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ぽかぽか春庭「山沢栄子展」

2020-01-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

 東京写真美術館 山沢栄子展ポスター

20200109
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記新年(5)山沢栄子展

 東京写真美術館で開催中の山沢栄子展を見ました。生誕120年、没後15年の記念回顧展です。
 私は、そもそも写真家山沢栄子(1899-1995)を知りませんでしたから、25年前に大規模な展覧会があり、晩年までの作品を回顧した展覧会に気づきもしませんでした。

 山沢栄子は1899年に生まれ、女子美術学校で絵を学びました。1826年、27歳で単身渡米。戦前の日本で女性がひとりでアメリカに留学するということが、どれだけたいへんなことであったか。
 山沢は、知人友人、YMCAなどの助力を受けながら、渡米。渡米してすぐに父親死去の報を受けます。仕送りが途絶えた中、出入りしていたカメラ屋の紹介で、7歳年上の女性写真家コンスエロ・カナガ女史の助手となります。生活のため、留学費用のためでもありましたが、もともと絵も写真も自分の表現手段のひとつと思っていた山沢はカナガのもとで、最新の写真技術を会得します。

 若いころの山沢栄子


 晩年の山沢栄子


 1930年代に帰国。そごうデパート写真室などを経て、自身のフォトスタジオを設立。ポートレート写真などで高い評価を受けます。
 しかし、信州疎開中に、大阪大空襲でスタジオ消失。

 戦後は、アメリカやヨーロッパへの旅行などもはさみ、抽象写真の発表を始めます。
 山沢の写真は、「抽象写真」という題材もさることながら、対話集のなかで「私は社交が下手だから」と述べているように、戦後の日本写真界をリードした木村伊兵衛(1901-1974)や土門拳(1909-1990)など、リアリズム写真の大御所とも付き合わず、独自の路線を歩んだがゆえに、幅広い層に知られるということもなかったのです。
 私も、写真を見るのが好き、といっても、見渡せる範囲の狭く、目に入ってこなかったのです。

 章ごとに作品を見ていくと、その大きな世界に圧倒されました。

 第1章の「私の現代」


 アメリカでの作品
 ニューヨークの馬車

 子犬


 山沢は整理整頓が大好きで、肖像写真をプリントしてしまうと、古いネガなどを処分してしまいました。アメリカの写真家や芸術家との交流はありましたが、日本の同時代の写真家とほとんど交流をしなかった、ということも評価研究がすすまなかった理由の一つです。山沢は「私は社交が下手なので」と語っています。土門拳は山沢を評価していたようですが、木村伊兵衛の山沢評価はそっけない。

 写真集「遠近」にも、オリジナルネガ、オリジナルプリントがない。残されたのは、印刷が満足いく出来にはいかなかった写真集のみ。

 今回の展示、オリジナルプリントは少なく、写真集「遠近」も、残された写真集をコピーしたものなのだそうです。「オリジナルプリントなら高値がついたのに」と嘆く人がいると「高値でうるために写真を撮ったのではない」と返答したそうです。それにしても惜しかった。
 山沢との対話講座の記録「対話講座なにわ塾叢書 私は女流写真家 山沢栄子の芸術自立 - 復刻保存版」、対話集ですから文字数は多くないですが、山沢自身のことばが聞けて、読み応えありました。

 女性史研究者も、もっと山沢の東京女子美術学校時代、渡米時代信州時代大阪時代それぞれの時代を掘り起こしてほしいです。

<つづく>
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