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ぽかぽか春庭「ペースメーカー」

2015-02-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150207
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十五夜満月日記春立つ日々(1)ペースメーカー

 1月17日の深夜に姑が緊急入院して、心電図はじめいろいろな検査を受けたけれど、どうも医者の説明がいまひとつはっきりしない。膨大なデータをああでもないこうでもないといじくりまわしても、腎臓も悪くなっているのだけれど、心臓も悪いのかもしれず、、、、というようなことで、おなかにたまった腹水を抜くくらいしか治療というほどのこともしてこなかったのです。

 寝てばかりいると歩けなくなるからと、リハビリ室というところに行って、体操の平行棒のようなところで、行ったり来たり歩く練習をして「今日は50歩も歩いた」と姑は言って、私が午後病院に見舞うと、なんだかぐったりして、体を起こすのも大儀そう。
 それでも、2月1日の日曜日に行ったときは、息子が病室から車いすで1階の談話室へ連れて行き、いっしょにお茶を飲んでいました。

 2月2日、平日は毎日おばあちゃんの付添いをしている娘から緊急メール。「おばあちゃんは、ペースメーカーの手術を受けることになりました」
 リハビリ室で歩行訓練中に、リハビリ担当の整体師さんが、姑の脈拍の変化に気づいてくれたのです。リハビリ室で大勢の患者さんを担当してきた方だから、患者の顔色や様子を見て、調子はどうなのかわかる。いろいろな患者を見て経験を積んできたのでしょう。

 緊急のペースメーカー手術となったのだって。え~っ、それじゃ、今までさんざん検査データとにらめっこしてきたお医者さんは、いったい何を診てきたのか。数値のデータを見ても「病名がはっきりとしなくて」と、言っていたお医者さんでなく、リハビリ担当の人が、患者に接してきた経験と勘で「脈がおかしい」と気づいてくれたのです。

 とりあえず、カテーテルでの外付けペースメーカーを入れ、体調をみてから体内装着のペースメーカー埋め込み手術を行う、という説明を夫と娘が受けました。
 夫は、いつものごとく「忙しいから」と、手術終了をまたずに事務所にもどり、娘がおばあちゃんに付添ました。

 娘の報告。「おばあちゃんは、病室に戻ると、とても体が楽になった」と話し、1時間以上もおしゃべりをしていた。手術が終わったばかりなのだから、早く寝かせたほうがいいとこっちは思うのだけれど、おばあちゃんは楽になったことがうれしくて、おしゃべりしたいのだろうから、お相手をしなければ」と、病院面会の8時を1時間もすぎておあいてをしてきたという。
 手術終了を待つあいだ、いつ終わるかもわからないので、何も食べていない、というので、「月曜日は仕事が遅くなるから、病院にはいかない」と、ローテーションを組んでいた私が、カレーを作って、10時すぎに帰宅した娘に食べさせる。

 最近は娘が晩御飯担当だったので、キーマカレーとかチキンクリーミーカレーとか、娘の好みのカレーでしたが、久しぶりに私が作る「じゃがいもごろごろカレー」。娘は「おなかすいているから、おいしい」と、言っていました。空腹はなによりの調味料。

 食べながら娘の報告を聞きました。最近の心臓ペースメーカーは、とても性能が向上していて、電車の中のケータイ電波くらいなら、15センチも離れていれば影響されないように、改良されたこと。おばあちゃんが埋め込むペースメーカーは、耐用年数が20年はないけれど、10年は十分にもつ。だから、一度体内に装着すれば、90歳のおばあちゃんが100歳になるまで、十分に電池がもつ、という話。
 私は、今後ペースメーカー保全の通院などが必要なのかと思いましたが、普通の生活が可能なのだそうです。ただし、電子レンジ使用の場合は、2,3メートルはレンジから離れている必要があるそうです。
 へぇ、ペースメーカーの進化について、何も知らなかった。

 2月3日火曜日に、仕事が終わってから病院へ。4人部屋だった姑は、ナースステーション前の個室に移動していました。異変に備えて看護師さんの近くに、ということなのでしょう。外付けのペースメーカーを得て、姑はずっと顔色がよくなったように思いました。

 心臓医の説明が18時からある、というので、家族そろって待っていたのですが、医師が病室に到着したのは、19時半。お医者さんって忙しいのだろうなあと思います。
 ペースメーカーとはどのようなものか、最新の医療機器はどれほど進歩しているか、心臓の機能、など、わかりやすく説明してくれました。担当の医師は、ペースメーカー装着手術を1年間に60例行っていること、その中で装着がうまくいかなくて再手術になった例が1例あったことなども、それがどのような事例であったか、説明してくれました。

 医者ジョークで、「この手術はとても安全です。千回に一回しか失敗しないので、安心してください。私はすでに999回この手術を行ってきましたが、まだ1回も失敗していません」という冗談を思い出してしまいました。大事な話をしているのに、不謹慎

 夫と息子は、ペースメーカー装着後の生活留意点についてノートにメモしてきていて、質問する。IH調理具や電子レンジなど、電磁波がでる器具がペースメーカーを狂わせることは承知していましたが、そのほか、あれはどうこれはどうと、夫と息子が質問していきます。

 はじめて知ったこと。体脂肪計がついた体重計は、微弱な電磁波で体脂肪を計っているので、ペースメーカー装着者にはNG。あらま、知らなかった。息子が質問したMRI検査については、「この病院ではできるが、準備が必要。他の設備不十分な病院や専門医がいない病院ではMRI検査は受けないこと」という指示を受けました。

 従来ペースメーカー装着者は、身体障害者1級の認定を受けたのだそうです。しかし昨年以来、身体障害者の等級認定の見直しが論議されています。(想像ですが、佐村河内騒動の影響からかもしれません)
 ペースメーカー装着者も、生活がどのくらい通常通りにできるかどうか、という観点から、等級が決められることになった、という説明を医師から受けました。
 90歳という年齢を考えると、心配なことばかりですが、ペースメーカー埋め込みの手術日は木曜日2月5日に決まりました。

 2月5日、朝9時からの手術。私は仕事があって立ち会えないので、夫と娘が付き添いました。仕事が終わってから病院に行って、娘の報告をききました。手術は2時間。ペースメーカーは無事、装着成功。手術室から出てきたおばあちゃんの第一声は「おなかすいた」だったそうです。

<つづく> 
 
 
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ぽかぽか春庭「埋もれた日本ディスカバージャパン」

2015-02-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150205
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(39)埋もれた日本ディスカバージャパン

