20170207
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>廃れものはやりもの(3)いつき組絶滅寸前季語辞典
文庫本の歳時記をペラペラめくって「消える季語」を楽しんでいたら、2001年に『絶滅寸前季語辞典』が出版されていたことをウェブ友さんに教えていただき、あわてて図書館で借りてきました。2010年に文庫化されていました。
なぜそんなにあわてたのか。
俳句には類句類想という用語があります。五七五の17音ですから、どうしても似たような句が産まれてしまうことが避けられない。
同じように見えてはっとするほど新しい感覚が盛られることもあるので、一概に類句がダメとはいえませんが、詠み手としては、先行句があることを知らずに類句を作ってしまうことは避けたい。
同じように、類想の文章はできる限り避けたい。もともと下手な文章であるのに、発想まで同じような文を書いてしまったら、何も残らないような気分がしてくる。
これには、理由があります。刷り込みというか。
母が日々の暮らしのあいまに俳句や短歌を作り、投稿して新聞に載ることを生きがいにしていたことは何度か書きました。また、月に一度句会に出かけるのが、母のささやかな楽しみのひとつでした。
句会ではマツさんという親友ができ、句会のほかにも互いの家を訪問し合っておつきあいをしていました。
ある時期、ぱたりと母とマツさんの交流が途絶えたことがありました。
マツさんは句会の前に母を訪問し、兼題の句を見せて、句会の互選のおりにはマツさんの句に点をいれてほしいと、事前に頼む人でした。母は「まだ作れていない」といつも言って、マツさんに見せることをしていませんでした。
「互選では、名前を伏せて点を入れるべきで、誰が作ったのかわかった上で点をつけるのは本意ではないけれど、マツさんに頼まれると断れない」と、ぼやくことがありました。
点が多く入った人には、ささやかな賞が与えられることになっていたみたいです。
あるとき。新聞に「叱られに来し税務署の薔薇真っ赤」という句が掲載されました。マツさんは、新聞雑誌で見た句の類句を提出することが多く、このときも「叱られに来し警察の薔薇真っ赤」という類句を母に見せ、点を入れて欲しいと頼みました。母は、句会でこの類句に点を入れることをせず、母が点を入れなかったことを知ったマツさんが腹をたて、しばらく行き来をしなかった、という経緯がありました。
「このごろマツさん来ないね」という私のことばに、母がめずらしく愚痴をこぼしたのを、私は50年以上たった今もなぜか覚えていたのです。
このとき母は「独創こそが句を作るときのおおもと」と、私に強調しました。「本歌取り」という技巧があることは母も知っていたでしょうけれど、句作も随筆も、独自の視点を持つこと、書いたあとで類句があったことに気づくのは仕方がないけれど、最初から類想で書いてしまうのは、自分はいやだ、ということを力説していました。
自分からは、マツさんとの仲直りを言い出せずにいたことの鬱屈が、子ども相手の愚痴になって仲違いの理由を説明することばになったのでしょう。
その後、どちらが仲直りのきっかけを作ったのかはわからないまま、またマツさんは家にも来るようになり、いっしょにスーパーマーケットの総菜コーナーで「焼きそば」を作って売るパートをしたりしていました。
そんなこんなで、「自分自身の視点」こそ「書くことのキモ」という観念がすり込まれてしまいました。
「消える季語」を書いたあと、「絶滅寸前季語辞典」の存在を知って大慌てになったのです。同じ季語を扱い、同じことを書いていたら、いくら自分なりに書いたのだと思っても、そとから見たらただのマネっこ。
おんなじ季語が出ていたらいやだな、と思いながら図書館から借りた『絶滅寸前季語辞典』のページをめくると、やっぱり、同じ季語が扱われていました。
少しは「私なり」の部分はあるにせよ、夏井いつきさんの手にかかるほうが、同じ季語でもぐんと面白く料理されているのは当然です。
たとえば「インバネス」。
雑誌や本の挿絵でしかインバネスを着た男性を見たことない私に対して、いつきさんのお知り合いの俳人は、堂々インバネス着用したり、宗匠頭巾をかぶって句会に登場する。
季語なんぞに関わらないようにしたほうがいいかというと、さにあらず。やっぱり私は私の感覚で俳句も短歌も楽しんでいくと開き直るしかない。
もと国語教師という経歴はいつきさんと私は共通だけれど、俳句の精進度は大違い。そして、いつきさんは、元ダンナさんが「家族から解放されたい」と宣言して離婚に至ったという次には、博報堂を退職したあと「いつきプロデュース」に専念してくれる方と再婚なさって、私生活充実。
私など、最初から家族から解放している夫を、未だに「元夫」とはできずにいるのに。
愛すたれてもなお裏庭に薔薇真っ赤(春庭)
すたれ季語を愛してやまぬ女たち(春庭)
