春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

建物散歩-華族のおやしき2011年11月

2010-03-17 16:46:00 | 日記
ぽかぽか春庭「和敬塾本館」
2011/11/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>画家のアトリエ作家の家、華族のおやしき(7)和敬塾本館

 徳田秋声旧居で年配の女性と中年の男性といっしょに、徳田章子さんの説明を聞き、3:30の公開時間が終了したあとも、しばし門の前で立ち話。ふたりとも建築探訪を趣味にしていて、あちこちの古い建物を見て歩いているようです。
 先月亡くなった北杜夫のエッセイで、昆虫採集好きの人同士は、かみ切り虫の三番目の足について語るだけで、一日中語り尽くせないものだ、と書いていましたが、建物探訪好き同士も、「あの建物はこうだった」「こちらはもう取り壊されてしまった」などの情報を交換していると、あっという間に時間がすぎました。

 しかし、それぞれが「夜までに次の建物へ移動しなければ」というスケジュールを抱えています。男性は「これから早稲田のスコットホールを見に行きます」と言って急ぎ足で去りました。
 私も、東京都文化財ウイーク特別公開の日々、建物探訪に忙しい。10月29日武者小路実篤邸、旧岩崎邸、旧朝香の宮邸。30日和敬塾、林芙美子邸、佐伯祐三アトリエ。31日前田侯爵邸、駒場東大構内をめぐり歩いています。男性が「すぐこの先が求道会館ですよ」と案内してくれたので、11月2日は、徳田秋声旧居見学のあとは、求道会館の外観の写真を撮ることができました。そのあとは、東大本郷構内を歩きました。東大内もどんどん古い建物が壊されて新しいビルが建てられています。徳田章子さんは、「新しい建物で研究したかったら、柏キャンパスとか広いところに高いビルを建てたらいいじゃないですか。本郷の建物は古いまま保存して欲しい」と力説していました。ほんとうにその通り。

 10月30日は、往復葉書応募しておいたので、和敬塾本館(旧細川侯爵邸)を見学しました。建物探訪趣味が共通しているウェブ友ヨコちゃんとごいっしょできるのを楽しみにしていました。去年は北区飛鳥山公園の渋沢栄一邸の見学でごいっしょしました。

 午後は次の訪問地があるので、9:30の回に応募しました。ヨコちゃんと建物ガイドさんの解説を聞きながら、1階2階を見てまわりました。
 旧細川侯爵邸が古いまま残されたのは、和敬塾という地方の学生用宿泊施設を設立した財団法人によって買い取られ、そのまま使用されずに残されていたことによります。
 前川製作所の創業者である前川喜作によって1955(昭和30)年によって創設された和敬塾。6つの寮に東京の大学に通う地方の学生や留学生約450名が寄宿しています。村上春樹も早稲田大学入学後、滞在していました。前川が細川邸敷地を買い取ったあと、侯爵邸は寮としては使用されず、内部は手つかずのまま残されました。

 また、前川の買い取り前、戦後、前田侯爵邸や朝香の宮邸がGHQに接収され、貴重な金唐革の壁紙にペンキを塗り立てられるなど文化財破損の被害を受けたときも、細川邸は、文化に理解のあるオランダ軍高級将校が在住したため、内部はそっくり保存されたという解説がありました。現在は結婚式などに使用されています。

 見学料金千円で高いと思い、これはお茶付きだろうと推察したとおり、40分ほどの見学のあと、広間でケーキと飲み物が出ました。大急ぎでケーキを食べたあと、「写真を撮りたいのですが、もう一巡してもいいですか」と係員に訪ねると「もう10;30からの見学グループが入館しますから、お茶を飲み終わったら、出ていただきます」と言う。私は説明は聞かずに写真をデジカメで撮りまわっていたのだけれど、ヨコちゃんは解説を聞いたあとゆっくり写真を撮りたかったようで、「まだ写真撮ってないところがあるのに」と、残念そうです。
 そこで、私のいつもの奥の手「ずうずうしさ」をヨコちゃんに伝授することにしました。

<つづく>
18:55 コメント(2) ページのトップへ
2011年11月09日


ぽかぽか春庭「旧細川侯爵邸」
2011/11/09
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>画家のアトリエ作家の家、華族のおやしき(7)旧細川侯爵邸