 2003年掲載の「おい老い笈の小文」を再録しています。本日「わ」の項
~~~~~~~~~~~~~~

埋もれた日本、ディスカバージャパン日記
at 2003 11/19 10:18 編集

 「あ」の足立巻一『やちまた本居春庭評伝』から「わ」和辻哲郎『埋もれた日本』まで、あいうえお順に著者名をたどってきた。今回は、第一期一巡目の最終回。
 最後くらいオバカはやめて、教師らしくまともなことを言いたいと、念じつつ祈りつつ、、、。

 でも、やはり、バカをやりたい。私はオバカが大好きだ。ぐれていたい。
 よそ様の日記読むときも、しんみりしみじみも好きなんだけど、笑えるページがとても好き。たくさんの日記サイトを読んできて、泣いたページ、笑ったページ。こうして、ネットで知り合えたこと、とてもうれしいです。
 日記は女の人生の凝縮。あの日記、この日記。春庭、それぞれの書き手の人生に、様々に繰り広げられる日常生活に思いをはせながら、読ませていただいております。

 蜻蛉日記更級日記の昔から、日記を書くことは女にとってとても大切な人生の一部だった。
 日本語教師春庭、和泉式部日記と紫式部日記は、影印本変体仮名で読みました。すごいね。ひらがな、カタカナ、万葉仮名に変体仮名までねぇ、サスガ日本語教師。

 旧仮名のうち、「ゑ」「ゐ」は、知られている。
 そのほかよく見かけるのは蕎麦屋の看板に「生そば」って文字が変体仮名で書いてあるから、この次そばやに行ったら、「はぁ、これが春庭の言ってた変体仮名か」って、思って眺めてね。

 ほら、そこっ「へんたい」って聞いてうれしそうな顔しないのっ!「変態」じゃなくて「変体」でございます。もう、女教師おこるよっ、鞭でバシッッ!あ、ますますうれしそうな顔して、この学生は!!バシッばしっっ!!

 だれです?「生そば」って「なまそば」だと思ってたっていう人。
 生そばがナマソバなら、「生娘キムスメ」は、「ナマムスメ?」いやぁ、ナマビール、ナマアシに続けて、ナマムスメ。なんだか、なまつばごっくんになってきましたなぁ。と、またまた、脱線。

 こんな調子で「日本事情」という、日本の歴史と文化を教えるクラスを受け持っているから、限りなく脱線していって、レールはずれっぱなし。

 日本人クラス(日本語教授法)は、年齢層が若いから、冗談も若年層にあわせて、テレビアニメやコミックネタパロディが中心ですが、日本事情は、私大、私費留学生がほとんどで、年齢層が高い。きわどい冗談にも笑ってくれるから大丈夫。

 でも、そのうち「セクハラ発言教師」として、首になるかもしれない。そうなる前に、抱腹絶倒ハルニワの授業を聴講してみたい人、聴講料は、大学にでなく直接ハルニワに払うってことでどうぞ。あ、これも実際にやったとしたら、首だなぁ。

 イロハ48手からヘンタイ文字まで、さすが日本語教師!といっても、試験が終わったら変体仮名すっかり忘れてしまった。

「学校から受けたことは、きっちり卒業式までに学校に返却する」という方針。きちょうめんに返してきたから、ほとんど習ったことが残っていない。春庭が身につけたのは、「雑学トリビア」ばかりである。

 日記文学の劈頭(「へきとう」って読んでね)を飾る貫之の『土佐日記』。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と、始まる。
 日本最古の「ネカマブログ(男が女のふりをして、女ことばで日記を書くサイト)」として、今や「ネカマブログの劈頭をかざる土佐日記」に、昇格。(昇格なのか?)

 紀貫之が女のふりをして書いている土佐日記。なぜ女のふりをしなければならなかったか。当時、男は漢文を書いていた。公式な記録はもちろん、私的な日記も、宮中勤務や寺社つとめのこと、家の子郎党に伝えるべき伝達事項などを、漢字だけの文、漢文を書いていた。

 漢文が書けなければ、「お勤め」に出ることもできない。六位以下は、人の数にも入らないという社会で、六位にもなれない。服装も五位以上は水干、六位以下(地下)は、直垂(ひたたれ)と、区別がある。紀貫之は当然、漢文を書くべき立場だった。
.
 しかし、いくら「教養のすべては漢字漢文で」という時代にあっても、自分の見聞、日常茶飯事、溜息吐息の思いのたけを、縷々、述べるには漢文は適さなかった。

 日常のこまごました出来事、あの人がこう言った、この人はこうやっていた、私はどう思ったか、ということを書くのは、女がつかっているひらがなで、女が書いているように和文で書くのが適していた。書き下し文として日本語化して読み書きしていたとはいえ、漢文はあくまで基本は中国語。和文脈でないと、本音が出せなかった。

 当時の慣習なら貫之は漢文で書き、漢詩を挿入すべきところを、おそらくは和歌を入れたくて女に身をやつしたのだろう。漢詩は男の世界の表現であり、女の世界の和歌を排除することを意味した。

 ドナルド・キーン『百代の過客・日記に見る日本人』は、日本で書かれた膨大な日記群を読み解いていく卓抜な著作である。一般的な日本人が一生かかっても読み切れない日本文学を、若いときからせっせと読みこなしてきたキーン先生。旧古河庭園前にマンションを購入し、コロンビア大学名誉教授日本文学研究者としてニューヨークと東京を往復している。

 日記といっても、日本の日記は、毎日の出来事をただ書き留めていくメモリー、デイリーニューズだけを意味するのではない。虚構もまじえ、読者を操って文学世界に引き入れている。こんなことは「日記」と名付けられた文章世界にあって、日本以外ではめったに考えられないことだと、キーンは思った。

 日本人の日記を研究してみよう。そうすれば、日本人の心性心情、日本人の心の奥が分かるに違いない。なぜ芭蕉の「奥の細道」は、随行者曽良(そら)の記録と食い違いがあるのか。随行記と芭蕉紀行文を比較するとよくわかることなのだが、芭蕉は実際におこったことを逐一書いているわけではない。

 「あらたふと青葉若葉の日の光」この句を見れば、さんさんと輝く日光が青葉若葉に降り注ぐ一日を日光ですごしたのだろうと、私たちは思う。文学的に、芭蕉にとって、日光という地名は日の中に存在しなければならなかったのだ。
 しかし、日光を訪れた日は雨だったのだ。

 中尊寺金色堂のことも、芭蕉は書き留めているが、曽良の記録では、当日は金色堂を開けてくれる人がいなくて、二人ですごすご見物もできずに立ち去ったというのだ。
 旅の日記、紀行文。芭蕉は実際におこったこと書いたのではなく、文学として創作もまじえて書いていたのだ。

 キーンは、日本人の日記はたんなる日記ではなく、日本語言語文化にとって、重要な文学だと考えた。

 キーンが日本人の日記と関わったのは、日本文学を研究するようになってからではない。 キーンの日本語との関わり、きっかけは戦争だった。米軍の情報将校として日本語を学び、日本軍兵士が戦場に書き残した日記を読解分析するのが仕事だった。
 壊滅した日本軍部隊、敗走した部隊のあとに、死屍累々と共に、日記が落ちていた。米軍は日本人のものの考え方感じかたを知るために、膨大な日記を収集し読み解いていった。

 この「アメリカによる日本分析」の最初の大きな成果として発表されたのが、女性文化人類学者ルース・ベネディクト『菊と刀』である。
 この著作は、日本学(ジャパノロジー)、日本思想史、日本人論、文化研究(カルチュラル・スタディ)などををめざす研究者には必読の書。

 戦後は、批判的に読むことが「おやくそく」の読み方になっているが、この『菊と刀』が、「自分の国が外からどう見られているかを、何よりも気にする国民性」の人々に与えた影響は大きかった。「ルースの目にうつった自分たちの姿」を鏡に映しながら、人々は自信をもったり、うなだれたりした。

 文化人類学の研究方法として、そもそもルースの「資料の選択方法」には偏りがあり、片寄った資料を用いながら片寄った見方に押し込めていくから、『菊と刀』に描かれた日本人は、修正しまくりのお見合い写真みたいな、「自分であって自分ではない姿」になっている。

 「義理と恥の文化」とルースに言われると、「なるほどそうだなあ」と、私たちはルースの描いた肖像画に身の丈をあわせようとする。
 もちろん「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たい男の世界」というのもあるし、「生きてこの身に恥うけるより、死んでおわびを」も、未だに生き残っている思想である。

 ルースの日本人分析が全面的に古いとか、今はなんの価値ももたないというつもりはさらさらない。批判的に読み解きながらも、新しい資料収集と資料分析の努力はつづけられなければならない。今でも『菊と刀』は、重要な本である。

 日本人の書く日記。現在ウェブサイトに何百万もの日記が書かれ、電波とともに世界を駆けめぐっている。毎日のふだんのおかずとして何を食べたのか、という献立日記も貴重だし、通勤の電車の中で耳にした会話を毎日書き留めている人の記録も重要な「世相分析」の基礎資料となる。

 戦時中の「世間の思想」を研究している人が、「新聞雑誌に載った有名な筆者の論説ではなく、町の中で、市井の人々がどう思い、どう発言していたかという、実際の声」を知ることは至難のわざ、と言っていた。
 リアルタイムで「電車の中でのうわさ話」「床屋でかわす政治談義」などが記録されていたら、戦時庶民の思想分析研究も一段と鋭いものになっただろうに。

 春庭がだらだらと長文を書き殴り、「そんな漢字いっぱいの長ったらしい文章で、そんな蘊蓄だれも読まないよ」と、娘(ナマムスメです)から貶されていても、せっせとこの50回の「昔の本思い出しながらの、蘊蓄たれつつの、自分語り」を続けてきたのも、もしかしたら百年後に、「20世紀半分と21世紀半分を生きた日本語教師は、毎日何を思い何を感じて生きていたのか」ということを知りたいと思う人が、「いない」とはいいきれないからだ。

 未来がどうなるのか、凡人たる私たちには予測もできない。
 百年後には、地球が滅亡していることだって、否定できない。それでも、私たちは未来に向かって、今日を生きている。

 書くことを生き甲斐として、そして、他の人の日記を読むことからコミュニケーションが始まることを信じて。

 今日も、春庭、せっせと駄文を書きました。!!!(最後はきちっとまとめる日本語教師!)

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.50
