20240324
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>2024にほんごでどづぞ(7)生きていることばだからこそ変化する
春庭の日本語コラム再録を続けています。
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2005/02/22(火)
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する①」
「動詞、形容詞の変化」「挨拶語の変化」「漢字の読み方の変化」など、言葉の変化についての話題を続けています。
投稿者:c********** (2005 1/22 13:26)まっこと、まっこと!!言葉はいつの世でも、「生きている」。つまり必要がなくなった「言葉」も「言い回し」も絶えてしまうのは、ごく自然なことなんですね・・・・。
と、いうコメント感想のとおり、ことばは消えたり変わったり。生まれたり絶えたりして世につれ人につれていく。私たちは、なくなっていく言葉を惜しんだり、変わる言葉をなげいたりするけれど、未来のことばについては、未来の人にまかせるしかない。
江戸から明治へ。近代にどっと新語がふえた。
標準語や言文一致文体確立前の明治期には「行きませんかった」などの文末表現も登場し、擬古文や漢文読み下しなどの文体から新しい表現方法への模索が続いた。
標準語や、言文一致文体が成立して百年。
江戸時代までに消えてしまった言葉はたくさんある。現代人は日常生活でそれらの語や用法を使用せずとも不自由ないように、未来の人は、私たちが現在話していることばがどのように変化しようと、それをそのまま受け入れる。
文字の読み方や書き方、言葉の意味内容は、言葉が生きている限り、ゆれ動き変化していく。
「フツーに」という副詞に、若い世代が新たな意味を付け加えて使用している例を紹介した。(05/01/29)
「私は使わない」という人、それでいいと思います。自分の語感をたいせつに。
ただし、言葉は社会の共通財産だから、「じぶんだけのことばの使い方」で「自分だけの語感」だと、社会共通コードとはならない。現在流通している語彙、意味でないと通じなくなることは当然。「フツーにおいしい」の言い方が、定着したあと、「そのおいしさは、たいしたレベルじゃない」と判断したら、発話者の意識とずれてしまう場合もある。
自分の語感で話すといっても、「ヨン様に心ひかれる」とというつもりで「ヨン様って、あわれねぇ」と発言したとしても、聞き手はそのように受け取ってくれない。
平安時代の「あわれ」という言葉には含まれていた「賛嘆、賞賛の気持ち」「心ひかれる、愛情」という意味が消え去り「気の毒、みじめでかわいそう」という意味だけが残った。
生きている言葉は、今生きて使われているようにしか機能しない。
古語辞典には載っているが、現代では使われないことば。ことばは残っているが、意味する内容がすっかり変わってしまったものも多い。また、生活の中で使わなったものは、そのものを表わすことばも日常会話から消えてしまう。
口語では消えてしまい、人々が話すときには使われなくなったことばの意味用法も、文章や辞典に残っていれば、ことばの歴史をひもとき、楽しむことができる。
たとえば。「あからさま」という言葉は生き残り、私たちも使っている。
「人の私生活をあからさまに書く記事なんて読みたくない」など。「つつみ隠さずはっきりと」「露骨に」の意味。
しかし、「あからさま」のもともとの意味の「ちょっとの間」「さしあたって」「仮初めにも」という使い方は消えた。
また、「あからさま」の「あから」と語根は同じと思われる「懇し(あからし)」=痛切である、ひどい、という形容詞も消えた。
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する①」
「動詞、形容詞の変化」「挨拶語の変化」「漢字の読み方の変化」など、言葉の変化についての話題を続けています。
投稿者:c********** (2005 1/22 13:26)まっこと、まっこと!!言葉はいつの世でも、「生きている」。つまり必要がなくなった「言葉」も「言い回し」も絶えてしまうのは、ごく自然なことなんですね・・・・。
と、いうコメント感想のとおり、ことばは消えたり変わったり。生まれたり絶えたりして世につれ人につれていく。私たちは、なくなっていく言葉を惜しんだり、変わる言葉をなげいたりするけれど、未来のことばについては、未来の人にまかせるしかない。
江戸から明治へ。近代にどっと新語がふえた。
標準語や言文一致文体確立前の明治期には「行きませんかった」などの文末表現も登場し、擬古文や漢文読み下しなどの文体から新しい表現方法への模索が続いた。
標準語や、言文一致文体が成立して百年。
江戸時代までに消えてしまった言葉はたくさんある。現代人は日常生活でそれらの語や用法を使用せずとも不自由ないように、未来の人は、私たちが現在話していることばがどのように変化しようと、それをそのまま受け入れる。
文字の読み方や書き方、言葉の意味内容は、言葉が生きている限り、ゆれ動き変化していく。
「フツーに」という副詞に、若い世代が新たな意味を付け加えて使用している例を紹介した。(05/01/29)
「私は使わない」という人、それでいいと思います。自分の語感をたいせつに。
ただし、言葉は社会の共通財産だから、「じぶんだけのことばの使い方」で「自分だけの語感」だと、社会共通コードとはならない。現在流通している語彙、意味でないと通じなくなることは当然。「フツーにおいしい」の言い方が、定着したあと、「そのおいしさは、たいしたレベルじゃない」と判断したら、発話者の意識とずれてしまう場合もある。
自分の語感で話すといっても、「ヨン様に心ひかれる」とというつもりで「ヨン様って、あわれねぇ」と発言したとしても、聞き手はそのように受け取ってくれない。
平安時代の「あわれ」という言葉には含まれていた「賛嘆、賞賛の気持ち」「心ひかれる、愛情」という意味が消え去り「気の毒、みじめでかわいそう」という意味だけが残った。
生きている言葉は、今生きて使われているようにしか機能しない。
古語辞典には載っているが、現代では使われないことば。ことばは残っているが、意味する内容がすっかり変わってしまったものも多い。また、生活の中で使わなったものは、そのものを表わすことばも日常会話から消えてしまう。
口語では消えてしまい、人々が話すときには使われなくなったことばの意味用法も、文章や辞典に残っていれば、ことばの歴史をひもとき、楽しむことができる。
たとえば。「あからさま」という言葉は生き残り、私たちも使っている。
「人の私生活をあからさまに書く記事なんて読みたくない」など。「つつみ隠さずはっきりと」「露骨に」の意味。
しかし、「あからさま」のもともとの意味の「ちょっとの間」「さしあたって」「仮初めにも」という使い方は消えた。
また、「あからさま」の「あから」と語根は同じと思われる「懇し(あからし)」=痛切である、ひどい、という形容詞も消えた。
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20240323
<つづく>