先生です。先生は、『見世物雑志』の編集を行っています。(1991年12月発行 三一書房 関山和夫との共同編集)
この本は、1818(文政元)年から1843(天保13)年までの24年間、名古屋の、主として大須の清寿院、若宮神社の境内で行われたさまざまな種類の興行物の詳細を、文章と絵で記録したものです。日本で最初に見世物を記録した大衆芸能に関する資料で、たいへん貴重な記録です。記録したのは、小寺玉晁(1800-1878)。名古屋藩の家臣であり、好事(こうず)家として、さまざまな分野の随筆を150冊も書き残しました。
演劇学を学んでいた頃、見世物小屋芝居小屋の芝居と西洋流の「演劇」の違いを鮮明にしたかったのが、明治の演劇改良運動であったことも教わりました。しかし、美術界での見世物小屋から美術館への移行については、ほとんど知りませんでした。
見世物小屋で供覧された、生人形、西洋油絵、細工物など、奇々怪々な造形表現のかずかずは、市井の人びとや外国人を驚かせ、惹きつけました。そのほとんどの作品は、明治初期に日本の異国情緒に惹かれた外国人が買って、自国へ持ち帰りました。国内には菩提寺に寄進されたものなど、わずかに残されただけで、ほとんどの作品が海外流出してしまいました。
しかし、近年西欧での発掘発見が続き、日本へ里帰りする作品が多くなりました。西洋文明模倣の近代化渦中で排除され忘れ去られ、「美術」という基準からはずれされた造形美術が、ようやく「幕末・明治の驚くべき想像力」として、木下らの手によって再評価がはじめられたのが1990年代。百年間の「眠れるお宝」状態でした。
松本喜三郎が1871(明治4)年から1875(明治8)年に浅草奥山で興業した「西国三十三所観音霊験記」は、4年も続く大人気の見世物となりました。この興行は、松本喜三郎が10年の歳月をかけて計画し150体以上の生き人形が出展されたということです。しかし、それらの人形も散逸し、興業を伝える報道記録も多くはありません。
以下の浮世絵は、歌川国芳が「浅草奥山の生人形」と題して幕末の生人形の興業を描いたものです。これは、松本喜三郎が、1855(安政2)年に興業した「異国人物」を浮世絵に描いたものです。
お腹に穴があいていたり、足が極端に長いなどの奇妙な「異国人」が描かれています。外国を見知らぬ幕末日本の庶民にとって、異国の人々の姿がどのようにイメージされていたかがよくわかるとともに、生人形の興業が大評判であったことがわかります。
http://www.minpaku.ac.jp/e-news/89otakara.html
http://camk.glide.co.jp/artist/kisaburomatsumoto/index.html
松本喜三郎の傑作のひとつ谷汲観音像は、お寺(熊本県浄国寺)に寄進されたため、保存状態もよく現在まで残され、熊本県の有形文化財に指定されています。
http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/65_ikini.htm
喜三郎は67歳で亡くなるまでに、数百体の人形を作っています。
しかし、明治政府は、官が主導した西洋美術の彫刻は保護したのに対して、見世物小屋の人形など顧みなかったために、保存が行き届かず、空襲で焼かれたり、海外に流出したりして、現在日本で見ることができるのは、多くはありません。
大阪歴史博物館で開催された特別展「生人形と松本喜三郎」
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2004/ikiningyo/tuika/html/ikiningyo_it-01.html
<つづく>
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2011年12月06日
ぽかぽか春庭「生き人形」
2011/12/06
春庭@アート散歩>美術という見世物(4)生き人形
スミソニアン博物館やライデン博物館などに所蔵されている生き人形に評価が高まったのちになって、日本の美術界も、ようやく「生人形」も日本の重要な美術品であったことに気づくようになりました。今まで私は、美術の教科書に生き人形が掲載されているのは見たことがありませんし、東京近辺の美術館博物館で生人形展が開催されたというニュースも聞いたことがありませんでした。(熊本と大阪では生人形展が開催されていますが)
(「生人形」は、江戸明治の時代には「いきにんぎょう」として知られていましたが、この名の呼び方すら忘れられた時代を経たため、「なまにんぎょう」と誤読される恐れもあり、「生人形」とカギ括弧つきで示す場合以外には、”生き人形”と送り仮名「き」を入れることによって読み方をはっきりさせようと思います。)
スミソニアン自然史博物館に所蔵されている『貴族男子像』は、松本喜三郎が2年かけて作りあげ、毛髪、陰毛、脇毛は人毛が使われているという「写実」を徹底した生き人形です。
