20181201
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(2)修学院離宮
京都御所や桂離宮修学院離宮は、朝から当日券めあてに並べば、事前の申し込みはしなくても見学できるようになっています。しかし、私は当日券が手に入らないことを考慮して事前に申し込みをしました。10月中ばすぎ、急に思い立っての京都旅行ですから、ほとんどの見学可能日はすでにどの時間帯も予約終了マークがついています。10月11月の旅行日程中、申し込みが可能なのは、夜行バスで京都に着いた10月25日朝9時のみ。
京都駅から5番バス。40分。修学院道下車、徒歩10分。途中2度道を尋ねましたが、京都の人は、みな親切に教えてくれます。9時集合にぎりぎり間に合いました。
見学にはツアーガイドが付き、ガイドより先に行ってはいけない、遅れてもいけない、という注意がありました。ガイドのお話は、あとでガイドブックを読めば書いてあることばかりなので、せっかくのご説明ながら、申し訳ない、ほとんど聞いていなかった。
ガイドというより、見学客が勝手にあちこち歩きまわらないための監視役、といったところ。
一団に遅れがちになりながら、景色をながめること、写真を撮ることを楽しみながらついていく。
グループしんがりになるのは、人がいなくなったところを写真に撮りたいからです。でも、夫婦連れとその親と思うのおばあちゃんの3人組が私と追いつ追われつでゆるゆると進みました。ツアー集団が過ぎてしまうのを待って写真を撮ろうとすると、この3人組が遅れて現れ、なかなか思うような角度では撮影できませんでした。
いちばんしんがりには皇宮警察のイケメン警官がバリっとしたスーツ姿でついてきて、一団の最後のひとりが悪さをしないか、監視しています。たしかに、宮内庁の管轄である離宮の道具ひとつでも無くなったら、たいへんですから。
皇宮警察官ににらまれながら撮影した写真、並べてみるとほんとうに腕が悪い。専門の写真家が撮ったものに劣るのはもちろんですが、ネットの旅行サイトに出ている素人写真がきれいに見えるのに比べると、UPするのも恥ずかしながら、ですが、これは自分自身の「脳カツ」あとで思い出すためのメモですから、写真の出来は問わないでくださいまし。
・今日の庭園(修学院離宮庭園)
マリーアントワネットが贅をつくしたベルサイユ宮殿に飽き、フランス農村の生活を再現したプチトリアノンで過ごすことを好んだように、宮廷人というのは、洋の東西を問わず、農村風景というものに心和むらしい。
後水尾天皇(1596-1680)が造営した修学院も、田園風景を取り入れています。
離宮内の美しい庭園や茶室のほか、田んぼや畑を設け、農家の暮らしぶりを「景色」として楽しんでいました。
後水尾天皇は、徳川家康の孫婿にあたります。浅井氏お江と2代将軍秀忠の娘、和子(東福門院1607-1678)をいやおうなく迎え入れることになり、将軍家との軋轢すったもんだを繰り返しました。幸い和子との仲はよかったようで、昭和天皇に抜かれるまでは歴代天皇の最長寿者であり、中宮和子ほか女御たちとの間に、19皇子、16皇女をなした元気のよさ。天皇としての実権を徳川氏に握られてしまい、絶倫ぶりを発揮するか庭づくりに精出すか。皇子皇女として育ったのは上記の25人ですが、生まれた子は30人以上。遊女などの身分の低い女性とも、楽しくおつきあいを続けたとか。ともあれ、江戸初期の天皇として、教科書に出てくる。(以後の子孫は維新期の孝明天皇まで、中学高校の歴史の教科書にはあまり出てこない。幕末史に名が出てくる15代徳川慶喜も、大政奉還後、何の実権もなくなったあとは、趣味に生き、子作りに生きました。慶喜の子は、正室との間の子は夭折したものの、側室との間には10男11女の21人。残念、上皇様には負けている)
天皇は、和子所生の女二宮興子内親王(明正天皇)に譲位。後水尾の24人の子のうち、明正、後光明、後西、霊元を帝位につけ、自身は院政を行いました。85歳の崩御(1680年)まで、上皇として悠々の後半生を送って離宮の美を完成させました。
芸術的センスを発揮した庭づくり三昧のご生涯、決して楽しいばかりではない生涯でしたろう。将軍家からの圧力から逃れて気ままに過ごす離宮づくりに情熱を傾けたその成果を、「平成最後の」年に50年来の思いかなって、楽しませていただきました。
54万平方メートルに及ぶ修学院離宮には上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋、下御茶屋の3か所の庭園で構成されています。上、中、下、御茶屋の間には、松並木や田んぼが広がってのどかな光景を演出しています。
明治時代に離宮全体が宮内庁管轄となったとき、田んぼのあぜ道に松が植えられました。明治天皇御幸のためです。中御茶屋は、東福門院の御座所として造営され、現在では、上中下とともに宮内庁の管轄です。
園内地図。参観経路
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_shugaku.html
きれいに撮影されている宮内庁の写真はこちら
http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kyoto/syugakuin-ph.html
それでは、春庭のメモ写真。
下御茶屋(下離宮)寿月観の庭(たぶん)




