20150201
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(37)英語コンプレックス
2003年に掲載したOCNカフェ日記を再録しています。
1977年以前に読んだ本の著者を「あいうえお」順に思い出し、老いに向かう心支度と来し方の自分語りを続けています。
「ル」の項は、ルイコ・ヨシダ。吉田ルイ子の『『ハーレムの熱い日々』ヺ思い出しつつ、苦手な英語について。
~~~~~~~~~~~~~~~~
英語コンプレックス
at 2003 11/15 11:54 編集
「春庭は、知ったかぶりのもの知らず」であると最初から認めている。
そして、このサイトは「知ったかぶり」が大好きな人間が、蘊蓄たれながら自分語りをやっていると、断っているにもかかわらず、「知ったかぶりするな」という足跡をもらった。
するなって、言われてもねぇ。「煙草が有害であることは、世界保健機構も認めている」と、いくら言っても、愛煙家が全員禁煙してくれるわけじゃないのと、同様で、、、、
まあ、かように、人様に文を読んでもらうのは難しい、ということがわかっただけでも、足跡はありがたい。むろん、多くの温かいメッセージに、感謝し、励まされてもいる。
また、日本の漢字文化が消滅しそうなことを嘆いた文(11/12)に対して 「すみません顰蹙売ります。読めない漢字多すぎ(2003/11/12 21:23)」という足跡をいただいた。
「かんじぶんかがしょうめつしそうって、なげいているんだから、ひらがなばかりのぶんにするわけにはいかないじゃありませんか!」
日本語母語話者の国語教育において、小学校6年間で約千字、中学高校で1000~2000字をならう。常用漢字は約2000。常用漢字を知っていれば、一般的な全国紙が読める、ということになっている。
日本の大学での勉学を希望する留学生は、初級で約300、中級で、初級漢字プラス300、上級では、合計2000の常用漢字と約1万語の語彙数を習得する。(コースによって違いがある。会話中心のクラスと、大学院進学予備コースではカリキュラムが異なる)
非漢字圏の学生にとって、漢字に興味を持つかどうかが、日本語が上達するかどうかの分かれ道になることもある。
「文字文化として、世界中で一番面白い文字だ」と、漢字大好きな学生もいて、書道を習ったりもする。また、漢字が覚えられなくて日本語をあきらめる学生もいる。留学生に対する漢字教育は本当にたいへんだ。
漢字文化圏の中国から来た学生も「生」に、いきる、うまれる、なま、セイ、ショウ、はえる、き、、、、など、たくさんの読み方があることを知ると、「わぁ、覚えられない」という。
たくさんの学生を見てきて、わかったこと。外国語を勉強する適性がある人もいるし、まったくない人もいる。
自国語では、次々に優秀な論文を発表している研究者が、日本国費留学生(日本が国のお金を奨学金として給与する留学生)に選ばれたものの、日本語はまったく苦手で、留学中ずっと英語だけで通した、という例もあるし、日本語を覚えるのが楽しくてたまらず、他の専攻をまなぶつもりで留学したのだが、日本語研究に専門をシフトした、という学生もいる。
世の中には、私のように、大の語学苦手も存在するし、どんな外国語もスイスイと覚えてしまう語学の天才という人たちがいる。
長澤信子さんは、努力を重ねて中国語をものにした。
主婦業のかたわら習得するのは楽ではなかったが、とにかく中国語が好きで好きで、勉強することが楽しくてたまらなかった。36歳で中国語の勉強をはじめて、4年後に「中国語通訳ガイド試験」に合格した。
長澤信子『主婦こそ夢の自由業』は、子育て中の私にとって、ひとつの指針ともなった本である。
長澤は、2年間秘書として働いたのち結婚。単調にも思える家事労働。報われる思い少ないまま、主婦業を続けていた。長澤を支えたのは、ひとつの夢だった。北京へ行ってみたい。中国語の通訳になりたい。
