20180203
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記学而時習之(2)アンラーンとアンティーチ
東京、2月2日も雪になりました。3日は節分、4日は立春というのに、ほんとうに春は名のみの。中国の新年新春の春節、2018年は2月16から。この時分になれば、いくらかは春らしい気分もやってくるでしょうか。
前回1月の雪は夜から強い雪になり、木々も真っ白にお化粧しましたが、今回は夜中雨がふり、明け方に雪に変わったので、道も雨水で溶けていき、前回ほどは積もらなかったのが、都心の交通などへの影響が少なくてまだしもよかったですが、寒いことは寒い。
ということを理由にして、部屋のかたづけ、まだ手をつけていません。
ぐちゃぐちゃで、ひとり住み孤老の部屋が片づけられないゴミ部屋になっているというニュースを見たりすると、ひとり住みじゃなくても、ゴミ部屋になるときはなるもんだ、などとひとりごつ日々。
整理整頓が大の苦手。自分が書いたものも、何をいつ書いたのやらごちゃごちゃになっています。思いがけないとき「自分がこんなこと書いていたんだ!」と、びっくりする書き物が出てくることがあります。
以下、2009年に大学院博士課程に提出した課題レポートです。とても堅苦しい文体です。指導教官が点数をつける課題執筆なので、堅い文章で真面目に課題に取り組んだふうを装いました。ふだんの、何を述べるにも冗談をいれて笑えるようにしておく、という常套手段は封鎖して書きました。
とくに(2)のアンティーチの部分は、自分が書いたレポートがちょっとでも学術的にみえるように見栄をはって書いた部分です。「比較文学」という授業のためのレポートなので、ちょっとは比較文学のオベンキョをしたらしく見えるように装っているのです。
春庭がまじめぶってこんなことも書くのだ、という見本としてご笑読を。
日本語教育が異文化教育と不可欠に結びついているということを言うために、アンラーン、アンティーチという用語を使ってもっともらしく書いたのですが、何を言っているのか、わかりにくい文章になりました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
1) アンラーン(unlearn)する
第二言語教育(外国語教育)とは、必然的に主体の問題を包摂していくこととなる。
アイデンティティの重層を織り込む言語活動のなかに組み込まれた学習が、教育者-学習者関係に内包されている<文化の政治性>を照射しつつ、文化の脱中心化、エラボレーションelaboration、エンパワメントempowermentへ向けられるべく、日本語教育の可能性をさぐっていきたいと思う。
日本語教育は、なぜ「異文化」に関わる必要があるのか、<他者>として異文化を理解することが可能なのかという問いに立ち戻りつつ、異文化の中にある言語を教育していく可能性を考察していかなければならない。自己と他者の境界を意識しつつ、自己批判的に相互侵食するための「対話的想像力」を育てて行かなければならない。多文化教育において「文化を学ぶ」ことは、「安定した本質主義化への欲望」に抗するまなざしを育てる。また、複数の差異を交差した多様性を肯定的に評価する多文化教育において、<エスニシティ>を考察の対象としてとらえないならば、自他が固定された文化的二元論のなかに埋め込まれていくしかない。日本語学習のなかに異文化学習が必然的に組み込まれてくるのは、そのためである。
unlearnという語について述べておきたい。
鶴見俊輔が、学生時代にヘレン・ケラーから聞いたということばを紹介している。(朝日新聞2007年12月)
ヘレン・ケラー「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」
このときのケラーの発した「unlearn」を、鶴見は「まなびほぐす」と訳している。「まなび」(ラーン)、後に「まなびほぐす」(アンラーン)。鶴見はヘレンのことばを聞き、 「アンラーンということばは初めて聞いたが、意味は分かった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された」
と感じたという。鶴見は60年以上も前の戦時中、異文化のまっただなか、敵国アメリカで学生生活をおくった。そのときににきいたヘレン・ケラーのことばが、今も鶴見の胸に宿り輝いている。さらに、鶴見は、ホスピスの医師として生と死をみつめてきた徳永進医師を評して、「徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっと考えられてよい」と、コラムを結んでいる。
