2012/11/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(16)武蔵野夫人と日立中央研究所庭園
大岡昇平は、敗戦後、小金井のハケに位置していた富永次郎宅に一時寄寓していました。崖の上と下という環境に興味を持った大岡が、斜陽族の没落を描いた小説『武蔵野夫人』執筆にあたって、小説の舞台として「ハケ」を選んだのです。小説は1950年に発表され、太宰治の『斜陽』とともに大ベストセラーとなりました。小説発表の翌年1951年には、溝口健二監督、田仲絹代主演で映画化されました。
この多摩地域のハケの地形がたいへんよく説明されているので、少し長いですが、引用します。府中市や小金井市などの観光パンフレットなどに、「はけ」や「湧水」の説明が書いてありますが、どんな説明書を読むより、大岡昇平の初期の名文で読むほうがずっと心に残ります。また、なまじっかの地理解説や地学解説の本より、ことばから醸し出される雰囲気がよい。
たとえば、「えんえんと」というとき、現代表記では「延々と」が出てきますが、大岡は、野川の段丘が蛇行しつつ下流に到るようすを「蜿々と」という表記であらわしています。この文字づかいひとつをとっても、文の芸、文芸だなあと思います。
『武蔵野夫人』の冒頭。
「土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。
中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかって古い地質時代に、古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。
狭い水田を発達させた野川の対岸はまた緩やかに高まって盾状の台地となり、松や桑や工場を載せて府中まで来ると、第二の段丘となって現在の多摩川の流域に下りている。
野川は、つまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て喜多見の上で多摩の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵としつつ蜿々と六郷に到っている。
樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから、「はけ」とは「鼻」の訛だとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」はすなわち「峡(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。
水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖と鳴って尽きるところから涌いていている。武蔵野の表面を覆う壚拇(ローム)、つまり赤土の層に接した砂礫層が露出し、きれいな地下水が這い出るように涌き、すぐせせらぎを建てる流れと鳴って落ちていく。長作の家では、流れが下の道を横切るところに小さな溜まりを作り、畑の物を洗ったりする。
古代武蔵野が鬱蒼たる原生林に蔽われていたころ、また降っては広漠たる荒野と化して、渇いた旅人が斃死したころも、斜面一帯はこの豊かな湧き水のために、常に人に住まわれていた。長作の先祖がここに住みついたのも、明らかにこの水のためであって、「はけの荻野」と呼ばれたのもそのためであろうが、今は鑿井技術が発達して到ところに井戸があり、湧水の必要は薄れたから、現在長作の家が建っている日当たりのいい高みが「はけ」だと人は思っているわけである。」(新潮文庫1953初版の1999年71刷より)
「国分寺崖線-ハケを歩く」は、いくつものテーマを含む散歩です。ひとつは、上記の武蔵野夫人の地を歩く「文学散歩」、もうひとつは、国分寺遺跡をたどる「歴史散歩」、タモリが会長をつとめる「坂学会」などがテーマとするのは、「国分寺の坂、崖を歩く」この「坂歩き崖歩き」を目的とするウォーキングチームは、国分寺遺跡金堂跡での昼食時に、同じ場所でお昼を食べていたので、学芸員の先生が説明をしているのを聞きながらお弁当を食べました。日曜地学ハイキングも「坂歩き」チームも、似たような中高年の集まりで、どっちがどっちでもいいような団体です。
日曜地学ハイキングのテーマは「ハケと地下水、地層」なので、要所要所で地層や地下水脈、多摩川の河岸段丘の形成などについて、詳しい解説がありました。本当を言えば、私の主な興味は、文学散歩「武蔵野夫人紀行」か、歴史散歩「武蔵国分寺遺跡探索」のほうにあるのですが、それは一人でも歩ける。地層の解説など、私にはまったく門外漢の分野ですから、解説はとてもありがたいことでした。
地層や地下水脈についての解説をする先生たち、日頃の授業もかくやと思える熱心でくわしいお話を聞かせて下さいました。
「武蔵野夫人」の中では、主人公道子は、幼なじみの勉と散歩に出かけ、野川の水源を巡ります。二人が歩いた水源も今回のハイキングコースに含まれています。野川の水源とされる湧水は何カ所かあるのですが、そのひとつの湧水は、日立中央研究所の庭園内にあります。
日曜地学ハイキングの面々が今回の「地学巡検」で最初に訪問したのは、日立中央研究所の「一日庭園公開」でした。
入り口からすぐのところに、「ハケ」の崖が作り出した谷があり、橋がかかっていました。「返仁橋」と名付けられていました。
私はまったく知らなかったのですが、日立中央研究所は広大な敷地の中に立てられており、春秋、年に二回だけ無料で一般公開が行われるということです。