スミソニアンには「各国の人種」を集める部署があり、『貴族男子像』は日本人の典型として収蔵されました。『貴族男子像』は、アメリカ合衆国農務局長を勤めたホーレス・ケプロン(Horace Capron 1804~1885)が、北海道開拓使顧問として日本に在住していた時代、1878(明治11)年、スミソニアン博物館人類学部門(Department of Anthropology, Sumithsonian Institution)のために、松本喜三郎に発注したもので、注文書から納品、領収書まできちんと保存されている作品です。
現在は裸体で展示されているのですが、本来は衣装をつけた姿で納品されました。
松本喜三郎「貴族男子像」や三代目安本亀八「人形頭部」の写真が掲載されているサイト。安本亀八の俳優の似顔による生き人形が浅草花やしきで興業されていることを知らせる浮世絵の興業チラシが一番上にあり、その下に生人形の写真があります。リアルです。
http://web.me.com/jimoto/ilife/Blog1005/Entries/2010/5/27_0527.html
練馬美術館の「松岡映丘展」を見たのは、日本画家松岡映丘への興味というより、映丘が「柳田国男の弟」にあたるという興味からでした。日本民俗学の泰斗柳田国男は、方言学(社会言語学)の分野でも『蝸牛考』「方言圏周論」の論者として重要です。(松岡五兄弟は、養子に出た泰蔵と圀男を含め、五人ともそうそうたる立身出世をとげた兄弟として有名です。長兄は、医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、農商務省高官にして民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学言語学者の松岡静雄、末子松岡輝男が日本画家映丘。
小川芳樹東大教授冶金学、貝塚茂樹京大教授東洋史学文化勲章受章、湯川秀樹京都大学教授ノーベル物理学賞文化勲章受賞、小川環樹京大教授中国文学、という小川四兄弟と並んで、すんごい兄弟!)
松岡映丘の作品では、新進スター初代水谷八重子をモデルにした、1926年の作品『千草の丘』が印象的でした。二代目を襲名した娘の現・水谷八重子が練馬美術館を訪れ、「実物の母より美しいです」と評したと報道されています。21歳の水谷八重子が秋の野に立つ、匂い立つような美人画で、映丘の日本画家としての力量がよくわかる絵でした。
若い八重子がもともと美人であることは確かですが、画家の目を通した「理想の美」が顕現していました。この絵は個人蔵で、普段は美術館などで見ることができないので、練馬美術館の映丘展で見ることができ、よかったです。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=75260
『千草の丘』の八重子像は、八重子の実際の面影がよくわかり「モデルに即しすぎている」という悪評もたったそうです。しかし、映丘が追求したのは、単なる「モデルの似顔絵」ではなく、「理想の美」を追求することにありました。美術界ではすでに「モデルそっくりに生きているように写す」ということが「美術の本道から外れた」ことになっていました。「生人形」は「芸術」の枠からはずされ、肖像画や人物彫刻像と「生人形」が同じ美術としての価値を持つとは思われなくなっていたのです。
練馬美術館の1階に、展覧会の参考出品として、松岡映丘をモデルにした「生人形」の写真が展示されていました。写真ですから実物の「生人形」を見るのとは印象が異なりますが、生き人形いうのがどのようなものであったのか、知ることができました。映丘本人に生き写しの等身大の人形。写実に徹し、生きているその人がそこにいるとしか思えないように作り出す生き人形の写真でした。
<つづく>
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2011年12月07日
ぽかぽか春庭「生人形師」
2011/12/07
春庭@アート散歩>美術という見世物(5)生人形師
国内にはごくわずかしか作品が残されなかった生人形。
現在知られている人形師は、江戸時代末から明治にかけて活躍した人たちです。
初代安本亀八(やすもとかめはち1826(文政9)年~1900(明治33)年)と、松本喜三郎(まつもときさぶろう1825(文政8)~ 1891(明治24)年)は、生人形師の双璧で、人気を競いました。
安本亀八は、1880(明治13)年に内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加して審査員をつとめるなど、「文化人」として著名な存在でした。しかし、上野に美術学校が開設され、官主導の美術界編成が進むと、生人形など「見世物小屋のアート」は排除され、世間から忘れ去られていきました。