(わ)和辻哲郎『埋もれた日本』
 『埋もれた日本』初出は1951。第一部は京都や奈良のこと『大和古寺巡礼』とつながる文。第二部は『菊と刀』非難。第三部は、漱石、藤村、露伴、野上豊一郎などの文人とのつきあい、思い出を書いている。
 第二部の目次。「『菊と刀』について」「若き研究者に」「埋もれた日本」の三篇が含まれている。

 日本敗戦後、進駐軍による日本統治がなされる際に、軍中枢将校たちにとって、『菊と刀』が必読書となっている、という話を聞いて、日本人知識人は驚いた。
 自分たちがただ「鬼畜米英」などというスローガンだけで、アメリカの軍備分析もロクロク行わずに真珠湾につっこんで行き、泥沼の太平洋戦争を開始したのに、アメリカ側は、日本人の国民性、思想について、かくまでも深く分析していたのか。

 特に、マッカーサーの「天皇はいい人だから、戦犯とはみなさない」という方針に、『菊と刀』の思想が影響したのかも知れない、という話も出て、日本人知識人にとって、戦後思想の出発は、「戦後民主主義」と共に、「外から見られた自分たち」の姿を知ることが必須となった。

 そのような思想界の中で、和辻哲郎は『菊と刀』を、完膚無きまで叩きのめしている。資料の扱い方のあやまり、資料の偏りかたへの批判。ルース・ベネディクトの「西洋側から見た一方的なまなざし」への批判。

 ほんとに、小気味いい文章だから、『菊と刀』を読んでいない人にも一読をおすすめ。『菊と刀』読んでなくとも、読んだつもりになれるし。どこかのバーで、おねえさん相手に蘊蓄たれトリビアの泉をやりたい人にはぜひ。

 本全体のタイトルともなっている『埋もれた日本』がまた、すごくいい。「キリシタン渡来時代前後における日本の思想的情況」という副題がついている。ここに書かれている武士たちの家訓を、きょうびの情けない政治家たちに煎じて飲ませたい。「正直であれ」というのが、どの家にも共通して繰り返し伝授されている「家の方針」なのだ。  
 また、「自敬の念を持て」ということも繰り返し述べられている。「自分自身を、卑下すると、我が身の罰が当たる」という家訓があるのだという。

 『おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。(中略)おのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく自敬の念が要求するからなのである。』

 と、和辻は、家訓の内容を解説している。これは当時の人々が『菊と刀』によって、描かれた日本人像を「よそから見られた自分の姿」と思い、その姿にあわせて右往左往する状況に対する、和辻の強烈な批判ともなっている。
 「人から、どうこう言われるから」「人様から非難を受けないように」それだけが行動の基準である人を、和辻は快く思っていない。

 近頃よく見かけるしつけ問題を例をあげれば、「ほら、あのおばちゃんがこわい顔してにらんでいるから、騒がないのよ」などと、電車の中で騒ぎまくる子供に言う母親のこと。おばちゃんがこわいから、おまわりさんがこわいから、国家からの圧力がこわいから、言いたいことも言えない、そういう態度をとる人を、和辻は、「自敬の念を忘れた人」と呼ぶのだ。
 世間の目に合わせるのではなく、人から見てどう思われるかを行動の基準とするのではなく、己の心情思想によって、自分の行動を律していく、そういう人にわたしはなりたい。

 雨にも負けて、風邪にも負けてしまう弱い自分ではあるが、立派な「非国民」めざして、国家が「派兵!」と命じても「いやだ」と言い、大学当局から「正式書類は元号で年数を書くように、と言われても、私は自分のうまれた年を、自分の書きたい年で提出する。
 (元号拒否した司法修習生が任官拒否された。裁判に訴えたが、負けてしまった。こういうのを思想統制と呼ばずになんとしよう)

 私のものの見方考え方は、ある人々にとっては「片寄っている」「偏向思想」と呼ばれるものかもしれない。しかし、やはり私は人様にあわせて、自分をねじ曲げていくことができない。

 な~んてね。元号で生年月日を記入しないとクビ!などと脅されると、「あ、今まだ、仕事を失うと、食ってけないから、ま、いいか、私、生まれはショウワです」なんて、君子じゃないけど豹変する、弱っちい人間です。
 どうも立派になれなくて、すまん。

 と、思想信条告白して、春庭、どうにも情けない人間であることが暴露されたところで、50音順著者の昔読んだ本めぐりはおしまいです。ご愛読ありがとうございました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「いろは歌留多、上毛かるた」

2015-02-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(39)いろは歌留多、上毛かるた

いろは歌留多、上毛かるた
at 2003 11/18 18:04 編集

 先週11月13日は、「ピクニック授業」を実施した。(2003年11月13日)
 留学生と「こども動物園」へ。お弁当食べて、ゲームして、そして「日本の文化」についてのレポート発表。

 日本文化といっても、トピックはなんでもよく、要するに「日本に関するトリビアの泉」みたいな授業である。本日の発表者は、「日本という国名の由来」「各県の県名の由来」をレポートにまとめて発表した。すでに日本語能力試験1級を取得している留学生もいるのでかなり日本語のレベルは高い。(日本語能力1級は、英検1級準1級レベルに相当)

 発表担当者との質疑応答が終わったら、あとは、楽しく動物を見る。カンガルー、キリン、シマウマ、タチョウ、エミュー、、、。

 目玉のコアラ舎へ行く。コアラは寝ていたが、一匹はときどき動くので、留学生達「かわいい!」と大喜び。フラッシュ禁止だが、最近のケータイについているカメラは性能がいいらしく、みなかわるがわるケータイをかざして、デジカメ撮影。

 コアラ舎の前で、集合写真をとっていたら、飼育係のおじさんがユーカリの枝を持ってきた。葉っぱをちぎりとり、留学生に差し出して「においをかいでごらんなさい」と言う。強い特長のある香り。「ユーカリメンソールと言って、薬品にも使われている成分です」と教えてくれた。

 話し好きそうなので、コアラについて、生息地やユーカリのことなどいろいろ質問した。質問への答えの中で、留学生に理解がむずかしそうな言葉を私が「留学生にもわかる日本語」に翻訳して伝える。ところどころに冗談をはさみ、学生はどっと笑う。

 コアラは、一生をほとんどユーカリの木の上ですごすという。水を飲みに2週間に一度くらい木から降りるほかは、樹上生活を続けるというので、「落ちたりしないんですか」と、私が質問。

 飼育係の答え。「年寄りになって、身体が弱ると落ちることもあります。若いコアラでは、交尾期に雄が雌を追いかけて無理矢理迫ると、雌がいやがって落ちたりします」と、説明してくれた。

 私の補足トリビア。「ほらね。コアラも若いと下手なのよね、何事も経験よねえ。私なら落ちたりしません、経験豊富だから!」と、チャチャを入れる。
 留学生、経験ありの人は、げらげら大笑い。何をいっているのかわからず、キョトンとしている学生も。
 冗談と笑いの連続で、楽しくコアラについておべんきょうできた。

 飼育係のおじさんに「詳しい説明をありがとうございました」とお礼をいうと、おじさんは「先生、お話、おじょうずですねぇ。全国を公演して回れますね」と、ほめてくれた。「はい、お笑い芸人めざしてます!」と答える。ちょっとうれしい。

 ことばが大好き。これは本を読み始めた4歳のころから変わらない。
 数字にはまったく弱い。電卓で同じ計算を3回やると3回とも違う答えがでる。電卓で計算してるのに、なぜちゃんとした答えがでてこないのか、不思議。

 中3のとき、「将来を考える中学生への指導」のひとつとして、「職業適性検査」をやらされた。所見「数字を扱う職業に不適格。ことばを使う職業に向いている」

 結果、国語教師、日本語教師、役者、フリーランスライター、幅広く考えれば、英文タイピストまで、ことばを使う職業を選んできた。全部挫折したけれど。

 半年だけの短期アルバイト「小学生にミュージカルを見せる一座の役者」が、一番短い期間の仕事。役者の才能はなかったが、思い出としては一番楽しいものになった。

 自分の内向的な性格に一番合っていた仕事が、英文タイピスト。おかげで、今、ブラインドタッチがめちゃくちゃ早い。NHKアナウンサーがニュース読むスピードにあわせて、音声をそのままワープロで追っていける。

 一番長く続いている日本語教師が15年。ことばを追って、ことばを温めて、15年やってきた。

 留学生、日本人学生と「ことばあそび」をやるのも、日本語授業の一貫。
 ことば遊びは、日本語言語文化の大切な伝統のひとつだ。しりとり、ことわざ、地口、だじゃれ。「あ」~ん」の文字を一度だけ使って作る詩。(いろは歌がその代表)また、回文(したから読んでもマサコサマの類)さまざまな言葉遊びがある。

 ウェブサイトにも、これらの言葉遊びページがたくさんあって、大勢の人が言葉遊びを楽しんでいる。さきほどついた足跡。回文です。前から読んでも後ろから読んでも同じ。
2003/11/17 22:43 18ar 。うついけんしはしんけいつう。(宇津井健氏は神経痛)

 「しりとり」についてはまた、のちほどとりあげよう。今日は「かるた」について。
 歌留多の語源はポルトガル語の「カルタ」。同じ意味の語が、英語から入ってくると「カード」ドイツ語から入ってくると「カルテ」そう、カルタとは、「文字を書く紙」のこと。

 トランプのカードも、医者が書き込むカルテも、ルーツはいっしょ。英語、ドイツ語、ポルトガル語などは、インド・ヨーロッパ語族の仲間だから、ことばも似ている。

 一方、日本語は「ウラルアルタイ語族」に含まれる。朝鮮韓国語、モンゴル語、トルコ語などは、日本語とことばの語順が同じ。

 しかし、私が日本語研究をやっているころは、「日本語系統論、これにハマると研究がまとまらず、一生を棒にふることになるから、手を出してはいけない」と、されていた。 すなわち、日本語の系統論は、まだ定説がない。どなたか、きちんとした系統論をまとめれば、学会賞くらいはとれる。

