2012/11/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(9)山本有三記念館、渋沢資料館晩香廬
11月11日は、私の父の命日です。1995年に76歳で死にました。南太平洋の戦線で死ぬよりつらい苦労をした兵士でしたし、母に先立たれて四半世紀をやもめとして暮らした父ですから、1995年の夏まで家庭菜園の畑仕事や、史跡巡りウォーキングなどを続けて、9月に調子が悪いと言いだし、10月に入院、11月には死んでしまうというあっけない最後も、父らしい見事な終わり方と思えたことでした。
ささやかで慎ましかった父の一生とは大違いの偉人ですが、おなじ11月11日を命日とする人に、渋沢栄一がいます。命日記念で、渋沢資料館が無料になるので、王子飛鳥山へ出かけてきました。無料が好きです。
渋沢栄一は、1840(天保11)年に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれ、1931(昭和6)年11月11日に満91歳で没しました。日本が資本産業を打ち立て、近代国家の基礎を固めるために一生を捧げた人です。
豪農の生まれで商才にも長け、幕末にはその才を認められて一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍となると幕臣になりました。
1867年のパリ万博に際し、慶喜の弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航し、もちまえの商才に加えて、近代資本産業の発展を身をもって知り、帰国後は大蔵省官僚となりましたが、大久保利通や大隈重信らと対立。退官後は、第一国立銀行ほかの銀行を設立し、500以上の会社を設立しました。「日本資本主義の父」と呼ばれる所以です。
渋沢の偉いところは、。ただ金儲けをするにあらず、福祉教育などの事業にも力を注ぎ、決して財閥などは構成しなかったことです。そこが他の近代資本家と異なる点です。
「私利を追わず公益を図る」という考えは、後継者である孫の渋沢敬三にも受け継がれました。私の好きな在野の民俗学者、宮本常一は、渋沢の設立したアチックミューゼアムで研究を続けたのです。敬三は自身も民俗学民族学の研究者になりたかったのですが、財界や政界の仕事に追われて、研究ができないかわりに、宮本らに資金を出し、研究を続けさせました。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って、1917(大正6)年に落成し、栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。栄一はこの洋風茶室建物を内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用しました。
この晩香廬と青淵文庫が、11月11日、無料公開。
2年前の文化財公開ウィークのときだったか、この晩香廬見学でyokoちゃんと出会いました。yokoちゃんが「出かけます」と書いていて、行き先は書いてなかったのですが、たぶん、晩香廬を見るのだろうと見当をつけて、私もいったら、予測通りyokoちゃんがいて、この人がyokoちゃんだろうと声をかけてみたら、ぴったり当たった。それで、「顔を知っているネット友」になりました。
晩香廬(2012/11/11)
内部での撮影は禁止ですが、外側からガラス窓にカメラをくっつけて撮影するのはフラッシュ焚かなければOKです。
渋沢家は、都内各地にお屋敷を構えていましたが、晩年の居宅となったのが、飛鳥山に建てた本邸です。洋館和館の住まいは、東京大空襲で焼失しましたが、栄一が客をもてなすために使用した「洋風茶室」の晩香廬と、論語研究の書籍を収める書庫「青淵文庫」の建物は焼失を免れました。なぜなら、近隣の人々が総出で集まり、「渋沢先生の書庫を焼いてはならぬ」と、防火消火にあたったからだ、と、ボランティア解説員が説明してくれたことがありました。それだけ、渋沢栄一の事跡を慕う人が大勢いたのだと。青淵というのは、栄一の号で、栄一は内外の論語関連の書籍を集め、青淵文庫におさめて論語研究を続けてきました。
青淵文庫外観(2012/11/11)
今年の一般公開の目玉は、橋本雅邦が飛鳥山邸の新築祝いとして描いた「松下郭子儀梅竹図」の特別公開。そして、「故渋沢子爵葬儀の実況」の映画上映。
私は葬式映画の途中までしか見られませんでしたが、渋沢史料館本館での「おぢいさま、80のおいわい」というフィルムで、渋沢一族が総出で、庭で老いも若きも子どもも栄一自身も、とても楽しそうにお遊戯をしているようすがとても興味深かったです。
栄一は、先妻ちよとの間に一男二女、後妻かねとの間に五男一女の子福者で、さらにそれぞれの子が多産系で、孫は38人。嫡男篤二が財界を嫌い芸術志望であったのをカバーして、嫡孫敬三は学者志望をあきらめて栄一の後を継ぎました。たくさんの事業を興し、子どもにも孫にも恵まれて、子爵栄一の葬儀には天皇勅使や皇后皇太后からのお使いも来るという、栄耀栄華に包まれた一生でした。
栄一翁に及びもつかぬことながら、ちょっとでもあやかりたい、という一般庶民のために資料館が命日記念に企画したのが「翁といっしょに写真を撮ろう」コーナーです。
栄一が愛用した中高帽のレプリカをかぶり、ステッキを持って栄一翁の実物大パネルといっしょに撮影してくれるのです。
私も、中高帽をかぶって、翁とツーショットにおさまりました。写真でもわかるとおり、翁は小柄で、150cmしかない私と並んでもそう違わない。渋沢栄一も徳川慶喜もともに150cmだったそうです。