毎日果てしなく続くように思われた主婦業も、目標を持つと「自由な時間をやりくりできる主婦業こそ、勉強にはいちばん向いている仕事」と思えるようになった。
夢を実現するため、家事のあいまに勉強し、まず看護婦学校に入学した。手に職をつけ、自分の夢を実現するためのお金を稼ぐことが第一。
看護婦をしながら通訳学校へ入学するお金を貯めた。通訳学校へ入学し中国語を学び、ついにあこがれの北京へ。日中国交回復前のこと、だれも見向きもしなかった中国語を学び、中国語が日本に必要になったときに通訳として活躍した。
私は中国滞在半年の間、会話を習ったがものにならなかった。語学に強い人がほんとうにうらやましい。
長澤さんのように中国語が上手になることはなかったが、この「主婦こそ夢の自由業」長澤方式をまねしようと思った。長澤さんは、自分がいちばんやりたいことを自分の力で実現するためにまず、看護婦という職を得た。それからやりたいことのために勉強する。
私がこの本を読んだのは、フリーランスライターとして出かかった芽を自分でつみ取り、大学に再入学したころ。
将来は必ず「書きたいことを書く」でも、今は確実にお金を稼いで子供にパンを与えなければ。確実に稼ぐ?いったい私にどんな仕事ができるのか。地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、国語教師、役者などなど、転職を重ねて、どれも中途半端に挫折してきた。
国語教師には向かなかった。役者としては才能が不足した。英文タイピストの仕事は一番私向きではあったが「職場の花、若い女性向き」とされる仕事で、当時は子持ち女性が続けるには不向きであった。
そんなとき、新設された日本語学科に入学した。日本語教師になって、金を稼ぐ。そして、いつかは一番したい仕事「もの書き」をめざす。 大学卒業そして大学院修了まで、8年かかった。
日本語教師の資格は得たが、子供のパンを買うにはほど遠い賃金だった。日本語教師のほとんどは「非常勤」。
ヒトコマいくらで時間労働を売る。とても生活できるような賃金ではない。常勤のポストを得た男性以外、女性たちは「この仕事で食べている」という人が少なかった。
同僚女性達は「エエトコの奥様、お嬢様」たちだった。自分自身が高学歴。夫は一流企業、官僚、大学教員、の方々。「暇だけど、カルチャースクール通いも性に合わないので、ちょっと知的なお仕事をしています」という人が多かった。
ご主人が海外赴任したとき同伴して外国に住み、現地の学校に請われて日本語を教え始めた、と言う人もいる。
講師室はいつも温室のよう。温かい雰囲気でなごやかだったが、生活に苦しむ一般庶民とは感覚がちがう。
美しい花のような奥様たちの中で、私はペンペン草。なずな、のようだった。温室の美しい花の中で、ペンペン草の私が雑草としてひっこぬかれず仕事を続けられたのは、花たちが余裕のある心やさしい人たちだったからだ。「なずなだって、一応植物だし、ワザワザ引っこ抜かなくてもいいじゃありませんか。オホホホ、、、」
奥様達がヒトコマの講師料で「ちょっとお茶して帰りません?」と話しているのを横目で見ながら、私はスーパーに走る。私は、奥様方がお茶するのと同じお金で、子供の給食費もミルク代も払わなければならない。
夫の会社はいつでも倒産寸前。出版不況の出口はない。有名どころの出版社もつぎつぎに倒産していくなか、借金を増やしながらも続けていられるだけで奇跡という零細下請け。
雑草のような私は、講師室でも小さくなってすごした。雑草育ちに加えて、私には英語ができないというコンプレックスがある。
この業界で英語ができるというのは、日常会話はネイティブと同じくらいにでき、論文を英語で執筆、学会発表と質疑応答を英語でこなすことができる、ということ。
私は、ケニアで身につけたブロークンコンプリートの下町英語。
ケニアでも上流の方々は立派なクイーンズイングリッシュを話すが、私が親しくなった人々は、下町の靴磨きやピーナツ売り。観光客相手にブロークンな英語で話す彼らとつきあううち、スワヒリ語は上達したが、英語は完全にこわれたまま。
