20171028
ぽかぽか春庭@アート散歩>2017秋のアート(6)運慶展その2 in 東京国立博物館
運慶と慶派の仏像の間を歩きながら、祈る。祈りながら歩き続ける。
何を祈るか、もちろん世界平和。あ、じぶんちの家内安全とか、一家眷属の健康長寿なんかもほんの少し。それから、商売繁盛学業成就なんかもちょっぴり。ちょっぴりです。商売繁盛、夫の会社が倒産しませんように。学業成就、最近博論の仕上げを放り出している息子がもいちどやる気になりますように。
祈りながら我が宗教心について考える。私は特定の宗教を信仰していない、不信心者ではありますが、倫理行動規定の基本は仏教だろうと思います。
とは言っても、建築めあてで教会に入ったとしても、イエス様マリア様、諸聖人様に向かいて、ぬかりなくお祈りしておきます。健康長寿、商売繁盛、学業成就、、、、もろもろ。御利益あるかどうか定かではないが。
カトリックには歯痛をやわらげ守ってくれる専門の聖人、なんてのもおわしますと聞くが、今のところ、歯は痛くない。
基本仏教だけれど、来世や輪廻ということを信じていない。死ぬときは一休さんのように「死にとうない」と言いながら死んでいくだろう。
死ぬまで生きている間の倫理行動規範は、たぶん仏教が下敷きになっているのだろうと思います。
仏教の倫理行動規定といっても、私の規律は私の規範によります。
ミャンマーのヤンゴンで、「仏教徒は殺生戒があるから蚊に刺されても叩いてはいけないのだ」と聞かされたあとで、寺院に蚊取り線香がたかれているのを目撃。殺生戒について質問すると、熱心な仏教徒の友人が答えてくれました。「蚊を自分の手で叩いて殺せば殺生戒になるけれど、線香の煙は殺生戒ではない。その煙の中に入ってきて蚊が死んだとすれば、それはその蚊が持って生まれた運命なのだ。蚊がその空気の中に入るか入ってこないかは、線香たいた人が決めるのではなく、仏の定めだ」と。
そんな都合のいい戒律なら、全部の戒律を小理屈つけて打破できると思い、まあ、戒律なんてものもその程度のものだと、納得しました。私はミャンマーの小乗仏教徒と違って、来世に今より上位の人間に生まれ変わりたいという願いを持っていないから、蚊を手で叩いても噴霧器シューシューでもやりたいようにやるだけだけれど。
「鯨やイルカは知恵ある動物だから、殺して食べるな」という倫理行動規範にもクビをかしげる。では、牛や豚は賢くないから盛大に食べてよいのだ、とは思えない。ナマコだろうと芋虫だろうと、生物であるからには一寸の虫にも五分の魂という考えに与する。植物だって生物である。やがて命を育むタネである稲の実も小麦の実も、種を育てるための葉や花も、命のもと。
他者の命を自己にとりいれなければ、自己を保つことができないことが、生ある者の定め。生き物はその定め負って生きて行く。それがいやなら、石になるしかない。貝にならず、石になるべし。
てなことつらつら思いながら、祈りとは何かを思い巡らし、22体の運慶仏と、そのほかの慶派の仏像の間を巡る。
借りてきた音声ガイド、阿吽の金剛力士像なども、鎌倉初期の力士たちを観察して描写したのであろう、と解説は言う。寺社にはお抱えの力士がいて、縁日なんぞに興業したのだろうなあと想像する。
筋肉の描写が「解剖学を学んだ西洋の彫刻家以上に正確」という解説などを聞きながら、大腿四頭筋に力をいれて、大臀筋をちょっとゆるめてなんて考えもせずに歩く。
見つけました。竜灯鬼のおしり画像(借り物)
この借り物画像は、内覧会で撮影されたものだと思います。借用感謝。

大臀筋、立派ですな。
一般公開の前に、マスコミや美術コラムを書いている有力ブロガー向けに内覧会が開かれます。そういうおりに招かれた方々は、自由に撮影できます。一般公開では、写真禁止なので、カメラなんぞ構えると、係員がすっ飛んできて大犯罪者のように断罪される。
↓は、一般公開日10月21日に春庭撮影。春庭は、大犯罪を犯したツミビトです。たぶん。

