2011/11/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
佐伯祐三(さえきゆうぞう1898~1928)の絵、好きです。竹橋の近代美術館にも佐伯が何点か所蔵されていて、見ることができます。上野芸大の所蔵作品展で、卒業制作に必ず一点は残す自画像も見ました。
しかし、まとまった展覧会を見にいったことがない。私の美術展鑑賞は、基本的に「新聞販売店などからの招待券をもらった展覧会に行く」というものですから、「誰それの展覧会なら絶対に行く」というのではないのです。
2008年に開催された「没後80年佐伯祐三展」は、招待券もらったとしても、会期中は、ちょうど足を痛めていて出歩くのに不自由していたころだったから行けなかったでしょうけど。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/08/0510_saeki/index.html
去年2010年3月27日~5月9日に新宿歴史博物館で開催された「佐伯祐三・下落合の風景」展に行けなかったのは、単純に展覧会開催に気づかなかったから。新聞の「美術館博物館スケジュール」を毎週チェックしているのに、歴史博物館というあまりスケジュールなどが報道されない場所での開催だったために、気づいたときには会期が終わっていたのです。この展覧会では、佐伯米子夫人が亡くなったあと、遺族から新宿区に寄贈された佐伯祐三アトリエの一般公開に伴って、アトリエの近辺下落合を描いた作品を中心に展示されました。
佐伯祐三は大阪でお寺の子として生まれました。東京美術学校(現:東京芸大)で藤島武二に師事。在学中に同じ画家志望の池田米子と結婚。卒業後はフランスに在住し、ブラマンク、ユトリロらの影響のもと、30年で終わった短い生涯にパリの街角をモチーフにした作品を残しました。
佐伯の作品というとパリの町が思い浮かびます。第1回のパリ渡航は1924(大正13)年~1926(大正15)年の2年間。しかし、祐三の健康状態がよくないので、家族の説得に応じて帰国。日本に建てた新宿下落合のアトリエで、下落合近辺の風景画を残しました。しかし、パリへの思いが断ちがたく、健康不安を押し切って、2度目のフランス渡航。1927~28年1年間をすごしますが、病が悪化し、フランスで客死。
祐三夫人米子は、画家としては祐三より早くに公募展入選をはたしており、パリでも祐三とともにサロン・ドートンヌ入選しています。祐三死後も下落合のアトリエに住み続け、絵を描き続きました。夫人の死後、アトリエは新宿区に寄贈され、2010年4月、祐三の誕生日4月28日に合わせて開館されました。庭は小さな「佐伯公園」になっています。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=1667
祐三自身がこのアトリエ(豊多摩郡落合村下落合661番地、現・中落合2丁目4 番)で絵を描いたのは、結婚後、2度のパリ行きの前後4年ほどにすぎませんが、米子夫人は1972(昭和47)年に亡くなるまで、画家としてアトリエを使用しました。
祐三の絵の大半は、相続した大阪の祐三の実家から画商に売られ、現在多くの作品が大阪市立近代美術館設立準備室の所蔵になっています。しかし、近代美術館設立予算が凍結され、開館そして佐伯の作品公開はいつになるやら。
下落合近辺の風景画のうち、一枚は近所の小学校校長室に残っています。しかし、ほかに新宿に残されている絵はほとんどありません。
前府知事は、図書館とか美術館とかが嫌いだったらしく、それらの予算を減らしました。(大阪を改革するためだとか。選挙戦真っ最中)そのため、大阪の近代美術館完成がいつになるのか、わからず、佐伯祐三の絵の公開もいつになるのやら。
絵はがきやクリアファイルになった下落合風景がアトリエ記念館でも販売されていました。
アトリエの場所は、一般の住宅街の中、路地の奥にあり、私は林芙美子の家から歩いて行ったのですが、まっすぐな道でさえ迷ってしまう方向音痴のため、大いに迷いながらやっと到着しました。
下落合の風景は、佐伯が絵を描いたころとはまったく様変わりしています。
アトリエは三角屋根のしゃれた木造で、米子夫人がこのアトリエで描き続けた作品も展示されていました。夫人の実家は、銀座に店を構える象牙商だったそうです。
祐三との間に生まれた長女の彌智子は、祐三30歳での死去の半月後に亡くなってしまっています。ふたつの遺骨を抱えての帰国となったあとは、ひとり住まいだったと思うのですが、絵を描いている間は祐三や彌智子の面影とともに生きることができたのではないかと思います。
10月30日午後、林芙美子の家から佐伯祐三アトリエまで歩く途中で、雨がぽつぽつ。雨傘を持ってこなかった日に限って雨が降る。途中、オリンピックというスーパーがあったので、傘を買いました。300円とかのビニール傘はすぐダメになるので、丈夫なほうがいいと思って、千円の傘にしたのですが、佐伯アトリエに着くころには雨は止んでいました。
帰りは池袋行きのバスに乗って、案の定、バスの中に傘を忘れました。くやしいので、池袋ジュンク堂で本を1万円分買いました。「1万円分本を買ったレシートを11月に千円分の図書券と交換」というセールをやっていたので、千円戻ってくれば、傘の分の損を取り戻せると考えたのですが。計算、あってる?
ああ、素敵な絵を見ても、優雅な華族のおやしきを見ても、どこまでいってもセコイ私の生活。
<つづく>
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2011年11月18日
ぽかぽか春庭「東京農工大学本館」
2011/11/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
病身を押しても、パリに出たかった佐伯祐三。画家としては、何が何でもパリで絵を描きたかった、そういう気持ち、よくわかる。昔の田舎の女子高校では、「何がなんでも東京の大学に進学したい!!」と、クラス中の女子が叫んでいました。
とにかく大学名に東京がついていてほしかった。東京大学はまずもって無理、せめて名前に東京が入っているところへ行きたい、と乙女達はもえていました。
東京女子大学が第一志望だったクラスメートの今朝子には「よしなよ、高校が女子校なのに、大学も女子大なんて悲惨だよ」と、忠告して、今朝ちゃんは、東京農業大学へ。え~、どうして農業なの?と聞くと、食品栄養学専攻なんだとか。今朝ちゃんは、家庭科の先生になりました。私は、東京教育大学が第一志望。でも、見事不合格。翌年は教育大の入試は中止。東京なら何でもいいということになって私立に潜り込む。名前に東京がついていないところでしたけど、校歌が「みやこの~」と始まるから、ま、東京っぽいかなって妥協。
しかるに、男女共学の学校に入った私は4年間まったくもてず、女子大に行った級友は、他大学との合同サークルなどで恋人を作り、卒業後さっさと結婚した人が多かった。ちなみに、今朝ちゃんは、東京農業大学の先生と結婚。
東京農工大学?高校生のころは、まったく名前を知らず、東京にそういう名の大学があることに気づいていませんでした。
今年の文化財ウイーク建物公開、個人の邸宅を中心に見て歩きましたが、唯一「公共建築物」見学だったのが、東京農工大学本館です。
東京農工大は、国立大学ですが、一般には知名度が低い。東京農業大学は、スポーツで活躍したり、文化祭の大根踊りが有名なので、農工大は農業大とごっちゃにされていて、影が薄い。実は私もどっちがどちらやらとわからずにいました。農工大は国立、農業大は私立で、どちらも、大学祭で大根を売ります。紛らわしいったらありゃしない。
東京農工大学農学部は、1949年に設置されました。前身は1874年に設立された内務省勧業寮内藤新宿出張所設置の学問所「農事修学場」です。その後、東京帝国大学農科大学乙科となり、1935年に東京高等農林学校として東京帝国大学から独立しました。
農工大工学部の出発点は、内務省勧業寮内藤新宿出張所の蚕業試験掛。日本の重要産業だった絹の繊維工業を研究してきて、1944年には東京繊維専門学校となりました。1949年に東京高等農林学校と東京繊維専門学校が合併して、新制大学として出発。
http://www.tuat.ac.jp/
府中市と小金井市にキャンパスがありますが、私が訪問したのは、府中市幸町の大学本館です。文化財ウイーク公開のうち、「11月12日、13日は大学祭実施中、内部も公開」、とあったので、内部が見られる日にしようと、大学祭見物を兼ねて出かけました。国分寺から府中行きバス、明星学園前下車。
http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=680
東京農工大学の本館は、1934(昭和9)年竣工の3階建てです。東京高等農林学校・府中校として建設され、現在も研究室事務室として使用しているので、普段は、内部公開はしていません。
私、学園祭なんぞというところに出かけこと、数少ない。学園祭に燃えるべき年齢のころ、学園闘争真っ盛りの時期とて大学祭は4年間とも中止でした。2度目に入った国立校、名前に「東京」が入っているので、昔の「東京ってついてる所に進学したい」という気持ちのリベンジができたのはいいけれど、ママさん学生だったから、いろいろたいへんでした。
学部生のときは「語科別の語劇」や「各国料理レストラン」の一員として参加はしたけれど、ノルマの「お当番」を果たしたあとは、いそいで保育園に駆け戻らなければならない。学園祭を楽しむ余裕はありませんでした。
卒業後、母校が現在のキャンパスに移転してから、一度だけ「卒業生が新キャンパスを見る会」みたいな催しで学園祭を楽しんだことがありました。各国料理を食べまくった。週2回、仕事で通うようになった今は、母校の学園祭は「1週間、授業が休みになってうれしいな」という期間です。
東京農工大の学園祭、大根や葱など、大学農園で取れた野菜を近所の人がたくさん買っていました。「ブルーベリージャムを最初に作った」のも農工大なんですって。
<つづく>
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2011年11月19日
ぽかぽか春庭「東京農工大学で虫を食す」
2011/11/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
東京農工大府中キャンパスの大学祭模擬店。研究室やサークルごとの店も、「農工大で取れた野菜使用」なんぞを売り物にしています。
私は、「農工大試験林の間伐材」を串にした焼き鳥っていうのを食べました。串は、握り部分はゴルフのグリップ部分くらいあって、串の長さは30cmほど。半身の鶏肉がささっていて、塩、醤油、辛子マヨネーズの3種類から味が選べます。「ごみステーション」に串を持って行くと、焼き鳥代500円のうち、100円が返金される仕組み。
焼き鶏と豚汁をお昼ご飯がわりにしたあと、模擬店めぐりをして、たこ焼き、たき火バームクーヘン、モンゴル肉まんなどを食べました。食べ過ぎだっちゅうねん。たき火の上で太い竹をぐるぐる回し、その上に小麦粉を垂らして焼いていくバームクーヘン、面白いから買ったのだけれど、200円で小さなかけらがふたつ。売っている方の労力からすると、こんなものなんだろうけれど、食べるほうからすると、う~ん、もうちょいと大きいかけらを食べたい。
ほかにも、バラ研究会のバラクッキーとか食べてみたいもの、たくさんあったのだけれど。本日の目的は食べることじゃなくて、近代建築公開なので、、、、
小腹を満たしたあと、本日のメインイベント。本館公開。
http://maskweb.jp/b_tuat_1_0.html
東京農工大学本館3階は、ミニ博物館になっていて、昆虫生理学・応用昆虫学の碩学という石井象二郎博士の事跡を展示していました。2002年に博士から寄贈された研究資料を公開しているのだそうです。
国際昆虫学会議の会長を勤めた立派な先生で、著書は紹介しきれないくらいたくさんあるのですが、最も有名なものは、ゴキブリの集合フェロモンを発見したことです。
石井象二郎『ゴキブリの話』北隆館(1976年)
