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ぽかぽか春庭「大山崎山荘美術館」

2018-12-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

大山崎山荘美術館

20181206
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(5)大山崎山荘美術館

 京都滞在2日目午後。旧藤井厚二邸聴竹居から徒歩圏内に大山崎山荘美術館があります。しかし、かなり急こう配の坂道を上るので、いったんJR大山崎駅に戻り、シャトルバスに乗りました。シャトルバスの終点は、山荘入り口のトンネル前です。

 アサヒビール大山崎山荘美術館・入り口のトンネル


 山荘を建てた加賀正太郎(1888-1954)は、証券業・林業・不動産業・ゴルフ場経営・洋蘭業などを手掛け、さらに1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画した実業家です。
 加賀は、実業本業のほか多趣味で、建築趣味のそのひとつ。山荘の設計、家具調度、庭園など、すみずみまで自分好みにデザインしたということです。

 現在の山荘にアサヒビールと冠されているのは、加賀がニッカウヰスキー株をアサヒビールに譲渡したことからの縁によります。加賀の死後、荒れ果てていた山荘をアサヒビールが買い取り、補修して公開しています。

 山荘は1917年に完成したものの、手直しが続き、1932年に本館完成。
 現在の山荘美術館は、本館に、安藤忠雄設計の地下美術館と新館(山手館)が付属して展示を行っています。9月15日-12月02日の展示は、「谷崎潤一郎文学の着物を見る」

再現された着物(「肉塊」ダンスホールの女性)画像借り物


 こんな和装のマダ~ムたちが着物展を見に来ていました。


 春庭が山荘に着いたとき、待ち合わせていたアントニオ兄は本館も庭もすでに一回りしてきたということでした。兄は「谷崎文学にも着物にも、なんの興味もないし、本館は写真撮影禁止だから、中に居たくもない」というので、庭で待っている、ということになりました。

<きょうの建物>


 山荘玄関


 大山崎山荘内部


 山手館へつづく廊下部分


 白雲楼1915(大正4)完成(本館裏側テラスから見渡すと、目に入ります)


 地中美術館へ続く階段


 地中美術館でモネのスイレンなどを見て、本館ひとまわりしたとき、兄が庭から戻ってきて、「2階のカフェでお茶しよう」というので、「まだ山手館の着物展を見ていない」と言えないまま、カフェへ。
 美術館現在の展示は「谷崎潤一郎文学に登場する着物を再現して展示する」というのがメインです。観客は着物を着ている人も多く、着物美人たちは優雅に大正時代の着物などを眺めているのです。私は本館の「細雪4姉妹の着物再現」を見たのみ。兄は着物になんの興味もない、ということでしたが、私は新館の着物を見たいので、お茶のんでから行こうと思いました

 2階のカフェ。テラス席は見晴らしがよく、兄は、京都を流れる三つの川が合流する地点を指さしてこのあたりの地形を説明してくれました。


<きょうの庭>
 大山崎山荘庭園


 庭から山荘を見る


<きょうの工芸>
 テラスに展示されていた、バーナード・リーチ《鉄絵組タイル》1962年

 山荘内の展示のひとつ「2~3世紀のパルミラ饗宴図」


 ゆっくりお茶して休むと、兄は「さて、河原町まで出て御飯たべましょ」とおっしゃる。
 私は「きものを、まだ、、、、」と言えないで、ご案内に従うことに。

 ほんとはちょっと心残りもありました。兄にはさほど興味のない谷崎文学の着物ですが、私にしてみると、次にいつ来るともしれない大山崎山荘。安藤の山手館も見ておきたかったけれど、こうして心残りがあれば、次にまた来ようという気も起きるから、ま、いいか、と兄の後ろにくっついて、大山崎山荘をあとにしました。

<きょうの出会い>
 ブログ友達アントニオ兄には2度目のおめもじ。1度目からすでに10年だか15年たっているように思います。最初に会ったときから変わりなく、ダンディおじ様。京都の案内役、ありがとうございました。

大山崎山荘カフェで

 「HAL夫の処世術にいわく。だれかと一日いっしょにいるときは。カフェでお茶おごっておけば晩御飯おごってもらえる、との格言を得ておりますので」と言って、お茶おごる。チーズケーキセット2人前900円。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「聴竹居」