中に入ってみて、押すな押すなの人混みに驚きました。なんと旅行会社クラブツーリズムがツアー客を募集しており、各地からのバスが15台だか20台だか乗り込んできているのだそうです。一台50人ツアー客として、1000人の客。いくら広大な庭園だからといっても、池の周囲800mは、日曜日の原宿竹下通り並の、押すな押すなの行列になっていました。地元の人だか日立社員だかが、サービスとして地野菜、焼きそば、鯛焼きなどをテントを張って売り出していました。
かっては、この庭園開放はおそらく地元の人しか知らない行事であり、日立も、地元の人へのサービスとして庭園を開放したのでしょうに、無料の庭園公開を自社のツアーに利用するとは、クラブツーリズムも抜け目がない。ツアー客は一日バスツアーに5000円ほどのツアー代を払い込み、お弁当などを支給されて園内の芝生などで食べるのでしょう。
日立がクラブツーリズムからいくらかもらっているとは思えず、数少ないトイレに長蛇の列で並んだときは、クラブツーリズムの商売が阿漕に思えました。園内を歩いたのは30分ほどなのに、トイレに25分並びました。
旅行団体の客のほか、小金井市ウォーキング協会という旗を立てた団体など、ウォーキングブームのおりから、数多くの中高年ウォーカーが押し寄せていました。
庭園内の水源からの湧水が、周囲800mという大きな池を作っています。この池は人工池で湧水の貯水池として1958年に造られました。池には名前はないらしく、もらった園内地図には、ただ「大池」とあります。池の片隅に湧水があったのですが、あまりの人混みで近づけませんでした。池の写真だけとりました。庭園は、まだ紅葉には早かったのですが、秋の色があちこちに見られました。
めずらしい「十月桜」も見事に咲いていました。

この園内から始まる「国分寺崖線」は、立川から世田谷の等々力渓谷まで30km続くのです。
このあたり一帯は、古くより「恋ヶ窪」という地名がつけられていました。『武蔵野夫人』の主人公ふたりが散歩したときのようすを、引用してみましょう。
「川はしかし自然に細くなって、ようやく底の泥を見せはじめ、往還を一つ越えると、流域は細い水田となり川は斜面の雑木林に密着して流れ、一条の小道がそれに沿っていた。
線路の土手へ上ると向こう側には以外に広い窪地が横たわり、水田が発達していた。右側を一つの支線の土手に限られた下は足の密生した湿地で、水が大きな池をたたえて溢れ、吸い込まれるように土管に向かって動いていた。これが水源であった。」
この「恋ヶ窪」の地域が、この日立中央研究所のあたりです。「武蔵野夫人」の勉と道子が歩いたときの「支線の土手」は、現在の西武国分寺線でしょう。「水が大きな池をたたえて溢れ」とある大きな池が「日立中央研究所内庭園の大池」と思われます。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(16)武蔵野夫人と日立中央研究所庭園
大岡昇平は、敗戦後、小金井のハケに位置していた富永次郎宅に一時寄寓していました。崖の上と下という環境に興味を持った大岡が、斜陽族の没落を描いた小説『武蔵野夫人』執筆にあたって、小説の舞台として「ハケ」を選んだのです。小説は1950年に発表され、太宰治の『斜陽』とともに大ベストセラーとなりました。小説発表の翌年1951年には、溝口健二監督、田仲絹代主演で映画化されました。
この多摩地域のハケの地形がたいへんよく説明されているので、少し長いですが、引用します。府中市や小金井市などの観光パンフレットなどに、「はけ」や「湧水」の説明が書いてありますが、どんな説明書を読むより、大岡昇平の初期の名文で読むほうがずっと心に残ります。また、なまじっかの地理解説や地学解説の本より、ことばから醸し出される雰囲気がよい。
たとえば、「えんえんと」というとき、現代表記では「延々と」が出てきますが、大岡は、野川の段丘が蛇行しつつ下流に到るようすを「蜿々と」という表記であらわしています。この文字づかいひとつをとっても、文の芸、文芸だなあと思います。
『武蔵野夫人』の冒頭。
「土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。
中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかって古い地質時代に、古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。
狭い水田を発達させた野川の対岸はまた緩やかに高まって盾状の台地となり、松や桑や工場を載せて府中まで来ると、第二の段丘となって現在の多摩川の流域に下りている。
野川は、つまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て喜多見の上で多摩の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵としつつ蜿々と六郷に到っている。
樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから、「はけ」とは「鼻」の訛だとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」はすなわち「峡(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。