英語ができないことは、現在までずっとコンプレックスとなっている。時間に余裕ができたら、きちんと学んで身につけよう、と思ってはいるが、今まで時間に余裕ができた年などなかった。年中あしたの授業の準備におわれ、自転車操業である。
英語がへただ。だが、学生は「先生はいちばん英語がへたなのに、先生の文法説明を聞くと、よく日本語がわかるようになる、なぜだろう」と、言う。それは、私が「語学が不得意で、語学に苦しんできたからだろう」と思う。
国語教師のとき、生徒が「わからない」ということがわからなかった。自分が日常生活で話している言葉なのに、何がわからないっていうのさ。本なんて、読めば自然と意味わかるじゃないの。「生徒がどこでつまずくのか、何がわからないのか」が、わからない教師だった。国語教師として失格だった。
今は「わからない」ということがわかる。学生が日本語の何につまずくか、どんなことに混乱してしまったかわかる。
語学コンプレックスは今もある。でも、「英語がへただからこそ、学生には好評」という二律背反も、またよしとして、今日も私の英語はブロークン・コンプリートリィ。
で、学生にはいつもおどしをかける。私をみなさい。英語がへた。でも、日本人みんな下手だからね。だから、日本語できないと、レストランでも注文できない、切手も買えない。さ、練習練習!
私は英語ができない。私だけじゃなく、日本人のほとんどは英会話が苦手。元首相の宮沢さんは英語の使い手だったそうだが、他の首相が、英語得意という話は聞いたことがない。
IT革命を「いっと革命」と命名した森首相も「使えない」ひとり。だが、彼はおおまじめに自分は英語が得意だと信じていた。だからクリントンが来日したとき、さしで英語でやりとりしたい、と主張した。
側近はあわてた。どうしよう、本気で英語しゃべる気だよ。そこで側近は一計を。「すみません、クリントン側の時間がないので、あいさつだけ英語でして、あとは通訳いれます。
あいさつは、最初、ハゥアーユー。ごきげんようお元気ですか、と言ってください。
大統領は、アイムファイン。アンドユー。元気です。あなたは?と聞くでしょう。
当然元気なので、私も元気、ミーツー、と答えてください。」
「だいじょぶ、だいじょぶ。簡単じゃないか。ごきげんよう。はうあーゆ、だな。はうぅあーゆっ」
クリントンと会見の日。自信たっぷりの我が首相は大声でクリントンに呼びかけた。
「フーアーユー(おまえは誰だ)」
クリントンは、日本式冗談だと解釈して余裕で答えた。「私は、ヒラリーの夫です」
すると、首相は大得意で「ミィツゥ。私もです。」
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.47
(る)ルイコヨシダ(吉田ルイ子)『ハーレムの熱い日々』
英語不得意だから、アメリカへ行ってみたいと思っても、躊躇が先立つ。
アメリカに行くなら、ツアーでひとめぐりして、「自由の女神像見た、ホワイトハウス見た、フロリダディズニーワールドで遊んだ」という旅行ではなく、短期間でもいいから住んでみたい。
でもそのためには、英語が、、、、と、いつまでたっても実現しない。(金もない)
アメリカに行くなら、観光旅行ではなく、吉田ルイ子がハーレムで過ごしたような、熱い日々をおくりたい。そうでなければ、行く甲斐もない。
『ハーレムの熱い日々』は、写真ジャーナリスト吉田ルイ子の処女作。公民権運動真っ盛りの60年代ニューヨークで、アメリカの魂に切り込み、ハーレムの人々に寄り添った写真と文章を私たちに見せてくれた。
ルイコは、コロンビア大学でフォトジャーナリズムを学ぶ「ハーレムからブルックリンまでよりずっと遠い、サンフランシスコくらい遠くにあるところにある東洋から来たルイコ」としてハーレムの子供たちと仲良しになり、ハーレムのふところ深く住み込んだ。
ハーレムの子供はうたう。60年代、スラムに住むカリという7歳の黒人少女の詩である。7歳にして、自分の皮膚の色を自覚し、黒い色はすべてダメ、白は善と教えられて成長しなければならない。