私、昆虫好きなほうだけれど、虫を捕まえて標本を作るより、どっちかと言えば、昆虫を食べるほうに興味がある。どこまでいっても、食い気の私。
そしたら、さすが農工大。ちゃんとありました。昆虫を食べさせるところ。2号館304号室の昆虫機能生理化学研究室展示「昆虫料理試食会」
ゆでた蚕の幼虫、「醤油をたらして食べて下さい」と研究室の大学院生が言ったけれど、私は虫そのものの味が知りたかったので、醤油つけずに食す。蚕さなぎの唐揚げなどもいただきました。おみやげに蚕さなぎ唐揚げ4粒100円と蚕粉末入りクッキーの袋100円を買いました。
私は、子どもの頃、おばあちゃん特製のイナゴ佃煮を食べたことあるし、薪のなかに潜んでいた幼虫を風呂炊きしながら食べたことあった。薪の中の幼虫はこんがり焼けて香りがよく、美味でしたが、姉と妹に「そういう人はそばに寄らないで」と、宇宙人扱いされました。
大人になってからも、北京動物園内のレストランで「蝦エビ」の文字と見間違えて「蠍サソリ」の唐揚げを注文してしまい、食べるはめに。滋養強壮の薬膳で、高級食材なんだそうです。まあ、サソリもザリガニもイセエビも見た目は同じ。長春赴任中は、スーパーで普通に売っている蚕さなぎの佃煮を買って食べた。
昔、西丸震哉の「昆虫を食べよう。ハエの幼虫をデンブにしてタンパク源にすれば、地上の飢え問題は解決」という論を読んで、その通りと思ったのですが、ハエのウジデンブは今だに実現していません。
しかし、長野など中部地方のハチの幼虫を食べる「ハチの子」は珍味として有名ですし、最近では世界の民族食文化として、昆虫食が見直されてきたので、「昆虫を食べる」というのも、一概に「気持ち悪い」と疎まれることもなくなりました。めでたし。
農地周辺の昆虫は、農薬の影響を受けているので野生の虫はむしろ食べない方がよい、と言われている昨今ですが、昆虫食研究者の本も売れてきて、昆虫食啓蒙活動は続いています。2011年5月には、日本初の昆虫食を科学する研究会が発足しています。
http://e-ism.jimdo.com/
近代建築を見学に来たはずだけれど、生来の食いしん坊で、食べることばかりの報告でした。いつものこっちゃけど。
みなさん、虫はおいしい!昆虫食は人類を救う。
昆虫食の本紹介
・野中健一 『虫食む人々の暮らし』NHKブックス
・梅谷献二 『虫を食べる文化誌』創森社
農工大で一番有名な人。昆虫学の先生とかじゃありません。
農工大有名人といえば、生協の白石さん。でも、白石さんは私が行った農学部府中キャンパスではなく、工学部小金井キャンパスの生協勤務なので、府中キャンパスでは見かけることはありませんでした。残念。
東京農工大、大根はどちらのもおいしいだろうけれど、みなさん、東京農大と間違えないでやってください。
<つづく>
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2011年11月20日
ぽかぽか春庭「流転の王妃ゆかりの家」
2011/11/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
19日は大雨になったので、心配していましたが、20日はよく晴れました。少し暑いくらいの横浜で開催された「横浜国際女子マラソン」をテレビ観戦しました。最後まで尾崎、木崎両選手がデッドヒートを演じるレース。木崎選手がマラソン初優勝を果たしました。優勝選手はロンドンオリンピックの代表選考に有利ということで、1万メートルの選手からマラソンに転向して、マラソン経験はまだ少ない木崎選手、初優勝、さぞうれしいだろうと思います。
今年は2月に姑や娘息子と横浜へ行ったほか、9月19日には一人で横浜散歩をして、山下公園のあたりを歩きました。選手達が横浜の街を駆け抜ける、その沿線の風景にもなじみがあって、娘と「ああ、あの赤レンガ倉庫のあたり、歩いたね」などと、見覚えのある景色を楽しみながらのマラソン応援になりました。
9月の横浜散歩では、近代建築、西洋館めぐりと神奈川近代文学館の安野光雅展を楽しみました。近代建築めぐりも、たいていは都内の散策ですが、たまには神奈川や千葉、埼玉などへもちょっと足を伸ばして行きたいです。
11月は、千葉市内の建物を見ました。
「ゆかりの家・いなげ愛新覚羅溥傑仮寓」は、千葉市稲毛区にあります。溥傑が嵯峨浩と結婚して、新婚時代に暮らした家が保存されているのです。
千葉市の稲毛駅は、稲毛総武鉄道(千葉両国間)の「稲毛停車場」として1901(明治33)年に開設されました。1921(大正10)年には京成電車(千葉押上間)の「京成稲毛駅」ができたこともあり、稲毛近辺は東京の人々にとって、電車で行ける保養地別荘地、海水浴場として人気が高まりました。
「ゆかりの家いなげ」 は、東京市神田区の鈴木家(水飴商「笹屋」)が購入した保養施設で、その後、愛新覚羅溥傑夫妻が結婚後、1937(昭和12)年に半年ほど住んでいました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/yukarinoie.html
私は浩の自伝『流転の王妃』を読んだし、旧満州の首都だった長春に赴任した縁もあり、旧満州帝国の歴史には興味がありました。
愛新覚羅溥傑と浩は、戦後長く日本と中国に引き裂かれていました。しかし、その間にもこまめに文通をして絆を深めていたことを、自伝『流転の王妃』やそれをもとにしたテレビドラマで知っていたので、いつか書簡集が出るのではないかと思っていました。
福永嫮生『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』は、2011年10月に文藝春秋社より発刊。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163742502
著者の福永嫮生(ふくながこせい)は、中国清朝そして満州帝国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の姪にあたります。父は皇弟溥傑。母は嵯峨侯爵家から嫁いだ浩。嫮生は、母の実家嵯峨家で育ち、福永健治と結婚。健治の叔父の妻福永泰子は浩の妹で、香淳皇后に仕えた女官です。(嫮生の生涯は『流転の子-最後の皇女愛新覚羅嫮生』(本岡典子)に詳しい)
http://www.honzuki.jp/book/book/no184590/index.html
<つづく>
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2011年11月22日
ぽかぽか春庭「ゆかりの家いなげ」
2011/11/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
テレビ朝日開局45周年記念のスペシャル番組『流転の王妃 最後の皇弟』、2003年11月29日11月30日の二夜放映。常盤貴子が愛新覚羅浩、竹野内豊が愛新覚羅溥傑を演じました。
いつもは「戦争のシーンがいや」と言って近代史に関係したトラマはあまり見たがらない娘でしたが、『流転の王妃』は、常盤貴子の浩と竹野内豊の共演が見たいと言い、息子と3人で見ました。(娘は、関ヶ原とか源平の合戦なら「遠い歴史のこと」として槍や鉄砲での戦シーンも見ていられるのに、近代史だと身につまされるので見たくない、と言うのです。戦争や原爆を描いた映画やドラマでも娘は涙滂沱となり、ドラマと割り切っている私までついもらい泣き)
ドラマの『流転の王妃』、フィクション部分もありますが、おおむね史実や浩の自伝に忠実に作られていました。再放送はBS朝日2009年1月2日。
http://www.bs-asahi.co.jp/ruten/
溥傑は、愛新覚羅溥儀の弟です。溥儀は清朝のラストエンペラー。革命によって清朝皇位を失った後、日本が無理矢理成立させた満州国の「執政」として新京(現在の長春)に入り、ついで皇帝となりました。
満州を支配しようとしていた日本軍幹部は、愛新覚羅溥傑の妃に皇女降嫁を画策したのですが、皇室典範の規定でそれはできませんでした。皇室典範によると、皇女は日本の皇族又は華族に降嫁する以外に結婚できず、溥傑は皇族扱いではなかったから。
旧大韓帝国の日本併合後、李王家は準日本皇族としての待遇を受け、王世子(皇太子)李垠の妃は皇族の梨本宮家から方子女王が嫁ぎました。しかし、満州国は独立国として扱われたので、溥傑は皇族出身の女性を妃に迎えることは出来ず、浩が愛新覚羅溥傑妃として選ばれました。嵯峨浩の父方の祖母仲子(南加)は、明治天皇生母中山慶子一位局の姪で明治天皇のいとこにあたるゆえ、華族の中でも皇室に近いとみなされたためです。
満州国崩壊後、浩は次女嫮生を連れて敗戦後の旧満州を1年半にわたって流浪し、辛酸をなめました。戦後も家族の悲劇は続き、溥傑は中国に浩は日本にと引き裂かれたまま。さらに嫮生の姉の愛新覚羅慧生は、学習院在学中、同級生の大久保武道に同道し、天城山で頭をピストルで撃たれ死亡しています。(天城山心中事件として知られています。嵯峨家側愛新覚羅側から言わせると心中ではなく、無理心中またはストーカー殺人。真相は不明のまま)
そんな家族をつなぎ止めた、愛新覚羅溥傑と浩との手紙のやりとり。浩と溥傑は、政略結婚で結ばれたにもかかわらず、本当に心から愛し合っていた夫婦だったのです。手紙に登場する関係者が生存しているうちは、この書簡集が活字化されることはないかと思っていましたが、次女の嫮生が71歳ですから、浩と溥傑に直接関わった人々に迷惑をかけることもなくなった時期になったのでしょう。
書簡集は、歴史の一断面の証言でもあり、希有な人生を歩んだ夫婦の愛の記録でもあります。
私は11月8日、この「ゆかりの家」を見て来ました。行きはJR稲毛駅から歩いて行ったのですが、思ったより遠かったので、帰りはバスで駅に戻りました。京成稲毛駅からなら、もっと近くて歩くのが楽。
http://www.kyoikusinko.or.jp/sisetsu/04.html
1937(昭和12)年に結婚した愛新覚羅溥傑と嵯峨侯爵家長女の浩。ふたりが新婚の住まいとして住んだ家は、他の華族のおやしきに比べるとごく簡素な普通の家です。日本の皇族に準ずるとされた朝鮮王家の李垠(りぎん)が、赤坂に華麗な宮殿を建てた(旧赤坂プリンスホテル旧館)に比べると、まさに「仮寓」という印象の小ぶりな家です。
旧朝鮮王世子李垠邸
http://maskweb.jp/b_riouke_1_0.html
<つづく>
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2011年11月23日
ぽかぽか春庭「愛新覚羅溥傑仮寓」
2011/11/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
1932年3月1日、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を元首(満洲国執政)として成立した満州国。2年後、1934年に溥儀が皇帝として即位したものの、国際的には承認されませんでした。「満洲帝国は日本の傀儡国家」とみなされ、溥儀も皇帝たる自分に何の権限もなく、日本軍部の意のままに満州国が扱われることにいらだちを深めていきました。皇后はアヘンに溺れ、もうひとりの正妃は満州国入りする以前に離婚を要求して溥儀を離れていました。
後継男子を持たなかった溥儀のもとには、跡継ぎ候補の親族が養育されていましたが、もし、日本人である浩と溥傑の間に男子が出生していたら、日本軍部は跡継ぎにゴリ押ししたことでしょう。
きな臭い政略結婚であったにもかかわらず、浩と溥傑は仲むつまじく、娘ふたり慧生(すいせい)嫮生(こせい)も誕生しました。
溥傑夫妻の長女慧生は日本の母の実家嵯峨家で育ちましたが、自分に流れる中国の血を意識し、中国語を学びました。慧生は周恩来首相に手紙を書きました。両親が日本と中国に引き裂かれたままでいる悲しみについて書かれた手紙に、首相は心打たれたそうです。日本と国交がなかった時代でしたが、周恩来首相は、浩が溥傑とともに暮らせるよう計らいました。夫婦が海を隔てて引き裂かれてから16年たち、ようやくいっしょに中国で暮らすことができました。
