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ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>2024にほんごでどづぞ(7)生きていることばだからこそ変化する②
春庭の日本語コラム再録を続けています。
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2005/02/23(水)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する②」
「あからさま」と同根の「あからしま風」、どんな風がふくか想像してください。
語源がわかっていれば、さっと吹く風、はやて、暴風、の意味と想像できるけれど、もう「あからさま」の意味が変化しているし、わからない。
「懇しい(あからしい)」という言葉が、現代日本語の辞書のなかに見あたらないとしても、現代人は何も不自由していない。「あわれ」の意味が変化してしまっても、特別困りはしない。
01/29のテレビ番組「日本人は日本語を知らない」では、60%以上の人が「役不足」を「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味だと思っている、と紹介されていた。
元の意味は「自分の実力より役目が軽くて不満なこと」「自分の力を十分に発揮できるようなよい役目ではないこと」を意味したのだが、誤解のほうが半数を超えれば、こちらが定着していくだろう。
たいていは前後の発言から推理できるので、そう混乱はないはずだが。たまに困るのは、過渡期に両方の意味が流通している場合。
「役不足」を「役目に対して力が不足」なのか、「役目が軽すぎて不満」なのか、どちらの意味でつかっているのか、判断できないときもある。
「このたび、PTA副会長をおおせつかりました。役不足ではありますが、これからの1年間、努めさせていただきます」などの挨拶の場合、ほとんどは、「力不足」のつもりで使っていると推測される。しかし中には「ほんとうは会長をやりたかったのに、副会長では不服」という本音をしのばせている人も、いるかもしれない。
未来の人々は、「役不足」の意味が、元の意味の「自分の実力より役目が軽くて不満」から、最初の意味とまったく正反対の「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味に変化しても、新しい意味を使いこなしていけばいいだけであって、何も不自由はしない。
消えていくことば、新しい言い方に入れ替わることば、新しく生まれてくることば、ことばは生活と共に生々流転する。語彙も文法も。
消えつつある、過渡期のことば。
相撲で黒星が続いた力士の成績を「たどんが並んでいる」と言ったら、「たどんって何?」と、聞き返された。
私たちは日常生活でもはや「炭団(たどん)」を使わなくなった。「たどんってどういう意味かわかる?」と聞いてみると、若い世代の人は、「たどん」を知らないという。「たどん」という言葉を知っていても、実際に見たことはない。
炭の屑などを土や澱粉質で練り固めた炭団は、鎌倉時代以降広く用いられ、庶民の燃料となってきた。しかし、生活の中から消えたものの名前は、「生活語」として日常で口にすることはなくなる。辞書、百科事典や博物館に残っているのみの語となり、生きた日常用語ではなくなっていく。
「ぶんまわし」という道具を使ったことある人、いますか?、今は「ぶんまわし」と呼ぶのは、宮大工などの職人さんだけになっている。円を描く器具のこと。
私が学校で円を書いたときはすでに「コンパス」と呼ばれていて、「明日の算数でコンパスを使う」ということはあっても「ぶんまわしで円を書く」とは言わなかった。
学校では、「ぶんまわし」という呼び方を採用せず、外来語の「コンパス」を使っていたからだ。「ぶんまわし」という器具があることを知ったのは、大人になってからだった。
物だけでなく、行事や行為がなくなれば、関連することばが消えていく。
天秤棒に荷を下げて運んだり、駕籠に人を乗せて運ぶという行為がなくなった。すると、天秤や駕籠をかつぐのに疲れたとき、駕籠の棒を息杖(いきづえ)で支え、休むことを意味する「肩す」という動詞(サ変)は消えて、誰もこの言葉を使わなくなる。