Black is Black/ I am black/ I know I am / Black do yo?/ But this world is wite(whiteの訛り)/ I'll tell you/ Wite books wite milk/ Wite dolls /Wite everythin /no Black no Black
こんな時代に、ルイコはハーレムの人々の写真をとり、ハーレムの人々の心を伝えた。
アメリカ、と言えば、私にとっては、『吉田ルイ子のアメリカ』であるのだ。
私はミーハーだから、自分のあこがれの人に会うとうれしくてうれしくて、ついストーカーのようについて歩きたくなる。吉田ルイ子を見かけたのは、長倉洋海の写真展会場だった。ルイ子はさっそうと会場を見て回り、長倉と一言二言話したあと、さっと会場を出た。
私は追いかけたかった。長年の読者としてお礼もいいたかった。「ハーレムの熱い日々」は、もちろん。「吉田ルイ子のアメリカ」「自分を探して旅に生きてます」「ぼくの肌は黒い」「サンディーノのこどもたち」「アパルトヘイトの子どもたち」「いま、アジアの子どもたちは…」「子どもは見ている」「世界おんな風土記」「女たちのアジア」
ハーレムの子供達へ注ぐまなざしは、そのまま南アフリカやアジアの女と子供達に注がれている。
でも、このとき、私は吉田ルイ子の後ろ姿をぼうっとあこがれの目で追うだけであきらめた。
なぜなら、ルイ子と話し終えた長倉が一人で立っていたからだ。ルイ子さんにも声をかけたかったが、長倉と話すチャンス!マスードについて、アフガニスタンや南米のこどもたちについて、質問したいことがたくさんあった。
ルイ子、洋海、どっちとる?このとき、私は男をとりました。バイはつらいね。
長倉も私のあこがれの写真ジャーナリストのひとり。私はロバート・キャパはじめ、カメラをもったジャーナリストが好き。初恋の人浜崎紘一さんもジャーナリストだが、カメラが得意だったかどうかは知らない。(10/22の項)
今、大好きな、辺見庸も自著の写真は自分で撮影。長倉洋海もフォトジャーナリスト、作家。私が惚れる男は決まったタイプなのだ。
ついでに言ってしまえば、わが不在のパートナーも、元地方新聞記者。
フォトジャーナリストをめざしていたが、へんな女にひっかかって挫折した。気の毒に。
できちゃった結婚せざるを得なくなり、子供のおむつ代を稼ぐために、フォトジャーナリストをあきらめた。かわいそうな人。
しかも、仕事をすればするほど借金がふえる会社経営をはじめたら、どっぷり足をすくわれ、泥沼から這い出せなくなっている。同情にたえない。
それもこれも、ナイロビで道に迷った子羊を、子羊と思って道案内したのが間違いの元だった。子羊と思ったのは、羊の皮をかぶったヴァージニア・ウルフ。
結婚後は(ノンヴァージニア)ウルフ!オオカミのようなオカミさん。自己主張強く、自称フェミニスト。しだいにオオカミの牙が鋭くなる。たまらんよね。こんなオオカミ。
で、今日も私は、遠い荒野へ向かって遠吠え「ワォーン、書きたい書きたい書きたい!」
それを聞きつけると、倒産寸前零細会社社長はフンと鼻先で笑って「ただで読んだり、ただで書いたりするやつの気が知れない」
社長は「一字いくら」で「本」の校閲してる。読んでナンボの商売だ。
~~~~~~~~~~~
20150201
ノンバージニアウルフ妻は、結婚33年目を迎えて、姑の入院している病院に通う毎日。
今日の姑はごきげんで、ふるさとの学校の校歌を歌ってくれました。同級生いなくなっちゃって、クラス会もしなくなった、と愚痴る。90歳になれば、同級生が集まるのもむずかしいと思うよ。
クラス会は開かれなくなっても、女学校時代のなつかしい思い出を語ってきかせてください。今日は、女学校卒業後、地元の郵便局で働いた、という思い出話をしてくれました。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(37)英語コンプレックス