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>廃れものはやりもの(3)いつき組絶滅寸前季語辞典
文庫本の歳時記をペラペラめくって「消える季語」を楽しんでいたら、2001年に『絶滅寸前季語辞典』が出版されていたことをウェブ友さんに教えていただき、あわてて図書館で借りてきました。2010年に文庫化されていました。
なぜそんなにあわてたのか。
俳句には類句類想という用語があります。五七五の17音ですから、どうしても似たような句が産まれてしまうことが避けられない。
同じように見えてはっとするほど新しい感覚が盛られることもあるので、一概に類句がダメとはいえませんが、詠み手としては、先行句があることを知らずに類句を作ってしまうことは避けたい。
同じように、類想の文章はできる限り避けたい。もともと下手な文章であるのに、発想まで同じような文を書いてしまったら、何も残らないような気分がしてくる。
これには、理由があります。刷り込みというか。
母が日々の暮らしのあいまに俳句や短歌を作り、投稿して新聞に載ることを生きがいにしていたことは何度か書きました。また、月に一度句会に出かけるのが、母のささやかな楽しみのひとつでした。
句会ではマツさんという親友ができ、句会のほかにも互いの家を訪問し合っておつきあいをしていました。
ある時期、ぱたりと母とマツさんの交流が途絶えたことがありました。
マツさんは句会の前に母を訪問し、兼題の句を見せて、句会の互選のおりにはマツさんの句に点をいれてほしいと、事前に頼む人でした。母は「まだ作れていない」といつも言って、マツさんに見せることをしていませんでした。
「互選では、名前を伏せて点を入れるべきで、誰が作ったのかわかった上で点をつけるのは本意ではないけれど、マツさんに頼まれると断れない」と、ぼやくことがありました。
点が多く入った人には、ささやかな賞が与えられることになっていたみたいです。
あるとき。新聞に「叱られに来し税務署の薔薇真っ赤」という句が掲載されました。マツさんは、新聞雑誌で見た句の類句を提出することが多く、このときも「叱られに来し警察の薔薇真っ赤」という類句を母に見せ、点を入れて欲しいと頼みました。母は、句会でこの類句に点を入れることをせず、母が点を入れなかったことを知ったマツさんが腹をたて、しばらく行き来をしなかった、という経緯がありました。
「このごろマツさん来ないね」という私のことばに、母がめずらしく愚痴をこぼしたのを、私は50年以上たった今もなぜか覚えていたのです。
このとき母は「独創こそが句を作るときのおおもと」と、私に強調しました。「本歌取り」という技巧があることは母も知っていたでしょうけれど、句作も随筆も、独自の視点を持つこと、書いたあとで類句があったことに気づくのは仕方がないけれど、最初から類想で書いてしまうのは、自分はいやだ、ということを力説していました。
自分からは、マツさんとの仲直りを言い出せずにいたことの鬱屈が、子ども相手の愚痴になって仲違いの理由を説明することばになったのでしょう。
その後、どちらが仲直りのきっかけを作ったのかはわからないまま、またマツさんは家にも来るようになり、いっしょにスーパーマーケットの総菜コーナーで「焼きそば」を作って売るパートをしたりしていました。
そんなこんなで、「自分自身の視点」こそ「書くことのキモ」という観念がすり込まれてしまいました。
「消える季語」を書いたあと、「絶滅寸前季語辞典」の存在を知って大慌てになったのです。同じ季語を扱い、同じことを書いていたら、いくら自分なりに書いたのだと思っても、そとから見たらただのマネっこ。
おんなじ季語が出ていたらいやだな、と思いながら図書館から借りた『絶滅寸前季語辞典』のページをめくると、やっぱり、同じ季語が扱われていました。
少しは「私なり」の部分はあるにせよ、夏井いつきさんの手にかかるほうが、同じ季語でもぐんと面白く料理されているのは当然です。
たとえば「インバネス」。
雑誌や本の挿絵でしかインバネスを着た男性を見たことない私に対して、いつきさんのお知り合いの俳人は、堂々インバネス着用したり、宗匠頭巾をかぶって句会に登場する。
季語なんぞに関わらないようにしたほうがいいかというと、さにあらず。やっぱり私は私の感覚で俳句も短歌も楽しんでいくと開き直るしかない。
もと国語教師という経歴はいつきさんと私は共通だけれど、俳句の精進度は大違い。そして、いつきさんは、元ダンナさんが「家族から解放されたい」と宣言して離婚に至ったという次には、博報堂を退職したあと「いつきプロデュース」に専念してくれる方と再婚なさって、私生活充実。
私など、最初から家族から解放している夫を、未だに「元夫」とはできずにいるのに。
愛すたれてもなお裏庭に薔薇真っ赤(春庭)
すたれ季語を愛してやまぬ女たち(春庭)
<つづく>