2012/11/11
ぽかぽか春庭日常1茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(19)1992年11月07日「ヌレエフの栄光と悲惨」
ちえのわ録画再生日記1992年十一月七日 土曜日(晴れ)
「ヌレエフの衰弱した姿を見て、肉体の栄光と悲惨を思うこと」
飯星景子の手記のついでに、『文春』をすみからすみまで見て、一番衝撃を受けたのは十月七日の撮影というヌレエフの姿だった。病気療養中とは聞いていたが、たいへんに衰えた姿で、ショックだった。
ヌレエフは五十四歳。ダンサーとしての盛りを過ぎた年とはいえ、長年のパートナーであるマーゴット・フォンテーンは六十歳過ぎまで現役で踊っていたのだから、健康を維持していたなら、まだまだ踊れる年のはずだ。
同世代を生きたと思えるダンサーの中に、ミハイル・バリシニコフを筆頭として何人か好きな踊り手がいるが、私にとっては、ヌレエフは「ちょっと前の世代」という感じがする。しかし、ついこの間まで、森下洋子らを相手にパ・ドゥ・ドゥを踊っていたのだし、十分に「現代のダンサー」である。
マーゴのジュリエットを相手に、しなやかに熱情的に、繊細に力強く踊ったロミオ、ノーブルとは、こういう姿だと観客を納得させる王子役。etc.
しかしグラビア上のヌレエフはやせ衰え、両脇を抱えられなければ立つこともできない姿で、胸にかけられた「芸術文化勲章」が悲しくみえる。
どのような姿を人目にさらしても、勲章という名誉を自らの手で受けたかったのか、舞台に立つチャンスを与えられれば、どんな無理をしても観客のコールを受けねば気が済まないのか、われわれ凡人にはわからない。
しかし己の肉体を元手に、肉体をさらすことによって表現する役者やダンサーは、ことのほか自分の肉体のイメージを守ろうとするのではないのか。ヌレエフの姿は、あまりにも観客に対し無防備で、自らを「さらしもの」とする覚悟なのかと思うほどだ。
闘病は八年続いているというから、世間の噂する「エイズ感染」ではないのかもしれない。エイズなら、症状が表に現われたら、普通は三年以内で死ぬというから。
スーザン・ソンダクの『陰喩としての病気』にはまだエイズは取り上げられていないだろうが、「エイズ」という病気に込められた陰喩は、古代のハンセン氏病と中世のペストと、梅毒とその他もろもろのイメージ全てを包括している。
確実に死に至り、死に際して、たいていその身体は醜く変形している。やせ衰え、さまざまな症状がからだ中に広がっている。広告の写真に、エイズで死のうとしている患者を家族が取り巻いているものがあったが、家族やホスピスがどんなに患者に暖かく接しているか、という様子を見せられても、エイズに付された恐怖のイメージを人々の意識から拭い去ることはできない。
エイズのイメージのうち、最も人を畏怖させるものは「皮膚の上に具体的に現われる醜さ」への恐怖ではなかろうか。
特効薬がなかったころの、ハンセン氏病や梅毒には「身体がドロドロと溶けて変形する」というイメージがつきまとっていた。ハンセン氏病は感染力が弱い伝染病であるのに、過去、かくも忌み嫌われ恐れられたのは、この「身体の崩壊」というイメージによるものだったのではないだろうか。
「死」そのものは、避けて通ることのできない人間の運命である、として受け入れるとしても、「崩壊する肉体」のイメージを受け入れることのできない人は多い。「虫」に変身したザムザを、家族として受け入れることを拒んだように「崩壊した身体」を顕現するエイズを受け入れることが怖いのだ。
バスケットボールのマジック・ジョンソンが現役復帰を断念した、というニュースを痛ましい思いで読んだ。オリンピックという祭りの場で、一回限り彼を受け入れ、共にプレーした同僚たちも「シーズン中ずっといっしょに過ごすことはいやだ」と拒否したのだという。
オリンピックという祭りの場では、私もマジックの華麗なプレーに「崩壊する身体」のイメージを重ねあわせて見ることはしなかった。マジックは屈強でしなやかなバネの身体を躍動させていた。しかし、ボールを追っていない時、人はマジックの体に「いつかはドロドロと崩壊していく肉体」のイメージを重ねる。