 和敬塾本館旧細川侯爵邸の玄関を出ると、「ヨコちゃん、帽子ぬいで。そのオレンジ色のダウンジャケットも脱いで」と言って、私も青いジャケットを脱ぎました。30名の見学グループ、9:30のグループに誰とだれが参加していたか、なんて、係員もひとりひとりの顔を覚えている分けじゃないだろうから、10:30のグループにもう一度もぐり込む作戦。

 前と同じまま二度参加するのは気がひけるけれど、帽子と上着をとれば、「別の人」に変装した、というつもりになれる、という程度の変装ごっこです。二人して10:30のグループの最後尾にもぐりこみました。解説ガイドさんは同じ人なので、なるべく柱の陰などに隠れて顔を合わせないようにして、一番後列を歩き、写真を撮りました。ほんとうは二度参加してはいけないのだろうけれど、見つかったらヤバイと、ちょっとドキドキしながらの撮影なので、私はおもしろかった。

 たぶん、係員は2回目の見学だとわかっても、「出て行け」なんてことは言わないだろうと思うのですが、ひとりだったら、心細くてできない2度目の見学も、ふたりだから、「みんなでやれば恐くない」方式です。
 天井の意匠や欄間の彫刻、柱など、細かいデザインがとても興味深かった。

 写真は、「個人の記念に撮影するのはかまいませんが、許可を得た場合以外、インターネットやブログで公開するのはご遠慮ねがいます。以前、ブログに間違った情報を書かれて迷惑したことがありますので」というご注意がありました。
 確かに、個人のブログはテキトーな情報が多い。以前、ヴォーリズ作品を見に日本獣医生命科学大学に行ったときのこと。多くのブログに大学本館の写真に「ヴォーリズの設計」というキャプションがつけられていたのを思い出しました。本館はヴォーリズの設計作品ではないのです。
 こちらのサイトの写真も外観のみ。
http://maskweb.jp/b_wakei_1_0.html

 10:30のグループが広間でのお茶とケーキの時間になったので、玄関から抜け出して、3階の見学に行きました。3階は新しく建てられた別の階段から上がるようになっていて、結婚式や展覧会が行われるスペースです。3階屋根裏部屋がこのように改修されたのは最近のことだそうです。
 和敬塾のカルチャーセンターに通う人々の絵画展がありました。絵は、そっちのけで、建物内部の写真を撮ったり、3階ベランダからの眺めを楽しんだりしました。

 外観の写真もたくさん撮影できました。建物の北側、玄関の付近の窓。窓外側の鉄格子は、戦争中の金属供出で取り去られたのに、南側、細川夫妻の寝室の窓には鉄格子が残されています。これは2.26事件のあと、暗殺を恐れたために寝室の鉄格子だけは外部からの侵入を防ぐため残されたのだそうです。寝室の前は鉄扉で仕切られていて、万が一の侵入者乱入に備えたのだとか。お金持ちの生活も楽じゃありません。

 元首相の細川護煕は、戦前、幼少時をこの館で成長しました。邸内を改修するときなどは、意見を述べてきたようです。
 細川家の文物は和敬塾の隣の永青文庫に収められていますが、現在は改修中です。新江戸川公園は細川家下屋敷の庭園だったところ。和敬塾、永青文庫、新江戸川公園と三ヶ所に別れてしまってはいても、大名屋敷がこのようにそっくり残されているのは

 ヨコちゃん、私の2度目の見学におつきあいしてくだり、ありがとう。2回見学して写真もいっぱい撮れたので、「千円払った甲斐があった」というところです。
 どこにでも潜り込もうとする悪童の建物探訪、まだまだ続きます。

<つづく>
00:07 コメント(1) ページのトップへ
2011年11月11日


ぽかぽか春庭「旧三井男爵家本邸別邸」
2011/11/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸

 文化財ウイーク特別公開、11月6日月曜日午後は、旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。
 北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
 昭島市の観光HPより
http://www.akishima-kanko.org/study/entry-70.html