ゆかりの家には、書家としても著名であった溥傑の書が掛け軸にありました。また、浩が死去したあと、晩年の愛新覚羅溥傑が次女の福永嫮生とともに新婚時代の家を訪ねた写真が、「ゆかりの家」に飾られていました。新婚当時の婦人雑誌に掲載された「名家の新婚夫妻特集」というようなシリーズで溥傑夫妻が仲良く写っている写真もありました。
離れなどを見ていると、係員が「離れは、夫妻の書斎で、ふたりだけでくつろぐ時やごく親しい友人を招くときに使われていました。トイレは陶器製なんですよ」と、和式のトイレを鍵を開けてみせてくれました。有田焼きの便器でした。建具や照明器具など、当時のまま残されているものも多い、という係員の説明でした。
「ゆかりの家」内部写真紹介のブログ(ただし、ここにも誤情報が。浩を「皇族」と書いています。浩は華族ではあったけれど、皇族ではない。いつもの「個人ブログは間違い多し」の例。春庭サイトにも間違いがいろいろあると思いますので、情報についてはそれぞれご自身にて確認なさってください)
http://vicroad.blog31.fc2.com/blog-entry-746.html
庭のしつらえも当時と同じにしていると、いうので、お庭も拝見。
玄関の裏庭に、「白雲木」という木が新しく植えられています。これは、浩が結婚するときに貞明皇后が下賜した木の子孫の木だということです。
それほど広い庭ではありませんが、柚の木の下にゆずの実が一個落ちていました。「ゆかりの家」の「ゆかりの柚子」と思って拾いました。小さな柚子から香りが広がりました。
http://area.rehouse.co.jp/r-chiba-bay/151
過酷な運命に翻弄された溥傑と浩ですが、晩年は夫婦仲良く中国で暮らすことができ、ふたりしてこの稲毛の新婚時代の家をなつかしむこともあったことでしょう。浩は「日中の架け橋」として両国の友好に勤め晩年をすごしました。
旧満州の首都新京(現在の長春)に3度も赴任したという縁を持つ私。私も友好を願って、ゆかりの家から火曜日の出講先へ向かいました。
火曜日は2クラス50人の中国人留学生相手に、「日本で報道されている新聞雑誌のなかの中国像」というテーマで授業をしています。日本語読解の練習として、今、目にできる新聞雑誌の表現の中から、「せめて、漢字を中国語読みでなく、日本語の発音でなんと読むのか、読めるようになりましょう」という意図の授業であり、日中関係分析とかそんなところまではとてもじゃないけれど、行きつきません。「今日」と書いてあれば、意味だけ理解して読み方は「ジンリー」とか「ジンティエン」で済ませてしまうレベルの学生のクラスです。「今日」は、キョウと読むときとコンニチと読むときで使い分けがあることをわかってもらう、という段階の授業。
11月8日の学生発表は、「一人っ子政策、是か否か」という新聞記事。また、中国の宇宙進出に関する記事、中国が世界でもっともCO2排出量が多くなってしまった、という記事でした。
クラスのほとんどの留学生が一人っ子です。小皇帝、小公主と呼ばれる、わがままいっぱいの今時の中国人留学生たち。いっしょうけんめい日本語学んで、日中の架け橋になってほしいです。
<つづく>
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2011年11月25日
ぽかぽか春庭
2011/11/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
「売り家と唐様で書く三代目」という川柳。初代が苦労して作った家屋敷も、 3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体で優雅に手習いを続けたはいいが、財産使い果たし「売家」のはり紙をするハメになる、ということわざになっています。
平成の世でも三代目のアホボン、紙屋の若旦那がマカオのギャンブルに入れあげて、会社の金を106億円も使い果たしてしまった、という。
アホボンはどこにでもいつの時代にもいるものだとは思うけれど。それにしても、100億とは。
清朝11代目の光緒帝。中国に赴任して中国近代史に親しむようになるまでの私のイメージでは、光緒帝はアホボンのように思っていたのです。伯母の西太后に牛耳られて、清朝崩壊に手をこまねいていた11代目。しかし、浅田次郎原作のドラマ『蒼穹の昴』では、時代の波に飲み込まれようとする清朝を、自分なりに懸命に立て直そうとして果たせなかった悲劇の帝王として描かれていて、私も西太后や光緒帝へのイメージを改めました。
愛新覚羅溥傑仮寓を見て来て、旧満州の首都新京(現在の長春市)で溥儀の皇宮を見たときのことを思い出しました。
私は、1994年と2007年に、北京の紫禁城、長春の満州国皇居、2009年にヌルハチの瀋陽故宮を訪ねました。2007年に長春や大連市内の近代建築めぐりをしたことが、私の「近代建築めぐり」のきっかけでした。それ以前は「庭めぐり」「博物館めぐり」のほうが散歩の中心で、建物は「庭に付属する建物」という感じで見ていました。たとえば、旧古河庭園の中に建つコンドル設計の邸宅、という見方です。
長春市内には、満州国時代の建物が数多く残されており、近代建築がそのまま現代まで役所や病院として使用されていました。私が住んでいた宿舎も、1930年代に建てられた官舎をそのまま修理しつつ使用していた2階建てでした。(1930年代の都市インフラとしてはたいへんすぐれた設備であった上水道も、そのまま使い続けられていたので、水道管がさびていて、水道をひねるとしばらくは赤い鉄さびまじりの水が出るのが玉に瑕でしたが)。
長春市内の近代建築のうち、ラストエンペラーに関わる建物ふたつだけ、思い出の「建物めぐり」として紹介しておきます。2007年の「ニーハオ春庭中国日記」の「偽満皇宮博物院(元満州国溥儀皇居)」の訪問記です。2007年5月25日~31日。
でも、読み返して見たら、建物紹介などあまりしていなくて、おみやげを値切り倒した話とかでした。2007年の偽満皇宮博物院訪問記は、ラストエンプレス、最後の皇后婉容の話が中心なので、興味があったらごらんください。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200705
2007年に訪問したときは、博物館の展示についていた解説の日本語、間違いだらけでしたが、その後きちんとした日本語表示になったでしょうか。
中国東北旅行した方々のブログから、写真を拝見。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tour3/08.html
http://uenotblog.jugem.jp/?eid=187
http://blog.goo.ne.jp/meytel999/e/9591bcdbf2e6bdc111e44b39e347bde2
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/tyosyun_019.htm
http://www.jmcy.co.jp/~goto/photo2005/ETC/O050516.htm
満州帝国の首都新京は、現在では中国吉林省の省都長春市となっていますが、満州時代に建てられた建物がそのまま役所や大学として使用されており、歴史的文物として保存されています。しかし、つい最近まで残されていた満鉄社宅などの一般住宅は、どんどん取り壊されて高層ビルになっていることが多いので、私が住んでいた宿舎もいつまであの繁華街の中心地に残されているか、心配です。
溥儀が皇位復辟を成し遂げようとして傀儡皇帝とならざるを得ず、悶々として過ごしたという新京皇宮。それほど広くもなく豪華でもない皇宮の中、見果てぬ夢の残骸だけが冷え冷えと広がっていました。
夫婦引き裂かれても絆を信じ、ついに再会をはたして晩年は仲むつまじく暮らすことができた溥傑夫妻。皇后はアヘンの禁断症状にのたうちながらの死。側妃は自ら離婚を望んで去る。唯一、溥儀が愛したとされる妃は謎の死を遂げる(溥儀は関東軍による暗殺と信じていた)。戦後、共産党からあてがわれた妻は看護婦兼共産党へ溥儀の動向を報告する役割の女性、この女性に頭が上がらなかったという溥儀。
人の幸福は、皇帝の地位や106億円でも買えません。引き離されても決してほどけない絆を得た人が、もっとも幸福なのかもしれません。
ほどけっぱなしの絆の我が夫婦愛。絆を結ぶにはそれ相応の努力が必要なのでしょうね。夫婦愛、、、、夜の絆のためにはエリエールを買っておきましょう。って、最後は「お気をつけあそばせその女下品ですから」と言われるようなことになってしまって、やはりお里は隠せませんですわ。
それにつけても、欲しいな106億円。
<つづく>
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2011年11月26日
ぽかぽか春庭「デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘」
2011/11/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘
千葉市稲毛区の「ゆかりの家」の近所にある「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」。
「愛新覚羅溥傑ゆかりの家」を地図で確認したとき、同じ千葉市の管理文化財として旧神谷伝兵衛邸があることを、はじめて知りました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/kamiyabeibesso.html
神谷伝兵衛(1856(安政3)~1922(大正11))は、電気ブランで有名な浅草のカミヤバーやワイン醸造の牛久シャトーを設立した実業家です。
http://maskweb.jp/b_kamiyavilla_1_0.html
1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」の名で売り出し、1898(明治31)年に茨城の原野を開墾して神谷葡萄園を開園しました。1903(明治36)年、ワイン醸造場を設立。この建物は、現在シャトーカミヤとして国の重要文化財になっています。
http://www.ch-kamiya.jp/
神谷伝兵衛稲毛別荘は、千葉市内で最も古い鉄筋コンクリート建築で、1918(大正7)年に、晩年の神谷伝兵衛が、来賓歓待用に建てた洋館です。建物は1階が洋室、2階が和室の和洋折衷の造りは、当時のお金持ちの洋館と同様のデザイン(コンドル設計の旧古河男爵邸も1階が公のスペース洋室。2階が私的スペースで和室でした)。
邸内の各所に葡萄がデザインされた意匠が見られます。欄間に葡萄房を表現した彫刻があり、床の間の柱には葡萄の古木を用いています。伝兵衛がいかに「葡萄酒」に心をくだいたかが、この葡萄意匠へのこだわりにもうかがえます。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/kamiya.html
2階階段をあがった次の間スペースに牛久シャトーで葡萄酒醸造を始めた頃の写真とか、ハチ葡萄酒の宣伝ポスターなどが展示してありました。牛久にはワイン博物館があります。シャトーカミヤの建物もみたいので、そのうち訪ねてみようと思います。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumSearchDetail_jp.jsp?im_id=1354
ハチワインポスターの美人モデルは、グラスをあげてとろんとした目をながしています。ハチワイン、飲んでみたくなりました。
旧前田侯爵邸に「カフェ・マルキス」をオープンさせたように、神谷伝兵衛別荘でも、カフェ・カミヤなんぞをオープンして、ハチ葡萄酒や電気ブランを売り出したらよさそう、と思いました。カミヤ邸のとなりは千葉市の市民ギャラリーになっているので、ギャラリーで絵を見た帰りに一杯というのもよさそうです。