2018-12-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181204
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(4)聴竹居

 今回の京都旅行、修学院離宮、桂離宮のほか、もう一か所「聴竹居」に見学申し込みをしました。
 聴竹居は、建築家藤井厚二(1888-1938)が、京都大山崎に12000坪の土地を購入し、実験住宅として建てた自邸です。日本の環境に合った住宅をめざして、つぎつぎに実証実験を繰り返し、5番目の最終自邸としたのが聴竹居。

 現在は、藤井が最初に勤務した竹中工務店が管理を担当しています。
 見学は、水金日曜日の申込制で、1回15人まで。旅行日程の中、私の見学可能日は10月26日金曜日だけでした。11時の回。

 阪急大山崎駅から徒歩10分弱。ここでも道沿いを掃いているおじさんに尋ねたら、丁寧に教えてくれました。申し込み当選者に配布された聴竹居案内図に出ている目印の「郵便ポスト」が見つからないでいたのですが、ポストのところまで連れて行ってくれたのです。

 聴竹居アプローチと玄関側の側面。


 受付時間になるまで外回りの見学をしているように係の人に指示されました。

<きょうの建物>
 聴竹居 外観


 受付開始時に、事前にPDFをプリントアウトしてきた撮影許可願いを提出。住所氏名メールアドレスなどを書き込み、撮影目的を書く欄には、「外国人留学生に日本の住文化を知らせるため」と、仰々しく書きました。撮影許可証を首から下げる。
 このように、撮影許可願を提出させたうえで、節度を守った撮影を許可するのは、よいやり方だと思います。見学料は千円。建物はそうとう傷みがあり、今後の補修に使うという目的もはっきりしているので、妥当な値段と思います。

 内部の見学は、グループごとにガイドがつく方式。私は説明を聞いたり聞かなかったりしながら、適当に撮影していく。
 私のグループのひとつ前の組は、『聴竹居』という写真集の文章説明担当の著者、松隈章さんが説明係になっていました。前のグループの雰囲気は、竹中工務店だかどこだかの新入社員研修という感じ。同じような年齢、同じようなスーツ姿のグループなので。
 
 冬の暖房は、暖炉でもストーブでも、暖房具でなんとかなるけれど、エアコン普及前の日本の住まいは、夏の暑さをしのぐことが最大の工夫点になっていました。
 藤井厚二は、冬温かく夏涼しい住まいを目指し、室内の通気を重要視しました。建物の下の斜面から空気を通すパイプを居間の床まで伸ばし、夏も常に涼しい風が取り込めるようになっています。
 天井は網代編みで、通気口がさりげないデザインでしつらえてあります。各室は独立して使うこともできるし、間仕切りを取り払えば、大きなワンルームとして使うこともできます。


 床下の通気口


 邸宅の下の斜面から空気が上がってくる仕組み。

 
 玄関から入ったところの居間

 客間、

 食事室

 読書室と並ぶ子供の学習室

 居間から食事室を見る

 サンルーム

 天井の網代編みと通気口


 聴竹居の外観をもう一度ゆっくり回りたい気持ちがあったけれど、ブログ友のアントニオ兄からの電話が何度か入っているのに気づきました。売店で絵葉書と大隈章さんの『聴竹居』を3冊買いました。兄と建築趣味友だちへのおみやげです。

 アントニオ兄は、大山崎山荘にすでについて、谷崎潤一郎の小説に出てくる着物を見終わったということなので、大急ぎでJR大山崎駅へ。ここから大山崎山荘美術館行のバス(無料)に乗ります。

<きょうの工芸>
 玄関前の置物は、伊東忠太が本願寺伝導院のためにデザインした怪物。伝導院の外回りにある怪物は、改修時にレプリカに置き換わったけれど、忠太の弟子であった藤井厚二邸には、本物がそのまま置かれいる、と、館長田辺さんの解説。
 

 忠太さまの作品を工芸の分野に入れていいのかどうかはわかりませんが、レプリカではなく、本物が展示されているのはありがたい。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「曼殊院の庭」

2018-12-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181202
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(3)曼殊院の庭

 今回の京都旅行のテーマは、庭園、建物、工芸、です。
 修学院離宮は朝9時から1時間の見学。参観者待合所での休憩も長居はできず「次の参観者が集合しますので」と、追い出されました。
 次の見学は、徒歩でいけそうな曼殊院。

