昨日の話。
20年くらい前に自分のために買った、小さな小さな御所雛、そうだ雨水の大安ならちょうど良い雛飾りの日、と思ったのだ。が、当日は忘れてしまい昨日になった。別に急いで出さなくても、3月3日過ぎて仕舞い忘れたって私はお嫁に行く訳でもなし。
場所がないので、主宰の色紙を飾っているパソコンデスクの上に置いている。
色紙は 花満ちてゆく鈴の音の湧くやうに 杏子
雛人形は長姉のものが段飾りで家にあって、私が小学生の頃まで飾っていた気がする。あの戦争の中を田舎へ疎開したときも東京から運んだのだ。でも、私のものではなかった。とはいえ、姉が嫁いだあとも我が家に残ってはいた。色々あって亡次姉の死後、古びた内裏雛だけが私の手元に残されたのだが・・ここへ来るとき、何だか侘しいので捨ててきた。ごめんね、と今は思う。自分の雛だったらどんなに古びていても捨てなかっただろう・・人間は勝手な動物だ。
なぜ木目込みの小さな御所雛にしたかというと、場所がなくてもどこにでも飾れるから。たとえ病院の枕元でも。
まさか、老人ホームへ入るとまでは思っていなかったけれど。
昨日は午後、いつも来てくれる後輩が、色々とお土産を持って来訪した。紅梅の一枝の蕾が、桃の花のように綺麗な色だった。
久々の外からの人で、珈琲飲みながらよく喋りました。最近、本気で喋る相手が階下の90歳のお友達くらいしか居ないので、滑舌が悪くなった。でも喋りたいことは幾らでもある・・オバアサンってそうなのです。で、彼女が帰ったあとで心配になった。もしかして、私、同じ話を繰り返していない?
先月会ったときにもう話したことを今日も話しているかも。90歳のお友達が、時々、もう話したことをまた話す。別に認知症ではない。私も同じかもしれない。そういえば、母の晩年もそうだった。でも認知症にはほど遠い人だった。
一晩経ったら、紅梅がにぎやかになってきた。
やはらかき雲の湧く午後雛飾る KUMI