2012/11/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(12)出雲展・東京国立博物館
法隆寺館の1階観音様、2階の伎楽面を見て、気分はおさまりました。レストランゆりの木で、不愉快な思いをしたのは、さっぱり忘れて、よいものを見て目をなごませれば、立った腹も横に寝ておさまります。
まず、本館で出雲展を見ました。(11月25日まで)
http://izumo2012.jp/
メインの展示は、2000年に出雲大社の境内から出土した宇豆柱(うづばしら)と、古代出雲大社の復元模型です。
出雲大社の千家家に伝わる大社設計図の古伝によると、柱の太さは3mで、本殿の高さは16丈、約48m。古伝では、平安時代の建物については、雲太、和二、京三(出雲太郎、大和次郎、京三郎)と書かれ、出雲が日本一の高さ、大和の東大寺が二番、京都の御所が三番、とされていました。(数え歌として人口に膾炙していたのを元に、平安時代の「口遊」by源為憲が書き残していたそうです)
東大寺の高さ45mよりも高いのが出雲大社だと言われていたのです。この記録に対して、「そんなに太い柱になる木はないし、そんなに高い建物も、往古の技術では建てられるはずがない」という論を出す学者もいました。
ところが、2000年の発掘調査で、大社境内から、古い柱の残痕が出てきました。これが宇豆柱です。直径1m以上の太い杉の丸太を3本束ねて一本の柱としており、古伝(千家家所蔵「金輪御造営差図」)の「直径3mの柱」が本当だったことがわかりました。そうなると、本殿までの階段が100mもの長さで続いていた、という伝説も本当だということです。
本館正面奥の展示室には、この出雲大社本殿の10分の1の模型が設置されていました。神官のフィギュアが階段に置かれていて、いかに巨大な神殿だったかがわかります。発掘された宇豆柱も展示されており、太さを実感できました。
そのほかの展示では、1984年1985年に荒神谷遺跡で発掘された銅剣銅矛、銅鐸が圧巻でした。1996年、加茂岩倉遺跡から発掘された、銅鐸の一部などが展示されていました。ひとつの遺跡からの出土数が、日本最多となる39個。ひとつでも発掘されればすごいのに、これほどの数の銅鐸があったのですから、出雲の地の力がわかります。出雲は大和にも増して重要な土地でした。
銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個という常識をはるかに超える数の青銅器が発見されたことで、古代史の中で出雲がいかに大きな存在だったか、大和天皇家に「国ゆずり」をした、というその言い伝えについて、さらに研究が必要なことがわかりました。
国譲りの話は、712年、今からちょうど1300年前に完成した『古事記』に大国主命が、アマテラスの孫のニニギに国土の権利をゆずり、そのかわり、この世で一番高く大きなおやしろを建てて出雲の神々をたたえることを要求した、という話になっています。
古事記研究風土記研究も進んできたとはいえ、まだ古代史の全容が解明されたわけではありません。
ちなみに、春庭1974年提出の卒業論文のタイトルは『古事記』でした。
出雲大社遷宮のためおやしろから出されている大社の所蔵品、また島根県立古代出雲歴史博物館所蔵品などが多数展示されていました。
展示のなかで、あ、そうなのか、と、目からウロコの品がありました。銅鐸復元品です。銅鐸は東博の考古室などでも多数展示されているので、見慣れた気になっていましたが、復元品がアカガネ色に輝いているのを見て、「そうか、私は銅鐸といえば、緑青がふいている緑色を思い浮かべてきたけれど、製造されたばかりのときは、銅の色なんだ」と、改めて思いました。銅鐸=緑青色という思い込みで、アカガネ色の銅鐸を想像したことがなかった。想像力がない人間ですね。銅剣銅矛の復元品もありました。
復元された銅鐸
「神話のふるさと出雲」、出雲風土記や古事記の研究がもっとすすんで、古代のアキツシマがより深く理解出来るようになってほしいと思います。アヅマエビスの子孫である私にとっても、「出雲や大和は、心のふるさと」と言ってよいと思うので。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(12)出雲展・東京国立博物館