下だか中だか、もはやわすれた庭

背中を見せて歩く皇宮警察官
松並木

横に這う枝ぶりの松

園内の田んぼは、稲刈りが終わって「はさがけ」がなされていました。

離宮の畑。現在は宮内庁から請け負った近隣の契約農家が栽培を続けているそうです。

田んぼから眺める京の街並み


中御茶屋裏側には、こんな石組みも。

上御茶屋の回遊式池園。浴龍池。
隣雲亭から浴龍池をながめる。いいお天気に恵まれ、雲が池に映ってきれいでした。
浴龍池は、平安貴族の遊びを模倣する舟遊びができるように、舟を浮かべられるぎりぎり60CMの水深で掘られた人口の池です。

蓮池

隣雲亭から浴龍池をながめる。

楓橋。楓はまだ色づきもせず。

千歳橋のそばには色づき始めた枝もありました。

西浜

西浜あたりから千歳橋を望む。
庭をめぐっているうちに、どれも見事なお庭ではあるけれど、だんだんどちらがどれやら、わからなくなってきました。ゆっくり座って眺める時間はわずかで、どんどん進んでいかないと、「いそいでください」と叱られます。上御茶屋隣雲亭の縁で少しの休憩時間がありましたが、「歩けあるけ」の離宮庭園巡り1時間強でした。
30分毎くらいに50人ほどのグループにまとめられ、1グループごと先頭にガイドさんとしんがりに皇宮警察官がにつきます。私の一団は、20人くらい。朝一番早い9時だったため、少人数でした。
宮内庁管轄というのはわかるけれど、赤坂迎賓館とか皇居東御苑程度に自由に見せてほしかった。石ころひとつ持ち出したりしませんって。
・今日の建てもの
下御茶屋 寿月観

寿月観扁額は後水尾上皇宸筆

中御茶屋 楽只軒(後水尾上皇の皇女光子(てるこ)内親王の住まい)と客殿(東福門院の女院御所の奥対面所を移築したもの)


客殿


客殿霞棚

入母屋造り木賊葺(とくさぶき)の廂

客殿の絵

客殿杉戸の絵 「祇園祭の鉾」 伝狩野敦信

客殿の縁と欄干


上御茶屋 隣雲亭 園内、濡れ縁に腰かけて休憩できた唯一の場所。

浴龍池中島の窮邃亭(きゅうすいてい)

・今日の工芸
京都には、伝統の技を保持する工芸がたくさん残されています。修学院離宮のふすまの引手にも、くぎ隠しにもさまざまな意匠が残されているのですが、残念ながら、室内を見て回ることはできません。外部から室内を撮影することはできたのですが、細かい意匠の工芸は、外からでは伺えませんでした。
御幸門の透かし彫り(花菱)菱模様は後水尾上皇のお好み。
客殿手すりのつなぎ目

