20161027
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(1)秋草俳句ing
野山を歩き回るハイキングhiking。
俳句を作ることを目的に旅するのを吟行という。吟行というほど本格的ではないし、名句秀句もつくれないけれど、なんとか五七五を並べながら歩くことを「俳句ingハイキング」とシャレてみて、ふむふむうまいこと言った、と思っていたら、私が造語したと思った以前に、すでに一般に使われていたようです。一足おそかった。
自分ではうまいこと俳句を作れなくても、歳時記をめくって、散歩の中で出会った草花を確かめると、散歩の楽しみも二倍になります。ヘボ句でも自分で五七五並べてみれば、又、俳句ingの楽しみひとしきり。
10月19日に散歩した白金自然教育園で見つけた秋草のいろいろ。
歳時記をのぞくと、芭蕉の句などは角川板新潮板の両版に出ていますが、近代俳句は、両版とも意地を張るごとく、例句の作者が異なっています。
そのなか、秋草の例句に、新潮版にも角川版にも出ている句がありました。滝井孝作、俳人ではなく小説家ですから、歳時記を作る際の編者たちが属する結社のしばりなどがなくて、どちらからも選ばれたのかも。
秋草

・秋草や昼は障子をはずし置く(滝井孝作)
・秋草にまろべば空も海となる(木下夕爾)
・草の花ひたすら咲いてみせにけり(久保田万太郎)
秋薊は、新潮板には季語としてたてられていますが、角川板にはなし。

・秋薊千草の上に倒れけり(前田普羅)
草の穂、草の実

・草の穂を日に照らされて野は隠る(山口誓子)
・実をつけて悲しきほどの小草かな(高浜虚子)
・払いきれぬ草の実つけて歩きけり(長谷川かな女)
自然教育園の細道を歩いていると、私のシャツにもいっぱいの草の実が張り付きました。とげとげして痛いので、払い落としましたけれど。
ミゾソバ

角川歳時記「溝蕎麦」の句。高浜虚子一家勢揃い。父と長男と次女
・溝蕎麦や多摩の小流ここに又(高浜虚子)
・町中に溝蕎麦の堰く流れあり(高浜年尾)
・みぞそばの水より道にはびこれる(星野立子)
ホトトギス 時鳥草・杜鵑草。新潮板にはない季語です。

・この山の時鳥草活け手桶古る(野沢節子)
ススキ

・山は暮れ野は黄昏の薄哉(与謝蕪村)
・をりとりてはらりとおもきすすきかな(飯田蛇笏)
・芒の穂ばかりに夕日残りけり(久保田万太郎)
ワレモコウ吾亦紅

・霧の中おのが身細き吾亦紅(橋本多佳子)
・野踏みて刀自が賜ひぬ吾亦紅(石田波郷)
・吾も亦紅なりとひそやかに(高浜虚子)
林の中の細道を歩いていると、ポトポトとどんぐりが落ちる音が聞こえてきます。
神代植物園は落ちていた木の実は拾って持ち帰ってもよい、ということでした。植物園なので、植物の種の保存やダリア薔薇ボタンなどの品種改良などが中心の仕事であって、小鳥のことは植物園のしごとではないのだろうと思います。神代植物園で拾った栃の実、干してとってあります。
自然教育園の落ちた実は「小鳥たちの大切な食べ物ですから、木の実を持ち帰らないでください」という張り紙がありました。そういう点でも自然教育園は、虫たちや小鳥たちの営みを含んで自然のままにしておかなければいけないのだなあ、と思いました。
・二つ三つ木の実の落つる音寂し(正岡子規)
・見舞い人栃の実すでに拾い持つ(石田波郷)
・栃の実となりて我が辺に静まりぬ(加藤楸邨)
春庭のことば遊びは、ハイハイきんぐ。よちよち歩きにもならず、這い這いで進んでいく。ことば遊びも五七五七七に並べれば、ワカらん和歌。以下、春庭の「這い這いきんぐ」と「ワカラン和歌」
・木の実降り白金の森夕焼ける
・あかあかと貧の小家に茨の実
・白粉花花魁道中晴れ晴れと
・女郎花街道沿いに客をひく
・揺れつつも太閤の威厳大瓢箪