同様のイメージがマイケル・ジャクソンにもしつようにからみつく。何度も整形手術をくり返し、元の姿と完全に決別して、限りなく黒人らしさから離れ、美しい姿形を追求してきたマイケル。何度否定しても「マイケルの鼻は、もう再手術不可能なほど崩れてしまって、修復できない。」というような噂が絶え間なく流される。
ファンはマイケルの姿が崩れ去るのを、心ひそかに望んでいるのではないか、とさえ思うほどだ。人工によって美しく作りあげられたマイケル。人々はその姿を楽しむと同時に、美の崩壊を予感することによって、より強い感慨をもつ。『カラヴァッジョの果物篭』の果物が腐っているのを知るのと同じかもしれない。
マイケルは、自分の姿がもはや鑑賞に耐えないものとなったことを自覚したら、おそらく、広大な屋敷で例のウォータードームの中に身を潜めて、決して人々の前に崩壊した身体を見せることをしないだろう。
私が、『文春』のグラビアを見て驚いたのは、肉体の完璧さをステージに現出することを仕事としていたダンサーが、なぜ、ステージにあえてやせ衰えた病身を登らせたのか、という点だ。勲章を手にしたヌレエフへ、観客の拍手は十分間も続いたという。
彼の意識の中では、ダンサーとしての彼の仕事は終了しており、今は舞台演出家として来期に上演予定の『コッペリア』の演出を担当しうる人気を栄光をもっている、ということをアピールしておきたかったのかもしれない。
しかしながら、私にとってはヌレエフは不世出のダンサーであって、至高の肉体を誇る王子様なのだ。衰え、立つこともできないヌレエフの姿はただただ悲しい。
美しい花も、豊穣な果物も、地上の美は、すべて枯れ、腐り、崩れ去るもの。それは、わかっていても、「崩壊する身体」はどの記号より強く、生きとし生きるもの共通の悲しみとして、グラビアのなかにやっと立つ。
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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/10 のつっこみ
以上、1992年10月下旬から11月上旬の日記の再録でした。どうして毎日こんな埒もない日記を長々書いていたのかと言うと、日記中にもあるように、修士論文を書くために「文庫本の切り抜き」という地道な作業を続ける日々だったからです。日本語学統語論で論文を書くために、第一にしなければならないのは、きちんとした用例を数多く集めること。このコツコツとした作業が面倒だった。当時でも、国立国語研究所などでは、大型のスーパーコンピュータをつかって、デジタル化された小説などを分析していたのですが、私のような貧乏学生は、そんな高額な機器にたよることもできず、指導教官に言われた通り、手作業での用例集めをしていました。
いまでは、パソコンに電子書籍をいれるだけで、手軽に用例など集めることができるようになっています。私が3ヶ月かかって集めた用例など、一日あれば、パソコンのクリックひとつで集められるでしょう。20年前にパソコンで手軽に作業ができたなら、私も日本語学を続けられたのかも知れません。修士論文から18年後に書いた博士論文は、用例なんぞ集めなくてもよい「社会文化」という分野での執筆になりました。
1992年年末。修士論文執筆当時、9歳の娘と4歳の息子の遊び相手をしながら洗濯機をまわしつつ夕食を作り、ふたりをお風呂にいれて寝かし、さて文庫本切り抜きをしようかと思うと疲れてしまい、よもやまおしゃべりをワープロで書き散らす以外に気晴らしの方法がなかった。よくもこんな埒もないことを長々書いていたと思うけれど、あれまあ、いまでも同じですね。つまらぬことをダラダラ書き続けることが私の気晴らしなのですから、そんなダラダラにつきあって、読んでくれた奇特な人がいたとしたら、感謝感激です。
このあと、この1992年の日記「ゴールデンボウ」は1994年2月までダラダラと続き、1994年2月からは、10歳の娘と5歳の息子を実家に預け、背水の陣で中国に単身赴任したときの記録となります。
あれもこれも、ふりかえれば、「よくぞ生き延びてきたなあ、生きてるだけで丸儲け」の気分です。
