2018122
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(15)白沙村荘その他
日本画は特に好きな画家がいるわけでもないですけれど、近代美術館の日本画、山種美術館の日本画をよく見てきました。近美は65歳以上常設展無料だし、山種は招待券がときどき手に入るからです。
橋本関雪(1883-1945)も、ときどき作品を見る機会があり、京都に行ったら、白沙村荘に行ってみようと思っていました。庭園が見事だと聞いていたので。
橋本関雪は、1914(大正3)年に元浄土寺の領地であったという土地の払い下げを受け、建物と庭園を自ら設計しました。1914〜1916年母屋と画室、1931〜1932年茶室、1936〜1938年庭園西部分を作りあげ、1945年2月に61歳で亡くなるまで住み、画室で制作をつづけました。
<きょうの建物>
橋本関雪記念館入り口

芙蓉池から見る存古楼(屏風絵の画室)

瑞月池に建つ如舫亭から見る倚翠亭(いすいてい)

左が憩寂庵(けいじゃくあん)とで右が倚翠亭(と、思うけれど、どちらがどっちやら)

倚翠亭

茶室のなか

持仏堂

<きょうの庭園>白沙村荘庭園(国名勝)
庭園入り口



浄土池


<庭園石造物>
庭園の中、ここにもかしこにも石仏や石灯籠などが置かれていました。気になったのは、これらの石造物コレクションは、おそらく地方に忘れられていたような石仏だったろう、ということ。橋本関雪は、これらの石に美を感じ集めたのでしょう。
大谷光瑞率いる大谷探検隊がチベット奥地で行った探検と仏像収集もそうでしたが、打ち捨てられていたような仏像を収集した、つまり置かれていたのをそのまま持ち帰ってコレクションとした、という気がしたのです。
各地に置かれていたままだったら、そのうち捨てられ廃棄されてしまった石仏もあったかもしれず、収集者が集めたからこそ、まとまって残された、という見方もあります。摩崖仏などが戦火にあって崩壊し、そのまま壊された、ということもありましたから、美を集める心を持って収集するのは意義あることなのでしょうが、元あった場所からどのように運ばれたのか、気になりました。
レストランノアノアの旧館玄関前の石仏

庭園西部分に石仏が並ぶ

藪の羅漢仏



どこから運ばれてきたのかなあ、とながめる、どっしりした大石

鞍馬石 篆:呉昌碩 「鬱勃縦横」

<きょうの出会い>
「どのようにしてここに運ばれたのか」と気になりながら庭を歩いて鞍馬石のところまで来たら、観光のおば様ふたりに、男性が石の由来をお話なさっているところでした。
「元は、鞍馬山の川の中にあった石。流れのなかで、何万年も削られ、石の表面が平らになっていた石を見つけた関雪が、近隣の農民に声をかけ、橋本邸まで運ばせた。農民へのお礼は、作業中の食事だけで、みな進んで関雪さんのためならば、と無償で運んでくれたのです」
特にお金を払って買い求めた石ではなく、川の中にあったのを発見して、自邸に運ばせた、ということを聞き、おそらくその他の石も、そのような発見と移設だったろうと、思いました。
お話なさっていたのは、たぶん現副館長の橋本眞次さんだろうと思います。(名前を直接聞いたのではなく、ネットに出ていた写真のお顔からそう思っただけで、確認はしていません)
橋本眞次さんは、関雪の長男節哉の孫(関雪の曽孫)。石の由来解説をありがとうございました。
要するに、川の中にあった、だれの所有物でもないと思われた石を、勝手に運んできた、という由来ですね。
鞍馬石に座って、石原裕次郎と宇野重吉が酒を飲むポスターが石の脇に飾ってありました。

<きょうの京わたし>
ミーハーだから、まねして酒を飲む姿で一枚

実をいうと、私は作家や画家の子孫が記念館や美術館の館長になるのはあまり好きではありません。子孫の中には、美術館として公開していても、作品を私物のように扱う人もいるからです。財団法人などにして一般公開するなら、すでに作品も公的な物。私物として扱うなら、公開しないがよい。
白沙村荘、橋本関雪記念館の関雪作品の公開にも、いささか懸念を持っていました。
美術館の関雪作品。展示点数は数点のみで入館料1300円。もっとお宝を見たい人は、特別公開の800円、特別観覧料を払えということだったので、一般公開の作品のみ見ました。そんなこんなで、美術館にはあまりいい印象を持っていなかったのですが、鞍馬石の説明をしてくれた恩義に感じて、「橋本関雪美術館」というわりに関雪作品が少なかったことに文句を言わないことにしました。(と、言ってしまっているんだけど)
1階の展示室の屏風絵、目にとまったのは2点のみ。1階の展示は全部で5点ほど。
うちの1点「木蘭」春庭撮影と美術館の「所蔵作品公開」の木蘭