 ただし、藤村某というような「万葉や古事記の古代日本語は朝鮮語で読み解ける」という素人ウケするエセ日本語学が出回っているので、先行研究に注意。研究したい人は、まず、言語学の基礎を固めてから対照言語学をやってください。

 藤村某さんのように、言語学をまったく無視した論術で、やるなら、「古池やかはず飛び込む水の音」という芭蕉の句は、「Full it cake yah! Cow was toby come me Zoo know oh! too」と解釈できるので、芭蕉はイギリス人である、というような論も可能。

 で、日本語の歌留多。
 いちばん知られているのは「犬棒かるた」。「犬も歩けば棒にあたる」などのことわざが「いろは~京」まで、読み札に書いてある。
 取り札には、絵とひらがなひと文字が。日本のこどもにとっては、正月などに遊ぶ大事なもの。これで皆、いろはの文字を覚えた。いろはかるたが遊べるようになると、親は子供を寺子屋に入れ、習字そろばんを習わせた。

 私は、留学生にひらがな50音を教えたあと、時間に余裕があるときは、かるたとりをして遊ぶことにしている。

 かるたとりと言っても、「論より証拠」「花より団子」などの日本語を言っても、まだ何も意味がわからないから、ただ、「い、犬、い、い」と言って「い」の札をとらせ、「は、花は、は、」と言って、「は」の札をとらせる。日本語の音節の音声確認と復習のためのかるたとり。

 それでも留学生は、大喜びで遊びに興じる。
 歌留多の札は、縦長にみるように言っても、かるたの縦横がまだよくわかっていないから、「こ」と間違えて「い」の札をとる。

 ハイッと、勢いよくタッチして、クラスメートから「It's not Ko.」と指摘され、「Oh!mistake!」となげく。「ほ」と「は」を間違える。「ぬ」と「め」、「わ」と「れ」など、習ったばかりのひらがなは、どれも似ていて、間違えやすい。

 人数が多いクラスのときは、グループ戦で。少ないときは、個人戦。
 チャンピオンには、日本の風景などの絵はがきの中から、一番気にいったものを選ばせる。
 一番負けは、最後に残ったハガキ。「わぁ、この残ったハガキが一番欲しくてねらっていたものだ」と、喜んだり「あっちの富士山のハガキがよかったのに、とられちゃった」と嘆いたり。

 日本語の「あいうえお」ひらがな文字は、「音節文字」である。そのためシリトリもできるし、回文もできる。

 音素(単音)文字である英語ではこうはいかない。前から読んでも後ろから読んでも、意味が同じになる文で、よく知られているのは「Madam I'm Adam. (奥様、私はアダムです)」というものくらい。後ろからアルファベットを読んでも「マダム、アイム アダム」になる。

 音節文字は、日本の言語文化にとって大きな意義を持つ。漢字から発音だけを取り出して「ひらがな」ができあがったことのしあわせを、私たちはもっと有り難がっても、罰はあたらない。

 しかも、朝鮮韓国の文字ハングルが、世宗大王の指揮のもと国を挙げての大事業として作られたのとは異なり、これらのひらがなの文字を、いつだれが作ったというのも、はっきりしていない。大勢の無名の書き手が、漢字をくずして書いているうちに、自然と固まって現在の50音の音節文字が形成されのだ。

 「安」が「あ」になり、「以」が「い」になったということを、知識としては知っていても、それらの文字を「意味を持たず音声のみあらわす文字」として固めていった長い言語文化形成の恩恵を、日頃私たちはまったく意識していない。空気が自然に胸に入ってくるのと同じくらいあたりまえのものとして受け取っている。

 万葉仮名からひらがなへ、この過程にかかわった、無名の書き手すべての人に、ときどきは感謝しなければならないのだろう。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.49
(ろ)労農、船津伝治平『上毛かるた』

 ことば遊びのひとつに「県名だじゃれ」がある。わたしゃあなたに秋田けん。石につまずき大分けん。映画館おまえがじゃまでよく三重県、などのたぐい。

 子供達が県名を暗記させられるのは、5年生ころか。先生によっては、北から南まで、地図の上から下まで県名をいわせたりするので、子供達は「そんなに県名岩手けん」などとうんざりしてしまい、結果、自分の県以外のところ、どこがどこにあるのやら、ということになる。

 クイズ。全国の県名の中で、動物がその名にはいっているところが3県ある。ふたつは九州。そう、鹿が入っている鹿児島県。熊が入っている熊本県。もうひとつは、関東。どこでしょか。

 関西の人にその名を言っても「え、そんな県あったっけ」とか「で、どこ?それ。ディズニーランドのあるところ?」「それは千葉県」「千葉の先?」。千葉の先は太平洋。海に落っこっちまう。

 はい、正解は「鶴舞う形の群馬県」県の形は鶴が羽を広げたかたちで、名前に馬がはいっているのでした。
 シラネーってか。政治の世界じゃ、角栄二世マキコの新潟と同じくらい有名なんだけどな。自称昭和の黄門様、大勲位、さめたピザの3人の首相を排出。(あ、ここ、誤変換わざとです)黄門二世、大勲位二世につづいて、さめたピザ二世まで当選している世襲大好き県である。

 群馬の人が、ほかの県の人と異なるところ。いくつかある。アーバン通勤快速で東京通勤圏内でもあり、県内に温泉を含む観光地と工場がたくさんあって県内就労が可能なせいで、あまり、県外に出ていく人がいない。

 固定安定した住民が固定安定した毎日を、まったりとすごしている県なのだ。はい、春庭、かかあ天下の地の出身。雷と空っ風も好き。横川峠の釜飯もだるま弁当も。

 今日の話題、歌留多に関して、群馬県が他と異なる点がひとつある。
 群馬のこどもは、いろは歌留多をあまり知らない。わたしも大人になって、ことわざをいろいろ知るようになるまで「犬も歩けば」とか、「割れ鍋に綴じ蓋」などのことわざを覚えなかった。群馬の子供達は「上毛歌留多」を覚えるのだ。

 小学校のころ、毎年毎年かるた大会がもよおされ、全県あげて子供達は上毛かるたの暗記につとめた。

 「い」伊香保温泉日本の名湯「ろ」老農船津傳次平(ろうのうふなつでんじべい)「は」花山公園つつじの名所「に」日本で最初の富岡製糸「ほ」誇る文豪田山花袋

 富岡製糸は、先日も明治の「殖産興業」の説明を留学生にしたときに、教科書に出ている製糸工場の写真を見ながら解説した。

 伊香保や花山公園も、小さいときから家族で出かけている名所。しかし、「ローノーフナツデンジベー」が意味不明だった。いったい何だローノーとは?

 「労農」の代表的人物が二宮金次郎。今や二宮尊徳と言っても、若い人には少しも馴染みのない人になってしまった。戦前の学校の校庭には、必ずこの金次郎さんの銅像が建っていたのだ。薪を背負い、本を読みながら歩いている少年。「手本は二宮金次郎」と、教わり、子供は皆、彼をお手本にすべきとされていた。

 労農は、現代語でいうなら「先進的農業指導者」である。各地の農業指導者が献身的に働き、農業生産をあげ、農民が少しでも豊かな暮らしができるように努力した。船津傳次平は、群馬県出身の労農だったのだ。

 二宮金次郎のように、全国区にはならなかったが、彼をたたえる碑が東京飛鳥山公園に残されている。花見に公園にいって、こどものころ意味不明だったローノー船津に出会い、びっくりしたことがある。おお、おなつかしや。こんなところでお目にかかろうとは。

 老後の心の冬支度をめざして、著者50音本の思い出昔話をつづけてきたが、終わりになるにつれ、だんだんと「日本語言語文化」の衰退をうれえる、よくある老いの繰り言になってきた。

 日本語教師は「日本語史」をちゃんとお勉強しているから、日本語がどのように変化してきたかをようく、知っている。そのため、「ら抜きことば」なども、「日本語変化の当然の流れ」として受け止める人が多い。

 ら抜きことばのために騒動が巻き起こるのが永井 愛('97)「ら抜きの殺意」(第一回鶴屋南北戯曲賞受賞)であるが、日本語の歴史を振り返ってみれば、ら抜きになるのは必然の変化なのだ。

 だから、このような言語自体の変化はあまり嘆かない。なにしろ枕草子を書いた清少納言だって「ちかごろは言葉が乱れていて困る」と愚痴っているのだ。

 変化するのがいやなら、私たちは、いまでも平安の古文にでてくることばで、しゃべっているはず、いや縄文時代のことばのまましゃべっているはずだ。

 私の「日本語教授法」の授業。日本語学に興味をもたせるために、一番最初に学生に出すクイズ

 「昔、むかし、日本の母は、全員パパだった。パパが子供におっぱい飲ませていたんだよ。なぜかわかる?性転換したんじゃないよ。」
ヒント:縄文時代は現代のH音がP音だった。(正解はまたあとで)

 日本の言語は、どんどん変化する。言語文化も変化する。純国産の日本朱鷺(ニッポニアニッポン)が滅亡したように、あるものは滅び、あるものはしぶとく生き残る。

 春庭は、プロフィールにも「日本語教師」と出しているので、「教師にもあるまじき乱れた日本語!」と、ご不快な方もおられよう。すみませんね。いつも下品で。

 だが、しかし、されどしかるに、ことばとは常に変化していくものなのだ。いまや「ら抜き」の食べれる出れるを、若い世代は当然として使っているように、いまのところ古い世代が「乱れた日本語」として眉をひそめている表現が、あと百年後には「ただしい日本語」と、なっているだろう。

 そして今「新しいことば」として登場している表現が、定着していることだろう。みなさん、「あたらしい」というのは、かって「正しくない日本語」でした。「あらたし」が、正しい日本語だったんです。でも、みんなで違えばこわくない。今は「あたらしい」を全員使っている。

 日本語言語文化がこれから先、どうころがっていくのか、ウォッチングを続けたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ラブレターはみそひと文字で」

2015-02-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150202
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(38)ラブレターはみそひと文字で

2003年「おい老い笈の小文」の再録です。
~~~~~~~~~~~~~