2004年に「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展が熊本市現代美術館と大阪歴史博物館で巡回展示されたとき、私は「生人形」という言葉すら知らず、その第2弾、2006年の「生人形と江戸の欲望」展の開催も知りませんでした。
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou2/index.html
私は、造形作品としては近代美術館に展示されている「彫刻」よりも、工芸館に展示されている「人形」のほうが好きです。鹿児島寿蔵、堀柳女、四谷シモンから、村上隆のフィギュアまで、人形作品を楽しみつつ眺めてきました。近代美術館工芸館に展示されている四谷シモンの『解剖学の少年』は、松本喜三郎らの生き人形の精神を現代に引き継いでいる感じがします。医学用の人体を造型するのも、生き人形の重要な分野でした。
四谷シモン『解剖学の少年』
http://www.simon-yotsuya.net/oeuvre/galerie07.htm
「生人形」は「写実の極地」の人形です。
千葉のホキ美術館のように、写実絵画だけを集めた美術館も設立され、近年写実の復権が著しい。この夏練馬美術館で見た磯江毅(スペインでの名はグスタボ・イソエ)も、すぐれた写実の絵画でした。一時期、写実絵画はカメラで描写する写真にはかなわない、という見方がされていました。しかし、写真は写真としての描写があるし、写実絵画には絵としての表現方法があるのです。
生き人形には、「西洋美術流の彫刻」とは異なる表現方法をとった造形作品であり、これはこれでひとつの表現として価値あるものです。
<つづく>
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2011年12月09日
ぽかぽか春庭「高級芸術vs大衆娯楽」
2011/12/09
春庭@アート散歩>美術という見世物(6)高級芸術vs大衆娯楽
映画もまた、初期は爆走する機関車が客席側に向かってくる、というような映像をキャーキャー言いながら楽しむ「見世物」として出発しました。映画はたちまち進化して、芸術性を獲得するようになったけれど、見世物、娯楽としての要素を捨て去ったことはなかった。それは、映画が常に大衆の側にあったからだと思います。多数の大衆から見物料金を徴収することによって制作費回収を見込むという興業形態が、映画の娯楽性見世物性を保持する要因のひとつでした。
映画が常に娯楽としての要素を保持したのに対して、彫刻や絵画は、見世物・娯楽としての要素を極力減らし、「高級な芸術」になっていきました。たとえば、五姓田芳柳が「娯楽としての油絵」興業を2回の開催でやめてしまったのは、庶民の側にいることがはばかられる立場になったからではないか、と思います。五姓田は、1873(明治6)年、明治天皇と美子皇后の肖像画を描くよう依頼されました。また、1977(明治10)年には、「明治天皇傷病兵御慰問図」を描き、この絵は靖国神社の所蔵となっています。宮内省御用を退官してからは、もっぱら高位高官の肖像画を描き、もはや見世物とは無縁の人になりました。
美術は権威あるものとなり、見世物小屋などという「下賤の娯楽」とは相容れないものになっていったのです。彫刻は、偉人の姿を造型し、国や企業、お金持ち個人がそれを高値で買い上げる、という方向に進み、「高級な芸術」であるほど尊ばれました。
明治中期以後、美術界は内紛に次ぐ内紛で、己の立場を有利にするためには官の側を取り込むことが必要でした。政府は、各国博覧会への工芸品出展などを通じて、海外への国勢誇示には日本の工芸技術や絵画の紹介が有力な宣伝材料となることに気づき、美術発展に力を注ぐようになっていきました。文部省が入選を決める文展を開催し、文展についで帝展へと、官の展覧会が開かれるようになっていきます。
1984年から1893年まで9年にわたるパリ留学から帰朝するや、黒田清輝は1896年に東京美術学校の西洋画科を設立し、「油絵の権威」を確立したのです。子爵にして貴族院議員の黒田の権勢は、明治大正の美術界に大きな存在となっていきました。国家権力による芸術の統制も行われるようになり、美術は「庶民の娯楽」の要素を切り捨てました。
1907年、政府による初めての公募展、文部省第一回美術展覧会(文展)開催後、美術アカデミーが構築され、絵画は黒田清輝を中心とする「官」の側が権威をふるうものになっていきました。
油絵はもはや「見世物」ではなく、西洋文明の最先端としての芸術を高尚な気分で鑑賞するものとなりました。画家も、浮世絵師などの在野の絵描きとアカデミズムの中にいる画家は区別されました。たとえば、日本画家松岡映丘は、1908(明治41)年に東京美術学校助教授となり、1933(昭和8)年には、明治天皇の肖像画を描いています。「恐れ多くも主上のお姿を写す光栄」を持つ存在となった「高級な画家」は、在野の見世物興行に関わるような人形師や浮世絵師とは別種の存在として扱われなければならなかった。