2003年に掲載したOCNカフェ日記を再録しています。
1977年以前に読んだ本の著者を「あいうえお」順に思い出し、老いに向かう心支度と来し方の自分語りを続けています。
「ル」の項は、ルイコ・ヨシダ。吉田ルイ子の『『ハーレムの熱い日々』ヺ思い出しつつ、苦手な英語について。
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英語コンプレックス
at 2003 11/15 11:54 編集
「春庭は、知ったかぶりのもの知らず」であると最初から認めている。
そして、このサイトは「知ったかぶり」が大好きな人間が、蘊蓄たれながら自分語りをやっていると、断っているにもかかわらず、「知ったかぶりするな」という足跡をもらった。
するなって、言われてもねぇ。「煙草が有害であることは、世界保健機構も認めている」と、いくら言っても、愛煙家が全員禁煙してくれるわけじゃないのと、同様で、、、、
まあ、かように、人様に文を読んでもらうのは難しい、ということがわかっただけでも、足跡はありがたい。むろん、多くの温かいメッセージに、感謝し、励まされてもいる。
また、日本の漢字文化が消滅しそうなことを嘆いた文(11/12)に対して 「すみません顰蹙売ります。読めない漢字多すぎ(2003/11/12 21:23)」という足跡をいただいた。
「かんじぶんかがしょうめつしそうって、なげいているんだから、ひらがなばかりのぶんにするわけにはいかないじゃありませんか!」
日本語母語話者の国語教育において、小学校6年間で約千字、中学高校で1000~2000字をならう。常用漢字は約2000。常用漢字を知っていれば、一般的な全国紙が読める、ということになっている。
日本の大学での勉学を希望する留学生は、初級で約300、中級で、初級漢字プラス300、上級では、合計2000の常用漢字と約1万語の語彙数を習得する。(コースによって違いがある。会話中心のクラスと、大学院進学予備コースではカリキュラムが異なる)
非漢字圏の学生にとって、漢字に興味を持つかどうかが、日本語が上達するかどうかの分かれ道になることもある。
「文字文化として、世界中で一番面白い文字だ」と、漢字大好きな学生もいて、書道を習ったりもする。また、漢字が覚えられなくて日本語をあきらめる学生もいる。留学生に対する漢字教育は本当にたいへんだ。
漢字文化圏の中国から来た学生も「生」に、いきる、うまれる、なま、セイ、ショウ、はえる、き、、、、など、たくさんの読み方があることを知ると、「わぁ、覚えられない」という。
たくさんの学生を見てきて、わかったこと。外国語を勉強する適性がある人もいるし、まったくない人もいる。
自国語では、次々に優秀な論文を発表している研究者が、日本国費留学生(日本が国のお金を奨学金として給与する留学生)に選ばれたものの、日本語はまったく苦手で、留学中ずっと英語だけで通した、という例もあるし、日本語を覚えるのが楽しくてたまらず、他の専攻をまなぶつもりで留学したのだが、日本語研究に専門をシフトした、という学生もいる。
世の中には、私のように、大の語学苦手も存在するし、どんな外国語もスイスイと覚えてしまう語学の天才という人たちがいる。
長澤信子さんは、努力を重ねて中国語をものにした。
主婦業のかたわら習得するのは楽ではなかったが、とにかく中国語が好きで好きで、勉強することが楽しくてたまらなかった。36歳で中国語の勉強をはじめて、4年後に「中国語通訳ガイド試験」に合格した。
長澤信子『主婦こそ夢の自由業』は、子育て中の私にとって、ひとつの指針ともなった本である。
長澤は、2年間秘書として働いたのち結婚。単調にも思える家事労働。報われる思い少ないまま、主婦業を続けていた。長澤を支えたのは、ひとつの夢だった。北京へ行ってみたい。中国語の通訳になりたい。