ラブレターは、みそひと文字で
at 2003 11/17 06:48 編集

 「知ったかぶりするな」「漢字多すぎ」という足跡で、すぐシュンとなる春庭。
自分が打たれ弱く、すぐいじけてしまうという人間であることを知っていたから、これまでひきこもり生活を続けて、世間との接触を避けてきたのだ。

 春庭とは感覚が異なる文を書く人(とても上品で余裕ある奥様)から「お話の真意が伝わり難くて」という足跡をもらって、たちまちケションとしぼんでしまった。
 春庭、まだ修行中の身、文章が下手だということは承知の上でウェブにのせているのだが、それほど意味不明で、話の内容が伝わらない文なのか、、、、めげてしまった。

 「春庭の品のない文が嫌い」って人も多かろうし、「漢字が多くて感じ悪い」って人もいるだろう。

 だが、若きウェブ友・タコさんは「私の文章がわからんというヤツは、首でもくくっていなさい」と、威勢がいい。それを読むと、こちらも元気復活。そうそう。無理に分かってもらわずともよろしい!!、、、あぁ、でも、やっぱりちょっとは分かってほしいなあ。

 人それぞれ、趣味いろいろ。AVが嫌いってやつは、無理につきあわんでも、文部省選定教育記録映画を見ていればよろしい!
 あ、今、AVと聞いて『団地妻真昼のもだえ』とか、『女教師鞭の教え、もっとたたいて』なんぞというタイトルが頭に浮かんだ人、ビデオ見過ぎです。

 日本語教師がいうAVというのは、アスペクト&ヴォイス。「相と態」と、いうことですからね。
 「態」って、受動態能動態のことです。ほら、昔、受身形って習いましたね。be動詞プラス過去分詞っての。日本語だと、れるられる。