この先も「生きてるだけで万々歳」と思って生き続けます。
<おわり>
ぽかぽか春庭日常1茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(19)1992年11月07日「ヌレエフの栄光と悲惨」
ちえのわ録画再生日記1992年十一月七日 土曜日(晴れ)
「ヌレエフの衰弱した姿を見て、肉体の栄光と悲惨を思うこと」
飯星景子の手記のついでに、『文春』をすみからすみまで見て、一番衝撃を受けたのは十月七日の撮影というヌレエフの姿だった。病気療養中とは聞いていたが、たいへんに衰えた姿で、ショックだった。
ヌレエフは五十四歳。ダンサーとしての盛りを過ぎた年とはいえ、長年のパートナーであるマーゴット・フォンテーンは六十歳過ぎまで現役で踊っていたのだから、健康を維持していたなら、まだまだ踊れる年のはずだ。
同世代を生きたと思えるダンサーの中に、ミハイル・バリシニコフを筆頭として何人か好きな踊り手がいるが、私にとっては、ヌレエフは「ちょっと前の世代」という感じがする。しかし、ついこの間まで、森下洋子らを相手にパ・ドゥ・ドゥを踊っていたのだし、十分に「現代のダンサー」である。
マーゴのジュリエットを相手に、しなやかに熱情的に、繊細に力強く踊ったロミオ、ノーブルとは、こういう姿だと観客を納得させる王子役。etc.
しかしグラビア上のヌレエフはやせ衰え、両脇を抱えられなければ立つこともできない姿で、胸にかけられた「芸術文化勲章」が悲しくみえる。
どのような姿を人目にさらしても、勲章という名誉を自らの手で受けたかったのか、舞台に立つチャンスを与えられれば、どんな無理をしても観客のコールを受けねば気が済まないのか、われわれ凡人にはわからない。
しかし己の肉体を元手に、肉体をさらすことによって表現する役者やダンサーは、ことのほか自分の肉体のイメージを守ろうとするのではないのか。ヌレエフの姿は、あまりにも観客に対し無防備で、自らを「さらしもの」とする覚悟なのかと思うほどだ。
闘病は八年続いているというから、世間の噂する「エイズ感染」ではないのかもしれない。エイズなら、症状が表に現われたら、普通は三年以内で死ぬというから。
スーザン・ソンダクの『陰喩としての病気』にはまだエイズは取り上げられていないだろうが、「エイズ」という病気に込められた陰喩は、古代のハンセン氏病と中世のペストと、梅毒とその他もろもろのイメージ全てを包括している。
確実に死に至り、死に際して、たいていその身体は醜く変形している。やせ衰え、さまざまな症状がからだ中に広がっている。広告の写真に、エイズで死のうとしている患者を家族が取り巻いているものがあったが、家族やホスピスがどんなに患者に暖かく接しているか、という様子を見せられても、エイズに付された恐怖のイメージを人々の意識から拭い去ることはできない。
エイズのイメージのうち、最も人を畏怖させるものは「皮膚の上に具体的に現われる醜さ」への恐怖ではなかろうか。
特効薬がなかったころの、ハンセン氏病や梅毒には「身体がドロドロと溶けて変形する」というイメージがつきまとっていた。ハンセン氏病は感染力が弱い伝染病であるのに、過去、かくも忌み嫌われ恐れられたのは、この「身体の崩壊」というイメージによるものだったのではないだろうか。
「死」そのものは、避けて通ることのできない人間の運命である、として受け入れるとしても、「崩壊する肉体」のイメージを受け入れることのできない人は多い。「虫」に変身したザムザを、家族として受け入れることを拒んだように「崩壊した身体」を顕現するエイズを受け入れることが怖いのだ。
バスケットボールのマジック・ジョンソンが現役復帰を断念した、というニュースを痛ましい思いで読んだ。オリンピックという祭りの場で、一回限り彼を受け入れ、共にプレーした同僚たちも「シーズン中ずっといっしょに過ごすことはいやだ」と拒否したのだという。
オリンピックという祭りの場では、私もマジックの華麗なプレーに「崩壊する身体」のイメージを重ねあわせて見ることはしなかった。マジックは屈強でしなやかなバネの身体を躍動させていた。しかし、ボールを追っていない時、人はマジックの体に「いつかはドロドロと崩壊していく肉体」のイメージを重ねる。