11月14日夕方、はじめて浅草カミヤバーに入り、デンキブランを飲んでみました。このカミヤバー、バーという名がついているので、これまで浅草に来て店の前を通っても、入ったことがなかったのです。おひとり様で「バー」なる所へ入る勇気がなかった。気が小さいもんで。
14日午後は、浅草寺で開かれた「油絵茶屋」という催しを見に来てにわか雨に遭い、「雨宿り」の軒を借りるつもりで、おひとり様でカミヤバーに入りました。
カミヤバーは、創業は明治時代ですが、今残る浅草の店舗は、1921年(大正10年)の竣工。2011年7月に国登録有形文化財として新登録された建物です。
以下の文化庁のページの2番目にカミヤバーの登録が記載されています。
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/yukeibunkazai_toroku_110715.pdf
次回、つづけて、カミヤバー報告。
<つづく>
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2011年11月27日
ぽかぽか春庭「デンキブランの店カミヤバー」
2011/11/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
大正時代の建物、カミヤバーの紹介サイト
http://maskweb.jp/b_kamiya_1_1.html
世間を知らない私。テレビドラマでしかバーを知らないので、バーってのは、きれいに着飾った女性がお酌をしてくれて、ビール一杯で万札が飛ぶような感じだった。
現実のバーは、30年も前に池袋場末のバーにタカ氏やアフリカ旅仲間といっしょに入ったことがあるだけ。結婚後は、夜6時以降は外に出ることもない生活でした。タカ氏はまったく飲まない人だし、妻といっしょに出かける何てことはまったくしない。
娘が夕食係になるまでは、仕事がおそくなっても「早く帰って子ども達に夕ご飯作らねば」と大急ぎで帰宅するような生活だったので、おひとり様で出かけることもなかった。世間一般の「夜遊び」というものを知らない。
カミヤバーは相席方式で、どんどん客を詰め込んでいく。1階の相席で、4人掛けのテーブル。二人連れのおば様と杉戸町在住メーカー営業マンというごま塩紳士といっしょになりました。相席男性の説明によれば、ここは女性おひとり様でもふたり組でも、気楽に立ち寄れる西洋居酒屋で、一般にいうバーとは違う、とのこと。
デンキブランは、アルコール30度という割には飲みやすく、けっこう飲めました。蜂印ワインもいっしょに飲みました。カミヤバーのおすすめはビールと電気ブランを交互に飲む方法らしいのですが。
レジで配布している「デンキブラン今昔」というカードによれば。浅草名物の電気ブランは、ブランデーをベースにしたカクテルで、当時最もハイカラなことばだった「電気」をつけて「電気ブラン」と命名されたそうです。
ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草を混ぜたカクテル。120年間、変わらずに愛飲されてきたカクテル。おいしゅうございました。といっても、おいしいお酒というのがどういうものかも知らずに風呂上がりにビール飲むくらいが関の山だったので、たぶん、おいしいのだろうと思うのですが、はじめて一人でバーにはいったうれしさの味だったのかも。
カミヤバー相席のおばはんのうち一人は「若い頃は銀座有楽町で遊び回ったのよ」とおっしゃる恰幅のよい方。お連れさんは「浅草お酉様の二の酉でこれ買ってきたの」と、小さなお飾りを見せてくれました。稲穂や金色のミニチュア米俵があるデコレーションです。「あら、いいですね。これで来年もご一家繁栄ですね」と、相づちを打つ。
遊び慣れたようすのおばはんを前に、「私は苦労のしっぱなしで、これまで夜遊びしたこともなく、カミヤバーに入ってみたのも初めてなんですよ」と、遊び知らずに生きてきてしまったことを愚痴りました。男性は、「苦労の多い人生なんて、みんなそう。ここで飲んでいる人、全員が自分が一番苦労した人生だと思っていますよ。あなたなんか、こうして飲んでいるんですから、幸運な人なんです」と言う。ほんとにね。喰うや食わずで生きてきて、バーと名の付く所に何十年ぶりからで入った、とはいうものの、まだ生きているんだから、確かに幸運なのだと思います。
営業マンという男性のほうは、カミヤバー常連さんらしく、「この店の奥のほうには常連さんのテーブルがあって、70代、80代、90代のご老公もいて、話好きだからおもしろいよ。次にきたら、奥の10人掛けテーブルに座るといい」と、カミヤバー指南をしてくれました。
午後3時半に入店したというので、平日の午後、退職後のひまつぶしかと思ったら、今も現役営業マンという。「バブルはじける前は、接待費使い放題。銀座でも派手な飲みっぷりでならしたもんですが、今はここで一杯300円500円の酒です。部下を誘っても、近頃の若いもんは、上司の誘いを平気で断るもんで」と、愚痴もこぼれる。
カミヤバーで相席になった男性、浅草から東武線一本の杉戸町に住んでいるので、生ビールやデンキブランを数杯傾けてから帰るのだとか。育ったのは浦和市というので、「あら、私も浦和に10年間住んでいました」と、御当地トークがはずみました。
<つづく>
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2011年11月29日
ぽかぽか春庭「ハチ葡萄酒で乾杯」
2011/11/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)ハチ葡萄酒で乾杯
カミヤバー相席のおっさん、そのうち、ポケットから写真をとりだして、家族自慢&愚痴がはじまった。奥さんといっしょに飲むのは正月二日だけ。娘ふたりのうち、ひとりは五大湖近くのキングストン出身カナダ人と結婚、ひとりはテキサス出身アメリカ軍人と結婚して、婿二人は日本語を覚えようとしないので、話が通じない。
アメリカ婿は横田基地に住み、カナダ婿はカナダ大使館に勤務なので、孫達も英語オンリーだったのだけれど、一番年上の孫は少し日本語が話せるようになった。アメリカンスクールは6月から夏休みなので、日本の小学校が7月末に夏休みになるまでの間だけ、杉戸町の小学校に一ヶ月通わせて、なんとか日本語で話が通じるようになったのだそうです。田舎町のこととて、最初は「あいのこ」なんてイジメも受けたけれど、日本語が上手になった、と男性は孫4人の写真を見せる。
孫たち、みな美形。子役やモデルになれそうですね、と誉めると、さらにポケットから地方の衣料店の広告チラシを出して、「ほら、これ、うちの孫。モデル始めたんです」と、見せて「こんな田舎のスーパーの衣料品チラシですが」と、まんざらでもなさそう。
営業の仕事も最近はさっぱりで、女房は自分の世界で好きにやっているし、孫達とは会話が通じないという男性、カミヤバーでたまたま相席になった客相手に、孫自慢に励む、そういう人生もまたよきかな。
カミヤバーで話した相手のことを手帖にメモしているのだと、見せてくれました。私のことは、「息子が23歳という話から推察して50代前後と思われる婦人と相席。子どもは息子のほか娘ひとり。夫は酒も飲まずタバコも吸わない。群馬生まれで、結婚まで埼玉に住んでいた東京在住の女性」と記録するそうです。
私と話しての印象は、「テニオハがはっきりしていて、しゃべり方に曖昧な点がなく、インテリゲンチャの雰囲気がある」とのこと。「インテリゲンチャって、そりゃ完全に昭和語ですね。そういう死語は、若い人には通じないでしょう」と混ぜっ返すと、「ワカイモンとは、仕事の話も通じなくなってきた」と、愚痴。だいぶ職場では浮いているごようす。
バブル後、営業の成績も右肩下がりになって、職場で孫の衣料品店チラシモデル写真なんぞを見せても、受けるのは1回だけ。それ以上は「また孫自慢だよ」と敬遠されてしまいます。けれど、この相席テーブルで毎回違った相手に見せていれば、その都度自慢できる。孫のモデル姿がある広告チラシはだいぶヨレヨレになっていました。
「これから池袋行きのバスに乗って、練馬まで帰る」というおばはんふたりが立ち上がったので、「私もそのバスに乗って帰ろうと思っていたのですが、バス停がわからないので、ごいっしょさせて下さい」と、バス停まで行く。バス路線があるのは知っていたのですが、これまではバス停の場所がわからないので、雷門前から上野行きのバスに乗っていたのです。池袋行きのバス停は東武浅草駅のすぐ裏手でした。
バスは、吉原大門、日本堤、三ノ輪などを抜けて夜の下町を走ります。
吉原から三ノ輪投げ込み寺へ直行した幕末明治の女の人生もあったろうし、戦災で散った昭和の女の人生もあったろう。津波でなにもかも流された平成の女の人生もまた。
今生きている私は幸運なのだ、と思って、池袋行きのバスを途中下車。
東京農工大学のおみやげ「昆虫クッキー」は、案の定娘息子に嫌がられたので、駅前で「おみやげ、ミスタードーナツとマックどっちがいい?」と聞いたら、娘はハンバーガーがいいというので、マックを買って帰りました。娘は夫からの遺伝で、お酒はまったく飲めません。息子は一応は飲めるけれど、人中ですごすのが苦手なので、いっしょにバーに連れてもゆけない。ま、これからもひとりで飲みに行こうかと思います。
あ~、ひとり飲むのもオツだけど、ふたりでしみじみ飲むのも大勢でワイワイと飲むのも好きです。お誘いあらば、どこにでも。
酒は焼酎でもワインでもデンキブランでも。おつまみはキャビアでもトリュフでも昆虫でも。
<つづく>
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2011年11月30日
ぽかぽか春庭「建物巡り散歩ひとくぎり」
2011/11/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり
歩くことで健康維持を図りたくはあるのですが、一日何万歩というような目標を定めてもくもくと歩き続けるとか、山の頂上を極めて達成感を得るとか、そういう目標達成型の建設的な歩き方ができません。美術館の中をぶらぶらと好きな絵を眺めて二巡三巡するような歩き方、気に入りの建物を探して道に迷いながら、ようようたどり着くというような歩き方しかできないのですが、これでも歩く動機付けにはなっているから、いいのでしょう。
いろんな生き方があっていいし、いろんな趣味があっていい。これからもプラプラと気ままに歩いて、気ままに絵を見たり建物を見たり、何もせずにただ景色をぼうっと眺めながら歩いていきたいと思います。
今回の文化財公開で、見逃した建物もたくさんあります。たとえば、新宿区の旧島津家アトリエ。現在は中村邸として住んでいる方がある文化財なので、公開日時が決まっていて、その日を逃してしまったら、来年までおあずけ。ま、来年まで生きていようというモチベーションになりますから、よしとします。
武者小路実篤邸などはなぜか11月中に2度も訪問したのに、行こうと思っていた三鷹の山本有三邸には11月には行く時間がとれなかった。まあ、ここもいつでも公開しているのだから、そのうち行って、『路傍の石』の作者の家、ゆっくり見てこようと思います。
未完に終わった『路傍の石』。中学生のときに私が書いていた日記を読んだら、『路傍の石 続編』というのが書かれていました。未完のままなのを残念に思い、続編を勝手に付け足したのです。自分で書いたのにすっかり忘れていて、けっこう面白く読みました。『風とともに去りぬ』とか『明暗』は、著作権が切れてから続編が出版され、ヒット作にもなりました。私が中学生のとき書いた『路傍の石』続編、著作権が切れる2024年まで長生きできたら、公開できるかも。
長生きのためにも、せっせと歩いて健康維持。でも、風邪を引いても何だし、寒い北風吹く間は外歩きも一休みして、日だまりでひなたぼっこがよろしいかも。
急に寒くなって、あわてて灯油券を買ってきました。インフルエンザ予防注射もすませて、いよいよ12月。冬よ僕に来い、、、、って、あたしんとこには来なくていいから、僕のところへ行ってあげてね。ことしの冬はラ・ニーニャ(スペイン語で「女の子」という意味。「あたい、おんにゃのこよ」って言うようなちっちゃな女の子の感じがします)の影響で厳冬だそうです。みなさまご自愛のうえ、12月をお迎え下さい。
