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ぽかぽか春庭「やっちゃんとマリーアントワネット展へ」

2017-03-04 00:00:01 | エッセイ、コラム

マリーアントワネット展ポスター

20170304
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記2月(4)やっちゃんとマリーアントワネット展へ

 2月26日はマリーアントワネット展の最終日ですから、「混むと思うよ」とやっちゃんに忠告したのですが、やっちゃんは「混んでいても見たい」というのです。
 どうしてそんなにマリーアントワネットに興味を持ったのかと尋ねました。「ベルサイユの薔薇かなんかのファンだったの?」と聞くと、「いや、ベルサイユの薔薇は見ていないけれど、マリーアントワネットは悪女のように言われてきたけれど、実像はそうじゃなかったみたいだから、展覧会見たら実像が知れるかと思って」とのこと。

 2月6日に新宿高島屋に展示されていた、池田理代子の絵にもとづくオスカルのドレス。オスカルが生涯にたった一度装った女性の服です。


 私は、ツヴァイク、遠藤周作、藤本ひとみのマリーアントワネットを主人公にした小説を読んできて、虚実取り混ぜたマリーの生涯についてかなり知っているほうだと思います。ソフィア・コッポラの「マリ-・アントワネット」も見ました。

 ベルサイユ宮殿でのロケというので興味深く見た映画。


 マリーアントワネット関連に興味があるといっても、むろん「ベルサイユの薔薇」ファンのトリビアリズムにはかないません。漫画ファンも宝塚ファンも、ほんとうによくフランス革命史を知っていて、フェルゼンがどうしたこうした、首飾り事件のだれそれは、ほんとうはこうだ、とか詳しいです。
 私はそこまで微に入り細に入り知っているわけではありませんが、「悲劇の王妃」への同情と興味を持っていますから、やっちゃんといっしょなら、見てもいいかとでかけました。

 2月15日に上野へ行った際、何軒かの安売りチケット屋をまわって、マリーアントワネット展の入場券を探したのですが、もう閉会間近ですから、どこも売っていませんでした。やっちゃんと出かけることがわかっていたのなら、前売り券を買っておけばよかった。森美術館、森アーツセンターギャラリーは、65歳以上割引きもしていないので、ひとり1800円の入場券は、私には高くて、「行かなくてもいいや」と思っていた展覧会だったのです。

 森アーツセンターギャラリー。まず、入場券を買う列に並びました。長い列。60分待ちでした。チケット手に入れて、会場入り口に並び、会場に入るまで40分待ちでした。合計100分待ち。ひとりなら、列に並んでいるのも苦ではなく、読書時間ができた、と思うのですが、二人で並んでいるのに、ひとりで本を読んでいるわけにはいきません。最初はやっちゃんとおしゃべりしていたのですが、ふたりともだんだん足が疲れてきて、口が重くなり、しまいには眠くなりました。16時半、ようやく展示室に入れました。

 会場内は、ごったがえしの状態。人の頭越しに「見えるものだけ見ればいいや」と、見て歩きました。マリーがフェルセンにあてた手紙の複製など、小さい資料は近寄って見ることのできない状態。大きな肖像画は、遠くから上半身だけを見る、という具合で、こんなごった返しの展覧会見学は、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」以来です。最終日に来たわれらが悪いと思いました。

 それでも、感銘深く見ることのできた展示もありました。マリーが処刑の日に履いていたという靴。小さなきゃしゃな足を思わせる靴でした。


 また、少々汚れが残る「シュミーズ」革命期幽閉中のマリーの服飾品のひとつだということです。質素な下着がいっそう「王妃の誇りを失わずにカペー未亡人として処刑された」一生の哀しみを誘いました。

 幽閉中に身につけていたシュミーズ。マリーアントワネットは、身長154cmだったそうです。


 マリーアントワネットの母、オーストリア女帝マリア・テレジアは、6歳の時に出会った初恋の相手と19歳で結婚し、次々に16人の子を産みました。育児は乳母にまかせたとしても、政務軍務の間のことですから、よほど生命力の強い女性だったのでしょう。たくさんの子を産んだのは、オーストリア帝政の維持に役立てるため。夭折した子や身体不自由に産まれたので修道院に入れた子を別として、娘達を次々に政略結婚のコマとして、フランス、スペイン、イタリアへと嫁がせました。15番目に産んだ11女のマリア・アントーニア(フランス語読みではマリーアントワネット)をフランスに嫁がせたのも、ルイ15世とのかけひきのコマ。