 修学院離宮の門から曼殊院へ向かう道。


<きょうの出会い>
 途中、畑にいるおばさんに「こちらの道を行けば曼殊院へ行けるんですよね」と確認しました。おばさんは、畑から道に出てきて、後ろ向きになり、私と話しながら後ろ向きのまま歩きだしました。
 「後ろ向きに歩くの、テレビでやっているの見たことあります。それ、健康法でいいんだそうですね」とたずねると、「うん、うん」とうなずいています。
 京野菜の話など聞きながら歩いていきました。

 途中、関西セミナーハウスというところの前まできました。コーヒーののぼり旗が立っているので「わたし、足が悪いので、ここで一休みしていきます」とおばさんに言うと、おばさんは元の道を普通に戻っていきました。


 思うに、おばさんは健康法のために後ろ向きになって私の前を進んでいたのではなく、東京から来たというバーさんが道に迷わないよう、それとなく先導していてくれたのです。「案内しますよ」の一言もなく、さりげなく先導してくれた京都一条寺近くのおばさん、ありがとうございました。

 関西セミナーハウスでは、なにかの講演会が行われていましたが、ロビーには売店の人だけ。絵葉書を購入してロビーの椅子で休ませてもらいました。

 関西セミナーハウスのすぐそばに曼殊院。拝観料600円。

<きょうの建物>
 門から曼殊院を見る


 門の中側


 庭園は「小堀遠州好みの枯山水」と説明がありますが、遠州が作庭したのかどうかはさだかではありません。

 曼殊院は、外観のみ撮影でき、門から中に入ると、庭園も建物内部も、すべて撮影禁止と出ていました。しかし、中には庭園をフツーに撮影している人もいます。

 私は、お金を取って観覧させるのなら、身分証明書を出し、住所氏名を申込用紙などに記入した参観者には、撮影を許可すべきだという確信をもっています。お寺の内部や仏像など、フラッシュ禁止は当然でしょうが、商用などでないなら、他の見学者が写り込まないよう注意を払い、何物も傷つけたりしないのであるならば、撮影してもよいように思うのですが。一律に撮影禁止というのは、いかがなものか。お寺は税を免れている分、参観者の仏教への崇拝の気持ちが深まるように努力すべし。一律撮影禁止措置は、その寺への崇拝の念を減じます。
 儲け主義の寺では「撮影料」というのを一般参観者からも徴収しているそうで、そういうお寺、仏罰があたると思いますけれど。

 どうやら、拝観料払うときに「堂内すべて撮影禁止」と、申し渡してはいるものの、縁側に座って庭園を撮影するのは「黙認」のようです。それなら、お金を払うときに「堂内撮影禁止」と、いちいち言うのはやめてほしい。

<きょうの庭>
 以下、勝手に撮影した曼殊院の庭と建物。


 枯山水 禅風と王朝風が融合した庭、だそうです。

 中庭(亀島)




 ↓は、不動明王に「撮影してもいいですか」とたずねたら、明王は「よし」とおっしゃったので、一枚パチリ。ほら、お寺はいろいろ面倒なこと言いますが、不動明王はおおらかです。我が信心は、ますます深く、世界平和国家安泰家内安全学業成就金運上昇その他もろもろお祈りしてきました。


 曼殊院の塀


 曼殊院道の田んぼは稲刈りの最中。わら束を残さず、細かく粉砕しつつモミだけを収穫している方式でした。

 
 曼殊院道をしばらく下り、途中客を下ろしているタクシーを見つけ、大通りのバス停まで乗ることにしました。1万歩を超えると、足がもたない。

 京都造形芸術大学の前でタクシーを降り、大学内カフェでコーヒーを注文して一休み。大学祭間近と見えて、学生たちがカフェ内を飾り付けていました。
 通信教育部があり、定年後のおじさんおばさんたちが彫刻や油絵などを学んでいます。スクーリングに来る高齢者も多いので、私がカフェにいても居心地悪いことはありませんでした。


 京都第一日目10月25日の歩数21422歩。疲れた。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「修学院離宮」

2018-12-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181201
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(2)修学院離宮