じゃ、あたいも冬ごもり。
<おわり>
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
佐伯祐三(さえきゆうぞう1898~1928)の絵、好きです。竹橋の近代美術館にも佐伯が何点か所蔵されていて、見ることができます。上野芸大の所蔵作品展で、卒業制作に必ず一点は残す自画像も見ました。
しかし、まとまった展覧会を見にいったことがない。私の美術展鑑賞は、基本的に「新聞販売店などからの招待券をもらった展覧会に行く」というものですから、「誰それの展覧会なら絶対に行く」というのではないのです。
2008年に開催された「没後80年佐伯祐三展」は、招待券もらったとしても、会期中は、ちょうど足を痛めていて出歩くのに不自由していたころだったから行けなかったでしょうけど。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/08/0510_saeki/index.html
去年2010年3月27日~5月9日に新宿歴史博物館で開催された「佐伯祐三・下落合の風景」展に行けなかったのは、単純に展覧会開催に気づかなかったから。新聞の「美術館博物館スケジュール」を毎週チェックしているのに、歴史博物館というあまりスケジュールなどが報道されない場所での開催だったために、気づいたときには会期が終わっていたのです。この展覧会では、佐伯米子夫人が亡くなったあと、遺族から新宿区に寄贈された佐伯祐三アトリエの一般公開に伴って、アトリエの近辺下落合を描いた作品を中心に展示されました。
佐伯祐三は大阪でお寺の子として生まれました。東京美術学校(現:東京芸大)で藤島武二に師事。在学中に同じ画家志望の池田米子と結婚。卒業後はフランスに在住し、ブラマンク、ユトリロらの影響のもと、30年で終わった短い生涯にパリの街角をモチーフにした作品を残しました。
佐伯の作品というとパリの町が思い浮かびます。第1回のパリ渡航は1924(大正13)年~1926(大正15)年の2年間。しかし、祐三の健康状態がよくないので、家族の説得に応じて帰国。日本に建てた新宿下落合のアトリエで、下落合近辺の風景画を残しました。しかし、パリへの思いが断ちがたく、健康不安を押し切って、2度目のフランス渡航。1927~28年1年間をすごしますが、病が悪化し、フランスで客死。
祐三夫人米子は、画家としては祐三より早くに公募展入選をはたしており、パリでも祐三とともにサロン・ドートンヌ入選しています。祐三死後も下落合のアトリエに住み続け、絵を描き続きました。夫人の死後、アトリエは新宿区に寄贈され、2010年4月、祐三の誕生日4月28日に合わせて開館されました。庭は小さな「佐伯公園」になっています。
http://www.regasu-shinjuku.or.jp/?p=1667
祐三自身がこのアトリエ(豊多摩郡落合村下落合661番地、現・中落合2丁目4 番)で絵を描いたのは、結婚後、2度のパリ行きの前後4年ほどにすぎませんが、米子夫人は1972(昭和47)年に亡くなるまで、画家としてアトリエを使用しました。
祐三の絵の大半は、相続した大阪の祐三の実家から画商に売られ、現在多くの作品が大阪市立近代美術館設立準備室の所蔵になっています。しかし、近代美術館設立予算が凍結され、開館そして佐伯の作品公開はいつになるやら。
下落合近辺の風景画のうち、一枚は近所の小学校校長室に残っています。しかし、ほかに新宿に残されている絵はほとんどありません。
前府知事は、図書館とか美術館とかが嫌いだったらしく、それらの予算を減らしました。(大阪を改革するためだとか。選挙戦真っ最中)そのため、大阪の近代美術館完成がいつになるのか、わからず、佐伯祐三の絵の公開もいつになるのやら。
絵はがきやクリアファイルになった下落合風景がアトリエ記念館でも販売されていました。
アトリエの場所は、一般の住宅街の中、路地の奥にあり、私は林芙美子の家から歩いて行ったのですが、まっすぐな道でさえ迷ってしまう方向音痴のため、大いに迷いながらやっと到着しました。
下落合の風景は、佐伯が絵を描いたころとはまったく様変わりしています。
アトリエは三角屋根のしゃれた木造で、米子夫人がこのアトリエで描き続けた作品も展示されていました。夫人の実家は、銀座に店を構える象牙商だったそうです。
祐三との間に生まれた長女の彌智子は、祐三30歳での死去の半月後に亡くなってしまっています。ふたつの遺骨を抱えての帰国となったあとは、ひとり住まいだったと思うのですが、絵を描いている間は祐三や彌智子の面影とともに生きることができたのではないかと思います。
10月30日午後、林芙美子の家から佐伯祐三アトリエまで歩く途中で、雨がぽつぽつ。雨傘を持ってこなかった日に限って雨が降る。途中、オリンピックというスーパーがあったので、傘を買いました。300円とかのビニール傘はすぐダメになるので、丈夫なほうがいいと思って、千円の傘にしたのですが、佐伯アトリエに着くころには雨は止んでいました。
帰りは池袋行きのバスに乗って、案の定、バスの中に傘を忘れました。くやしいので、池袋ジュンク堂で本を1万円分買いました。「1万円分本を買ったレシートを11月に千円分の図書券と交換」というセールをやっていたので、千円戻ってくれば、傘の分の損を取り戻せると考えたのですが。計算、あってる?
ああ、素敵な絵を見ても、優雅な華族のおやしきを見ても、どこまでいってもセコイ私の生活。
<つづく>
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2011年11月18日
ぽかぽか春庭「東京農工大学本館」
2011/11/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
病身を押しても、パリに出たかった佐伯祐三。画家としては、何が何でもパリで絵を描きたかった、そういう気持ち、よくわかる。昔の田舎の女子高校では、「何がなんでも東京の大学に進学したい!!」と、クラス中の女子が叫んでいました。
とにかく大学名に東京がついていてほしかった。東京大学はまずもって無理、せめて名前に東京が入っているところへ行きたい、と乙女達はもえていました。
東京女子大学が第一志望だったクラスメートの今朝子には「よしなよ、高校が女子校なのに、大学も女子大なんて悲惨だよ」と、忠告して、今朝ちゃんは、東京農業大学へ。え~、どうして農業なの?と聞くと、食品栄養学専攻なんだとか。今朝ちゃんは、家庭科の先生になりました。私は、東京教育大学が第一志望。でも、見事不合格。翌年は教育大の入試は中止。東京なら何でもいいということになって私立に潜り込む。名前に東京がついていないところでしたけど、校歌が「みやこの~」と始まるから、ま、東京っぽいかなって妥協。
しかるに、男女共学の学校に入った私は4年間まったくもてず、女子大に行った級友は、他大学との合同サークルなどで恋人を作り、卒業後さっさと結婚した人が多かった。ちなみに、今朝ちゃんは、東京農業大学の先生と結婚。
東京農工大学?高校生のころは、まったく名前を知らず、東京にそういう名の大学があることに気づいていませんでした。
今年の文化財ウイーク建物公開、個人の邸宅を中心に見て歩きましたが、唯一「公共建築物」見学だったのが、東京農工大学本館です。
東京農工大は、国立大学ですが、一般には知名度が低い。東京農業大学は、スポーツで活躍したり、文化祭の大根踊りが有名なので、農工大は農業大とごっちゃにされていて、影が薄い。実は私もどっちがどちらやらとわからずにいました。農工大は国立、農業大は私立で、どちらも、大学祭で大根を売ります。紛らわしいったらありゃしない。
東京農工大学農学部は、1949年に設置されました。前身は1874年に設立された内務省勧業寮内藤新宿出張所設置の学問所「農事修学場」です。その後、東京帝国大学農科大学乙科となり、1935年に東京高等農林学校として東京帝国大学から独立しました。
農工大工学部の出発点は、内務省勧業寮内藤新宿出張所の蚕業試験掛。日本の重要産業だった絹の繊維工業を研究してきて、1944年には東京繊維専門学校となりました。1949年に東京高等農林学校と東京繊維専門学校が合併して、新制大学として出発。
http://www.tuat.ac.jp/
府中市と小金井市にキャンパスがありますが、私が訪問したのは、府中市幸町の大学本館です。文化財ウイーク公開のうち、「11月12日、13日は大学祭実施中、内部も公開」、とあったので、内部が見られる日にしようと、大学祭見物を兼ねて出かけました。国分寺から府中行きバス、明星学園前下車。
http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=680
東京農工大学の本館は、1934(昭和9)年竣工の3階建てです。東京高等農林学校・府中校として建設され、現在も研究室事務室として使用しているので、普段は、内部公開はしていません。
私、学園祭なんぞというところに出かけこと、数少ない。学園祭に燃えるべき年齢のころ、学園闘争真っ盛りの時期とて大学祭は4年間とも中止でした。2度目に入った国立校、名前に「東京」が入っているので、昔の「東京ってついてる所に進学したい」という気持ちのリベンジができたのはいいけれど、ママさん学生だったから、いろいろたいへんでした。
学部生のときは「語科別の語劇」や「各国料理レストラン」の一員として参加はしたけれど、ノルマの「お当番」を果たしたあとは、いそいで保育園に駆け戻らなければならない。学園祭を楽しむ余裕はありませんでした。
卒業後、母校が現在のキャンパスに移転してから、一度だけ「卒業生が新キャンパスを見る会」みたいな催しで学園祭を楽しんだことがありました。各国料理を食べまくった。週2回、仕事で通うようになった今は、母校の学園祭は「1週間、授業が休みになってうれしいな」という期間です。
東京農工大の学園祭、大根や葱など、大学農園で取れた野菜を近所の人がたくさん買っていました。「ブルーベリージャムを最初に作った」のも農工大なんですって。
<つづく>
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2011年11月19日
ぽかぽか春庭「東京農工大学で虫を食す」
2011/11/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
東京農工大府中キャンパスの大学祭模擬店。研究室やサークルごとの店も、「農工大で取れた野菜使用」なんぞを売り物にしています。
私は、「農工大試験林の間伐材」を串にした焼き鳥っていうのを食べました。串は、握り部分はゴルフのグリップ部分くらいあって、串の長さは30cmほど。半身の鶏肉がささっていて、塩、醤油、辛子マヨネーズの3種類から味が選べます。「ごみステーション」に串を持って行くと、焼き鳥代500円のうち、100円が返金される仕組み。
焼き鶏と豚汁をお昼ご飯がわりにしたあと、模擬店めぐりをして、たこ焼き、たき火バームクーヘン、モンゴル肉まんなどを食べました。食べ過ぎだっちゅうねん。たき火の上で太い竹をぐるぐる回し、その上に小麦粉を垂らして焼いていくバームクーヘン、面白いから買ったのだけれど、200円で小さなかけらがふたつ。売っている方の労力からすると、こんなものなんだろうけれど、食べるほうからすると、う~ん、もうちょいと大きいかけらを食べたい。
ほかにも、バラ研究会のバラクッキーとか食べてみたいもの、たくさんあったのだけれど。本日の目的は食べることじゃなくて、近代建築公開なので、、、、
小腹を満たしたあと、本日のメインイベント。本館公開。
http://maskweb.jp/b_tuat_1_0.html
東京農工大学本館3階は、ミニ博物館になっていて、昆虫生理学・応用昆虫学の碩学という石井象二郎博士の事跡を展示していました。2002年に博士から寄贈された研究資料を公開しているのだそうです。
国際昆虫学会議の会長を勤めた立派な先生で、著書は紹介しきれないくらいたくさんあるのですが、最も有名なものは、ゴキブリの集合フェロモンを発見したことです。
石井象二郎『ゴキブリの話』北隆館(1976年)