同様のイメージがマイケル・ジャクソンにもしつようにからみつく。何度も整形手術をくり返し、元の姿と完全に決別して、限りなく黒人らしさから離れ、美しい姿形を追求してきたマイケル。何度否定しても「マイケルの鼻は、もう再手術不可能なほど崩れてしまって、修復できない。」というような噂が絶え間なく流される。
ファンはマイケルの姿が崩れ去るのを、心ひそかに望んでいるのではないか、とさえ思うほどだ。人工によって美しく作りあげられたマイケル。人々はその姿を楽しむと同時に、美の崩壊を予感することによって、より強い感慨をもつ。『カラヴァッジョの果物篭』の果物が腐っているのを知るのと同じかもしれない。
マイケルは、自分の姿がもはや鑑賞に耐えないものとなったことを自覚したら、おそらく、広大な屋敷で例のウォータードームの中に身を潜めて、決して人々の前に崩壊した身体を見せることをしないだろう。
私が、『文春』のグラビアを見て驚いたのは、肉体の完璧さをステージに現出することを仕事としていたダンサーが、なぜ、ステージにあえてやせ衰えた病身を登らせたのか、という点だ。勲章を手にしたヌレエフへ、観客の拍手は十分間も続いたという。
彼の意識の中では、ダンサーとしての彼の仕事は終了しており、今は舞台演出家として来期に上演予定の『コッペリア』の演出を担当しうる人気を栄光をもっている、ということをアピールしておきたかったのかもしれない。
しかしながら、私にとってはヌレエフは不世出のダンサーであって、至高の肉体を誇る王子様なのだ。衰え、立つこともできないヌレエフの姿はただただ悲しい。
美しい花も、豊穣な果物も、地上の美は、すべて枯れ、腐り、崩れ去るもの。それは、わかっていても、「崩壊する身体」はどの記号より強く、生きとし生きるもの共通の悲しみとして、グラビアのなかにやっと立つ。
~~~~~~~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/10 のつっこみ
以上、1992年10月下旬から11月上旬の日記の再録でした。どうして毎日こんな埒もない日記を長々書いていたのかと言うと、日記中にもあるように、修士論文を書くために「文庫本の切り抜き」という地道な作業を続ける日々だったからです。日本語学統語論で論文を書くために、第一にしなければならないのは、きちんとした用例を数多く集めること。このコツコツとした作業が面倒だった。当時でも、国立国語研究所などでは、大型のスーパーコンピュータをつかって、デジタル化された小説などを分析していたのですが、私のような貧乏学生は、そんな高額な機器にたよることもできず、指導教官に言われた通り、手作業での用例集めをしていました。
いまでは、パソコンに電子書籍をいれるだけで、手軽に用例など集めることができるようになっています。私が3ヶ月かかって集めた用例など、一日あれば、パソコンのクリックひとつで集められるでしょう。20年前にパソコンで手軽に作業ができたなら、私も日本語学を続けられたのかも知れません。修士論文から18年後に書いた博士論文は、用例なんぞ集めなくてもよい「社会文化」という分野での執筆になりました。
1992年年末。修士論文執筆当時、9歳の娘と4歳の息子の遊び相手をしながら洗濯機をまわしつつ夕食を作り、ふたりをお風呂にいれて寝かし、さて文庫本切り抜きをしようかと思うと疲れてしまい、よもやまおしゃべりをワープロで書き散らす以外に気晴らしの方法がなかった。よくもこんな埒もないことを長々書いていたと思うけれど、あれまあ、いまでも同じですね。つまらぬことをダラダラ書き続けることが私の気晴らしなのですから、そんなダラダラにつきあって、読んでくれた奇特な人がいたとしたら、感謝感激です。
このあと、この1992年の日記「ゴールデンボウ」は1994年2月までダラダラと続き、1994年2月からは、10歳の娘と5歳の息子を実家に預け、背水の陣で中国に単身赴任したときの記録となります。
あれもこれも、ふりかえれば、「よくぞ生き延びてきたなあ、生きてるだけで丸儲け」の気分です。
この先も「生きてるだけで万々歳」と思って生き続けます。
<おわり>