 啓明学園は、1940年に三井高維(みついたかすみ)によって港区赤坂台町に創立されました。財閥系商社などの会社員が海外赴任する際、日本に残された子女の教育を担当する学校として設立され、1943年、拝島の土地建物が啓明学園に寄贈されました。拝島の三井別邸は、寄宿舎のひとつとして使用され、北泉寮と呼ばれるようになりました。
 千葉県知事を勤めた堂本暁子とジョン・レノン夫人オノヨーコは、同級生として在学していたことがあるそうです。

 金谷高、高村雅彦による日本建築学会大会学術講演集梗概を読み、北泉寮の歴史が詳しくわかりました。設計は坂本復経(1855(安政2)~1888(明治21)。坂本が若くして死去したため、辰野金吾と片山東熊が施行の監督を務めました。おお、ここも辰野金吾と片山東熊かい、と思いました。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110008113578

  月に1回程度、一般公開が行われていますが、ハガキ申し込みが必要です。仕事が早く終わったときに突然訪問の時間が取れるといった、私のような不規則な勤務の者には、なかなかハガキ申し込みするチャンスがありません。
http://www.keimei.ac.jp/hokusenryo_kokai/hokusen_kokai_2011_02.htm

 文化財ウイークの期間は、申し込みをせずに直接見に行ってよいので、11月6日は8時半から2コマの授業を終えると、お昼を食べずに宿題の点検や漢字テストの採点を大慌てですませて、立川からのバスに乗りました。

 啓明学園の校門は、大名屋敷だったころのものなのか、数寄屋門です。14:30の見学受付最終時間が迫っていたので、門の写真は後回しにして、北泉寮の受付へ。
 なんとか間にあいました。受付の人が「解説の担当者が2階に行っています」と言うので、2階から見学しました。

 欄間の模様など、鍋島家の趣味なのか、三井家の趣味なのかわかりませんけれど、ちょっとゆがみを残す昔のガラス板の障子とか、格天井の一枚板とか、大名屋敷だった頃の和館らしい風情があります。寄宿生たちのシャワー室だったところなど、湯気が天井から抜けて出るための換気の工夫など、細かいところにきちんとした設計が感じられました。

 北泉寮内部を紹介しているサイト
http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/57503585.html
(ただし、このサイトも、三井高維の名を高雄と誤記しているなど、「ブログに間違った情報が書かかれてしまうので、写真公開おことわり」と和敬塾で言われたことが現実になっています。自分の見たこと聞いたことを公の場に発表する際は、ウラトリをして、複数の情報源を確かめて、確実なことのみをUPしたいものです。ブログは、書く方の意識では「日記ような私的なもの」という感覚ですが、ネットに公開する以上、公的な責任もあるのだと自覚したいと思っています)

 現在では、寄宿舎は別に建てられており、北泉寮が生徒の日常生活につかわれることはありません。学園の生徒のうち小学3年生が夏にお泊まり会を行う際にこの歴史的な建物を使用しているそうです。
 移築保存された建物には「暮らし」の匂いがなくなってしまいますが、歴史的な建物も、実際に使いながら保存されていくことで、きっと柱や天井もこどもたちの声を吸収していくのだろうと思います。

 小金井の江戸東京たてもの園には、三井本家本宅が移築保存されています。
 三井八郎右衛門高公(みついたかきみ三井不動産相談役)が死去したあと、相続税として麻布の土地の一部が物納され、建物は解体され、江戸東京たてもの園に移築されました。
http://www.geocities.jp/jm1jer/constract/mitsui.html
 (このページのトップはhttp://www.geocities.jp/jm1jer/)

 三井財閥の惣領家は、1906(明治39)年に麻布今井町に本宅を構えましたが、戦災により焼失。1952(昭和27)に新本邸を麻布笄町(こうがいちょう)の1200坪の敷地に建築しました。戦後の物資不足の中、京都油小路・神奈川大磯・世田谷用賀などにあった三井家の別邸などから建築部材・石材・調度品、植木などが集められ、財閥解体期であり、男爵の爵位も失った戦後間もないころの建物としてはたいへん贅沢なつくりです。
 こちらは移築復元の建物だし、たてもの園にいけばいくらでも写真が撮れます。拝島別邸と見比べるのもおもしろいかも。