私、昆虫好きなほうだけれど、虫を捕まえて標本を作るより、どっちかと言えば、昆虫を食べるほうに興味がある。どこまでいっても、食い気の私。
そしたら、さすが農工大。ちゃんとありました。昆虫を食べさせるところ。2号館304号室の昆虫機能生理化学研究室展示「昆虫料理試食会」
ゆでた蚕の幼虫、「醤油をたらして食べて下さい」と研究室の大学院生が言ったけれど、私は虫そのものの味が知りたかったので、醤油つけずに食す。蚕さなぎの唐揚げなどもいただきました。おみやげに蚕さなぎ唐揚げ4粒100円と蚕粉末入りクッキーの袋100円を買いました。
私は、子どもの頃、おばあちゃん特製のイナゴ佃煮を食べたことあるし、薪のなかに潜んでいた幼虫を風呂炊きしながら食べたことあった。薪の中の幼虫はこんがり焼けて香りがよく、美味でしたが、姉と妹に「そういう人はそばに寄らないで」と、宇宙人扱いされました。
大人になってからも、北京動物園内のレストランで「蝦エビ」の文字と見間違えて「蠍サソリ」の唐揚げを注文してしまい、食べるはめに。滋養強壮の薬膳で、高級食材なんだそうです。まあ、サソリもザリガニもイセエビも見た目は同じ。長春赴任中は、スーパーで普通に売っている蚕さなぎの佃煮を買って食べた。
昔、西丸震哉の「昆虫を食べよう。ハエの幼虫をデンブにしてタンパク源にすれば、地上の飢え問題は解決」という論を読んで、その通りと思ったのですが、ハエのウジデンブは今だに実現していません。
しかし、長野など中部地方のハチの幼虫を食べる「ハチの子」は珍味として有名ですし、最近では世界の民族食文化として、昆虫食が見直されてきたので、「昆虫を食べる」というのも、一概に「気持ち悪い」と疎まれることもなくなりました。めでたし。
農地周辺の昆虫は、農薬の影響を受けているので野生の虫はむしろ食べない方がよい、と言われている昨今ですが、昆虫食研究者の本も売れてきて、昆虫食啓蒙活動は続いています。2011年5月には、日本初の昆虫食を科学する研究会が発足しています。
http://e-ism.jimdo.com/
近代建築を見学に来たはずだけれど、生来の食いしん坊で、食べることばかりの報告でした。いつものこっちゃけど。
みなさん、虫はおいしい!昆虫食は人類を救う。
昆虫食の本紹介
・野中健一 『虫食む人々の暮らし』NHKブックス
・梅谷献二 『虫を食べる文化誌』創森社
農工大で一番有名な人。昆虫学の先生とかじゃありません。
農工大有名人といえば、生協の白石さん。でも、白石さんは私が行った農学部府中キャンパスではなく、工学部小金井キャンパスの生協勤務なので、府中キャンパスでは見かけることはありませんでした。残念。
東京農工大、大根はどちらのもおいしいだろうけれど、みなさん、東京農大と間違えないでやってください。
<つづく>
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2011年11月20日
ぽかぽか春庭「流転の王妃ゆかりの家」
2011/11/20
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
19日は大雨になったので、心配していましたが、20日はよく晴れました。少し暑いくらいの横浜で開催された「横浜国際女子マラソン」をテレビ観戦しました。最後まで尾崎、木崎両選手がデッドヒートを演じるレース。木崎選手がマラソン初優勝を果たしました。優勝選手はロンドンオリンピックの代表選考に有利ということで、1万メートルの選手からマラソンに転向して、マラソン経験はまだ少ない木崎選手、初優勝、さぞうれしいだろうと思います。
今年は2月に姑や娘息子と横浜へ行ったほか、9月19日には一人で横浜散歩をして、山下公園のあたりを歩きました。選手達が横浜の街を駆け抜ける、その沿線の風景にもなじみがあって、娘と「ああ、あの赤レンガ倉庫のあたり、歩いたね」などと、見覚えのある景色を楽しみながらのマラソン応援になりました。
9月の横浜散歩では、近代建築、西洋館めぐりと神奈川近代文学館の安野光雅展を楽しみました。近代建築めぐりも、たいていは都内の散策ですが、たまには神奈川や千葉、埼玉などへもちょっと足を伸ばして行きたいです。
11月は、千葉市内の建物を見ました。
「ゆかりの家・いなげ愛新覚羅溥傑仮寓」は、千葉市稲毛区にあります。溥傑が嵯峨浩と結婚して、新婚時代に暮らした家が保存されているのです。
千葉市の稲毛駅は、稲毛総武鉄道(千葉両国間)の「稲毛停車場」として1901(明治33)年に開設されました。1921(大正10)年には京成電車(千葉押上間)の「京成稲毛駅」ができたこともあり、稲毛近辺は東京の人々にとって、電車で行ける保養地別荘地、海水浴場として人気が高まりました。
「ゆかりの家いなげ」 は、東京市神田区の鈴木家(水飴商「笹屋」)が購入した保養施設で、その後、愛新覚羅溥傑夫妻が結婚後、1937(昭和12)年に半年ほど住んでいました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/yukarinoie.html
私は浩の自伝『流転の王妃』を読んだし、旧満州の首都だった長春に赴任した縁もあり、旧満州帝国の歴史には興味がありました。
愛新覚羅溥傑と浩は、戦後長く日本と中国に引き裂かれていました。しかし、その間にもこまめに文通をして絆を深めていたことを、自伝『流転の王妃』やそれをもとにしたテレビドラマで知っていたので、いつか書簡集が出るのではないかと思っていました。
福永嫮生『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』は、2011年10月に文藝春秋社より発刊。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163742502
著者の福永嫮生(ふくながこせい)は、中国清朝そして満州帝国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の姪にあたります。父は皇弟溥傑。母は嵯峨侯爵家から嫁いだ浩。嫮生は、母の実家嵯峨家で育ち、福永健治と結婚。健治の叔父の妻福永泰子は浩の妹で、香淳皇后に仕えた女官です。(嫮生の生涯は『流転の子-最後の皇女愛新覚羅嫮生』(本岡典子)に詳しい)
http://www.honzuki.jp/book/book/no184590/index.html
<つづく>
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2011年11月22日
ぽかぽか春庭「ゆかりの家いなげ」
2011/11/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
テレビ朝日開局45周年記念のスペシャル番組『流転の王妃 最後の皇弟』、2003年11月29日11月30日の二夜放映。常盤貴子が愛新覚羅浩、竹野内豊が愛新覚羅溥傑を演じました。
いつもは「戦争のシーンがいや」と言って近代史に関係したトラマはあまり見たがらない娘でしたが、『流転の王妃』は、常盤貴子の浩と竹野内豊の共演が見たいと言い、息子と3人で見ました。(娘は、関ヶ原とか源平の合戦なら「遠い歴史のこと」として槍や鉄砲での戦シーンも見ていられるのに、近代史だと身につまされるので見たくない、と言うのです。戦争や原爆を描いた映画やドラマでも娘は涙滂沱となり、ドラマと割り切っている私までついもらい泣き)
ドラマの『流転の王妃』、フィクション部分もありますが、おおむね史実や浩の自伝に忠実に作られていました。再放送はBS朝日2009年1月2日。
http://www.bs-asahi.co.jp/ruten/
溥傑は、愛新覚羅溥儀の弟です。溥儀は清朝のラストエンペラー。革命によって清朝皇位を失った後、日本が無理矢理成立させた満州国の「執政」として新京(現在の長春)に入り、ついで皇帝となりました。
満州を支配しようとしていた日本軍幹部は、愛新覚羅溥傑の妃に皇女降嫁を画策したのですが、皇室典範の規定でそれはできませんでした。皇室典範によると、皇女は日本の皇族又は華族に降嫁する以外に結婚できず、溥傑は皇族扱いではなかったから。
旧大韓帝国の日本併合後、李王家は準日本皇族としての待遇を受け、王世子(皇太子)李垠の妃は皇族の梨本宮家から方子女王が嫁ぎました。しかし、満州国は独立国として扱われたので、溥傑は皇族出身の女性を妃に迎えることは出来ず、浩が愛新覚羅溥傑妃として選ばれました。嵯峨浩の父方の祖母仲子(南加)は、明治天皇生母中山慶子一位局の姪で明治天皇のいとこにあたるゆえ、華族の中でも皇室に近いとみなされたためです。
満州国崩壊後、浩は次女嫮生を連れて敗戦後の旧満州を1年半にわたって流浪し、辛酸をなめました。戦後も家族の悲劇は続き、溥傑は中国に浩は日本にと引き裂かれたまま。さらに嫮生の姉の愛新覚羅慧生は、学習院在学中、同級生の大久保武道に同道し、天城山で頭をピストルで撃たれ死亡しています。(天城山心中事件として知られています。嵯峨家側愛新覚羅側から言わせると心中ではなく、無理心中またはストーカー殺人。真相は不明のまま)
そんな家族をつなぎ止めた、愛新覚羅溥傑と浩との手紙のやりとり。浩と溥傑は、政略結婚で結ばれたにもかかわらず、本当に心から愛し合っていた夫婦だったのです。手紙に登場する関係者が生存しているうちは、この書簡集が活字化されることはないかと思っていましたが、次女の嫮生が71歳ですから、浩と溥傑に直接関わった人々に迷惑をかけることもなくなった時期になったのでしょう。
書簡集は、歴史の一断面の証言でもあり、希有な人生を歩んだ夫婦の愛の記録でもあります。
私は11月8日、この「ゆかりの家」を見て来ました。行きはJR稲毛駅から歩いて行ったのですが、思ったより遠かったので、帰りはバスで駅に戻りました。京成稲毛駅からなら、もっと近くて歩くのが楽。
http://www.kyoikusinko.or.jp/sisetsu/04.html
1937(昭和12)年に結婚した愛新覚羅溥傑と嵯峨侯爵家長女の浩。ふたりが新婚の住まいとして住んだ家は、他の華族のおやしきに比べるとごく簡素な普通の家です。日本の皇族に準ずるとされた朝鮮王家の李垠(りぎん)が、赤坂に華麗な宮殿を建てた(旧赤坂プリンスホテル旧館)に比べると、まさに「仮寓」という印象の小ぶりな家です。
旧朝鮮王世子李垠邸
http://maskweb.jp/b_riouke_1_0.html
<つづく>
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2011年11月23日
ぽかぽか春庭「愛新覚羅溥傑仮寓」
2011/11/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
1932年3月1日、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を元首(満洲国執政)として成立した満州国。2年後、1934年に溥儀が皇帝として即位したものの、国際的には承認されませんでした。「満洲帝国は日本の傀儡国家」とみなされ、溥儀も皇帝たる自分に何の権限もなく、日本軍部の意のままに満州国が扱われることにいらだちを深めていきました。皇后はアヘンに溺れ、もうひとりの正妃は満州国入りする以前に離婚を要求して溥儀を離れていました。
後継男子を持たなかった溥儀のもとには、跡継ぎ候補の親族が養育されていましたが、もし、日本人である浩と溥傑の間に男子が出生していたら、日本軍部は跡継ぎにゴリ押ししたことでしょう。
きな臭い政略結婚であったにもかかわらず、浩と溥傑は仲むつまじく、娘ふたり慧生(すいせい)嫮生(こせい)も誕生しました。
溥傑夫妻の長女慧生は日本の母の実家嵯峨家で育ちましたが、自分に流れる中国の血を意識し、中国語を学びました。慧生は周恩来首相に手紙を書きました。両親が日本と中国に引き裂かれたままでいる悲しみについて書かれた手紙に、首相は心打たれたそうです。日本と国交がなかった時代でしたが、周恩来首相は、浩が溥傑とともに暮らせるよう計らいました。夫婦が海を隔てて引き裂かれてから16年たち、ようやくいっしょに中国で暮らすことができました。