小さな体に大きな一生。私も、この「たっぷりの肉のかたまり」にせめて大きな夢を詰め込みましょう。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(9)山本有三記念館、渋沢資料館晩香廬
11月11日は、私の父の命日です。1995年に76歳で死にました。南太平洋の戦線で死ぬよりつらい苦労をした兵士でしたし、母に先立たれて四半世紀をやもめとして暮らした父ですから、1995年の夏まで家庭菜園の畑仕事や、史跡巡りウォーキングなどを続けて、9月に調子が悪いと言いだし、10月に入院、11月には死んでしまうというあっけない最後も、父らしい見事な終わり方と思えたことでした。
ささやかで慎ましかった父の一生とは大違いの偉人ですが、おなじ11月11日を命日とする人に、渋沢栄一がいます。命日記念で、渋沢資料館が無料になるので、王子飛鳥山へ出かけてきました。無料が好きです。
渋沢栄一は、1840(天保11)年に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれ、1931(昭和6)年11月11日に満91歳で没しました。日本が資本産業を打ち立て、近代国家の基礎を固めるために一生を捧げた人です。
豪農の生まれで商才にも長け、幕末にはその才を認められて一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍となると幕臣になりました。
1867年のパリ万博に際し、慶喜の弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航し、もちまえの商才に加えて、近代資本産業の発展を身をもって知り、帰国後は大蔵省官僚となりましたが、大久保利通や大隈重信らと対立。退官後は、第一国立銀行ほかの銀行を設立し、500以上の会社を設立しました。「日本資本主義の父」と呼ばれる所以です。
渋沢の偉いところは、。ただ金儲けをするにあらず、福祉教育などの事業にも力を注ぎ、決して財閥などは構成しなかったことです。そこが他の近代資本家と異なる点です。
「私利を追わず公益を図る」という考えは、後継者である孫の渋沢敬三にも受け継がれました。私の好きな在野の民俗学者、宮本常一は、渋沢の設立したアチックミューゼアムで研究を続けたのです。敬三は自身も民俗学民族学の研究者になりたかったのですが、財界や政界の仕事に追われて、研究ができないかわりに、宮本らに資金を出し、研究を続けさせました。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って、1917(大正6)年に落成し、栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。栄一はこの洋風茶室建物を内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用しました。
この晩香廬と青淵文庫が、11月11日、無料公開。
2年前の文化財公開ウィークのときだったか、この晩香廬見学でyokoちゃんと出会いました。yokoちゃんが「出かけます」と書いていて、行き先は書いてなかったのですが、たぶん、晩香廬を見るのだろうと見当をつけて、私もいったら、予測通りyokoちゃんがいて、この人がyokoちゃんだろうと声をかけてみたら、ぴったり当たった。それで、「顔を知っているネット友」になりました。
晩香廬(2012/11/11)
内部での撮影は禁止ですが、外側からガラス窓にカメラをくっつけて撮影するのはフラッシュ焚かなければOKです。
渋沢家は、都内各地にお屋敷を構えていましたが、晩年の居宅となったのが、飛鳥山に建てた本邸です。洋館和館の住まいは、東京大空襲で焼失しましたが、栄一が客をもてなすために使用した「洋風茶室」の晩香廬と、論語研究の書籍を収める書庫「青淵文庫」の建物は焼失を免れました。なぜなら、近隣の人々が総出で集まり、「渋沢先生の書庫を焼いてはならぬ」と、防火消火にあたったからだ、と、ボランティア解説員が説明してくれたことがありました。それだけ、渋沢栄一の事跡を慕う人が大勢いたのだと。青淵というのは、栄一の号で、栄一は内外の論語関連の書籍を集め、青淵文庫におさめて論語研究を続けてきました。
青淵文庫外観(2012/11/11)
今年の一般公開の目玉は、橋本雅邦が飛鳥山邸の新築祝いとして描いた「松下郭子儀梅竹図」の特別公開。そして、「故渋沢子爵葬儀の実況」の映画上映。
私は葬式映画の途中までしか見られませんでしたが、渋沢史料館本館での「おぢいさま、80のおいわい」というフィルムで、渋沢一族が総出で、庭で老いも若きも子どもも栄一自身も、とても楽しそうにお遊戯をしているようすがとても興味深かったです。
栄一は、先妻ちよとの間に一男二女、後妻かねとの間に五男一女の子福者で、さらにそれぞれの子が多産系で、孫は38人。嫡男篤二が財界を嫌い芸術志望であったのをカバーして、嫡孫敬三は学者志望をあきらめて栄一の後を継ぎました。たくさんの事業を興し、子どもにも孫にも恵まれて、子爵栄一の葬儀には天皇勅使や皇后皇太后からのお使いも来るという、栄耀栄華に包まれた一生でした。
栄一翁に及びもつかぬことながら、ちょっとでもあやかりたい、という一般庶民のために資料館が命日記念に企画したのが「翁といっしょに写真を撮ろう」コーナーです。
栄一が愛用した中高帽のレプリカをかぶり、ステッキを持って栄一翁の実物大パネルといっしょに撮影してくれるのです。
私も、中高帽をかぶって、翁とツーショットにおさまりました。写真でもわかるとおり、翁は小柄で、150cmしかない私と並んでもそう違わない。渋沢栄一も徳川慶喜もともに150cmだったそうです。
小さな体に大きな一生。私も、この「たっぷりの肉のかたまり」にせめて大きな夢を詰め込みましょう。
<つづく>