 たてもの園の復元工事のため、麻布笄町本邸の調査は行き届いていますが、拝島別邸については、「学校法人の教育施設として利用してきたので、建築学や建築史での調査はほとんど行われていません。文化財指定を受けるときに東京都と昭島市の調査が入ったくらいで、学園としてはこれまで調査を行ってきませんでした」という受付の若い職員の説明です。間取り図さえ、学園からきちんとした報告がだされたことはない、ということでした。
 春庭の教え子には日本建築史を専攻する留学生もいます。「博士論文書くなら拝島の三井別邸は穴場だよ。まだほとんど調査されていないから」って、提案してみようかと思います。

<つづく>
05:47 コメント(3) ページのトップへ
2011年11月12日


ぽかぽか春庭「旧岩崎邸のケーナ」
2011/11/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ

 旧岩崎邸は何度も来ているので、わざわざ東京都文化財ウイークの混み合う時期に来なくてもいいようなものですが、10月29日午後に訪れたのは、14:00から庭園内で田中健のケーナコンサートがあるというポスターを見かけたからです。

 田中健は、26年前にペルーのマチュピチュ遺跡を旅したときにおみやげとしてケーナを持ち帰り、それ以来ケーナ演奏を続けているのだそうです。
 田中健がケーナコンサートを始めた頃、「何年も演奏に打ち込んでいる音楽家だってなかなか独奏者としてコンサートを開くことは難しいのに、俳優が片手間に練習した程度で有名人特権行使して、演奏者でござい、って顔するのか」と意地悪な感想を持ったことがあるのです。ほんと、私はねたみ僻み根性が強いので。

 でも、田中健の演奏を聴きもしないで、「シロート上がりが」なんて思ったりするのはよろしくない。ちゃんと演奏を聴いてからにしよう、でもコンサートチケット5000円とか払うのはいやだ、というケチな根性で、田中健のケーナ、聞いたことなかった。旧岩崎邸の演奏会、入館料を払えば、コンサートは無料なのです。無料が大好きな私、「建物見学は混んでいるだろうけれど、庭は広いから、オバハン一人くらい芝生に座れるだろう、と、14:00少し前に庭にでました。ケーナの音は小さいからたぶんマイクで拡声した音だろうと思った通りでしたが、芝生に座ろうとしていたら、「前のほうの関係者席が空いておりますので、お立ちの方々、お座り下さい」という案内があったので、前のほうの椅子に座って聞くことができました。

 演奏は、ケーナといえばこの曲という「コンドルは飛んでいく」にはじまり、田中健も大好きだという映画『ニューシネマパラダイス』のメインテーマ曲。私も大好きな映画です。そのあと、健さんは観客の間におりてきて、「小さい秋みつけた」「紅葉」などの秋らしい童謡や『天空のラピュタ』のテーマ曲「君をのせて」を演奏しました。最後は田中健作曲の『街』という曲。アンコールは「サウンドオブミュージック」でした。

 ケーナはもともとアンデスの山岳地帯に住む現地の人々の民族楽器です。尺八と同じく、竹に穴を開けただけの素朴な楽器なので、音を出せるようになるまでがむずかしい。田中健さんも、26年演奏をしているうち、満足に音が出せるまで10年かかったとおっしゃる。なかなか見事な演奏だったと思います。「俳優の片手間」という偏見はやめて、ケーナ奏者田中健を評価したいと思います。日本でケーナがポピュラーになったのは、田中健さんのおかげかもしれません。 

 田中健のケーナ演奏がBGMに使われているyoutube
http://www.youtube.com/watch?v=lzzJm3C7cms
 ペルーの観光写真と現地の人のケーナ演奏「コンドルは飛んでいく」
http://www.youtube.com/watch?v=M_gSydN_BYM&feature=related

 テレビニュースで「コスキン・エン・ハポン」を見ました。福島市に近い川俣町で、町おこしとして行われている中南米音楽祭です。今年は10月8、9、10日の3日間。
 34回目の今年、川俣町も東北大震災の被災地なので、開催が危ぶまれました。しかし、全国の中南米音楽ファンの熱意によって今年も開催ができました。津波被害を受けた海辺の町から川俣町に避難している子ども達も、民族衣装をつけたパレードに参加して大成功だったというニュースでした。