毎日果てしなく続くように思われた主婦業も、目標を持つと「自由な時間をやりくりできる主婦業こそ、勉強にはいちばん向いている仕事」と思えるようになった。
夢を実現するため、家事のあいまに勉強し、まず看護婦学校に入学した。手に職をつけ、自分の夢を実現するためのお金を稼ぐことが第一。
看護婦をしながら通訳学校へ入学するお金を貯めた。通訳学校へ入学し中国語を学び、ついにあこがれの北京へ。日中国交回復前のこと、だれも見向きもしなかった中国語を学び、中国語が日本に必要になったときに通訳として活躍した。
私は中国滞在半年の間、会話を習ったがものにならなかった。語学に強い人がほんとうにうらやましい。
長澤さんのように中国語が上手になることはなかったが、この「主婦こそ夢の自由業」長澤方式をまねしようと思った。長澤さんは、自分がいちばんやりたいことを自分の力で実現するためにまず、看護婦という職を得た。それからやりたいことのために勉強する。
私がこの本を読んだのは、フリーランスライターとして出かかった芽を自分でつみ取り、大学に再入学したころ。
将来は必ず「書きたいことを書く」でも、今は確実にお金を稼いで子供にパンを与えなければ。確実に稼ぐ?いったい私にどんな仕事ができるのか。地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、国語教師、役者などなど、転職を重ねて、どれも中途半端に挫折してきた。
国語教師には向かなかった。役者としては才能が不足した。英文タイピストの仕事は一番私向きではあったが「職場の花、若い女性向き」とされる仕事で、当時は子持ち女性が続けるには不向きであった。
そんなとき、新設された日本語学科に入学した。日本語教師になって、金を稼ぐ。そして、いつかは一番したい仕事「もの書き」をめざす。 大学卒業そして大学院修了まで、8年かかった。
日本語教師の資格は得たが、子供のパンを買うにはほど遠い賃金だった。日本語教師のほとんどは「非常勤」。
ヒトコマいくらで時間労働を売る。とても生活できるような賃金ではない。常勤のポストを得た男性以外、女性たちは「この仕事で食べている」という人が少なかった。
同僚女性達は「エエトコの奥様、お嬢様」たちだった。自分自身が高学歴。夫は一流企業、官僚、大学教員、の方々。「暇だけど、カルチャースクール通いも性に合わないので、ちょっと知的なお仕事をしています」という人が多かった。
ご主人が海外赴任したとき同伴して外国に住み、現地の学校に請われて日本語を教え始めた、と言う人もいる。
講師室はいつも温室のよう。温かい雰囲気でなごやかだったが、生活に苦しむ一般庶民とは感覚がちがう。
美しい花のような奥様たちの中で、私はペンペン草。なずな、のようだった。温室の美しい花の中で、ペンペン草の私が雑草としてひっこぬかれず仕事を続けられたのは、花たちが余裕のある心やさしい人たちだったからだ。「なずなだって、一応植物だし、ワザワザ引っこ抜かなくてもいいじゃありませんか。オホホホ、、、」
奥様達がヒトコマの講師料で「ちょっとお茶して帰りません?」と話しているのを横目で見ながら、私はスーパーに走る。私は、奥様方がお茶するのと同じお金で、子供の給食費もミルク代も払わなければならない。
夫の会社はいつでも倒産寸前。出版不況の出口はない。有名どころの出版社もつぎつぎに倒産していくなか、借金を増やしながらも続けていられるだけで奇跡という零細下請け。
雑草のような私は、講師室でも小さくなってすごした。雑草育ちに加えて、私には英語ができないというコンプレックスがある。
この業界で英語ができるというのは、日常会話はネイティブと同じくらいにでき、論文を英語で執筆、学会発表と質疑応答を英語でこなすことができる、ということ。
私は、ケニアで身につけたブロークンコンプリートの下町英語。
ケニアでも上流の方々は立派なクイーンズイングリッシュを話すが、私が親しくなった人々は、下町の靴磨きやピーナツ売り。観光客相手にブロークンな英語で話す彼らとつきあううち、スワヒリ語は上達したが、英語は完全にこわれたまま。
