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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月10日魂の再生イニシエーション」

2012-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(18)1992年11月08日「飯干景子と魂の再生イニシエーション」

(二九七八)1992年十一月六日 金曜日(曇り)
ニッポニアニッポン事情「飯星景子の手記を読んで、魂の再生イニシエーションを思うこと」

 世紀末こそ宗教の時代と思うし、一般宗教学は仁戸田六三郎先生に教わり、新興宗教については島園進先生の教えを受けて、宗教にはいつも関心を持っている。
 アミニズムから、オカルトまで、すべての神様仏様は私を守るために存在していると思っている。

 私は「わたし教」の教祖兼たった一人の信者なのだ。ひとり一人の心の中に、「人間の限界を超え、人間を包み込む何か」があればそれで宗教成立。その「何か」がイワシの頭であろうと、エホバだろうとシャカであろうと、アインシュタインであろうとオカーサンであろうと、いっこう差しつかえない。
 ナンマンダーとか、アーメンとかアッラーアクバルにあたる「わたし教」のコトバは「オカーサーン」である。味噌汁を連想してしまうところが玉に傷。

 私には飯星親子対○一教会の戦いは、国会の与野党の駆引やら検察の駆引より以上に面白かったのだけど。飯星景子の生出演も飯干晃一生出演も、全部見てしまった!
 テレビのいいところは、渦中にある人の表情からすべてを読み取れることにある。「娘を取り戻した」と語る父親の飯干さんの顔が「○一教会への宣戦布告」の時と全然ちがって、穏やかな安心した表情になっていた。

 カクレ信者から一転マスコミに信仰宣言をしたときの山崎浩子や桜田淳子の表情も、張り詰めたなかにも晴れ晴れしていて、本気で信じているんだなと思えたが、「教会の欺瞞を知った。」と胸を張る飯星景子もとてもよい表情をしていて、これだけ美しい表情で宣言されると、○一教会も山崎桜田で得たイメージアップが一挙に崩れ去ってしまうと、慌てていることだろう。

 宗教に関わる人は、全人格が表情に出ると思うので、テレビに写し出される表情を読み取るのは重要だと思う。
 実にいやな表情だったのは、○一教会の広報担当幹部という人と、「愛の家族」の鈴木代表という人。
 信仰の名のもとに嘘や欺瞞で人をダシにして、教会内部でのし上がり、幹部の地位を得てきた、という感じを与える顔だった。「愛の家族」のために全財産を投げ出したという元銀座のクラブのマダムという女性はとても清々しい表情だったが。

 飯星の手記のうち、私にとって重要に思えたことは、彼女がアメリカへ語学留学を目的として行き、結局目的を果たさずに教会幹部の指示にしたがって、帰国したことだ。

 「魂の再生」のために、重要な契機が二つある。ひとつは見知らぬ土地への移動。もうひとつは病気を含めた心身の衰弱。
 修行者などは自主的にこの二つのことを行なって再生の契機とする。聖地とされる山や地域に入り、心身を極限まで追い込む修行をする。他の宗教でもイスラム教ではメッカへ詣でることがハジと呼ばれる身分へと変化するために重要だし、仏教、キリスト教も似たようなシステムを持っている。
 お遍路さんとか巡礼も見知らぬ聖地を巡ることが魂の再生につながるはずのシステムだった。もちろん、現代のバスツアーによる四国巡りじゃダメだけど。

 ラスコーリニコフは、さいはての地シベリアで病気にかかり、時任謙作は、伯耆大山で病気になった。このように他の土地をさまようことと心身の衰弱が再生の契機になる。
 グリムやペローが採集した民話のお姫様たちだって、白雪姫は、継母に殺されかけ森をさまよい、ついに毒林檎で一度死ぬことによって、新しい人生を手にいれるし、眠り姫は百年の眠り(仮死)を経て再生する。赤ずきんちゃんなんか、狼に食われちまってから再生する。

 人類は、再生のためには一度死ななきゃならない。イニシエーション(通過儀礼、入社儀礼)は、各々の文化の担い手たちが社会のシステムとして作りあげた、赤ん坊から少年へ、少年から青年へ、青年から青年へと成長の過程に設けられた仮死と再生の儀式なのだと文化人類学者や宗教学者はいう。

 イニシエーション儀式は、文化人類学者らの記録によってさまざまな社会の例が知られるようになった。再生前の仮死として、つらい修行訓練を課す社会、他の土地での放浪を課す社会、ひたすら篭ることを課す社会といろいろあるが、次の年令階梯へ移る際に、過去の年令層での死、新しい人生への再生を象徴するシステムは、多くの文化がさまざまな方式で持っている。

 現代の若い日本人にとって最も意識的な通過儀礼の場のひとつは、「子の誕生」であろう。女は子を生むことによって、男はわが子の誕生を廊下でウロウロ待つ、または分娩室で妻の手を握り締めることによって、やっと「誰それの息子、娘」から「赤ん坊の親」に変身する。通過すべきターニングポイントは「親になること」と「自分が死ぬこと」のほか、みつけにくい。
 そして、これらの転回点で魂の再生を経験できる者はそう多くはないだろう。なんとなく通過する転回点だってある。