 その中で紹介されていたのですが、川俣町の住民はだれでもケーナが演奏できる、なぜなら町をあげて中南米音楽に取り組んできたからだそうです。町中の人がケーナを愛し、演奏できるなんて素敵です。町民全員で「コンドルは飛んでいく」を演奏したら、ギネスブックに載るかも。

 ケーナが流れる芝生の庭から眺める、旧岩崎邸の洋館、和館。
 コンドルの設計に注目する人、建築探訪建物めぐりが趣味の人、昨年の「龍馬伝」で語り手役だった岩崎弥太郎に興味を持っている人、「戦前のお金持ちの暮らし」に興味がある人、金唐革の復元に興味がある人、田中健ファンの人、さまざまな人が岩崎邸に集まってケーナを聞いています。
 私は、今回はケーナ演奏を聞くのががメインだったので、建物はガイドグループのうしろにくっついて説明を聞きながら、ささっと一巡しただけ。今回も玄関ホールの柱のニスにできた結晶模様の美しさにみとれました。決して人工では作れない、百年の時間が作り出す美です。

 2006年8月に岩崎邸を訪れたときの記録は8/19~8/22の「コンドル近代建築探訪散歩」に書きましたので、お時間あったらのぞいて下さいまし。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200608A

<つづく>
00:51 コメント(3) ページのトップへ
2011年11月13日


ぽかぽか春庭「アールデコのおやしき朝香宮邸」
2011/11/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸

 今年は3度、庭園美術館へ行きました。5月に「森の芸術」展。7月8月に「皇帝の愛したガラス」展に2度いきました。最初はひとりで、二度目はミサイルママといっしょに。
 絵やガラスの展示のほか、十分に旧朝香宮邸内部を見ましたから、「アールデコの館旧朝香宮邸」という邸宅改修前の建物展示は、見なくてもいいかなと思っていました。でも、11月1日から2年間は改修中閉館されると思うと、やはりもう一度見ておこうかと出かけました。「森の芸術展」も「ガラス展」も招待券やぐるっとパスで入館したのですが、今回は入館料払っての自腹。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/museum/index.html

 10月29日土曜日夜の「夜間開館」に行ったのが失敗でした。いつも平日にいけば見学者まばら、ゆったり館内を歩けるのに、まず、入場券売り場で30分並び、玄関前の入場の列に60分並び、5時に門をくぐってから入館まで90分。6時半に入館してからも、各室の前に一列に見学者が並んでいます。列を作らなくても見られるところだけさっさと一巡したあと、2階のロビーソファでしばし座って人が減るのを待っていましたが、7時半過ぎてますます混んできたので、あきらめて、外にでました。

 「しばらく閉館する」というニュースが流れたからこれほど混んだのか、みんなが急にアールデコ様式の建物に興味を持つようになったのか。
 館内は、玄関に入ってすぐに目に付くガラスの仕切り、玄関ホールの香水塔。ルネ・ラリックやアンリ・ラパンらのガラス作品、暖炉前の鉄のスクリーン。天井、階段室の手すりのデザイン。そこここにアールデコ(Art Déco)の装飾がほどこされ、直線のシンプルな建物の形とともに「1925年様式」「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」で世界的な流行となった美の形が息づいています。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/museum/artdeco.html

 玄関前の長い列に立って入館を待っている間、玄関脇の外壁に映し出された戦前のニュース映画をぼうっと見ていました。朝香宮妃(明治天皇の第8皇女允子内親王)がパリ・アールデコ博覧会を視察しているようすとか、成人式に臨む若宮や鍋島侯爵家へ降嫁するときの紀久子さんとかの映像がエンドレスで流れていました。お庭を散歩する姫さま方、かわいらしいようすで、お花を手に女官達と歩いている。
 皇族といえば絶対的な価値があると教えられていた時代の映像、人々は雑誌に載る皇族や華族の邸宅、内装、衣装、装飾品などを眺めて、手の届かぬ雲の上の暮らしを見つめてはため息をついていたのでした。