客殿杉戸絵の鯉。網を描いたのは伝丸山応挙。

御幸門前に戻ってくると、次の次の観覧者たちが集合しているところでした。修学院離宮、広さもあり上中下の高さを移動するには、年寄りにはかなりきつい行程です。私のように、「膝が関節炎だから、途中で休みたかった」なんぞと泣き言をいう下々は、観覧希望をださぬがよかろう。
後水尾上皇が生涯をかけて造営した離宮、もう少しゆっくり見て回りたかったです。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(2)修学院離宮
京都御所や桂離宮修学院離宮は、朝から当日券めあてに並べば、事前の申し込みはしなくても見学できるようになっています。しかし、私は当日券が手に入らないことを考慮して事前に申し込みをしました。10月中ばすぎ、急に思い立っての京都旅行ですから、ほとんどの見学可能日はすでにどの時間帯も予約終了マークがついています。10月11月の旅行日程中、申し込みが可能なのは、夜行バスで京都に着いた10月25日朝9時のみ。
京都駅から5番バス。40分。修学院道下車、徒歩10分。途中2度道を尋ねましたが、京都の人は、みな親切に教えてくれます。9時集合にぎりぎり間に合いました。
見学にはツアーガイドが付き、ガイドより先に行ってはいけない、遅れてもいけない、という注意がありました。ガイドのお話は、あとでガイドブックを読めば書いてあることばかりなので、せっかくのご説明ながら、申し訳ない、ほとんど聞いていなかった。
ガイドというより、見学客が勝手にあちこち歩きまわらないための監視役、といったところ。
一団に遅れがちになりながら、景色をながめること、写真を撮ることを楽しみながらついていく。
グループしんがりになるのは、人がいなくなったところを写真に撮りたいからです。でも、夫婦連れとその親と思うのおばあちゃんの3人組が私と追いつ追われつでゆるゆると進みました。ツアー集団が過ぎてしまうのを待って写真を撮ろうとすると、この3人組が遅れて現れ、なかなか思うような角度では撮影できませんでした。
いちばんしんがりには皇宮警察のイケメン警官がバリっとしたスーツ姿でついてきて、一団の最後のひとりが悪さをしないか、監視しています。たしかに、宮内庁の管轄である離宮の道具ひとつでも無くなったら、たいへんですから。
皇宮警察官ににらまれながら撮影した写真、並べてみるとほんとうに腕が悪い。専門の写真家が撮ったものに劣るのはもちろんですが、ネットの旅行サイトに出ている素人写真がきれいに見えるのに比べると、UPするのも恥ずかしながら、ですが、これは自分自身の「脳カツ」あとで思い出すためのメモですから、写真の出来は問わないでくださいまし。
・今日の庭園(修学院離宮庭園)
マリーアントワネットが贅をつくしたベルサイユ宮殿に飽き、フランス農村の生活を再現したプチトリアノンで過ごすことを好んだように、宮廷人というのは、洋の東西を問わず、農村風景というものに心和むらしい。
後水尾天皇(1596-1680)が造営した修学院も、田園風景を取り入れています。
離宮内の美しい庭園や茶室のほか、田んぼや畑を設け、農家の暮らしぶりを「景色」として楽しんでいました。
後水尾天皇は、徳川家康の孫婿にあたります。浅井氏お江と2代将軍秀忠の娘、和子(東福門院1607-1678)をいやおうなく迎え入れることになり、将軍家との軋轢すったもんだを繰り返しました。幸い和子との仲はよかったようで、昭和天皇に抜かれるまでは歴代天皇の最長寿者であり、中宮和子ほか女御たちとの間に、19皇子、16皇女をなした元気のよさ。天皇としての実権を徳川氏に握られてしまい、絶倫ぶりを発揮するか庭づくりに精出すか。皇子皇女として育ったのは上記の25人ですが、生まれた子は30人以上。遊女などの身分の低い女性とも、楽しくおつきあいを続けたとか。ともあれ、江戸初期の天皇として、教科書に出てくる。(以後の子孫は維新期の孝明天皇まで、中学高校の歴史の教科書にはあまり出てこない。幕末史に名が出てくる15代徳川慶喜も、大政奉還後、何の実権もなくなったあとは、趣味に生き、子作りに生きました。慶喜の子は、正室との間の子は夭折したものの、側室との間には10男11女の21人。残念、上皇様には負けている)
天皇は、和子所生の女二宮興子内親王(明正天皇)に譲位。後水尾の24人の子のうち、明正、後光明、後西、霊元を帝位につけ、自身は院政を行いました。85歳の崩御(1680年)まで、上皇として悠々の後半生を送って離宮の美を完成させました。
芸術的センスを発揮した庭づくり三昧のご生涯、決して楽しいばかりではない生涯でしたろう。将軍家からの圧力から逃れて気ままに過ごす離宮づくりに情熱を傾けたその成果を、「平成最後の」年に50年来の思いかなって、楽しませていただきました。
54万平方メートルに及ぶ修学院離宮には上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋、下御茶屋の3か所の庭園で構成されています。上、中、下、御茶屋の間には、松並木や田んぼが広がってのどかな光景を演出しています。
明治時代に離宮全体が宮内庁管轄となったとき、田んぼのあぜ道に松が植えられました。明治天皇御幸のためです。中御茶屋は、東福門院の御座所として造営され、現在では、上中下とともに宮内庁の管轄です。
園内地図。参観経路
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_shugaku.html
きれいに撮影されている宮内庁の写真はこちら
http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kyoto/syugakuin-ph.html
それでは、春庭のメモ写真。
下御茶屋(下離宮)寿月観の庭(たぶん)