 上位になって、のしかかっていくのが能動態、その行為を受けて「あれぇ、ご無体なー」と、やられてしまうのが受動態。せめる。せめられる。のしかかる。のしかかられる。やる。やられる。ほる。ほられる。いれる。いれられる。れるれるられるれれれ、、、。

 ほら、こういうことを書くから「お話の真意が、、、」と言われてしまうのだ。この段落に真意などありません。

 わからん奴はマスでも、かいてなさい。あ、そこの君、きみ!ズボン脱がなくてよろしい。これは、最近はやりの「百マス計算」と言いまして、提唱した陰山英男さんは、百マス計算大当たりになって、本もドリルも売れに売れた。
 しかも、教務主任も教頭もすっ飛ばして二階級特進。現在は、尾道市立土堂小学校の校長先生です。公教育の学力低下問題の救世主みたいな先生です。

 ほらね。春庭って、やっぱり教育的発言が得意ですわ。みなさん、春庭の「おいおい」読んで「イミワカンネー」になったら、頭ひねってないで、百マスかいておべんきょしてね!
 そうすればあなたも二階級特進夢じゃない。いつまでたっても非情キンコーシの春庭の駄文なんか読んでないで、ほらほら、せっせと百マスかく!

 あー、また顰蹙買ったなぁ。どうも品がないね。でも、「笑いました」という足跡やメールもらうと嬉しい。

2003/11/12 21:50 bibi626 枕紙っていったいなんでしょう???
と、質問を受ける。

 だから、枕紙という古典語を使わずに、ティッシュ、と現代語で書いたのだ。若い人には通じない日本語。
2003/11/12 22:10 haruniwa  Make Loveのあとに二人で使う物、愛の手紙を昔はこういう
と、親切な「コテン日本語」の説明なども行っている。教育的!

 コミュニケーション不在の殺伐とした現代にあって、1行レスでことば遊び。仮初めのバーチャルコミュニケーションと、いわば言え。これまでひきこもりで、教室と家の往復のほか、ほとんど会話というものがなかったこの十余年の生活。
 ホームページを始めて、おしゃべりの楽しさを味わっている。
 
 日本の言語文化「和歌」も、基本はことばのやりとり「挨拶」である。奈良平安の男と女は、和歌のひとつも詠めなければ、恋人を得ることもできなかった。

 昔に生まれなくてよかったって?そんなこと言わずに、さあ、ラブレターは、ひとつ三十一文字で、、、。
 あ、いやな人は百マスでもかいて。だから、君、ズボン脱がなくていいんだったら。学力低下が案じられる今日このごろでありますねえ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.48
(れ)連城三樹彦『恋文』

 我家はテレビを見るのが好き。ただし、ながら見で、ぼうっとしながらずっとテレビを流しっぱなしということはしない。見るときは馬鹿なバラエティ番組もいれこんで見て、いっしょに大笑いをする。
 スマスマのコントも、ナイナイの「ごち」も、トリビアのヘェも、きっちり見ているのである。

 ドラマも大好き。夏は『ウォーターボーイズ』と『すいか』にはまった。
 今期はいちばん笑えるのがクドカンドラマ『マンハッタンラブストーリー』。それ以外に『末っ子長男姉3人』とか『ハコイリムスメ』などのホームドラマも見ているが、私はあまりノレていない。

 『恋文』は、「いつもの通りの渡辺篤郎の、いつもの通りの演技にどこまでのってやれるか」という興味だけで、見ているようなもの。映画ではショーケンがやった役。妻子がありながら、不治の病をもつ元恋人と過ごすことを選ぶ。
 映画では倍賞美津子がやった妻を水野美紀。

 妻と、夫と、その恋人のものがたり。
 竹原郷子33歳。女性雑誌の編集部につとめるキャリアウーマン。夫の将一はひとつ年下で中学の美術教師。二人の間には優という一人息子がいる。

 将一がある朝突然、女性からの手紙を残して出ていった。手紙の差出人は田島江津子。将一のかつての恋人だったが、今は白血病に犯され、あと半年の命だという。

 将一は、身よりのない彼女につきそうことを決意する。死の時を迎えるまで、自分の全てをかけて看病しようと、学校勤務もやめた。

 当然郷子は怒る。私と優はどうなるのか。それでも郷子は夫を許し、息子には「長く生きられるお母さんは、死んでいく江津子さんのためにお父さんを半年貸してあげるの」と説明する。

 郷子の忍耐が限界に達したころ、将一は離婚話を持ち出した。元気なうちに結婚式だけでも挙げさせたいので、離婚届けにハンを押してくれ。郷子は怒る。なぜ本当に離婚までしなければならないのか、どこまで耐えればいいのかと。

 翌日、江津子が自殺をはかった。江津子は将一と郷子が本当の夫婦であることを知っていたのだ。

 二人の女は初めて本心をぶつけ合う。郷子は心を決めた。将一と別れよう。
 今、江津子さんにウエディングドレスを着せなければ、将一は一生後悔する。悔いを残したままの夫とは、これからうまくやっていけない。
 夫のわがまますべてを許して、郷子は離婚届けを出した。

 将一と江津子の結婚式の日、将一は離婚届けの紙をみつめて「こんな凄いラブレターをもらったのは初めてだよ」とつぶやいた。
 
 あらすじを読むと、世の妻たちは「なんだかなぁ」と、思うだろう。えぇっっ!なにがすごいラブレターよ、これってどうよ!!!

 日記を書いたり読んだりするコミュニケーションを「そんなの本当のコミュニケーションとはいえない」と、考える人もいるだろうが、ネットのつながりもまた、人と人とのおつきあい。人を生かすコミュニケーションだと信じている。

 しかし、一般論、またネットの中のことならいざ知らず、もし、世の多くの妻たちが、郷子の立場に置かれたら、どうだろうか。このようなラブレター(離婚届け)を出せる心広い女性がどれくらいいるのだろうか。
 
 私?うちの場合、離婚届も必要ないくらい、はるか遠いところにいるからねぇ。地下鉄で16分の事務所から帰ってこないことは、前にも書いたとおり。地下鉄で16分。すごく遠い。

 今の私なら、何の躊躇もなく、郷子と同じようにラブレターを渡しますよ。
 私の不在のパートナーは、とても親切な人。このような不治の病をもつ人と知り合ったら、できる限りのことをするだろう。

 とても親切だったから、ナイロビで迷子になった私を導いて、道案内してくれたのだし、私の親戚から「いやぁ、世の中は広い。この娘と結婚する勇気のある青年がいたとは!」と感嘆されたくらい、勇気のある人でもある。親切で勇気のある男、私のパートナーなら、必ず、江津子を励ますだろう。

 ラブレターを送ったあと、私はどうするか?江戸時代「みくだり半」は、一面「再婚保証書」でも、あったことを11/12「愛人でいいのと歌う歌手がいて」に書いた。
 もう、そうなったら、再婚保証!ビルゲイツさん、求婚待ってます!!

