2018/02/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記光の春(8)私の思い出写真
娘息子との思い出写真をながめたついでに、子供のころの何枚かを。
私の母の弟のうち、国鉄に勤めていた「駅おじさん」と銀行に勤めていた「ぎんこおじさん」東京の大会社で働く末弟「とうきょうおじさん」は、幼かった私たち姉妹にとって、「わが家にはない新しいもの」をもたらしてくれる「文化の窓」のような存在でした。
いろいろな駅に転勤する駅おじさんは、ご近所から出たこともない私たち姉妹にとって「自分たちの住まいのほかの土地」のことを伝えてくれる「異国のたより」でしたし、ギンコおじさんは、スクーターでやってきて、いつもカメラを持っていて、「ハイカラな文明」のもとのように思えたのでした。
カメラ道楽初心者のギンコおじさんにとって、姪っ子たちは格好の被写体であったのだろうと思います。
ぎんこ叔父が撮った「母と姉(右)4歳と私(真ん中)2歳」
母は、念願のミシンを買ってうれしそうな表情ですし、私は生まれたときからのまん丸い顔。笑えと言われると、ぽかっと口をあけるので、どの写真の顔もアホ面です。
母も姉も今はいない。古い写真なので、傷だらけですが、私には大切な一枚です。
叔父に影響されて、父もカメラを手に入れて、家族の写真を撮るようになりました。昭和30年代の田舎のこどもにしては、たくさんのスナップ写真や記念写真が残っているのは、ギンコ叔父さんのカメラ道楽のおかげです。父は会社の「写真同好会」に入って、白黒写真の現像まで自分でやりました。
叔父や父が撮影した写真は、実家のアルバムに収まっていて、私の手元にあるのは少ないですが、私にとっての、たいせつな「記憶写真」です。
私の子どもの頃の写真、実家のアルバムを見るたび、妹に「全部焼き増ししてよ。東京でも見たいから」と、言い続けています。しかし、妹は「毎日忙しい」と、ボランティアやらパートやらに飛び回っていて30年間「あとでゆっくり焼き増しするから」と、言い続けています。
愛犬コロといっしょのスナップ。10歳か11歳の私を父が撮ったのだと思います。
笑えるのは、玄関の奥の障子が、ボロボロになっていること。姉の猫の出入り口です。
12歳の私のセルフポートレート。中学生になった姉が誂えてもらった着物(13参りという行事はすたれていましたが、13歳で着物を新調することはやっていたのだろうと思います)。私も着物を着てみたくて、姉の留守にこっそり着込んで、急いで一枚だけシャッターを押した。大好きなコロといっしょのショットにするはずが、、、
三脚セルフタイマーでを撮るつもりで、失敗した。カメラのほうを向いてレンズをしっかと見つめる前にシャッターがおりてしまいました。当時、フィルム一本買うにもこどものこずかいでは高価に思えましたから、子どもがお遊びでシャッターを切ることが許されるのは一回限り。下を向いた一枚が残りましたが、ま、これも記念の一枚。
叔父はゴルフなどは若い頃にしただけで、ゴルフクラブ会員権が高値で売れるようになるとさっさと売り払ってしまいましたが、カメラ趣味は70歳で亡くなるまで続けて、県の写真展で特選になったこともありました。私たちにも「県の美術展の写真の部におじさんの写真があるから見に行っておいで」と、勧めるのでした。
一方の父は、一時期ひとつの趣味に夢中になるけれど、すぐ飽きるたちで、私が覚えているだけで、鮎の友釣り、カメラ、パチンコ、盆石作り、弓道と好きなことがくるくる変わりました。長くて数年。
60歳定年後の郷土史探訪散歩とゲートボール、家庭菜園は76歳で死ぬまで続けましたけれど。
1979年、ケニアに行く前に、餞別代わりに叔父の一眼レフをお下がりでもらって、ケニアでの動物写真などは、このカメラで撮影しましたし、私が写真を写すのも見るのも好きであるのは、この叔父の影響です。好きな写真家の写真展を見に行ったり、写真美術館へ行ったりしているのですが、自分が撮影するほうはいっこうに上手になりません。
でも、好きなものを好きなようにとっていればいいと思って、今日もコンパクトカメラかまえて「今日の一枚」をとっています。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記光の春(8)私の思い出写真
娘息子との思い出写真をながめたついでに、子供のころの何枚かを。
私の母の弟のうち、国鉄に勤めていた「駅おじさん」と銀行に勤めていた「ぎんこおじさん」東京の大会社で働く末弟「とうきょうおじさん」は、幼かった私たち姉妹にとって、「わが家にはない新しいもの」をもたらしてくれる「文化の窓」のような存在でした。
いろいろな駅に転勤する駅おじさんは、ご近所から出たこともない私たち姉妹にとって「自分たちの住まいのほかの土地」のことを伝えてくれる「異国のたより」でしたし、ギンコおじさんは、スクーターでやってきて、いつもカメラを持っていて、「ハイカラな文明」のもとのように思えたのでした。
カメラ道楽初心者のギンコおじさんにとって、姪っ子たちは格好の被写体であったのだろうと思います。
ぎんこ叔父が撮った「母と姉(右)4歳と私(真ん中)2歳」
母は、念願のミシンを買ってうれしそうな表情ですし、私は生まれたときからのまん丸い顔。笑えと言われると、ぽかっと口をあけるので、どの写真の顔もアホ面です。
母も姉も今はいない。古い写真なので、傷だらけですが、私には大切な一枚です。
叔父に影響されて、父もカメラを手に入れて、家族の写真を撮るようになりました。昭和30年代の田舎のこどもにしては、たくさんのスナップ写真や記念写真が残っているのは、ギンコ叔父さんのカメラ道楽のおかげです。父は会社の「写真同好会」に入って、白黒写真の現像まで自分でやりました。
叔父や父が撮影した写真は、実家のアルバムに収まっていて、私の手元にあるのは少ないですが、私にとっての、たいせつな「記憶写真」です。
私の子どもの頃の写真、実家のアルバムを見るたび、妹に「全部焼き増ししてよ。東京でも見たいから」と、言い続けています。しかし、妹は「毎日忙しい」と、ボランティアやらパートやらに飛び回っていて30年間「あとでゆっくり焼き増しするから」と、言い続けています。
愛犬コロといっしょのスナップ。10歳か11歳の私を父が撮ったのだと思います。
笑えるのは、玄関の奥の障子が、ボロボロになっていること。姉の猫の出入り口です。
12歳の私のセルフポートレート。中学生になった姉が誂えてもらった着物(13参りという行事はすたれていましたが、13歳で着物を新調することはやっていたのだろうと思います)。私も着物を着てみたくて、姉の留守にこっそり着込んで、急いで一枚だけシャッターを押した。大好きなコロといっしょのショットにするはずが、、、
三脚セルフタイマーでを撮るつもりで、失敗した。カメラのほうを向いてレンズをしっかと見つめる前にシャッターがおりてしまいました。当時、フィルム一本買うにもこどものこずかいでは高価に思えましたから、子どもがお遊びでシャッターを切ることが許されるのは一回限り。下を向いた一枚が残りましたが、ま、これも記念の一枚。
叔父はゴルフなどは若い頃にしただけで、ゴルフクラブ会員権が高値で売れるようになるとさっさと売り払ってしまいましたが、カメラ趣味は70歳で亡くなるまで続けて、県の写真展で特選になったこともありました。私たちにも「県の美術展の写真の部におじさんの写真があるから見に行っておいで」と、勧めるのでした。
一方の父は、一時期ひとつの趣味に夢中になるけれど、すぐ飽きるたちで、私が覚えているだけで、鮎の友釣り、カメラ、パチンコ、盆石作り、弓道と好きなことがくるくる変わりました。長くて数年。
60歳定年後の郷土史探訪散歩とゲートボール、家庭菜園は76歳で死ぬまで続けましたけれど。
1979年、ケニアに行く前に、餞別代わりに叔父の一眼レフをお下がりでもらって、ケニアでの動物写真などは、このカメラで撮影しましたし、私が写真を写すのも見るのも好きであるのは、この叔父の影響です。好きな写真家の写真展を見に行ったり、写真美術館へ行ったりしているのですが、自分が撮影するほうはいっこうに上手になりません。
でも、好きなものを好きなようにとっていればいいと思って、今日もコンパクトカメラかまえて「今日の一枚」をとっています。
<つづく>