 まだ教育も十分でなかった14歳のマリー・アントワネットを嫁がせるのは、不安も大きかったのでしょう。マリア・テレジアは頻繁に手紙を送り、末娘の成長に心を砕きましたが、娘の環境を思い通りに整えることはできませんでした。周辺諸国との戦争や外交も忙しかったため、フランス宮廷のとりまきたちが王太子妃を甘やかすのを知っても、大使を通じて意見する程度しかできませんでした。
 
 マリーアントワネットの一生を、ウィーンでの王女時代から処刑までを追う展示を見ていって、思うこと。マリーアントワネットが、母マリア・テレジアほどの政治力を備えていたなら、革命によって王位を失うことがあっても、ルイ16世と自分自身の処刑を回避する手立ても可能だったでしょうに、あまりにも華やかに短い生涯を駆け足で進んでしまった。
 しかしながら、温厚な夫と子供中心の家庭生活を築き、恋人フェルセンは最後まで忠実であったことを思うと、37歳の短い一生であったとはいえ、決して不幸なばかりの生涯ではなく、彼女なりの一生を生ききったのだと思います。

 この時代、マリーアントワネットが流行の発信者であったことを考えると、彼女のコレクションに日本の焼き物や漆器が含まれていたのも、その後のジャポニズムの流行に影響を与えたことでしょう。

マリーアントワネット愛用品。籠目栗鼠蒔絵六角箱 17世紀末~18世紀初め 木、漆 6.5×9.9×9.4cm ヴェルサイユ宮殿美術館


 ここだけは写真撮影が許可されていた、マリーの寝室の複元。

 この復元されたベッドは、華美な装飾もなく、地味な感じです。

 マリーアントワネットのお気に入り肖像画家は、エリザベト・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブランでした。エリザベト・ブランは、女性がどのように描いてもらいたいかを心得ていた画家と思います。エリザベトの描いたマリーの肖像画は、どれも超美人です。西洋美術館にこの女性画家の自画像があります。王妃の肖像より、いっそう美人に描いてある自画像。革命期にはさっさとフランス宮廷を脱出し、外国でも貴族王族の肖像画を描きまくるタフな女性でした。この立ち回り方のうまさが、マリーアントワネットにも備わっていたのなら。

 アドルフ・ユルリク・ヴァットムッレルが描いた肖像画は、あまりマリーアントワネットに気に入られなかった。なぜなら、美化ぐあいが不足していたから。ヴァットムッレルが描いたマリーは、幾分の美化修正はなされています。しかし、ハプスブルグ家の特徴であるちょっと鷲鼻、あごの出たところが、美化修正済みであってもなおわかる肖像になっており、マリーとしては「私はもっと美人のはず」と思っていたでしょう。

 1788年byアドルフ・ユルリク・ヴァットムッレル『乗馬服を着たマリー・アントワネット』他の肖像よりも実像に近いかと思います。


 2時45分から待ち始め、会場入場したのは4時半。マリーアントワネットがヴェルサイユ宮殿で使用した陶器のコレクションなど、197点の展示を見終わって会場を出たのは6時すぎ。

 やっちゃんと、六本木ヒルズの大屋根の下でコーヒーを飲んで一休み。
 フランス王妃の一生に比べれば、なんとも地味でフツーの生涯を生きるしかない私たちですが、「でもさ、なんとか楽しく生きて行こうや」というやっちゃん。
 とは言っても、やっちゃんは、教員年金で生活をまかなうほか年に2回は海外旅行している、という退職後生活ですが、私は働かざる者食うべからずの下流老人。1800円の森アートギャラリーチケットは高かったから、次はなんとか招待券をゲットしたい、と念じています。

<おわり>
コメント (4)
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