 10月16日の旧朝香宮邸を押すな押すな状態で見ている善男善女。
 「へぇ、これ、きれいじゃん、昔の人ってけっこうしゃれてるね。うちのご先祖もこんな家だったかな」と、デート中らしいアンちゃんがオネーちゃんに話しかけている。あ~、君きみ、ぜったいに君のご先祖はこういう家じゃあなかったと思うよ。昔の人が全員こんな家に住んでいたって思わないでね。今こうして、シモジモの我らがどやどやと見て歩けるだけでもありがたいと思わなくちゃ。

 美は美です。私もきれいなものが好き。華族皇族のおやしきの美しさにうっとりすることもありです。でも、同じ時代を、貧しさに呻吟しながら生きた層がはるかに多かったことは、次代の若者たちにもわかってもらわねば。

 ほら、そこのアンちゃん、あんたの先祖は、屋根かたむき壁からすきま風入る家だったかもしれないよ。あんたが履いているジーンズ、わざとぼろぼろに引き裂いて風通しよくしてるグランジファッション。先祖代々、すきま風が似合う遺伝子受け継いだのかも知れないね。私なんぞも「傾いた家」の遺伝子じゃによって、おつむがスースーすきま風だらけだけどね。

 すきま風の頭で書きっぱなしにするから、間違いだらけ。人のブログには「記載が正確でない」なんて文句タラタラですが、自分のは、脳の穴からすきま風ピューピューで、、、、、どうせシモジモは、やりっぱなし言いっぱなし、テキトーですみません。

 でもね。公開された原発事故現場での報道を見て感じました。現場の下で働く人々は命がけで死ぬかも知れないと思って働いているのに、会社幹部はのうのうとテキトーな記者会見を繰り返してきたみたいだし、現場の生産者がどれほど日本の農業に心くだこうと、国際会議ではTPPへの態度が曖昧模糊だったり。
 無責任なシモジモも責任を負うべきウエツカタも、やっていることはそう変わりないような、、、、

<つづく>
08:09 コメント(0) ページのトップへ
2011年11月15日


ぽかぽか春庭「旧前田侯爵家駒場本邸」」
2011/11/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸」

 駒場の旧前田侯爵邸が近代文学館として使われていた時代に、訪れたことがあったのですが、近代文学館が新館に移転したあとは洋館には入れず、何度か和館だけを見学しました。洋館の見学は10年ぶりくらいになります。文化財ウイーク特別公開期間中、ボランティアガイドの説明がありました。10月31日月曜日午後の訪問です。

近代建築紹介サイトより
http://maskweb.jp/b_maeda_1_0.html

 1階は、男性のボランティアガイドさんでした。2階は「今日がボランティアガイドのデビューなんです」というちょっと緊張気味の女性が案内をしてくれました。ときどき「前田侯爵」と言うべきところを「前川侯爵」と言ってしまったり、こちらから建築関係のことや前田家について質問すると、「あ、それはまだ勉強していないので、先輩ボランティアガイドに聞いてみます」と、大慌てになったりしましたが、いっしょうけんめいで、感じのよいガイドさんでした。

邸内の紹介サイト
http://allabout.co.jp/gm/gc/25270/

 今回、文化財公開ウイークであちこちのボランティアガイドさんの説明を聞きながら感じたこと。皇族華族のおやしきでガイドボランティアをする人々に、共通する傾向があります。これらの皇族華族の暮らしを無条件に賛美し、よき時代の美しき暮らしぶりとして紹介する人が多いことです。
 旧岩崎男爵邸、旧前田侯爵邸、旧細川侯爵邸、旧朝香宮邸。どのガイドさんも自分が紹介するおやしきに愛着があることは理解できますが、無条件の賛美を聞かされると、ひねくれ者の私はちょっと鼻白むことがあります。

 広大な敷地に贅を尽くした家を建て、銀の食器で優雅においしいご飯を食べる皇族華族がいた、それはそういう時代であったのだから、歴史的な事実でしょう。しかし、その下には、食うこともままならない暮らしが膨大に広がっていたことは、戦前の小説ひとつ読んでもわかること。女工哀史も東北地方の飢饉で餓死者が出たことも知った上での邸宅見学でありたいと思っています。
 旧古河男爵邸はコンドル設計の見事なものですが、古河財閥の下には、足利銅山鉱毒によって苦しみ抜いた幾万の人々がいたことを忘れてしまうわけにはいきません。他のお屋敷も同じこと。
 