「アンラーン=まなびほぐす」、このような日本語訳をはじめて知り、私自身の生活が、まさしく「学び(learn)をほぐす(un)」を続けるものであったことを確認した。ただこれまでは、私の生活を「unlearn=まなびほぐす」という一語で表現できるとは思っていなかったのだ。
2)アンティーチする
大江は、unteachの用例として、文化人類学の研究者ジェイムズ・クリフォードのことばを引用し、リーダーズ英和辞典の訳語を紹介している。unteach=既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていることを)正しくないと教えることの教えることの欺瞞性を示してやること。
大江は、自分自身の仕事について、
「小説を書くことによって、unlearnとunteachを二つながら書斎で試みることをするようになり、その手法を探ってきたとも気がつくのです」
と述べている。
教育において「他者」と出会い、複数の語りを繋ぐ結びに転化することで、文化を「広範な学習の場」となしていくことができるだろう。多文化教育研究、日本語教育研究にとって、「他者」を自己に包摂し、同一化してしまうなら、「他者」を「自由な主体」として認めることができない。同時に自分自身を「自由な主体」とすることも不可能になる。文化を「中心ー周縁」の対立にとどめず、「他者」に対峙する自らの位置を「unlearn」まなびほぐしていくことが、日本語教育、多文化教育研究にとって重要なものとなるだろう。
スピヴァク(Spivak)は「アポリアを教えること」というインタビュー(『現代思想』1999年7月号)で
「(多文化主義的実践は)いまではもはや対抗勢力ではない。むしろ新たに台頭してきた支配勢力となっている。そういう我々が行為者を主張することは、他者性の中に行為者を認知することであって、他者を理解することではない」
と述べている。これも、unlearnの学びが「あらたな支配勢力」となっている多文化主義実践をときほぐし学びほぐしていくこととなるであろう。
かって、日本語教育は、「皇民化教育」の名のもとに、「日本語を話さない人たち」をマイノリティからすくい上げる装置として「帝国の基礎」を担う存在だった。酒井直樹(1996)は、。
「日本帝国主義や日本国家の侵略性を内面化し日本人として死ぬ準備をマイノリティ出自の個人に要請するような制度の正当化」について指摘した。日本語教育は、まさしくそのような「制度」へ「主体」として関わっていこうとする人を養成してきたのだ。ポストコロニアル研究の隙間をぬって蔓延する「植民地支配合理化」論に足元をすくわれないためにも、日本語教育の可能性について、文化教育言語教育の視点を確認することが必要と思われる。
~~~~~~~~~~~~
「認知症予防」という健康番組を見ていたら、足踏みしながら100から7ずつ引いていくとか、絵を描くとかダンスを踊るなんてのも、認知症予防にいいと解説されていました。↑の春庭文章もややこしいのを読んで、ちょっとは脳が活動して脳細胞がホットになるかしら。あらら、へんてこりんな文章を読んで、2日の雪より冷え込んでしまった方も、、、、失礼しました。
私は、井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
という文章の方針が大好きですから、難しいことをむずかしそうに書いた文章、自分で書いたものなのに、読み直すのに苦労しました。脳が冷え込みました。
堅苦しい文体で「学術的にみえるように」書くことは、私にはむきませず。ボンボンと論文を量産し、学術論文を何本学会誌に載せたかということで評価される学者には向かなかったけれど、、、、では、私は教育にむいていたのかというとそうも言えず。
30年間語学教師として、まじめに務めましたが、「まじめなことをゆかいに」できたかというと、「まじめゆえに、つまらなく」もあったと反省しています。
教師として主観的には一生懸命努力をしたのですが、それは主観にすぎず、客観的には教育者としてまっとうできたかというと、それもあやしい。
結局なにごともなさぬままに1988年以来続けてきた教師の仕事も先細りに、、、、。
私自身のアンラーンは続きますが、こころがけてきたアンティーチは、完成することなくおわります。いや、完成することがないからアンティーチなのかもしれませんが。
ことし、後半はこれまでの仕事のつづきではあるけれど、少々異なる分野の仕事を始めます。あらたな仕事に挑戦です。
老骨鞭打つということばにぴったりのハードスケジュールではありますが、老体に仕事を与えてもらえるということがありがたい。
どうなるのか、どうもならんのか。やってみなければわかりません。
もうちょっと脳をホットに鍛えないと。
脳を鍛えるためには筋肉を鍛えることも必要だと、認知症予防の番組で言っていました。
筋肉を鍛えないといけないのですが、2月2日のダンス練習「雪が降ったからお休みする」とメールしてサボりました。とほほ。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記学而時習之(2)アンラーンとアンティーチ
東京、2月2日も雪になりました。3日は節分、4日は立春というのに、ほんとうに春は名のみの。中国の新年新春の春節、2018年は2月16から。この時分になれば、いくらかは春らしい気分もやってくるでしょうか。
前回1月の雪は夜から強い雪になり、木々も真っ白にお化粧しましたが、今回は夜中雨がふり、明け方に雪に変わったので、道も雨水で溶けていき、前回ほどは積もらなかったのが、都心の交通などへの影響が少なくてまだしもよかったですが、寒いことは寒い。
ということを理由にして、部屋のかたづけ、まだ手をつけていません。
ぐちゃぐちゃで、ひとり住み孤老の部屋が片づけられないゴミ部屋になっているというニュースを見たりすると、ひとり住みじゃなくても、ゴミ部屋になるときはなるもんだ、などとひとりごつ日々。
整理整頓が大の苦手。自分が書いたものも、何をいつ書いたのやらごちゃごちゃになっています。思いがけないとき「自分がこんなこと書いていたんだ!」と、びっくりする書き物が出てくることがあります。
以下、2009年に大学院博士課程に提出した課題レポートです。とても堅苦しい文体です。指導教官が点数をつける課題執筆なので、堅い文章で真面目に課題に取り組んだふうを装いました。ふだんの、何を述べるにも冗談をいれて笑えるようにしておく、という常套手段は封鎖して書きました。
とくに(2)のアンティーチの部分は、自分が書いたレポートがちょっとでも学術的にみえるように見栄をはって書いた部分です。「比較文学」という授業のためのレポートなので、ちょっとは比較文学のオベンキョをしたらしく見えるように装っているのです。
春庭がまじめぶってこんなことも書くのだ、という見本としてご笑読を。
日本語教育が異文化教育と不可欠に結びついているということを言うために、アンラーン、アンティーチという用語を使ってもっともらしく書いたのですが、何を言っているのか、わかりにくい文章になりました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
1) アンラーン(unlearn)する
第二言語教育(外国語教育)とは、必然的に主体の問題を包摂していくこととなる。
アイデンティティの重層を織り込む言語活動のなかに組み込まれた学習が、教育者-学習者関係に内包されている<文化の政治性>を照射しつつ、文化の脱中心化、エラボレーションelaboration、エンパワメントempowermentへ向けられるべく、日本語教育の可能性をさぐっていきたいと思う。
日本語教育は、なぜ「異文化」に関わる必要があるのか、<他者>として異文化を理解することが可能なのかという問いに立ち戻りつつ、異文化の中にある言語を教育していく可能性を考察していかなければならない。自己と他者の境界を意識しつつ、自己批判的に相互侵食するための「対話的想像力」を育てて行かなければならない。多文化教育において「文化を学ぶ」ことは、「安定した本質主義化への欲望」に抗するまなざしを育てる。また、複数の差異を交差した多様性を肯定的に評価する多文化教育において、<エスニシティ>を考察の対象としてとらえないならば、自他が固定された文化的二元論のなかに埋め込まれていくしかない。日本語学習のなかに異文化学習が必然的に組み込まれてくるのは、そのためである。
unlearnという語について述べておきたい。
鶴見俊輔が、学生時代にヘレン・ケラーから聞いたということばを紹介している。(朝日新聞2007年12月)
ヘレン・ケラー「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」
このときのケラーの発した「unlearn」を、鶴見は「まなびほぐす」と訳している。「まなび」(ラーン)、後に「まなびほぐす」(アンラーン)。鶴見はヘレンのことばを聞き、 「アンラーンということばは初めて聞いたが、意味は分かった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された」
と感じたという。鶴見は60年以上も前の戦時中、異文化のまっただなか、敵国アメリカで学生生活をおくった。そのときににきいたヘレン・ケラーのことばが、今も鶴見の胸に宿り輝いている。さらに、鶴見は、ホスピスの医師として生と死をみつめてきた徳永進医師を評して、「徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっと考えられてよい」と、コラムを結んでいる。
「アンラーン=まなびほぐす」、このような日本語訳をはじめて知り、私自身の生活が、まさしく「学び(learn)をほぐす(un)」を続けるものであったことを確認した。ただこれまでは、私の生活を「unlearn=まなびほぐす」という一語で表現できるとは思っていなかったのだ。