 日本では、氏神への初宮参りから始まって、髪置やら、袴着やら帯解、元服やら、若衆宿入り娘宿入り、さまざまな通過儀礼が行なわれてきたが、一般的には他の文化地域ほど「聖地巡礼」や「仮死と再生」がはっきりシステムとして存在してこなかった。
 これはまた、日本が他の地域と異なり、同質文化の村社会内部だけで生活してきたからだとかなんだとか、いろいろ理由はあろう。
 通過儀礼にあたって、さまざまなつらい肉体的訓練や他の土地での修行といった内容を課すものは、少なかった。したがって、成長の節目に自己の「魂の再生」をとげるのは特殊な例になる。

 現代の若者たちはそれぞれ心に空洞を抱えながら、せつなの消費的快楽にその日を過ごす。食うに困らず寒からず戦争は遠く、明るく楽しい毎日だ。その空洞を埋めるべく、さまざまな「心のよりどころ」がすりよってくる。

 魂の居場所を求めていた飯星景子も○一教会の網に引っ掛かった。ビデオで洗脳され、教会幹部の指示通り行動するようになった。
 彼女は有名人だから、霊感商法で壷や印鑑を売ったり、珍味や高麗人参茶を売り歩いたり、詐欺まがいの芝居によって老女からなけなしの貯金を取りあげたり、難民を助ける会と称して寄付を集め、財産をすべて教祖に捧げるということは求められなかった。せいぜい、留学生を援助すると称するアジア平和女性連合の司会をしたくらいである。

 そして「死ぬ気で○一教会と戦うつもり」という親の心が景子の内心の葛藤に訴えた。彼女は○一教会の嘘に気づき、魂の転回点を見つけることができた。もし、この後彼女に神が必要になっても、彼女は「人をだましても、嘘を言っても、とにかくお金を集めて、それをすべて教祖に捧げよと命じる宗教」を信じることはないだろう。

 宗教にはまった人が教祖に一身を捧げたくなる気持、私にもわからないではない。
 一九八二年だったか、八一年だったか忘れてしまったが、東京国立博物館で奈良の唐招大寺の秘宝特別展があった。奈良に修学旅行に行ったときは見ることのできなかった鑑真座像が展示されていた。

 鑑真のことは、歴史的な理解で「遠い中国から、日本に教えを広めるために渡海を試み、何度も難破の苦難に会い、ついには失明してまでも日本にやってきた尊いお坊さん」とは知っていたが、他に格別な思い入れを持ったことはなかった。

 しかし、像に近づいた私は本当に不思議な宗教的気分を持った。「ああ、この方は、私のすべてを理解し全てを認めて許してくださる。この方にすべてをゆだね、この方を信じていけば私の生は成就するのだ。」という思いだった。
 鑑真の像は展覧会ののち、また寺の奥深く安置され、私は鑑真の足下にひれ伏しつつ、ついて行くことはできなかった。

 この宗教的感情の発生が、鑑真の偉さによって生れたのか、それとも座像を作った彫刻師の芸術性の高さによるのか、よくはわからないが、ともかく、その時の私の精神のある動きと、一人の宗教者の像がピッタリと呼応したのだ。
 もしこの感情が生身の教祖に出会ったとき起こったのなら、たちまち私は教祖のためならなんでもする信者になったであろう。

 だから、私は「生き神」に取り込まれてしまう人を「あんな宗教にだまされて」と非難する気になれない。他からみたら「インチキ壷」を高く売ったりいかがわしい集団に思え、実際反社会的な行動をする団体もあるのはわかるが、信じている人が本当に純粋に信じているのだろうというのも理解できる気がするのだ。

 複雑で空虚な現代社会に生きていき、魂の居場所を求めることは、必要なことなのだろう。ただ、求めた先にさまざまな落とし穴もありインチキもある。
 私もまた、魂の居場所をみつけにくくて、うろうろとすごしつつ、騙されない自信などはない。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/08 のつっこみ
 1992年の統一教会さわぎから3年後、1995年にはオーム真理教事件が起こり、宗教団体が起こしたテロ殺人に衝撃を受けました。
 2012年、オーム真理教最後の指名手配犯も逮捕され、事件は表面上は終結したように言われています。また、統一教会は、文鮮明教祖が9月に92歳で亡くなったことで、今後どんな変化を遂げていくのか、ウォッチングは続きます。

 私は、宗教と人の心の問題をずっと考えてきました。現在の私の宗教的感性は、「いずれの宗教にも属さない」という点では無宗教ですが、原始アニミズム的な古神道、仏教、キリスト教などなどの、ごった煮シンクレティズム的な宗教的感覚を持っています。「教祖は私」と言う所以。
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<つづく>
コメント (4)
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