 前田家第16代目当主の前田利為(まえだとしなり)は、陸軍大将としてボルネオに出征し戦地病死しました。利為の娘、美意子には、親亡き後の戦後社会を長子として家族のためにもしたたかに生き抜く必要がありました。利為の後添えとして酒井家から前田家に嫁いだ菊子夫人と長女美意子は、社交クラブ経営などに手腕を発揮して、戦後の混乱期を生きていきました。多くの華族が没落した時代、母と娘は自分たちの手腕で暮らしを維持しました。

 母の実家の縁戚酒井家に嫁いだ美意子さんは、テレビ時代になると「マナー評論家」とか「皇室関係コメンテーター」として頻繁にマスコミに登場しました。
 私は、テレビなどで見かけた酒井美意子が、あまり好きではありませんでした。コメントの端々に、自分が侯爵家の家柄出身であることを押し出したいようすがうかがえて、好感が持てなかったのです。

 皇后になる前の美智子皇太子妃に対して「妃殿下は民間のご出身でいらっしゃるから、ご存じなかったのでしょう云々」というコメントをテレビで聞いたことがあります。ご自分の出自を誇りたい気持ちはわかりましたが、なんとまあ上から目線でエラソーにコメントするなあと感じたものです。

 その美意子さんの部屋というのも2階「家族のプライベートスペース」の西側にありました。兄弟姉妹のなかで一番広い部屋。
 自伝的小説『ある華族の昭和史』『元華族たちの戦後史』。書評によれば、戦前の華族の暮らしぶりが、「失われた佳き日々」へのレトロスペクティブと自己賛美によって綴られている、ということです。読まずに批判はできませんが、あまり読む気にはなれない。写真集『華族の肖像』は、機会があったらパラパラと写真を眺めてみたいと思います。

 旧前田侯爵邸、戦後はGHQに接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸、続いて26年4月からは、極東総司令官リッジウェイ(マッカーサーの後任)の官邸となったため、内部もかなり改装された部分がありますが、各室ごとに設けられている暖炉、天井につられたシャンデリアなどは、ほぼ洋館建築当時のままということです。

 ボランティアガイドさんの説明のあと、1階のカフェ・マルキスで休憩。あれ、こんなカフェ、前もあったかしら、と思ったら、2011年5月にオープンしたところでした。店名のマルキスmarquisとは、「侯爵」の意味です。フランス語ならマルキです。マルキ・ド・サドは「サド侯爵」ですね。
  コーヒー350円を注文。カフェからの眺め、前田邸のベランダ越しに見える庭園は、駒場公園になっています。

 武蔵野の自然を残す駒場公園は、チューダー朝様式の洋館や和館とともに、目黒区が管理しています。駒場公園を、小さなお子さんを連れたお母さんたちが公園を散歩していました。公園と前田邸ベランダは柵もなく続いていますから、散歩途中の親子がベビーカーをベランダにあげてベンチで休憩中。ほっと和む光景です。

 和館は、洋館が閉鎖されていた時もときどき見てきたので、今回は寄らなくてもいいかなと思ったのですが、ま、ついでだし、と思って上がりました。こういう建物めぐり趣味は圧倒的に中高年が多いのですが、若い男の子がいたので聞いてみたら、駒場ご近所の東大生でした。建築志望?とたずねたのですが、特にそういうことでもなかった。

 帰りは、東大駒場キャンパスを通って歩きました。元、一高図書館だった東大駒場博物館をのぞく。一高から東大教養課程に至るドイツ語教育についての展示がありました。
 http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#ichiGer
 デルデスデムデン、ディーデルデルディー、ダスデスデムダス、ディーデルデンディー というのが覚えきれずにドイツ語を諦めた私などと、おつむの構造が違うのだろうなあ、と僻みながら東大駒場口から井の頭線に乗りました。どうもお金持ちとか秀才とかに出会うとやたらにひがみっぽくなる、しがない人生の来し方行く末。
 老い先短い明日も、僻みながらの建築めぐり。明日も外出。出るです、出む出ん。

<つづく>



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする