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ぽかぽか春庭アーカイブ「(き)北杜夫『ドクトルマンボウ航海記』

2018-10-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181028
ぽかぽか春庭アーカイブ「(き)北杜夫『ドクトルマンボウ航海記』

at 2003 10/02 07:31 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.7(き)北杜夫『どくとるマンボウ航海記』
 「ここではない、どこか」に行きたくてたまらなかった少女のころ、母の勧めで読んだ本。どくとるマンボウシリーズのほとんどと『牧神の午後』をはじめとする初期作品、どんどん読めた。
 北杜夫作品中一冊だけ選ぶなら、やはり斎藤茂吉一家をモデルとした『楡家の人々』
==========
at 2003 10/02 07:31 編集 老後はインターネットの海を航海
 「老後を豊かにすごしたい」というのは、すべての人の願い。
 でも、「豊かさ」の意味は人によって異なる。ある人にとっては、「ある程度の金」、また、「健康」。「人とのふれあいが一番」という人もいるし、「趣味をきわめたい」という人も。
 さまざまな老後の過ごし方の中で、「ホームページ作成」は、自己表現の喜びと、人とのふれあいを得られる、一挙両得の趣味。多くの高齢者がウェブ上で活躍している。
========
2010/01/16
 母は読書と俳句を何よりの楽しみにしていた。『どくとるマンボウ航海記』も、母の文庫本をもらった一冊だった。
 母は、庭に鶏小屋を建てて、10羽の鶏から卵をとって食卓にのせること、裏の家庭菜園で野菜を育てること、ほぼ毎日、3時ころから夕食準備にとりかかるまで、近所の奥さん達と持ち回りで「お茶のみ」に呼んだり呼ばれたりすること。これらの楽しみのほか、一人で本を読むこと、野菜や鶏の世話をしながら俳句をひねることを生き甲斐にしていた。この楽しみがあったから、55歳という短さではあったけれど、3人の娘を育て上げた人生は、充実した一生だったのだと信じている。

 母は、小説を読み始めるともう腰を上げたくなくて、夕食作りにかかる時間が遅くなってしまったりして困るけれど、短い章を連ねたエッセイなら、どこで区切って本を綴じてもすぐに仕事にかかれるから、といっていた。それで北杜夫や遠藤周作のユーモアのあるエッセイがお気にいりだった。

 東京で一人暮らしを始めた私を、母はいつも心配していて「風邪をひいた」と電話したら、母が「帰っておいで。一人で下宿で寝ているより、うちで温かい物でも食べたほうがいい」と言うので、帰省し、1週間で風邪も治ったので、母と買い物を楽しんだあと東京の下宿に戻った。
 そのあと「風邪がうつったみたいで、お母さんが寝込んだ」という連絡を妹からもらい、次に電話を受けたときは「危篤だからすぐに帰宅するように」という緊急連絡だった。深夜病院へ駆けつけると、その夜のうちに死んでしまった。信じられなかった。夢の中の出来事だと思えた。

 医者は「インフルエンザ」と診断して抗生物質か何かを注射したらしいけれど、実は心臓が弱っていたのであって、インフルエンザの注射が身体にあわず、死期を早めてしまった。母は具合が悪くなったときに、私の風邪がうつったのだろうと思って「風邪引いたみたい」と、医者にかかったのだけれど、藪医者は患者の申告通りに風邪と誤診して母を死に追いやったのだった。

 父はなんとか助けたいと、よりよい診断を求めて、1週間のうちに3回病院を転院させた。三つ目の病院で、「実は心臓が悪くなっていたのを、最初の医者が見抜けなかったのだ」という説明を受けた。心臓が悪いという診断が下ったとき、もう手遅れで手の施しようがなくなっていた。最初の病院できちんと診断して治療していれば助かったのかもしれなかったけれど、今さら嘆いても遅い。母の判断で一番近い病院へいったのだから。
 私が風邪をなおしに帰宅しなければよかった、と感じて、ずっと母の死を受け入れることができないでいた。 

 母の死後、生きていく気力がなくなっていた。
 母の3回忌に「御仏前返し」に配るものとして、遺稿集をまとめることにした。生前「末娘が高校卒業したら私も母親業卒業式をして、新聞に投稿してきた俳句や短歌をまとめて本を出したい」と言っていた。母の望みを遅ればせながら実現するために、母に俳句作りを勧めた母の末弟といっしょに編集した。この仕事がなかったら、後追い自殺したかもしれなかった。