ゆかりの家には、書家としても著名であった溥傑の書が掛け軸にありました。また、浩が死去したあと、晩年の愛新覚羅溥傑が次女の福永嫮生とともに新婚時代の家を訪ねた写真が、「ゆかりの家」に飾られていました。新婚当時の婦人雑誌に掲載された「名家の新婚夫妻特集」というようなシリーズで溥傑夫妻が仲良く写っている写真もありました。
離れなどを見ていると、係員が「離れは、夫妻の書斎で、ふたりだけでくつろぐ時やごく親しい友人を招くときに使われていました。トイレは陶器製なんですよ」と、和式のトイレを鍵を開けてみせてくれました。有田焼きの便器でした。建具や照明器具など、当時のまま残されているものも多い、という係員の説明でした。
「ゆかりの家」内部写真紹介のブログ(ただし、ここにも誤情報が。浩を「皇族」と書いています。浩は華族ではあったけれど、皇族ではない。いつもの「個人ブログは間違い多し」の例。春庭サイトにも間違いがいろいろあると思いますので、情報についてはそれぞれご自身にて確認なさってください)
http://vicroad.blog31.fc2.com/blog-entry-746.html
庭のしつらえも当時と同じにしていると、いうので、お庭も拝見。
玄関の裏庭に、「白雲木」という木が新しく植えられています。これは、浩が結婚するときに貞明皇后が下賜した木の子孫の木だということです。
それほど広い庭ではありませんが、柚の木の下にゆずの実が一個落ちていました。「ゆかりの家」の「ゆかりの柚子」と思って拾いました。小さな柚子から香りが広がりました。
http://area.rehouse.co.jp/r-chiba-bay/151
過酷な運命に翻弄された溥傑と浩ですが、晩年は夫婦仲良く中国で暮らすことができ、ふたりしてこの稲毛の新婚時代の家をなつかしむこともあったことでしょう。浩は「日中の架け橋」として両国の友好に勤め晩年をすごしました。
旧満州の首都新京(現在の長春)に3度も赴任したという縁を持つ私。私も友好を願って、ゆかりの家から火曜日の出講先へ向かいました。
火曜日は2クラス50人の中国人留学生相手に、「日本で報道されている新聞雑誌のなかの中国像」というテーマで授業をしています。日本語読解の練習として、今、目にできる新聞雑誌の表現の中から、「せめて、漢字を中国語読みでなく、日本語の発音でなんと読むのか、読めるようになりましょう」という意図の授業であり、日中関係分析とかそんなところまではとてもじゃないけれど、行きつきません。「今日」と書いてあれば、意味だけ理解して読み方は「ジンリー」とか「ジンティエン」で済ませてしまうレベルの学生のクラスです。「今日」は、キョウと読むときとコンニチと読むときで使い分けがあることをわかってもらう、という段階の授業。
11月8日の学生発表は、「一人っ子政策、是か否か」という新聞記事。また、中国の宇宙進出に関する記事、中国が世界でもっともCO2排出量が多くなってしまった、という記事でした。
クラスのほとんどの留学生が一人っ子です。小皇帝、小公主と呼ばれる、わがままいっぱいの今時の中国人留学生たち。いっしょうけんめい日本語学んで、日中の架け橋になってほしいです。
<つづく>
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2011年11月25日
ぽかぽか春庭
2011/11/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
「売り家と唐様で書く三代目」という川柳。初代が苦労して作った家屋敷も、 3代目となると売りに出すことになる。商いをおろそかにし中国風の書体で優雅に手習いを続けたはいいが、財産使い果たし「売家」のはり紙をするハメになる、ということわざになっています。
平成の世でも三代目のアホボン、紙屋の若旦那がマカオのギャンブルに入れあげて、会社の金を106億円も使い果たしてしまった、という。
アホボンはどこにでもいつの時代にもいるものだとは思うけれど。それにしても、100億とは。
清朝11代目の光緒帝。中国に赴任して中国近代史に親しむようになるまでの私のイメージでは、光緒帝はアホボンのように思っていたのです。伯母の西太后に牛耳られて、清朝崩壊に手をこまねいていた11代目。しかし、浅田次郎原作のドラマ『蒼穹の昴』では、時代の波に飲み込まれようとする清朝を、自分なりに懸命に立て直そうとして果たせなかった悲劇の帝王として描かれていて、私も西太后や光緒帝へのイメージを改めました。
愛新覚羅溥傑仮寓を見て来て、旧満州の首都新京(現在の長春市)で溥儀の皇宮を見たときのことを思い出しました。
私は、1994年と2007年に、北京の紫禁城、長春の満州国皇居、2009年にヌルハチの瀋陽故宮を訪ねました。2007年に長春や大連市内の近代建築めぐりをしたことが、私の「近代建築めぐり」のきっかけでした。それ以前は「庭めぐり」「博物館めぐり」のほうが散歩の中心で、建物は「庭に付属する建物」という感じで見ていました。たとえば、旧古河庭園の中に建つコンドル設計の邸宅、という見方です。
長春市内には、満州国時代の建物が数多く残されており、近代建築がそのまま現代まで役所や病院として使用されていました。私が住んでいた宿舎も、1930年代に建てられた官舎をそのまま修理しつつ使用していた2階建てでした。(1930年代の都市インフラとしてはたいへんすぐれた設備であった上水道も、そのまま使い続けられていたので、水道管がさびていて、水道をひねるとしばらくは赤い鉄さびまじりの水が出るのが玉に瑕でしたが)。
長春市内の近代建築のうち、ラストエンペラーに関わる建物ふたつだけ、思い出の「建物めぐり」として紹介しておきます。2007年の「ニーハオ春庭中国日記」の「偽満皇宮博物院(元満州国溥儀皇居)」の訪問記です。2007年5月25日~31日。
でも、読み返して見たら、建物紹介などあまりしていなくて、おみやげを値切り倒した話とかでした。2007年の偽満皇宮博物院訪問記は、ラストエンプレス、最後の皇后婉容の話が中心なので、興味があったらごらんください。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200705
2007年に訪問したときは、博物館の展示についていた解説の日本語、間違いだらけでしたが、その後きちんとした日本語表示になったでしょうか。
中国東北旅行した方々のブログから、写真を拝見。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tour3/08.html
http://uenotblog.jugem.jp/?eid=187
http://blog.goo.ne.jp/meytel999/e/9591bcdbf2e6bdc111e44b39e347bde2
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/tyosyun_019.htm
http://www.jmcy.co.jp/~goto/photo2005/ETC/O050516.htm
満州帝国の首都新京は、現在では中国吉林省の省都長春市となっていますが、満州時代に建てられた建物がそのまま役所や大学として使用されており、歴史的文物として保存されています。しかし、つい最近まで残されていた満鉄社宅などの一般住宅は、どんどん取り壊されて高層ビルになっていることが多いので、私が住んでいた宿舎もいつまであの繁華街の中心地に残されているか、心配です。
溥儀が皇位復辟を成し遂げようとして傀儡皇帝とならざるを得ず、悶々として過ごしたという新京皇宮。それほど広くもなく豪華でもない皇宮の中、見果てぬ夢の残骸だけが冷え冷えと広がっていました。
夫婦引き裂かれても絆を信じ、ついに再会をはたして晩年は仲むつまじく暮らすことができた溥傑夫妻。皇后はアヘンの禁断症状にのたうちながらの死。側妃は自ら離婚を望んで去る。唯一、溥儀が愛したとされる妃は謎の死を遂げる(溥儀は関東軍による暗殺と信じていた)。戦後、共産党からあてがわれた妻は看護婦兼共産党へ溥儀の動向を報告する役割の女性、この女性に頭が上がらなかったという溥儀。
人の幸福は、皇帝の地位や106億円でも買えません。引き離されても決してほどけない絆を得た人が、もっとも幸福なのかもしれません。
ほどけっぱなしの絆の我が夫婦愛。絆を結ぶにはそれ相応の努力が必要なのでしょうね。夫婦愛、、、、夜の絆のためにはエリエールを買っておきましょう。って、最後は「お気をつけあそばせその女下品ですから」と言われるようなことになってしまって、やはりお里は隠せませんですわ。
それにつけても、欲しいな106億円。
<つづく>
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2011年11月26日
ぽかぽか春庭「デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘」
2011/11/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家・旧神谷伝兵衛稲毛別荘
千葉市稲毛区の「ゆかりの家」の近所にある「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」。
「愛新覚羅溥傑ゆかりの家」を地図で確認したとき、同じ千葉市の管理文化財として旧神谷伝兵衛邸があることを、はじめて知りました。
http://www3.plala.or.jp/gallery-inage/aboutus/kamiyabeibesso.html
神谷伝兵衛(1856(安政3)~1922(大正11))は、電気ブランで有名な浅草のカミヤバーやワイン醸造の牛久シャトーを設立した実業家です。
http://maskweb.jp/b_kamiyavilla_1_0.html
1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」の名で売り出し、1898(明治31)年に茨城の原野を開墾して神谷葡萄園を開園しました。1903(明治36)年、ワイン醸造場を設立。この建物は、現在シャトーカミヤとして国の重要文化財になっています。
http://www.ch-kamiya.jp/
神谷伝兵衛稲毛別荘は、千葉市内で最も古い鉄筋コンクリート建築で、1918(大正7)年に、晩年の神谷伝兵衛が、来賓歓待用に建てた洋館です。建物は1階が洋室、2階が和室の和洋折衷の造りは、当時のお金持ちの洋館と同様のデザイン(コンドル設計の旧古河男爵邸も1階が公のスペース洋室。2階が私的スペースで和室でした)。
邸内の各所に葡萄がデザインされた意匠が見られます。欄間に葡萄房を表現した彫刻があり、床の間の柱には葡萄の古木を用いています。伝兵衛がいかに「葡萄酒」に心をくだいたかが、この葡萄意匠へのこだわりにもうかがえます。
http://www.geocities.jp/chiba_bunka/kamiya.html
2階階段をあがった次の間スペースに牛久シャトーで葡萄酒醸造を始めた頃の写真とか、ハチ葡萄酒の宣伝ポスターなどが展示してありました。牛久にはワイン博物館があります。シャトーカミヤの建物もみたいので、そのうち訪ねてみようと思います。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumSearchDetail_jp.jsp?im_id=1354
ハチワインポスターの美人モデルは、グラスをあげてとろんとした目をながしています。ハチワイン、飲んでみたくなりました。
旧前田侯爵邸に「カフェ・マルキス」をオープンさせたように、神谷伝兵衛別荘でも、カフェ・カミヤなんぞをオープンして、ハチ葡萄酒や電気ブランを売り出したらよさそう、と思いました。カミヤ邸のとなりは千葉市の市民ギャラリーになっているので、ギャラリーで絵を見た帰りに一杯というのもよさそうです。
11月14日夕方、はじめて浅草カミヤバーに入り、デンキブランを飲んでみました。このカミヤバー、バーという名がついているので、これまで浅草に来て店の前を通っても、入ったことがなかったのです。おひとり様で「バー」なる所へ入る勇気がなかった。気が小さいもんで。