団地のベランダ
・金木犀香る広場に園児らは輪っかを手渡しリレーの練習
・物言えば寒く山梔子実となりて部屋隅に落ちてまろく転がる
・実石榴の赤いつぶつぶ光吸いどれが芽となる次の実となる
・栃の実の丸々ありぬ渋抜きは難しと聞けど捨てるに惜しき
帰省の思い出
・亡き母の植えし無花果この秋も故郷の廃家にたわわに実る
・上州路嬬恋村の秋甘藍丸々笑って並びおるなり
・無人駅の窓辺を染めるコスモスが揺れてお別れ出発進行
・枸杞の実がクコの木にあり我れもまた我が家にあるべし貧の小家に
・旅果てて子への土産のどんぐりがポケットにありかしゃかしゃと歩く
・車窓より金芒の穂に手をふれば母の手の如金色揺れおり
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>晩秋のことば(1)秋草俳句ing
野山を歩き回るハイキングhiking。
俳句を作ることを目的に旅するのを吟行という。吟行というほど本格的ではないし、名句秀句もつくれないけれど、なんとか五七五を並べながら歩くことを「俳句ingハイキング」とシャレてみて、ふむふむうまいこと言った、と思っていたら、私が造語したと思った以前に、すでに一般に使われていたようです。一足おそかった。
自分ではうまいこと俳句を作れなくても、歳時記をめくって、散歩の中で出会った草花を確かめると、散歩の楽しみも二倍になります。ヘボ句でも自分で五七五並べてみれば、又、俳句ingの楽しみひとしきり。
10月19日に散歩した白金自然教育園で見つけた秋草のいろいろ。
歳時記をのぞくと、芭蕉の句などは角川板新潮板の両版に出ていますが、近代俳句は、両版とも意地を張るごとく、例句の作者が異なっています。
そのなか、秋草の例句に、新潮版にも角川版にも出ている句がありました。滝井孝作、俳人ではなく小説家ですから、歳時記を作る際の編者たちが属する結社のしばりなどがなくて、どちらからも選ばれたのかも。
秋草

・秋草や昼は障子をはずし置く(滝井孝作)
・秋草にまろべば空も海となる(木下夕爾)
・草の花ひたすら咲いてみせにけり(久保田万太郎)
秋薊は、新潮板には季語としてたてられていますが、角川板にはなし。

・秋薊千草の上に倒れけり(前田普羅)
草の穂、草の実

・草の穂を日に照らされて野は隠る(山口誓子)
・実をつけて悲しきほどの小草かな(高浜虚子)
・払いきれぬ草の実つけて歩きけり(長谷川かな女)
自然教育園の細道を歩いていると、私のシャツにもいっぱいの草の実が張り付きました。とげとげして痛いので、払い落としましたけれど。
ミゾソバ

角川歳時記「溝蕎麦」の句。高浜虚子一家勢揃い。父と長男と次女
・溝蕎麦や多摩の小流ここに又(高浜虚子)
・町中に溝蕎麦の堰く流れあり(高浜年尾)
・みぞそばの水より道にはびこれる(星野立子)
ホトトギス 時鳥草・杜鵑草。新潮板にはない季語です。

・この山の時鳥草活け手桶古る(野沢節子)
ススキ

・山は暮れ野は黄昏の薄哉(与謝蕪村)
・をりとりてはらりとおもきすすきかな(飯田蛇笏)
・芒の穂ばかりに夕日残りけり(久保田万太郎)
ワレモコウ吾亦紅

・霧の中おのが身細き吾亦紅(橋本多佳子)
・野踏みて刀自が賜ひぬ吾亦紅(石田波郷)
・吾も亦紅なりとひそやかに(高浜虚子)
林の中の細道を歩いていると、ポトポトとどんぐりが落ちる音が聞こえてきます。
神代植物園は落ちていた木の実は拾って持ち帰ってもよい、ということでした。植物園なので、植物の種の保存やダリア薔薇ボタンなどの品種改良などが中心の仕事であって、小鳥のことは植物園のしごとではないのだろうと思います。神代植物園で拾った栃の実、干してとってあります。
自然教育園の落ちた実は「小鳥たちの大切な食べ物ですから、木の実を持ち帰らないでください」という張り紙がありました。そういう点でも自然教育園は、虫たちや小鳥たちの営みを含んで自然のままにしておかなければいけないのだなあ、と思いました。
・二つ三つ木の実の落つる音寂し(正岡子規)
・見舞い人栃の実すでに拾い持つ(石田波郷)
・栃の実となりて我が辺に静まりぬ(加藤楸邨)
春庭のことば遊びは、ハイハイきんぐ。よちよち歩きにもならず、這い這いで進んでいく。ことば遊びも五七五七七に並べれば、ワカらん和歌。以下、春庭の「這い這いきんぐ」と「ワカラン和歌」
・木の実降り白金の森夕焼ける
・あかあかと貧の小家に茨の実
・白粉花花魁道中晴れ晴れと
・女郎花街道沿いに客をひく
・揺れつつも太閤の威厳大瓢箪

団地のベランダ
・金木犀香る広場に園児らは輪っかを手渡しリレーの練習
・物言えば寒く山梔子実となりて部屋隅に落ちてまろく転がる
・実石榴の赤いつぶつぶ光吸いどれが芽となる次の実となる
・栃の実の丸々ありぬ渋抜きは難しと聞けど捨てるに惜しき
帰省の思い出
・亡き母の植えし無花果この秋も故郷の廃家にたわわに実る
・上州路嬬恋村の秋甘藍丸々笑って並びおるなり
・無人駅の窓辺を染めるコスモスが揺れてお別れ出発進行
・枸杞の実がクコの木にあり我れもまた我が家にあるべし貧の小家に
・旅果てて子への土産のどんぐりがポケットにありかしゃかしゃと歩く
・車窓より金芒の穂に手をふれば母の手の如金色揺れおり
<つづく>