英語ができないことは、現在までずっとコンプレックスとなっている。時間に余裕ができたら、きちんと学んで身につけよう、と思ってはいるが、今まで時間に余裕ができた年などなかった。年中あしたの授業の準備におわれ、自転車操業である。
英語がへただ。だが、学生は「先生はいちばん英語がへたなのに、先生の文法説明を聞くと、よく日本語がわかるようになる、なぜだろう」と、言う。それは、私が「語学が不得意で、語学に苦しんできたからだろう」と思う。
国語教師のとき、生徒が「わからない」ということがわからなかった。自分が日常生活で話している言葉なのに、何がわからないっていうのさ。本なんて、読めば自然と意味わかるじゃないの。「生徒がどこでつまずくのか、何がわからないのか」が、わからない教師だった。国語教師として失格だった。
今は「わからない」ということがわかる。学生が日本語の何につまずくか、どんなことに混乱してしまったかわかる。
語学コンプレックスは今もある。でも、「英語がへただからこそ、学生には好評」という二律背反も、またよしとして、今日も私の英語はブロークン・コンプリートリィ。
で、学生にはいつもおどしをかける。私をみなさい。英語がへた。でも、日本人みんな下手だからね。だから、日本語できないと、レストランでも注文できない、切手も買えない。さ、練習練習!
私は英語ができない。私だけじゃなく、日本人のほとんどは英会話が苦手。元首相の宮沢さんは英語の使い手だったそうだが、他の首相が、英語得意という話は聞いたことがない。
IT革命を「いっと革命」と命名した森首相も「使えない」ひとり。だが、彼はおおまじめに自分は英語が得意だと信じていた。だからクリントンが来日したとき、さしで英語でやりとりしたい、と主張した。
側近はあわてた。どうしよう、本気で英語しゃべる気だよ。そこで側近は一計を。「すみません、クリントン側の時間がないので、あいさつだけ英語でして、あとは通訳いれます。
あいさつは、最初、ハゥアーユー。ごきげんようお元気ですか、と言ってください。
大統領は、アイムファイン。アンドユー。元気です。あなたは?と聞くでしょう。
当然元気なので、私も元気、ミーツー、と答えてください。」
「だいじょぶ、だいじょぶ。簡単じゃないか。ごきげんよう。はうあーゆ、だな。はうぅあーゆっ」
クリントンと会見の日。自信たっぷりの我が首相は大声でクリントンに呼びかけた。
「フーアーユー(おまえは誰だ)」
クリントンは、日本式冗談だと解釈して余裕で答えた。「私は、ヒラリーの夫です」
すると、首相は大得意で「ミィツゥ。私もです。」
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.47
(る)ルイコヨシダ(吉田ルイ子)『ハーレムの熱い日々』
英語不得意だから、アメリカへ行ってみたいと思っても、躊躇が先立つ。
アメリカに行くなら、ツアーでひとめぐりして、「自由の女神像見た、ホワイトハウス見た、フロリダディズニーワールドで遊んだ」という旅行ではなく、短期間でもいいから住んでみたい。
でもそのためには、英語が、、、、と、いつまでたっても実現しない。(金もない)
アメリカに行くなら、観光旅行ではなく、吉田ルイ子がハーレムで過ごしたような、熱い日々をおくりたい。そうでなければ、行く甲斐もない。
『ハーレムの熱い日々』は、写真ジャーナリスト吉田ルイ子の処女作。公民権運動真っ盛りの60年代ニューヨークで、アメリカの魂に切り込み、ハーレムの人々に寄り添った写真と文章を私たちに見せてくれた。
ルイコは、コロンビア大学でフォトジャーナリズムを学ぶ「ハーレムからブルックリンまでよりずっと遠い、サンフランシスコくらい遠くにあるところにある東洋から来たルイコ」としてハーレムの子供たちと仲良しになり、ハーレムのふところ深く住み込んだ。