 わっはっは!そんなことあるはずないから、しょうがないなぁ、夢は自分の手でつかむとするか。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「英語コンプレックス」

2015-02-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150201
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(37)英語コンプレックス

 2003年に掲載したOCNカフェ日記を再録しています。
 1977年以前に読んだ本の著者を「あいうえお」順に思い出し、老いに向かう心支度と来し方の自分語りを続けています。
 「ル」の項は、ルイコ・ヨシダ。吉田ルイ子の『『ハーレムの熱い日々』ヺ思い出しつつ、苦手な英語について。
~~~~~~~~~~~~~~~~

英語コンプレックス 
at 2003 11/15 11:54 編集

 「春庭は、知ったかぶりのもの知らず」であると最初から認めている。
 そして、このサイトは「知ったかぶり」が大好きな人間が、蘊蓄たれながら自分語りをやっていると、断っているにもかかわらず、「知ったかぶりするな」という足跡をもらった。
 するなって、言われてもねぇ。「煙草が有害であることは、世界保健機構も認めている」と、いくら言っても、愛煙家が全員禁煙してくれるわけじゃないのと、同様で、、、、

 まあ、かように、人様に文を読んでもらうのは難しい、ということがわかっただけでも、足跡はありがたい。むろん、多くの温かいメッセージに、感謝し、励まされてもいる。
 
 また、日本の漢字文化が消滅しそうなことを嘆いた文(11/12)に対して 「すみません顰蹙売ります。読めない漢字多すぎ(2003/11/12 21:23)」という足跡をいただいた。
 「かんじぶんかがしょうめつしそうって、なげいているんだから、ひらがなばかりのぶんにするわけにはいかないじゃありませんか!」

 日本語母語話者の国語教育において、小学校6年間で約千字、中学高校で1000~2000字をならう。常用漢字は約2000。常用漢字を知っていれば、一般的な全国紙が読める、ということになっている。
 日本の大学での勉学を希望する留学生は、初級で約300、中級で、初級漢字プラス300、上級では、合計2000の常用漢字と約1万語の語彙数を習得する。(コースによって違いがある。会話中心のクラスと、大学院進学予備コースではカリキュラムが異なる)
 非漢字圏の学生にとって、漢字に興味を持つかどうかが、日本語が上達するかどうかの分かれ道になることもある。

 「文字文化として、世界中で一番面白い文字だ」と、漢字大好きな学生もいて、書道を習ったりもする。また、漢字が覚えられなくて日本語をあきらめる学生もいる。留学生に対する漢字教育は本当にたいへんだ。

 漢字文化圏の中国から来た学生も「生」に、いきる、うまれる、なま、セイ、ショウ、はえる、き、、、、など、たくさんの読み方があることを知ると、「わぁ、覚えられない」という。
 たくさんの学生を見てきて、わかったこと。外国語を勉強する適性がある人もいるし、まったくない人もいる。

 自国語では、次々に優秀な論文を発表している研究者が、日本国費留学生(日本が国のお金を奨学金として給与する留学生)に選ばれたものの、日本語はまったく苦手で、留学中ずっと英語だけで通した、という例もあるし、日本語を覚えるのが楽しくてたまらず、他の専攻をまなぶつもりで留学したのだが、日本語研究に専門をシフトした、という学生もいる。

 世の中には、私のように、大の語学苦手も存在するし、どんな外国語もスイスイと覚えてしまう語学の天才という人たちがいる。

 長澤信子さんは、努力を重ねて中国語をものにした。
 主婦業のかたわら習得するのは楽ではなかったが、とにかく中国語が好きで好きで、勉強することが楽しくてたまらなかった。36歳で中国語の勉強をはじめて、4年後に「中国語通訳ガイド試験」に合格した。

 長澤信子『主婦こそ夢の自由業』は、子育て中の私にとって、ひとつの指針ともなった本である。
 長澤は、2年間秘書として働いたのち結婚。単調にも思える家事労働。報われる思い少ないまま、主婦業を続けていた。長澤を支えたのは、ひとつの夢だった。北京へ行ってみたい。中国語の通訳になりたい。

 毎日果てしなく続くように思われた主婦業も、目標を持つと「自由な時間をやりくりできる主婦業こそ、勉強にはいちばん向いている仕事」と思えるようになった。

 夢を実現するため、家事のあいまに勉強し、まず看護婦学校に入学した。手に職をつけ、自分の夢を実現するためのお金を稼ぐことが第一。
 看護婦をしながら通訳学校へ入学するお金を貯めた。通訳学校へ入学し中国語を学び、ついにあこがれの北京へ。日中国交回復前のこと、だれも見向きもしなかった中国語を学び、中国語が日本に必要になったときに通訳として活躍した。

 私は中国滞在半年の間、会話を習ったがものにならなかった。語学に強い人がほんとうにうらやましい。

 長澤さんのように中国語が上手になることはなかったが、この「主婦こそ夢の自由業」長澤方式をまねしようと思った。長澤さんは、自分がいちばんやりたいことを自分の力で実現するためにまず、看護婦という職を得た。それからやりたいことのために勉強する。

 私がこの本を読んだのは、フリーランスライターとして出かかった芽を自分でつみ取り、大学に再入学したころ。

 将来は必ず「書きたいことを書く」でも、今は確実にお金を稼いで子供にパンを与えなければ。確実に稼ぐ?いったい私にどんな仕事ができるのか。地方公務員、病院検査技師、英文タイピスト、国語教師、役者などなど、転職を重ねて、どれも中途半端に挫折してきた。

 国語教師には向かなかった。役者としては才能が不足した。英文タイピストの仕事は一番私向きではあったが「職場の花、若い女性向き」とされる仕事で、当時は子持ち女性が続けるには不向きであった。

 そんなとき、新設された日本語学科に入学した。日本語教師になって、金を稼ぐ。そして、いつかは一番したい仕事「もの書き」をめざす。 大学卒業そして大学院修了まで、8年かかった。

 日本語教師の資格は得たが、子供のパンを買うにはほど遠い賃金だった。日本語教師のほとんどは「非常勤」。
 ヒトコマいくらで時間労働を売る。とても生活できるような賃金ではない。常勤のポストを得た男性以外、女性たちは「この仕事で食べている」という人が少なかった。

 同僚女性達は「エエトコの奥様、お嬢様」たちだった。自分自身が高学歴。夫は一流企業、官僚、大学教員、の方々。「暇だけど、カルチャースクール通いも性に合わないので、ちょっと知的なお仕事をしています」という人が多かった。

 ご主人が海外赴任したとき同伴して外国に住み、現地の学校に請われて日本語を教え始めた、と言う人もいる。

 講師室はいつも温室のよう。温かい雰囲気でなごやかだったが、生活に苦しむ一般庶民とは感覚がちがう。
 美しい花のような奥様たちの中で、私はペンペン草。なずな、のようだった。温室の美しい花の中で、ペンペン草の私が雑草としてひっこぬかれず仕事を続けられたのは、花たちが余裕のある心やさしい人たちだったからだ。「なずなだって、一応植物だし、ワザワザ引っこ抜かなくてもいいじゃありませんか。オホホホ、、、」

 奥様達がヒトコマの講師料で「ちょっとお茶して帰りません?」と話しているのを横目で見ながら、私はスーパーに走る。私は、奥様方がお茶するのと同じお金で、子供の給食費もミルク代も払わなければならない。
 夫の会社はいつでも倒産寸前。出版不況の出口はない。有名どころの出版社もつぎつぎに倒産していくなか、借金を増やしながらも続けていられるだけで奇跡という零細下請け。

 雑草のような私は、講師室でも小さくなってすごした。雑草育ちに加えて、私には英語ができないというコンプレックスがある。
 この業界で英語ができるというのは、日常会話はネイティブと同じくらいにでき、論文を英語で執筆、学会発表と質疑応答を英語でこなすことができる、ということ。

 私は、ケニアで身につけたブロークンコンプリートの下町英語。