 京都御所や桂離宮修学院離宮は、朝から当日券めあてに並べば、事前の申し込みはしなくても見学できるようになっています。しかし、私は当日券が手に入らないことを考慮して事前に申し込みをしました。10月中ばすぎ、急に思い立っての京都旅行ですから、ほとんどの見学可能日はすでにどの時間帯も予約終了マークがついています。10月11月の旅行日程中、申し込みが可能なのは、夜行バスで京都に着いた10月25日朝9時のみ。

 京都駅から5番バス。40分。修学院道下車、徒歩10分。途中2度道を尋ねましたが、京都の人は、みな親切に教えてくれます。9時集合にぎりぎり間に合いました。

 見学にはツアーガイドが付き、ガイドより先に行ってはいけない、遅れてもいけない、という注意がありました。ガイドのお話は、あとでガイドブックを読めば書いてあることばかりなので、せっかくのご説明ながら、申し訳ない、ほとんど聞いていなかった。
 ガイドというより、見学客が勝手にあちこち歩きまわらないための監視役、といったところ。
 一団に遅れがちになりながら、景色をながめること、写真を撮ることを楽しみながらついていく。

 グループしんがりになるのは、人がいなくなったところを写真に撮りたいからです。でも、夫婦連れとその親と思うのおばあちゃんの3人組が私と追いつ追われつでゆるゆると進みました。ツアー集団が過ぎてしまうのを待って写真を撮ろうとすると、この3人組が遅れて現れ、なかなか思うような角度では撮影できませんでした。
 いちばんしんがりには皇宮警察のイケメン警官がバリっとしたスーツ姿でついてきて、一団の最後のひとりが悪さをしないか、監視しています。たしかに、宮内庁の管轄である離宮の道具ひとつでも無くなったら、たいへんですから。

 皇宮警察官ににらまれながら撮影した写真、並べてみるとほんとうに腕が悪い。専門の写真家が撮ったものに劣るのはもちろんですが、ネットの旅行サイトに出ている素人写真がきれいに見えるのに比べると、UPするのも恥ずかしながら、ですが、これは自分自身の「脳カツ」あとで思い出すためのメモですから、写真の出来は問わないでくださいまし。

・今日の庭園(修学院離宮庭園)
 マリーアントワネットが贅をつくしたベルサイユ宮殿に飽き、フランス農村の生活を再現したプチトリアノンで過ごすことを好んだように、宮廷人というのは、洋の東西を問わず、農村風景というものに心和むらしい。

 後水尾天皇(1596-1680)が造営した修学院も、田園風景を取り入れています。
 離宮内の美しい庭園や茶室のほか、田んぼや畑を設け、農家の暮らしぶりを「景色」として楽しんでいました。

 後水尾天皇は、徳川家康の孫婿にあたります。浅井氏お江と2代将軍秀忠の娘、和子(東福門院1607-1678)をいやおうなく迎え入れることになり、将軍家との軋轢すったもんだを繰り返しました。幸い和子との仲はよかったようで、昭和天皇に抜かれるまでは歴代天皇の最長寿者であり、中宮和子ほか女御たちとの間に、19皇子、16皇女をなした元気のよさ。天皇としての実権を徳川氏に握られてしまい、絶倫ぶりを発揮するか庭づくりに精出すか。皇子皇女として育ったのは上記の25人ですが、生まれた子は30人以上。遊女などの身分の低い女性とも、楽しくおつきあいを続けたとか。ともあれ、江戸初期の天皇として、教科書に出てくる。(以後の子孫は維新期の孝明天皇まで、中学高校の歴史の教科書にはあまり出てこない。幕末史に名が出てくる15代徳川慶喜も、大政奉還後、何の実権もなくなったあとは、趣味に生き、子作りに生きました。慶喜の子は、正室との間の子は夭折したものの、側室との間には10男11女の21人。残念、上皇様には負けている)

 天皇は、和子所生の女二宮興子内親王(明正天皇)に譲位。後水尾の24人の子のうち、明正、後光明、後西、霊元を帝位につけ、自身は院政を行いました。85歳の崩御(1680年)まで、上皇として悠々の後半生を送って離宮の美を完成させました。

 芸術的センスを発揮した庭づくり三昧のご生涯、決して楽しいばかりではない生涯でしたろう。将軍家からの圧力から逃れて気ままに過ごす離宮づくりに情熱を傾けたその成果を、「平成最後の」年に50年来の思いかなって、楽しませていただきました。