<きょうのひとり散歩>
白沙村荘を出た後、三条通りの近代建築を見て歩こうと、三条駅へ。そこから歩き出したのに、めざす近代建築はいっこうに見当たりませ」ん。へんだなあ、と思ったら、三条駅から真逆方向に東山駅方向へ歩いていたのでした。たくさん持って行った紙地図をみながら、スマホの地図機能を使いながら、この始末。
途中、鴨川三条大橋近くに、「京都帆布クレアキキ」という店を見つけました。店前平台に「柿渋染め財布」が並んでいました。14040円の品、ワケあり3000円。店のパンフレットには「紳士用」として出ていましたが、無料と割引が大好きな春庭、店の人にワケありの理由を聞いたら、二つ折り財布の中の皮に少々汚れがついてしまったとのこと。見た目にはわからにないくらいの汚れでも、正規品として販売できない、ということです。割引大好き、喜んでこの財布を買いました。色はキャメル色で地味ですけれど、これも出会いの品ですから、道を間違えたおかげで買えた、と思うことにしました。娘と息子には小銭入れを。
<きょうの工芸>
染料の柿渋は、熟していない青い柿をつぶして発酵させ、タンニンを含む液体にしたものです。私が買った財布は、柿渋で染めたキャンパス地の中に皮のカードいれと小銭入れ札入れがついています。
帆布柿渋染めの財布と麻柿渋染めの小銭入れ。
船はし屋で豆菓子を買ったり、祇園饅頭屋の東山工場直売所で饅頭かったり、甘い物もたっぷりと買って、宿へ戻りました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(15)白沙村荘その他
日本画は特に好きな画家がいるわけでもないですけれど、近代美術館の日本画、山種美術館の日本画をよく見てきました。近美は65歳以上常設展無料だし、山種は招待券がときどき手に入るからです。
橋本関雪(1883-1945)も、ときどき作品を見る機会があり、京都に行ったら、白沙村荘に行ってみようと思っていました。庭園が見事だと聞いていたので。
橋本関雪は、1914(大正3)年に元浄土寺の領地であったという土地の払い下げを受け、建物と庭園を自ら設計しました。1914〜1916年母屋と画室、1931〜1932年茶室、1936〜1938年庭園西部分を作りあげ、1945年2月に61歳で亡くなるまで住み、画室で制作をつづけました。
<きょうの建物>
橋本関雪記念館入り口

芙蓉池から見る存古楼(屏風絵の画室)

瑞月池に建つ如舫亭から見る倚翠亭(いすいてい)

左が憩寂庵(けいじゃくあん)とで右が倚翠亭(と、思うけれど、どちらがどっちやら)

倚翠亭

茶室のなか

持仏堂

<きょうの庭園>白沙村荘庭園(国名勝)
庭園入り口



浄土池


<庭園石造物>
庭園の中、ここにもかしこにも石仏や石灯籠などが置かれていました。気になったのは、これらの石造物コレクションは、おそらく地方に忘れられていたような石仏だったろう、ということ。橋本関雪は、これらの石に美を感じ集めたのでしょう。
大谷光瑞率いる大谷探検隊がチベット奥地で行った探検と仏像収集もそうでしたが、打ち捨てられていたような仏像を収集した、つまり置かれていたのをそのまま持ち帰ってコレクションとした、という気がしたのです。
各地に置かれていたままだったら、そのうち捨てられ廃棄されてしまった石仏もあったかもしれず、収集者が集めたからこそ、まとまって残された、という見方もあります。摩崖仏などが戦火にあって崩壊し、そのまま壊された、ということもありましたから、美を集める心を持って収集するのは意義あることなのでしょうが、元あった場所からどのように運ばれたのか、気になりました。
レストランノアノアの旧館玄関前の石仏