水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖と鳴って尽きるところから涌いていている。武蔵野の表面を覆う壚拇(ローム)、つまり赤土の層に接した砂礫層が露出し、きれいな地下水が這い出るように涌き、すぐせせらぎを建てる流れと鳴って落ちていく。長作の家では、流れが下の道を横切るところに小さな溜まりを作り、畑の物を洗ったりする。
古代武蔵野が鬱蒼たる原生林に蔽われていたころ、また降っては広漠たる荒野と化して、渇いた旅人が斃死したころも、斜面一帯はこの豊かな湧き水のために、常に人に住まわれていた。長作の先祖がここに住みついたのも、明らかにこの水のためであって、「はけの荻野」と呼ばれたのもそのためであろうが、今は鑿井技術が発達して到ところに井戸があり、湧水の必要は薄れたから、現在長作の家が建っている日当たりのいい高みが「はけ」だと人は思っているわけである。」(新潮文庫1953初版の1999年71刷より)
「国分寺崖線-ハケを歩く」は、いくつものテーマを含む散歩です。ひとつは、上記の武蔵野夫人の地を歩く「文学散歩」、もうひとつは、国分寺遺跡をたどる「歴史散歩」、タモリが会長をつとめる「坂学会」などがテーマとするのは、「国分寺の坂、崖を歩く」この「坂歩き崖歩き」を目的とするウォーキングチームは、国分寺遺跡金堂跡での昼食時に、同じ場所でお昼を食べていたので、学芸員の先生が説明をしているのを聞きながらお弁当を食べました。日曜地学ハイキングも「坂歩き」チームも、似たような中高年の集まりで、どっちがどっちでもいいような団体です。
日曜地学ハイキングのテーマは「ハケと地下水、地層」なので、要所要所で地層や地下水脈、多摩川の河岸段丘の形成などについて、詳しい解説がありました。本当を言えば、私の主な興味は、文学散歩「武蔵野夫人紀行」か、歴史散歩「武蔵国分寺遺跡探索」のほうにあるのですが、それは一人でも歩ける。地層の解説など、私にはまったく門外漢の分野ですから、解説はとてもありがたいことでした。
地層や地下水脈についての解説をする先生たち、日頃の授業もかくやと思える熱心でくわしいお話を聞かせて下さいました。
「武蔵野夫人」の中では、主人公道子は、幼なじみの勉と散歩に出かけ、野川の水源を巡ります。二人が歩いた水源も今回のハイキングコースに含まれています。野川の水源とされる湧水は何カ所かあるのですが、そのひとつの湧水は、日立中央研究所の庭園内にあります。
日曜地学ハイキングの面々が今回の「地学巡検」で最初に訪問したのは、日立中央研究所の「一日庭園公開」でした。
入り口からすぐのところに、「ハケ」の崖が作り出した谷があり、橋がかかっていました。「返仁橋」と名付けられていました。
私はまったく知らなかったのですが、日立中央研究所は広大な敷地の中に立てられており、春秋、年に二回だけ無料で一般公開が行われるということです。


中に入ってみて、押すな押すなの人混みに驚きました。なんと旅行会社クラブツーリズムがツアー客を募集しており、各地からのバスが15台だか20台だか乗り込んできているのだそうです。一台50人ツアー客として、1000人の客。いくら広大な庭園だからといっても、池の周囲800mは、日曜日の原宿竹下通り並の、押すな押すなの行列になっていました。地元の人だか日立社員だかが、サービスとして地野菜、焼きそば、鯛焼きなどをテントを張って売り出していました。
かっては、この庭園開放はおそらく地元の人しか知らない行事であり、日立も、地元の人へのサービスとして庭園を開放したのでしょうに、無料の庭園公開を自社のツアーに利用するとは、クラブツーリズムも抜け目がない。ツアー客は一日バスツアーに5000円ほどのツアー代を払い込み、お弁当などを支給されて園内の芝生などで食べるのでしょう。
日立がクラブツーリズムからいくらかもらっているとは思えず、数少ないトイレに長蛇の列で並んだときは、クラブツーリズムの商売が阿漕に思えました。園内を歩いたのは30分ほどなのに、トイレに25分並びました。
旅行団体の客のほか、小金井市ウォーキング協会という旗を立てた団体など、ウォーキングブームのおりから、数多くの中高年ウォーカーが押し寄せていました。
庭園内の水源からの湧水が、周囲800mという大きな池を作っています。この池は人工池で湧水の貯水池として1958年に造られました。池には名前はないらしく、もらった園内地図には、ただ「大池」とあります。池の片隅に湧水があったのですが、あまりの人混みで近づけませんでした。池の写真だけとりました。庭園は、まだ紅葉には早かったのですが、秋の色があちこちに見られました。
めずらしい「十月桜」も見事に咲いていました。

この園内から始まる「国分寺崖線」は、立川から世田谷の等々力渓谷まで30km続くのです。
このあたり一帯は、古くより「恋ヶ窪」という地名がつけられていました。『武蔵野夫人』の主人公ふたりが散歩したときのようすを、引用してみましょう。
「川はしかし自然に細くなって、ようやく底の泥を見せはじめ、往還を一つ越えると、流域は細い水田となり川は斜面の雑木林に密着して流れ、一条の小道がそれに沿っていた。
線路の土手へ上ると向こう側には以外に広い窪地が横たわり、水田が発達していた。右側を一つの支線の土手に限られた下は足の密生した湿地で、水が大きな池をたたえて溢れ、吸い込まれるように土管に向かって動いていた。これが水源であった。」
この「恋ヶ窪」の地域が、この日立中央研究所のあたりです。「武蔵野夫人」の勉と道子が歩いたときの「支線の土手」は、現在の西武国分寺線でしょう。「水が大きな池をたたえて溢れ」とある大きな池が「日立中央研究所内庭園の大池」と思われます。
<つづく>