14日午後は、浅草寺で開かれた「油絵茶屋」という催しを見に来てにわか雨に遭い、「雨宿り」の軒を借りるつもりで、おひとり様でカミヤバーに入りました。
カミヤバーは、創業は明治時代ですが、今残る浅草の店舗は、1921年(大正10年)の竣工。2011年7月に国登録有形文化財として新登録された建物です。
以下の文化庁のページの2番目にカミヤバーの登録が記載されています。
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/yukeibunkazai_toroku_110715.pdf
次回、つづけて、カミヤバー報告。
<つづく>
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2011年11月27日
ぽかぽか春庭「デンキブランの店カミヤバー」
2011/11/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
大正時代の建物、カミヤバーの紹介サイト
http://maskweb.jp/b_kamiya_1_1.html
世間を知らない私。テレビドラマでしかバーを知らないので、バーってのは、きれいに着飾った女性がお酌をしてくれて、ビール一杯で万札が飛ぶような感じだった。
現実のバーは、30年も前に池袋場末のバーにタカ氏やアフリカ旅仲間といっしょに入ったことがあるだけ。結婚後は、夜6時以降は外に出ることもない生活でした。タカ氏はまったく飲まない人だし、妻といっしょに出かける何てことはまったくしない。
娘が夕食係になるまでは、仕事がおそくなっても「早く帰って子ども達に夕ご飯作らねば」と大急ぎで帰宅するような生活だったので、おひとり様で出かけることもなかった。世間一般の「夜遊び」というものを知らない。
カミヤバーは相席方式で、どんどん客を詰め込んでいく。1階の相席で、4人掛けのテーブル。二人連れのおば様と杉戸町在住メーカー営業マンというごま塩紳士といっしょになりました。相席男性の説明によれば、ここは女性おひとり様でもふたり組でも、気楽に立ち寄れる西洋居酒屋で、一般にいうバーとは違う、とのこと。
デンキブランは、アルコール30度という割には飲みやすく、けっこう飲めました。蜂印ワインもいっしょに飲みました。カミヤバーのおすすめはビールと電気ブランを交互に飲む方法らしいのですが。
レジで配布している「デンキブラン今昔」というカードによれば。浅草名物の電気ブランは、ブランデーをベースにしたカクテルで、当時最もハイカラなことばだった「電気」をつけて「電気ブラン」と命名されたそうです。
ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草を混ぜたカクテル。120年間、変わらずに愛飲されてきたカクテル。おいしゅうございました。といっても、おいしいお酒というのがどういうものかも知らずに風呂上がりにビール飲むくらいが関の山だったので、たぶん、おいしいのだろうと思うのですが、はじめて一人でバーにはいったうれしさの味だったのかも。
カミヤバー相席のおばはんのうち一人は「若い頃は銀座有楽町で遊び回ったのよ」とおっしゃる恰幅のよい方。お連れさんは「浅草お酉様の二の酉でこれ買ってきたの」と、小さなお飾りを見せてくれました。稲穂や金色のミニチュア米俵があるデコレーションです。「あら、いいですね。これで来年もご一家繁栄ですね」と、相づちを打つ。
遊び慣れたようすのおばはんを前に、「私は苦労のしっぱなしで、これまで夜遊びしたこともなく、カミヤバーに入ってみたのも初めてなんですよ」と、遊び知らずに生きてきてしまったことを愚痴りました。男性は、「苦労の多い人生なんて、みんなそう。ここで飲んでいる人、全員が自分が一番苦労した人生だと思っていますよ。あなたなんか、こうして飲んでいるんですから、幸運な人なんです」と言う。ほんとにね。喰うや食わずで生きてきて、バーと名の付く所に何十年ぶりからで入った、とはいうものの、まだ生きているんだから、確かに幸運なのだと思います。
営業マンという男性のほうは、カミヤバー常連さんらしく、「この店の奥のほうには常連さんのテーブルがあって、70代、80代、90代のご老公もいて、話好きだからおもしろいよ。次にきたら、奥の10人掛けテーブルに座るといい」と、カミヤバー指南をしてくれました。
午後3時半に入店したというので、平日の午後、退職後のひまつぶしかと思ったら、今も現役営業マンという。「バブルはじける前は、接待費使い放題。銀座でも派手な飲みっぷりでならしたもんですが、今はここで一杯300円500円の酒です。部下を誘っても、近頃の若いもんは、上司の誘いを平気で断るもんで」と、愚痴もこぼれる。
カミヤバーで相席になった男性、浅草から東武線一本の杉戸町に住んでいるので、生ビールやデンキブランを数杯傾けてから帰るのだとか。育ったのは浦和市というので、「あら、私も浦和に10年間住んでいました」と、御当地トークがはずみました。
<つづく>
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2011年11月29日
ぽかぽか春庭「ハチ葡萄酒で乾杯」
2011/11/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)ハチ葡萄酒で乾杯
カミヤバー相席のおっさん、そのうち、ポケットから写真をとりだして、家族自慢&愚痴がはじまった。奥さんといっしょに飲むのは正月二日だけ。娘ふたりのうち、ひとりは五大湖近くのキングストン出身カナダ人と結婚、ひとりはテキサス出身アメリカ軍人と結婚して、婿二人は日本語を覚えようとしないので、話が通じない。
アメリカ婿は横田基地に住み、カナダ婿はカナダ大使館に勤務なので、孫達も英語オンリーだったのだけれど、一番年上の孫は少し日本語が話せるようになった。アメリカンスクールは6月から夏休みなので、日本の小学校が7月末に夏休みになるまでの間だけ、杉戸町の小学校に一ヶ月通わせて、なんとか日本語で話が通じるようになったのだそうです。田舎町のこととて、最初は「あいのこ」なんてイジメも受けたけれど、日本語が上手になった、と男性は孫4人の写真を見せる。
孫たち、みな美形。子役やモデルになれそうですね、と誉めると、さらにポケットから地方の衣料店の広告チラシを出して、「ほら、これ、うちの孫。モデル始めたんです」と、見せて「こんな田舎のスーパーの衣料品チラシですが」と、まんざらでもなさそう。
営業の仕事も最近はさっぱりで、女房は自分の世界で好きにやっているし、孫達とは会話が通じないという男性、カミヤバーでたまたま相席になった客相手に、孫自慢に励む、そういう人生もまたよきかな。
カミヤバーで話した相手のことを手帖にメモしているのだと、見せてくれました。私のことは、「息子が23歳という話から推察して50代前後と思われる婦人と相席。子どもは息子のほか娘ひとり。夫は酒も飲まずタバコも吸わない。群馬生まれで、結婚まで埼玉に住んでいた東京在住の女性」と記録するそうです。
私と話しての印象は、「テニオハがはっきりしていて、しゃべり方に曖昧な点がなく、インテリゲンチャの雰囲気がある」とのこと。「インテリゲンチャって、そりゃ完全に昭和語ですね。そういう死語は、若い人には通じないでしょう」と混ぜっ返すと、「ワカイモンとは、仕事の話も通じなくなってきた」と、愚痴。だいぶ職場では浮いているごようす。
バブル後、営業の成績も右肩下がりになって、職場で孫の衣料品店チラシモデル写真なんぞを見せても、受けるのは1回だけ。それ以上は「また孫自慢だよ」と敬遠されてしまいます。けれど、この相席テーブルで毎回違った相手に見せていれば、その都度自慢できる。孫のモデル姿がある広告チラシはだいぶヨレヨレになっていました。
「これから池袋行きのバスに乗って、練馬まで帰る」というおばはんふたりが立ち上がったので、「私もそのバスに乗って帰ろうと思っていたのですが、バス停がわからないので、ごいっしょさせて下さい」と、バス停まで行く。バス路線があるのは知っていたのですが、これまではバス停の場所がわからないので、雷門前から上野行きのバスに乗っていたのです。池袋行きのバス停は東武浅草駅のすぐ裏手でした。
バスは、吉原大門、日本堤、三ノ輪などを抜けて夜の下町を走ります。
吉原から三ノ輪投げ込み寺へ直行した幕末明治の女の人生もあったろうし、戦災で散った昭和の女の人生もあったろう。津波でなにもかも流された平成の女の人生もまた。
今生きている私は幸運なのだ、と思って、池袋行きのバスを途中下車。
東京農工大学のおみやげ「昆虫クッキー」は、案の定娘息子に嫌がられたので、駅前で「おみやげ、ミスタードーナツとマックどっちがいい?」と聞いたら、娘はハンバーガーがいいというので、マックを買って帰りました。娘は夫からの遺伝で、お酒はまったく飲めません。息子は一応は飲めるけれど、人中ですごすのが苦手なので、いっしょにバーに連れてもゆけない。ま、これからもひとりで飲みに行こうかと思います。
あ~、ひとり飲むのもオツだけど、ふたりでしみじみ飲むのも大勢でワイワイと飲むのも好きです。お誘いあらば、どこにでも。
酒は焼酎でもワインでもデンキブランでも。おつまみはキャビアでもトリュフでも昆虫でも。
<つづく>
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2011年11月30日
ぽかぽか春庭「建物巡り散歩ひとくぎり」
2011/11/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり
歩くことで健康維持を図りたくはあるのですが、一日何万歩というような目標を定めてもくもくと歩き続けるとか、山の頂上を極めて達成感を得るとか、そういう目標達成型の建設的な歩き方ができません。美術館の中をぶらぶらと好きな絵を眺めて二巡三巡するような歩き方、気に入りの建物を探して道に迷いながら、ようようたどり着くというような歩き方しかできないのですが、これでも歩く動機付けにはなっているから、いいのでしょう。
いろんな生き方があっていいし、いろんな趣味があっていい。これからもプラプラと気ままに歩いて、気ままに絵を見たり建物を見たり、何もせずにただ景色をぼうっと眺めながら歩いていきたいと思います。
今回の文化財公開で、見逃した建物もたくさんあります。たとえば、新宿区の旧島津家アトリエ。現在は中村邸として住んでいる方がある文化財なので、公開日時が決まっていて、その日を逃してしまったら、来年までおあずけ。ま、来年まで生きていようというモチベーションになりますから、よしとします。
武者小路実篤邸などはなぜか11月中に2度も訪問したのに、行こうと思っていた三鷹の山本有三邸には11月には行く時間がとれなかった。まあ、ここもいつでも公開しているのだから、そのうち行って、『路傍の石』の作者の家、ゆっくり見てこようと思います。
未完に終わった『路傍の石』。中学生のときに私が書いていた日記を読んだら、『路傍の石 続編』というのが書かれていました。未完のままなのを残念に思い、続編を勝手に付け足したのです。自分で書いたのにすっかり忘れていて、けっこう面白く読みました。『風とともに去りぬ』とか『明暗』は、著作権が切れてから続編が出版され、ヒット作にもなりました。私が中学生のとき書いた『路傍の石』続編、著作権が切れる2024年まで長生きできたら、公開できるかも。
長生きのためにも、せっせと歩いて健康維持。でも、風邪を引いても何だし、寒い北風吹く間は外歩きも一休みして、日だまりでひなたぼっこがよろしいかも。
急に寒くなって、あわてて灯油券を買ってきました。インフルエンザ予防注射もすませて、いよいよ12月。冬よ僕に来い、、、、って、あたしんとこには来なくていいから、僕のところへ行ってあげてね。ことしの冬はラ・ニーニャ(スペイン語で「女の子」という意味。「あたい、おんにゃのこよ」って言うようなちっちゃな女の子の感じがします)の影響で厳冬だそうです。みなさまご自愛のうえ、12月をお迎え下さい。
じゃ、あたいも冬ごもり。
<おわり>