 母にもらった『どくとるマンボウ航海記』の文庫本。ページをめくると、笑いながら読んでいた母の姿を思い出す。

<つづく> at 2003 10/02 07:31 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.7(き)北杜夫『どくとるマンボウ航海記』
 「ここではない、どこか」に行きたくてたまらなかった少女のころ、母の勧めで読んだ本。どくとるマンボウシリーズのほとんどと『牧神の午後』をはじめとする初期作品、どんどん読めた。
 北杜夫作品中一冊だけ選ぶなら、やはり斎藤茂吉一家をモデルとした『楡家の人々』
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at 2003 10/02 07:31 編集 老後はインターネットの海を航海
 「老後を豊かにすごしたい」というのは、すべての人の願い。
 でも、「豊かさ」の意味は人によって異なる。ある人にとっては、「ある程度の金」、また、「健康」。「人とのふれあいが一番」という人もいるし、「趣味をきわめたい」という人も。
 さまざまな老後の過ごし方の中で、「ホームページ作成」は、自己表現の喜びと、人とのふれあいを得られる、一挙両得の趣味。多くの高齢者がウェブ上で活躍している。
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2010/01/16
 母は読書と俳句を何よりの楽しみにしていた。『どくとるマンボウ航海記』も、母の文庫本をもらった一冊だった。
 母は、庭に鶏小屋を建てて、10羽の鶏から卵をとって食卓にのせること、裏の家庭菜園で野菜を育てること、ほぼ毎日、3時ころから夕食準備にとりかかるまで、近所の奥さん達と持ち回りで「お茶のみ」に呼んだり呼ばれたりすること。これらの楽しみのほか、一人で本を読むこと、野菜や鶏の世話をしながら俳句をひねることを生き甲斐にしていた。この楽しみがあったから、55歳という短さではあったけれど、3人の娘を育て上げた人生は、充実した一生だったのだと信じている。

 母は、小説を読み始めるともう腰を上げたくなくて、夕食作りにかかる時間が遅くなってしまったりして困るけれど、短い章を連ねたエッセイなら、どこで区切って本を綴じてもすぐに仕事にかかれるから、といっていた。それで北杜夫や遠藤周作のユーモアのあるエッセイがお気にいりだった。

 東京で一人暮らしを始めた私を、母はいつも心配していて「風邪をひいた」と電話したら、母が「帰っておいで。一人で下宿で寝ているより、うちで温かい物でも食べたほうがいい」と言うので、帰省し、1週間で風邪も治ったので、母と買い物を楽しんだあと東京の下宿に戻った。
 そのあと「風邪がうつったみたいで、お母さんが寝込んだ」という連絡を妹からもらい、次に電話を受けたときは「危篤だからすぐに帰宅するように」という緊急連絡だった。深夜病院へ駆けつけると、その夜のうちに死んでしまった。信じられなかった。夢の中の出来事だと思えた。

 医者は「インフルエンザ」と診断して抗生物質か何かを注射したらしいけれど、実は心臓が弱っていたのであって、インフルエンザの注射が身体にあわず、死期を早めてしまった。母は具合が悪くなったときに、私の風邪がうつったのだろうと思って「風邪引いたみたい」と、医者にかかったのだけれど、藪医者は患者の申告通りに風邪と誤診して母を死に追いやったのだった。

 父はなんとか助けたいと、よりよい診断を求めて、1週間のうちに3回病院を転院させた。三つ目の病院で、「実は心臓が悪くなっていたのを、最初の医者が見抜けなかったのだ」という説明を受けた。心臓が悪いという診断が下ったとき、もう手遅れで手の施しようがなくなっていた。最初の病院できちんと診断して治療していれば助かったのかもしれなかったけれど、今さら嘆いても遅い。母の判断で一番近い病院へいったのだから。
 私が風邪をなおしに帰宅しなければよかった、と感じて、ずっと母の死を受け入れることができないでいた。 

 母の死後、生きていく気力がなくなっていた。
 母の3回忌に「御仏前返し」に配るものとして、遺稿集をまとめることにした。生前「末娘が高校卒業したら私も母親業卒業式をして、新聞に投稿してきた俳句や短歌をまとめて本を出したい」と言っていた。母の望みを遅ればせながら実現するために、母に俳句作りを勧めた母の末弟といっしょに編集した。この仕事がなかったら、後追い自殺したかもしれなかった。

 母にもらった『どくとるマンボウ航海記』の文庫本。ページをめくると、笑いながら読んでいた母の姿を思い出す。
<つづく>
コメント (2)
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