 54万平方メートルに及ぶ修学院離宮には上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋、下御茶屋の3か所の庭園で構成されています。上、中、下、御茶屋の間には、松並木や田んぼが広がってのどかな光景を演出しています。
 明治時代に離宮全体が宮内庁管轄となったとき、田んぼのあぜ道に松が植えられました。明治天皇御幸のためです。中御茶屋は、東福門院の御座所として造営され、現在では、上中下とともに宮内庁の管轄です。

園内地図。参観経路
https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/institution_shugaku.html

きれいに撮影されている宮内庁の写真はこちら
http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kyoto/syugakuin-ph.html

 それでは、春庭のメモ写真。

 下御茶屋(下離宮)寿月観の庭(たぶん)








 下だか中だか、もはやわすれた庭


 背中を見せて歩く皇宮警察官
 

 松並木


 横に這う枝ぶりの松


 園内の田んぼは、稲刈りが終わって「はさがけ」がなされていました。


 離宮の畑。現在は宮内庁から請け負った近隣の契約農家が栽培を続けているそうです。


 田んぼから眺める京の街並み




 中御茶屋裏側には、こんな石組みも。


 上御茶屋の回遊式池園。浴龍池。
 隣雲亭から浴龍池をながめる。いいお天気に恵まれ、雲が池に映ってきれいでした。
 浴龍池は、平安貴族の遊びを模倣する舟遊びができるように、舟を浮かべられるぎりぎり60CMの水深で掘られた人口の池です。


 蓮池


 隣雲亭から浴龍池をながめる。 


 楓橋。楓はまだ色づきもせず。


 千歳橋のそばには色づき始めた枝もありました。 


 西浜


 西浜あたりから千歳橋を望む。
 

 庭をめぐっているうちに、どれも見事なお庭ではあるけれど、だんだんどちらがどれやら、わからなくなってきました。ゆっくり座って眺める時間はわずかで、どんどん進んでいかないと、「いそいでください」と叱られます。上御茶屋隣雲亭の縁で少しの休憩時間がありましたが、「歩けあるけ」の離宮庭園巡り1時間強でした。

 30分毎くらいに50人ほどのグループにまとめられ、1グループごと先頭にガイドさんとしんがりに皇宮警察官がにつきます。私の一団は、20人くらい。朝一番早い9時だったため、少人数でした。
 宮内庁管轄というのはわかるけれど、赤坂迎賓館とか皇居東御苑程度に自由に見せてほしかった。石ころひとつ持ち出したりしませんって。
 

・今日の建てもの

 下御茶屋 寿月観


 寿月観扁額は後水尾上皇宸筆

 
 中御茶屋 楽只軒(後水尾上皇の皇女光子(てるこ)内親王の住まい)と客殿(東福門院の女院御所の奥対面所を移築したもの)




 客殿


 客殿霞棚


 入母屋造り木賊葺(とくさぶき)の廂


 客殿の絵


 客殿杉戸の絵 「祇園祭の鉾」 伝狩野敦信


 客殿の縁と欄干


 上御茶屋 隣雲亭 園内、濡れ縁に腰かけて休憩できた唯一の場所。


 浴龍池中島の窮邃亭(きゅうすいてい)


・今日の工芸 
 京都には、伝統の技を保持する工芸がたくさん残されています。修学院離宮のふすまの引手にも、くぎ隠しにもさまざまな意匠が残されているのですが、残念ながら、室内を見て回ることはできません。外部から室内を撮影することはできたのですが、細かい意匠の工芸は、外からでは伺えませんでした。

 御幸門の透かし彫り(花菱)菱模様は後水尾上皇のお好み。
 

 客殿手すりのつなぎ目


 客殿杉戸絵の鯉。網を描いたのは伝丸山応挙。


 御幸門前に戻ってくると、次の次の観覧者たちが集合しているところでした。修学院離宮、広さもあり上中下の高さを移動するには、年寄りにはかなりきつい行程です。私のように、「膝が関節炎だから、途中で休みたかった」なんぞと泣き言をいう下々は、観覧希望をださぬがよかろう。
 後水尾上皇が生涯をかけて造営した離宮、もう少しゆっくり見て回りたかったです。

<つづく> 
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