法隆寺館の1階観音様、2階の伎楽面を見て、気分はおさまりました。レストランゆりの木で、不愉快な思いをしたのは、さっぱり忘れて、よいものを見て目をなごませれば、立った腹も横に寝ておさまります。
まず、本館で出雲展を見ました。(11月25日まで)
http://izumo2012.jp/
メインの展示は、2000年に出雲大社の境内から出土した宇豆柱(うづばしら)と、古代出雲大社の復元模型です。
出雲大社の千家家に伝わる大社設計図の古伝によると、柱の太さは3mで、本殿の高さは16丈、約48m。古伝では、平安時代の建物については、雲太、和二、京三(出雲太郎、大和次郎、京三郎)と書かれ、出雲が日本一の高さ、大和の東大寺が二番、京都の御所が三番、とされていました。(数え歌として人口に膾炙していたのを元に、平安時代の「口遊」by源為憲が書き残していたそうです)
東大寺の高さ45mよりも高いのが出雲大社だと言われていたのです。この記録に対して、「そんなに太い柱になる木はないし、そんなに高い建物も、往古の技術では建てられるはずがない」という論を出す学者もいました。
ところが、2000年の発掘調査で、大社境内から、古い柱の残痕が出てきました。これが宇豆柱です。直径1m以上の太い杉の丸太を3本束ねて一本の柱としており、古伝(千家家所蔵「金輪御造営差図」)の「直径3mの柱」が本当だったことがわかりました。そうなると、本殿までの階段が100mもの長さで続いていた、という伝説も本当だということです。
本館正面奥の展示室には、この出雲大社本殿の10分の1の模型が設置されていました。神官のフィギュアが階段に置かれていて、いかに巨大な神殿だったかがわかります。発掘された宇豆柱も展示されており、太さを実感できました。
そのほかの展示では、1984年1985年に荒神谷遺跡で発掘された銅剣銅矛、銅鐸が圧巻でした。1996年、加茂岩倉遺跡から発掘された、銅鐸の一部などが展示されていました。ひとつの遺跡からの出土数が、日本最多となる39個。ひとつでも発掘されればすごいのに、これほどの数の銅鐸があったのですから、出雲の地の力がわかります。出雲は大和にも増して重要な土地でした。
銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個という常識をはるかに超える数の青銅器が発見されたことで、古代史の中で出雲がいかに大きな存在だったか、大和天皇家に「国ゆずり」をした、というその言い伝えについて、さらに研究が必要なことがわかりました。
国譲りの話は、712年、今からちょうど1300年前に完成した『古事記』に大国主命が、アマテラスの孫のニニギに国土の権利をゆずり、そのかわり、この世で一番高く大きなおやしろを建てて出雲の神々をたたえることを要求した、という話になっています。
古事記研究風土記研究も進んできたとはいえ、まだ古代史の全容が解明されたわけではありません。
ちなみに、春庭1974年提出の卒業論文のタイトルは『古事記』でした。
出雲大社遷宮のためおやしろから出されている大社の所蔵品、また島根県立古代出雲歴史博物館所蔵品などが多数展示されていました。
展示のなかで、あ、そうなのか、と、目からウロコの品がありました。銅鐸復元品です。銅鐸は東博の考古室などでも多数展示されているので、見慣れた気になっていましたが、復元品がアカガネ色に輝いているのを見て、「そうか、私は銅鐸といえば、緑青がふいている緑色を思い浮かべてきたけれど、製造されたばかりのときは、銅の色なんだ」と、改めて思いました。銅鐸=緑青色という思い込みで、アカガネ色の銅鐸を想像したことがなかった。想像力がない人間ですね。銅剣銅矛の復元品もありました。
復元された銅鐸
「神話のふるさと出雲」、出雲風土記や古事記の研究がもっとすすんで、古代のアキツシマがより深く理解出来るようになってほしいと思います。アヅマエビスの子孫である私にとっても、「出雲や大和は、心のふるさと」と言ってよいと思うので。
<つづく>