2)アンティーチする
大江は、unteachの用例として、文化人類学の研究者ジェイムズ・クリフォードのことばを引用し、リーダーズ英和辞典の訳語を紹介している。unteach=既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていることを)正しくないと教えることの教えることの欺瞞性を示してやること。
大江は、自分自身の仕事について、
「小説を書くことによって、unlearnとunteachを二つながら書斎で試みることをするようになり、その手法を探ってきたとも気がつくのです」
と述べている。
教育において「他者」と出会い、複数の語りを繋ぐ結びに転化することで、文化を「広範な学習の場」となしていくことができるだろう。多文化教育研究、日本語教育研究にとって、「他者」を自己に包摂し、同一化してしまうなら、「他者」を「自由な主体」として認めることができない。同時に自分自身を「自由な主体」とすることも不可能になる。文化を「中心ー周縁」の対立にとどめず、「他者」に対峙する自らの位置を「unlearn」まなびほぐしていくことが、日本語教育、多文化教育研究にとって重要なものとなるだろう。
スピヴァク(Spivak)は「アポリアを教えること」というインタビュー(『現代思想』1999年7月号)で
「(多文化主義的実践は)いまではもはや対抗勢力ではない。むしろ新たに台頭してきた支配勢力となっている。そういう我々が行為者を主張することは、他者性の中に行為者を認知することであって、他者を理解することではない」
と述べている。これも、unlearnの学びが「あらたな支配勢力」となっている多文化主義実践をときほぐし学びほぐしていくこととなるであろう。
かって、日本語教育は、「皇民化教育」の名のもとに、「日本語を話さない人たち」をマイノリティからすくい上げる装置として「帝国の基礎」を担う存在だった。酒井直樹(1996)は、。
「日本帝国主義や日本国家の侵略性を内面化し日本人として死ぬ準備をマイノリティ出自の個人に要請するような制度の正当化」について指摘した。日本語教育は、まさしくそのような「制度」へ「主体」として関わっていこうとする人を養成してきたのだ。ポストコロニアル研究の隙間をぬって蔓延する「植民地支配合理化」論に足元をすくわれないためにも、日本語教育の可能性について、文化教育言語教育の視点を確認することが必要と思われる。
~~~~~~~~~~~~
「認知症予防」という健康番組を見ていたら、足踏みしながら100から7ずつ引いていくとか、絵を描くとかダンスを踊るなんてのも、認知症予防にいいと解説されていました。↑の春庭文章もややこしいのを読んで、ちょっとは脳が活動して脳細胞がホットになるかしら。あらら、へんてこりんな文章を読んで、2日の雪より冷え込んでしまった方も、、、、失礼しました。
私は、井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
という文章の方針が大好きですから、難しいことをむずかしそうに書いた文章、自分で書いたものなのに、読み直すのに苦労しました。脳が冷え込みました。
堅苦しい文体で「学術的にみえるように」書くことは、私にはむきませず。ボンボンと論文を量産し、学術論文を何本学会誌に載せたかということで評価される学者には向かなかったけれど、、、、では、私は教育にむいていたのかというとそうも言えず。
30年間語学教師として、まじめに務めましたが、「まじめなことをゆかいに」できたかというと、「まじめゆえに、つまらなく」もあったと反省しています。
教師として主観的には一生懸命努力をしたのですが、それは主観にすぎず、客観的には教育者としてまっとうできたかというと、それもあやしい。
結局なにごともなさぬままに1988年以来続けてきた教師の仕事も先細りに、、、、。
私自身のアンラーンは続きますが、こころがけてきたアンティーチは、完成することなくおわります。いや、完成することがないからアンティーチなのかもしれませんが。
ことし、後半はこれまでの仕事のつづきではあるけれど、少々異なる分野の仕事を始めます。あらたな仕事に挑戦です。
老骨鞭打つということばにぴったりのハードスケジュールではありますが、老体に仕事を与えてもらえるということがありがたい。
どうなるのか、どうもならんのか。やってみなければわかりません。
もうちょっと脳をホットに鍛えないと。
脳を鍛えるためには筋肉を鍛えることも必要だと、認知症予防の番組で言っていました。
筋肉を鍛えないといけないのですが、2月2日のダンス練習「雪が降ったからお休みする」とメールしてサボりました。とほほ。
<つづく>