下だか中だか、もはやわすれた庭

背中を見せて歩く皇宮警察官

松並木

横に這う枝ぶりの松

園内の田んぼは、稲刈りが終わって「はさがけ」がなされていました。

離宮の畑。現在は宮内庁から請け負った近隣の契約農家が栽培を続けているそうです。

田んぼから眺める京の街並み


中御茶屋裏側には、こんな石組みも。

上御茶屋の回遊式池園。浴龍池。
隣雲亭から浴龍池をながめる。いいお天気に恵まれ、雲が池に映ってきれいでした。
浴龍池は、平安貴族の遊びを模倣する舟遊びができるように、舟を浮かべられるぎりぎり60CMの水深で掘られた人口の池です。

蓮池

隣雲亭から浴龍池をながめる。

楓橋。楓はまだ色づきもせず。

千歳橋のそばには色づき始めた枝もありました。

西浜

西浜あたりから千歳橋を望む。

庭をめぐっているうちに、どれも見事なお庭ではあるけれど、だんだんどちらがどれやら、わからなくなってきました。ゆっくり座って眺める時間はわずかで、どんどん進んでいかないと、「いそいでください」と叱られます。上御茶屋隣雲亭の縁で少しの休憩時間がありましたが、「歩けあるけ」の離宮庭園巡り1時間強でした。
30分毎くらいに50人ほどのグループにまとめられ、1グループごと先頭にガイドさんとしんがりに皇宮警察官がにつきます。私の一団は、20人くらい。朝一番早い9時だったため、少人数でした。
宮内庁管轄というのはわかるけれど、赤坂迎賓館とか皇居東御苑程度に自由に見せてほしかった。石ころひとつ持ち出したりしませんって。
・今日の建てもの
下御茶屋 寿月観

寿月観扁額は後水尾上皇宸筆

中御茶屋 楽只軒(後水尾上皇の皇女光子(てるこ)内親王の住まい)と客殿(東福門院の女院御所の奥対面所を移築したもの)


客殿


客殿霞棚

入母屋造り木賊葺(とくさぶき)の廂

客殿の絵

客殿杉戸の絵 「祇園祭の鉾」 伝狩野敦信

客殿の縁と欄干


上御茶屋 隣雲亭 園内、濡れ縁に腰かけて休憩できた唯一の場所。

浴龍池中島の窮邃亭(きゅうすいてい)

・今日の工芸
京都には、伝統の技を保持する工芸がたくさん残されています。修学院離宮のふすまの引手にも、くぎ隠しにもさまざまな意匠が残されているのですが、残念ながら、室内を見て回ることはできません。外部から室内を撮影することはできたのですが、細かい意匠の工芸は、外からでは伺えませんでした。
御幸門の透かし彫り(花菱)菱模様は後水尾上皇のお好み。

客殿手すりのつなぎ目

客殿杉戸絵の鯉。網を描いたのは伝丸山応挙。

御幸門前に戻ってくると、次の次の観覧者たちが集合しているところでした。修学院離宮、広さもあり上中下の高さを移動するには、年寄りにはかなりきつい行程です。私のように、「膝が関節炎だから、途中で休みたかった」なんぞと泣き言をいう下々は、観覧希望をださぬがよかろう。
後水尾上皇が生涯をかけて造営した離宮、もう少しゆっくり見て回りたかったです。
<つづく>