ハーレムの子供はうたう。60年代、スラムに住むカリという7歳の黒人少女の詩である。7歳にして、自分の皮膚の色を自覚し、黒い色はすべてダメ、白は善と教えられて成長しなければならない。
Black is Black/ I am black/ I know I am / Black do yo?/ But this world is wite(whiteの訛り)/ I'll tell you/ Wite books wite milk/ Wite dolls /Wite everythin /no Black no Black
こんな時代に、ルイコはハーレムの人々の写真をとり、ハーレムの人々の心を伝えた。
アメリカ、と言えば、私にとっては、『吉田ルイ子のアメリカ』であるのだ。
私はミーハーだから、自分のあこがれの人に会うとうれしくてうれしくて、ついストーカーのようについて歩きたくなる。吉田ルイ子を見かけたのは、長倉洋海の写真展会場だった。ルイ子はさっそうと会場を見て回り、長倉と一言二言話したあと、さっと会場を出た。
私は追いかけたかった。長年の読者としてお礼もいいたかった。「ハーレムの熱い日々」は、もちろん。「吉田ルイ子のアメリカ」「自分を探して旅に生きてます」「ぼくの肌は黒い」「サンディーノのこどもたち」「アパルトヘイトの子どもたち」「いま、アジアの子どもたちは…」「子どもは見ている」「世界おんな風土記」「女たちのアジア」
ハーレムの子供達へ注ぐまなざしは、そのまま南アフリカやアジアの女と子供達に注がれている。
でも、このとき、私は吉田ルイ子の後ろ姿をぼうっとあこがれの目で追うだけであきらめた。
なぜなら、ルイ子と話し終えた長倉が一人で立っていたからだ。ルイ子さんにも声をかけたかったが、長倉と話すチャンス!マスードについて、アフガニスタンや南米のこどもたちについて、質問したいことがたくさんあった。
ルイ子、洋海、どっちとる?このとき、私は男をとりました。バイはつらいね。
長倉も私のあこがれの写真ジャーナリストのひとり。私はロバート・キャパはじめ、カメラをもったジャーナリストが好き。初恋の人浜崎紘一さんもジャーナリストだが、カメラが得意だったかどうかは知らない。(10/22の項)
今、大好きな、辺見庸も自著の写真は自分で撮影。長倉洋海もフォトジャーナリスト、作家。私が惚れる男は決まったタイプなのだ。
ついでに言ってしまえば、わが不在のパートナーも、元地方新聞記者。
フォトジャーナリストをめざしていたが、へんな女にひっかかって挫折した。気の毒に。
できちゃった結婚せざるを得なくなり、子供のおむつ代を稼ぐために、フォトジャーナリストをあきらめた。かわいそうな人。
しかも、仕事をすればするほど借金がふえる会社経営をはじめたら、どっぷり足をすくわれ、泥沼から這い出せなくなっている。同情にたえない。
それもこれも、ナイロビで道に迷った子羊を、子羊と思って道案内したのが間違いの元だった。子羊と思ったのは、羊の皮をかぶったヴァージニア・ウルフ。
結婚後は(ノンヴァージニア)ウルフ!オオカミのようなオカミさん。自己主張強く、自称フェミニスト。しだいにオオカミの牙が鋭くなる。たまらんよね。こんなオオカミ。
で、今日も私は、遠い荒野へ向かって遠吠え「ワォーン、書きたい書きたい書きたい!」
それを聞きつけると、倒産寸前零細会社社長はフンと鼻先で笑って「ただで読んだり、ただで書いたりするやつの気が知れない」
社長は「一字いくら」で「本」の校閲してる。読んでナンボの商売だ。
~~~~~~~~~~~
20150201
ノンバージニアウルフ妻は、結婚33年目を迎えて、姑の入院している病院に通う毎日。
今日の姑はごきげんで、ふるさとの学校の校歌を歌ってくれました。同級生いなくなっちゃって、クラス会もしなくなった、と愚痴る。90歳になれば、同級生が集まるのもむずかしいと思うよ。
クラス会は開かれなくなっても、女学校時代のなつかしい思い出を語ってきかせてください。今日は、女学校卒業後、地元の郵便局で働いた、という思い出話をしてくれました。
<つづく>