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ぽかぽか春庭「文士のやかた小説家の家」

2012-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/17
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(8)文士のやかた小説家の家

 11月15日、木曜日の仕事が終わったあと急遽思い立って、仙川にある「武者小路実篤・仙川の家」に寄りました。
 三鷹市山本有三記念館の旧山本邸洋館を見て、「なんだか気恥ずかしい」と感じたのはなぜだったのか、と思ったからです。1年前の秋、2度、「武者小路実篤・仙川の家」を見たときは、ただ「瀟洒な家、文士好みの造りだなあ」と感じただけだったのに。

 2011年11月04日のぽかぽか春庭「華族のおやしき画家のアトリエ作家の家シリーズの中で、武者小路実篤邸のことを書いています。このコラム中に書いたことで、訂正がひとつ。2011年11月04日のコラムには、「実篤邸は、夫人の死後、夫人の遺言によって世田谷区に寄贈された」と書きました。夫人の遺言に「家屋敷は世田谷区に寄贈」と書かれていたことは事実ですが、これは、実篤より15歳も若い夫人が、自分のほうが未亡人になると信じて書き残して置いたことなのです。私は実篤が亡くなったあと、夫人が死んだのだと思い込んでいました。実際には、夫人が75歳で亡くなったあと、90歳の実篤は気落ちして、夫人の死後1ヶ月後に死去。実篤死去のほうがあとなのでした。実篤の遺言がどうだったのかとは記録されていませんが、遺族は夫人の志を汲んで邸宅を寄贈しました。
 
 世田谷や多摩地域で「はけ」と呼ばれる崖があります。実篤邸は、この「はけ」の際に建てられており、邸宅は崖の上に、庭園は崖の下に位置しています。実篤が愛した庭園は、現在は「実篤公園」として一般公開されています。
 山本有三邸の庭は、洋館の南側に明るい感じで広がっていましたが、実篤公園は、晩秋の日差しの中、すでに薄暗いうっそうとした感じでした。

 「旧山本邸」の洋館を「気恥ずかしい」と感じたのはなぜだったか。子どもの頃、ダイニングキッチン+和室6室と縁側という和風の家に育った私は、父に「私は洋館に住みたかった。どうせ建てるなら、洋館にしたら良かったのに。どうして和風の家にしたの?」と、ことあるごとに文句を言っていました。

 私が「和風の家なんかいやだ」と文句を言ったとき、父は怒って、「俺は35歳で家を建てたが、この家をこういうふうにしか建てられなかった。お前も35のときに家を建てろ。好きなように洋風にしたらいい。いいか、棒ほど願って針ほど叶うだからな」と言いました。父は35歳で自宅を建てたけれど、私は還暦すぎても公団の貸し室なのですから、父はあの世で笑って「棒ほど願って針ほど叶うと言ったけれど、針ほどの家でも自力で建てられたか」と言うでしょう。でも、お父さん、姉が結婚したとき家を買う資金は双方の親が折半して出したのだし、妹が家を建て直すときもお父さんがお金を出した。私だけ、家の資金一円ももらわなかったよね。

 「おとぎ話の中の家」みたいな家を願い、「洋館に住みたい」と言っていた、こどものころに思い描いた通りの家が山本有三の家だったので、気恥ずかしかったのです。日本のものより西洋のもののほうがしゃれていると信じていられた無邪気でアホな子どもの願い。日本の田舎に残存する家父長的な封建主義的なものの考え方より西欧近代主義のほうがずっとよいと、単純に思っていた頃のあこがれの家が「旧山本有三洋館」だったのです。

 山本有三はけっして「路傍の石」の愛川呉一のような貧しい家の出身ではなく、呉一が奉公に出た呉服屋の、主人側の家に生まれました。父に進学を阻まれ、家業を継ぐよう強制されますが、進学への意志を貫いて、一高、東京帝大を卒業しました。

 実篤は、15年戦争(日中戦争太平洋戦争)中、戦争賛美者となり「我が国が強いのは、国体のおかげである」なんてことを書き散らしたために、戦後は公職追放処分を受けます。一方山本は、共産党シンパかと疑われて、戦争中は筆を折っていたため、戦後はすぐに復活し、1947年からは衆議院議員として政治家になります。
 実篤は、公職追放が解けた1951(昭和26)年には文化勲章を受けました。

 実篤は1885年生まれ、山本有三は1887年生まれ。2歳違いの同世代なのです。実篤は公家華族の子爵家に生まれ、農民として生きるための「新しき村」を建設するなど、上から下りて平らになろうとした人。有三は田舎町の呉服屋のせがれとして生まれて、上昇志向を持ち続けた人。
 私が山本有三の洋館を気恥ずかしく感じたのは、私も田舎町に生まれて、少しでも這い上がりたいともがく子ども時代青春時代を送ったからだろうと気づきました。

 西欧近代主義の反映である、明治以後の近代建築。洋館もそのひとつですし、復元なった東京駅もそのひとつ。私はかって、東京駅を西洋キッチュと評したことがありました。西洋に追いつきたいと必死に背伸びする日本が作り出した「かわいいおとぎの国の駅舎」が東京駅である、という論です。山本有三の洋館も、帝国大生から国会議員へと這い上がっていった山本が、自身の夢を実現した「昭和の洋館」でした。

 子ども達を独立させ、70歳で夫人と二人だけで住むための瀟洒な「千川の家」を建てた実篤。池のある庭と静かな落ち着いた家を望み、決して華美な造りではない、千川の家を好もしく思い、山本有三の家を「子どもの頃望んだような洋館で気恥ずかしい」と感じる、還暦もだいぶんすぎた私。ああ、年をとると家への好みも変わるのだなあと実感しつつ、団地2DKのごちゃごちゃの部屋に帰りました。

<つづく>
コメント (5)
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