 ケニアでも上流の方々は立派なクイーンズイングリッシュを話すが、私が親しくなった人々は、下町の靴磨きやピーナツ売り。観光客相手にブロークンな英語で話す彼らとつきあううち、スワヒリ語は上達したが、英語は完全にこわれたまま。

 英語ができないことは、現在までずっとコンプレックスとなっている。時間に余裕ができたら、きちんと学んで身につけよう、と思ってはいるが、今まで時間に余裕ができた年などなかった。年中あしたの授業の準備におわれ、自転車操業である。

 英語がへただ。だが、学生は「先生はいちばん英語がへたなのに、先生の文法説明を聞くと、よく日本語がわかるようになる、なぜだろう」と、言う。それは、私が「語学が不得意で、語学に苦しんできたからだろう」と思う。

 国語教師のとき、生徒が「わからない」ということがわからなかった。自分が日常生活で話している言葉なのに、何がわからないっていうのさ。本なんて、読めば自然と意味わかるじゃないの。「生徒がどこでつまずくのか、何がわからないのか」が、わからない教師だった。国語教師として失格だった。

 今は「わからない」ということがわかる。学生が日本語の何につまずくか、どんなことに混乱してしまったかわかる。

 語学コンプレックスは今もある。でも、「英語がへただからこそ、学生には好評」という二律背反も、またよしとして、今日も私の英語はブロークン・コンプリートリィ。

 で、学生にはいつもおどしをかける。私をみなさい。英語がへた。でも、日本人みんな下手だからね。だから、日本語できないと、レストランでも注文できない、切手も買えない。さ、練習練習!

 私は英語ができない。私だけじゃなく、日本人のほとんどは英会話が苦手。元首相の宮沢さんは英語の使い手だったそうだが、他の首相が、英語得意という話は聞いたことがない。

 IT革命を「いっと革命」と命名した森首相も「使えない」ひとり。だが、彼はおおまじめに自分は英語が得意だと信じていた。だからクリントンが来日したとき、さしで英語でやりとりしたい、と主張した。
 側近はあわてた。どうしよう、本気で英語しゃべる気だよ。そこで側近は一計を。「すみません、クリントン側の時間がないので、あいさつだけ英語でして、あとは通訳いれます。

 あいさつは、最初、ハゥアーユー。ごきげんようお元気ですか、と言ってください。
 大統領は、アイムファイン。アンドユー。元気です。あなたは?と聞くでしょう。
 当然元気なので、私も元気、ミーツー、と答えてください。」

 「だいじょぶ、だいじょぶ。簡単じゃないか。ごきげんよう。はうあーゆ、だな。はうぅあーゆっ」

 クリントンと会見の日。自信たっぷりの我が首相は大声でクリントンに呼びかけた。
 「フーアーユー(おまえは誰だ)」

 クリントンは、日本式冗談だと解釈して余裕で答えた。「私は、ヒラリーの夫です」
 すると、首相は大得意で「ミィツゥ。私もです。」

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.47
(る)ルイコヨシダ(吉田ルイ子)『ハーレムの熱い日々』

 英語不得意だから、アメリカへ行ってみたいと思っても、躊躇が先立つ。
 アメリカに行くなら、ツアーでひとめぐりして、「自由の女神像見た、ホワイトハウス見た、フロリダディズニーワールドで遊んだ」という旅行ではなく、短期間でもいいから住んでみたい。
 でもそのためには、英語が、、、、と、いつまでたっても実現しない。(金もない)
 
アメリカに行くなら、観光旅行ではなく、吉田ルイ子がハーレムで過ごしたような、熱い日々をおくりたい。そうでなければ、行く甲斐もない。

 『ハーレムの熱い日々』は、写真ジャーナリスト吉田ルイ子の処女作。公民権運動真っ盛りの60年代ニューヨークで、アメリカの魂に切り込み、ハーレムの人々に寄り添った写真と文章を私たちに見せてくれた。

 ルイコは、コロンビア大学でフォトジャーナリズムを学ぶ「ハーレムからブルックリンまでよりずっと遠い、サンフランシスコくらい遠くにあるところにある東洋から来たルイコ」としてハーレムの子供たちと仲良しになり、ハーレムのふところ深く住み込んだ。

 ハーレムの子供はうたう。60年代、スラムに住むカリという7歳の黒人少女の詩である。7歳にして、自分の皮膚の色を自覚し、黒い色はすべてダメ、白は善と教えられて成長しなければならない。

 Black is Black/ I am black/ I know I am / Black do yo?/ But this world is wite(whiteの訛り)/ I'll tell you/ Wite books wite milk/ Wite dolls /Wite everythin /no Black no Black

 こんな時代に、ルイコはハーレムの人々の写真をとり、ハーレムの人々の心を伝えた。
 アメリカ、と言えば、私にとっては、『吉田ルイ子のアメリカ』であるのだ。

 私はミーハーだから、自分のあこがれの人に会うとうれしくてうれしくて、ついストーカーのようについて歩きたくなる。吉田ルイ子を見かけたのは、長倉洋海の写真展会場だった。ルイ子はさっそうと会場を見て回り、長倉と一言二言話したあと、さっと会場を出た。

 私は追いかけたかった。長年の読者としてお礼もいいたかった。「ハーレムの熱い日々」は、もちろん。「吉田ルイ子のアメリカ」「自分を探して旅に生きてます」「ぼくの肌は黒い」「サンディーノのこどもたち」「アパルトヘイトの子どもたち」「いま、アジアの子どもたちは…」「子どもは見ている」「世界おんな風土記」「女たちのアジア」

 ハーレムの子供達へ注ぐまなざしは、そのまま南アフリカやアジアの女と子供達に注がれている。

 でも、このとき、私は吉田ルイ子の後ろ姿をぼうっとあこがれの目で追うだけであきらめた。
 なぜなら、ルイ子と話し終えた長倉が一人で立っていたからだ。ルイ子さんにも声をかけたかったが、長倉と話すチャンス!マスードについて、アフガニスタンや南米のこどもたちについて、質問したいことがたくさんあった。
 ルイ子、洋海、どっちとる?このとき、私は男をとりました。バイはつらいね。

 長倉も私のあこがれの写真ジャーナリストのひとり。私はロバート・キャパはじめ、カメラをもったジャーナリストが好き。初恋の人浜崎紘一さんもジャーナリストだが、カメラが得意だったかどうかは知らない。(10/22の項)

 今、大好きな、辺見庸も自著の写真は自分で撮影。長倉洋海もフォトジャーナリスト、作家。私が惚れる男は決まったタイプなのだ。

 ついでに言ってしまえば、わが不在のパートナーも、元地方新聞記者。
 フォトジャーナリストをめざしていたが、へんな女にひっかかって挫折した。気の毒に。
 できちゃった結婚せざるを得なくなり、子供のおむつ代を稼ぐために、フォトジャーナリストをあきらめた。かわいそうな人。

 しかも、仕事をすればするほど借金がふえる会社経営をはじめたら、どっぷり足をすくわれ、泥沼から這い出せなくなっている。同情にたえない。

 それもこれも、ナイロビで道に迷った子羊を、子羊と思って道案内したのが間違いの元だった。子羊と思ったのは、羊の皮をかぶったヴァージニア・ウルフ。
 結婚後は(ノンヴァージニア)ウルフ!オオカミのようなオカミさん。自己主張強く、自称フェミニスト。しだいにオオカミの牙が鋭くなる。たまらんよね。こんなオオカミ。

 で、今日も私は、遠い荒野へ向かって遠吠え「ワォーン、書きたい書きたい書きたい!」
 それを聞きつけると、倒産寸前零細会社社長はフンと鼻先で笑って「ただで読んだり、ただで書いたりするやつの気が知れない」
 社長は「一字いくら」で「本」の校閲してる。読んでナンボの商売だ。
~~~~~~~~~~~

20150201
 ノンバージニアウルフ妻は、結婚33年目を迎えて、姑の入院している病院に通う毎日。
 今日の姑はごきげんで、ふるさとの学校の校歌を歌ってくれました。同級生いなくなっちゃって、クラス会もしなくなった、と愚痴る。90歳になれば、同級生が集まるのもむずかしいと思うよ。
 クラス会は開かれなくなっても、女学校時代のなつかしい思い出を語ってきかせてください。今日は、女学校卒業後、地元の郵便局で働いた、という思い出話をしてくれました。

<つづく>
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