庭園西部分に石仏が並ぶ

藪の羅漢仏



どこから運ばれてきたのかなあ、とながめる、どっしりした大石

鞍馬石 篆:呉昌碩 「鬱勃縦横」

<きょうの出会い>
「どのようにしてここに運ばれたのか」と気になりながら庭を歩いて鞍馬石のところまで来たら、観光のおば様ふたりに、男性が石の由来をお話なさっているところでした。
「元は、鞍馬山の川の中にあった石。流れのなかで、何万年も削られ、石の表面が平らになっていた石を見つけた関雪が、近隣の農民に声をかけ、橋本邸まで運ばせた。農民へのお礼は、作業中の食事だけで、みな進んで関雪さんのためならば、と無償で運んでくれたのです」
特にお金を払って買い求めた石ではなく、川の中にあったのを発見して、自邸に運ばせた、ということを聞き、おそらくその他の石も、そのような発見と移設だったろうと、思いました。
お話なさっていたのは、たぶん現副館長の橋本眞次さんだろうと思います。(名前を直接聞いたのではなく、ネットに出ていた写真のお顔からそう思っただけで、確認はしていません)
橋本眞次さんは、関雪の長男節哉の孫(関雪の曽孫)。石の由来解説をありがとうございました。
要するに、川の中にあった、だれの所有物でもないと思われた石を、勝手に運んできた、という由来ですね。
鞍馬石に座って、石原裕次郎と宇野重吉が酒を飲むポスターが石の脇に飾ってありました。

<きょうの京わたし>
ミーハーだから、まねして酒を飲む姿で一枚

実をいうと、私は作家や画家の子孫が記念館や美術館の館長になるのはあまり好きではありません。子孫の中には、美術館として公開していても、作品を私物のように扱う人もいるからです。財団法人などにして一般公開するなら、すでに作品も公的な物。私物として扱うなら、公開しないがよい。
白沙村荘、橋本関雪記念館の関雪作品の公開にも、いささか懸念を持っていました。
美術館の関雪作品。展示点数は数点のみで入館料1300円。もっとお宝を見たい人は、特別公開の800円、特別観覧料を払えということだったので、一般公開の作品のみ見ました。そんなこんなで、美術館にはあまりいい印象を持っていなかったのですが、鞍馬石の説明をしてくれた恩義に感じて、「橋本関雪美術館」というわりに関雪作品が少なかったことに文句を言わないことにしました。(と、言ってしまっているんだけど)
1階の展示室の屏風絵、目にとまったのは2点のみ。1階の展示は全部で5点ほど。
うちの1点「木蘭」春庭撮影と美術館の「所蔵作品公開」の木蘭


<きょうのひとり散歩>
白沙村荘を出た後、三条通りの近代建築を見て歩こうと、三条駅へ。そこから歩き出したのに、めざす近代建築はいっこうに見当たりませ」ん。へんだなあ、と思ったら、三条駅から真逆方向に東山駅方向へ歩いていたのでした。たくさん持って行った紙地図をみながら、スマホの地図機能を使いながら、この始末。
途中、鴨川三条大橋近くに、「京都帆布クレアキキ」という店を見つけました。店前平台に「柿渋染め財布」が並んでいました。14040円の品、ワケあり3000円。店のパンフレットには「紳士用」として出ていましたが、無料と割引が大好きな春庭、店の人にワケありの理由を聞いたら、二つ折り財布の中の皮に少々汚れがついてしまったとのこと。見た目にはわからにないくらいの汚れでも、正規品として販売できない、ということです。割引大好き、喜んでこの財布を買いました。色はキャメル色で地味ですけれど、これも出会いの品ですから、道を間違えたおかげで買えた、と思うことにしました。娘と息子には小銭入れを。
<きょうの工芸>
染料の柿渋は、熟していない青い柿をつぶして発酵させ、タンニンを含む液体にしたものです。私が買った財布は、柿渋で染めたキャンパス地の中に皮のカードいれと小銭入れ札入れがついています。
帆布柿渋染めの財布と麻柿渋染めの小銭入れ。
船はし屋で豆菓子を買ったり、祇園饅頭屋の東山工場直売所で饅頭かったり、甘い物もたっぷりと買って、宿へ戻りました。
<つづく>