現代の我々にもまだ「官」の側がエライという感覚は残っています。「お笑い芸人と大学教授」を比べたら、教授のほうがエラソーだと感じる人が多いのではないでしょうか。芸人ビートたけしが映画監督北野武として東京藝術大学教授に就任したとき、映画を撮る人としての「北野武」の中身は変わっていないのに、なんだか急に遠い人、エライ立場の人になったような感覚がありましたもの。
芸人たけしが、相変わらずかぶり物をつけてテレビの中でおちゃらけたことをすると何だかホッとしながら見てしまうのは、たけしからの「おいらはエライ人の立場なんか気にしちゃいないよ」というメッセージ発信に安心するからでしょう。たけしは、頭のいい人ですから、大学教授というエラソーな立場になってしまうことが、自身の映画の大衆性を損なうことを危惧し、巧妙にそれを避ける方法をとっているのです。
<つづく>
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2011年12月10日
ぽかぽか春庭「物見遊山的鑑賞法」
2011/12/10
春庭@アート散歩>美術という見世物(7)物見遊山的鑑賞法
木下直之の『美術という見世物 油絵茶屋の時代』を読んで、恐竜化石の復元骨格を見て「わぁ、デカイ」と驚くのも、現代美術館、最先端のアート造型(たとえば、ヤノベケンジ『ロッキング・マンモス』)を見て、なんだか笑いたくなるような気持ちになりながら、「スゲェ」と思うのも、私自身の感覚で見て楽しめばよいのだ、と納得されました。
豊田美術館に展示されたときの「ロッキングマンモス」
http://www.youtube.com/watch?v=T_M7WXtkHLg
シベリアの凍土から掘り起こされたマンモスの化石復元標本も、ヤノベケンジが廃車スクラップから作り上げた「ロッキングマンモス」も、動物園の象さんも、わたしにとって「わぁ、デケェ、すごい!」でよいのだと、自己流に解釈。これまでの「私の単純な見方は、アートの見方がわかっていない者の鑑賞法なのだろうなあ」と思っていたのですが、これでイイのだ、と納得することができたのでした。
また、見世物小屋にはそれなりの存在価値があり、「子どもがそんなもの、見るんじゃありません」と顰蹙を買うものだとしても、それが大勢の人の興味を集めたのなら、供覧する価値のあるものであったのだと思います。
見世物小屋で展覧された生人形や油絵の中にもすぐれた表現があったことを改めて認識しました。見世物小屋であっても、美術館であっても、展覧の方法はさまざまで、表現の方法もさまざまですが、それぞれの存在意義があるのです。
江戸後期から明治時代にかけて、人々は浅草奥山などの盛り場や村祭りに出かけていきました。さまざまな見世物小屋で珍奇な動物や植物標本を見たり、油絵を見世物の一つとして見たり、生人形の相撲取りや役者を見て、「わあ、生きているみたいだ」とびっくりしました。
はじめて象を見たあと、世の中の生き物への見方に以前とは異なる感覚が付け加わった人もいただろうし、のぞきカラクリ眼鏡で外国の風物を見て、世界の広さや文化の違いに驚いた人もいたでしょう。
美術館博物館で「高級なアート」として「精神の向上」に寄与するような見方もある。それはそれでいい。物見遊山のひとつとして、絵や工芸品を見て楽しむのも、自由な感覚で見て良い。工芸館の茶碗や着物の展示を見ながら、ひとつひとつに「これ、デパートの美術品売り場に出したらいくらかな」と、値札をつけながら見て歩いていた人がいたけれど、それもひとつの見方です。○○展入選とか○○展無審査というような「肩書き」によって絵の価値を決めるのもそういう見方が必要だからでしょう。
見たいものを見たいように見ればいい。
「生人形」などの「見世物小屋のアート」は日本の美術界から一掃され、大部分の生人形は散逸焼失して、国内にはほとんど残されていないということになりましたが、百年を経て、江戸や明治初期には「見世物」として人々に供覧されていた生人形などが、ようやく復権を果たしました。油絵を、見世物小屋で「見世物」として供覧する、ということの復元も、浅草寺境内油絵茶屋復元によって体験することができました。油絵見世物はとってもキッチュで偽物っぽくて、たぶん、それが狙いなのかも知れません。
機会があれば、生人形もジオラマも、覗きからくり写真も、楽しんで見ていきたいと思います。
私が美術館博物館へ行って、絵画や工芸品を見たり、動物標本を見るのも、そのときどきの感じ方でいいのだと思う。私の「物見遊山的美術鑑賞」も、「これでいいのだ」と納得した上で、これからもあちこちの美術館博物館で、私なりに絵も彫刻も人形も楽しんで見ていきたいと思います。
<おわり