「腕欠くも静思 秋野の石仏>静栄」
母の句です。↑の仏像は木造ですけれど、母が腕を欠いた石仏を見たときの気持ちに寄り添えるような気がして、一枚撮影しました。たぶん、大犯罪です。
罪を負うて生きて行きます。
私の実家は曹洞宗だけれど、夫の両親は親鸞さんのお寺に納骨。悪人正機の仲間に入れてもらうから、罪人も阿弥陀如来に迎えてもらえる。たぶん。なんまいだぶ。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>2017秋のアート(6)運慶展その2 in 東京国立博物館
運慶と慶派の仏像の間を歩きながら、祈る。祈りながら歩き続ける。
何を祈るか、もちろん世界平和。あ、じぶんちの家内安全とか、一家眷属の健康長寿なんかもほんの少し。それから、商売繁盛学業成就なんかもちょっぴり。ちょっぴりです。商売繁盛、夫の会社が倒産しませんように。学業成就、最近博論の仕上げを放り出している息子がもいちどやる気になりますように。
祈りながら我が宗教心について考える。私は特定の宗教を信仰していない、不信心者ではありますが、倫理行動規定の基本は仏教だろうと思います。
とは言っても、建築めあてで教会に入ったとしても、イエス様マリア様、諸聖人様に向かいて、ぬかりなくお祈りしておきます。健康長寿、商売繁盛、学業成就、、、、もろもろ。御利益あるかどうか定かではないが。
カトリックには歯痛をやわらげ守ってくれる専門の聖人、なんてのもおわしますと聞くが、今のところ、歯は痛くない。
基本仏教だけれど、来世や輪廻ということを信じていない。死ぬときは一休さんのように「死にとうない」と言いながら死んでいくだろう。
死ぬまで生きている間の倫理行動規範は、たぶん仏教が下敷きになっているのだろうと思います。
仏教の倫理行動規定といっても、私の規律は私の規範によります。
ミャンマーのヤンゴンで、「仏教徒は殺生戒があるから蚊に刺されても叩いてはいけないのだ」と聞かされたあとで、寺院に蚊取り線香がたかれているのを目撃。殺生戒について質問すると、熱心な仏教徒の友人が答えてくれました。「蚊を自分の手で叩いて殺せば殺生戒になるけれど、線香の煙は殺生戒ではない。その煙の中に入ってきて蚊が死んだとすれば、それはその蚊が持って生まれた運命なのだ。蚊がその空気の中に入るか入ってこないかは、線香たいた人が決めるのではなく、仏の定めだ」と。
そんな都合のいい戒律なら、全部の戒律を小理屈つけて打破できると思い、まあ、戒律なんてものもその程度のものだと、納得しました。私はミャンマーの小乗仏教徒と違って、来世に今より上位の人間に生まれ変わりたいという願いを持っていないから、蚊を手で叩いても噴霧器シューシューでもやりたいようにやるだけだけれど。
「鯨やイルカは知恵ある動物だから、殺して食べるな」という倫理行動規範にもクビをかしげる。では、牛や豚は賢くないから盛大に食べてよいのだ、とは思えない。ナマコだろうと芋虫だろうと、生物であるからには一寸の虫にも五分の魂という考えに与する。植物だって生物である。やがて命を育むタネである稲の実も小麦の実も、種を育てるための葉や花も、命のもと。
他者の命を自己にとりいれなければ、自己を保つことができないことが、生ある者の定め。生き物はその定め負って生きて行く。それがいやなら、石になるしかない。貝にならず、石になるべし。
てなことつらつら思いながら、祈りとは何かを思い巡らし、22体の運慶仏と、そのほかの慶派の仏像の間を巡る。
借りてきた音声ガイド、阿吽の金剛力士像なども、鎌倉初期の力士たちを観察して描写したのであろう、と解説は言う。寺社にはお抱えの力士がいて、縁日なんぞに興業したのだろうなあと想像する。
筋肉の描写が「解剖学を学んだ西洋の彫刻家以上に正確」という解説などを聞きながら、大腿四頭筋に力をいれて、大臀筋をちょっとゆるめてなんて考えもせずに歩く。
見つけました。竜灯鬼のおしり画像(借り物)
この借り物画像は、内覧会で撮影されたものだと思います。借用感謝。

大臀筋、立派ですな。
一般公開の前に、マスコミや美術コラムを書いている有力ブロガー向けに内覧会が開かれます。そういうおりに招かれた方々は、自由に撮影できます。一般公開では、写真禁止なので、カメラなんぞ構えると、係員がすっ飛んできて大犯罪者のように断罪される。
↓は、一般公開日10月21日に春庭撮影。春庭は、大犯罪を犯したツミビトです。たぶん。

「腕欠くも静思 秋野の石仏>静栄」
母の句です。↑の仏像は木造ですけれど、母が腕を欠いた石仏を見たときの気持ちに寄り添えるような気がして、一枚撮影しました。たぶん、大犯罪です。
罪を負うて生きて行きます。
私の実家は曹洞宗だけれど、夫の両親は親鸞さんのお寺に納骨。悪人正機の仲間に入れてもらうから、罪人も阿弥陀如来に迎えてもらえる。たぶん。なんまいだぶ。
<つづく>