隠津島神社へ行きましょう
大スギの前から、右手の参道を進みます
まもなく、赤い三重塔が見えて来ます
三重の塔です
福島県指定重要文化財 隠津島神社三重塔の標柱です
南西側から
説明版です
福島県指定重要文化財
隠津島神社三重塔
昭和30年12月27日指定
所在地 東和町大字木幡字治家49
所有者 隠津島神社
隠津島神社は、木幡弁天と称され、その創始は古く平安時代までさかのぼる。その後天正年間
(1573~91)兵火にあって衰微した」といい、木幡山縁起に「天女の尊容一基の宝塔をの
こす」とあり、この宝塔が即ち三重塔の前身である。
宝永20年(1643)頃は、かろうじて初層のみ形をとどめていたが、延宝2年(1674)
二本松藩主丹羽光重が改築を行い、享保元年(1716)に再び修理を加えた。明治になって初
層を残して付近の倒木により破損したので、大修理を行っている。初層は、総じて和様を呈して
いる。
本県には、会津高田町の法用寺、いわき市の高蔵寺に三重塔があるが、いずれも江戸中期以降
のものである。
福島県教育委員会
南東側から
社殿へ行きましょう
拝殿です
本殿です、立派なものです
縁起です
説明版です、二本松市指定有形文化財です
拝殿前から三重塔を見下ろしました
境内社です、本殿西側から経塚群へ行きましょう
天明為民の碑です、飢饉に対する教えが刻まれています
先へ進むと
三十三観音の祠が並びます
観音堂の裏側から、尾根道の階段になりあす、まもなく中間です7番の分岐です
まだまだ階段が続きます
経塚群入口です、ここまで約30分かかりました
説明版です
福島県指定史跡
木幡山経塚群
昭和54年3月23日指定
所在地 東和町大字木幡字治家70番地
所有者 隠津島神社
木幡山は、神仏習合の山として古くから栄えた信仰の山である。山頂に、蔵王宮、山腹に延喜式内社
といわれる隠津島神社、麓に「三代実録」所載の天台別院、安積弘隆寺の後身と言われる地陸寺の旧跡
がある。
山頂尾根には、東西一線上に経塚6基がならび、西端に花崗片磨岩の立石がある。経塚は小形の積石
式で、円形、方形、長形をしており、高さは1m前後である。昭和53年7月の発掘調査時にはすでに
盗掘にあって破壊され、経文を埋納した容器、伴出物の完全な物は失われていたが、石製外筒片、和鏡
片、刀子、古銭、灰釉陶片、土師器、須恵器など多数出土した。出土品から12世紀の経塚であると考
えられる。また、蔵王信仰の立石祭祀遺跡を伴う、まれにみる宗教遺跡である。
なお、奈良国立博物館には、この経塚から発見された銅経筒・石製外筒がある。
福島県教育委員会
尾根筋の林の中に、地面が盛りあがているのが経塚です
では、戻りましょう
大スギの前から、右手の参道を進みます
まもなく、赤い三重塔が見えて来ます
三重の塔です
福島県指定重要文化財 隠津島神社三重塔の標柱です
南西側から
説明版です
福島県指定重要文化財
隠津島神社三重塔
昭和30年12月27日指定
所在地 東和町大字木幡字治家49
所有者 隠津島神社
隠津島神社は、木幡弁天と称され、その創始は古く平安時代までさかのぼる。その後天正年間
(1573~91)兵火にあって衰微した」といい、木幡山縁起に「天女の尊容一基の宝塔をの
こす」とあり、この宝塔が即ち三重塔の前身である。
宝永20年(1643)頃は、かろうじて初層のみ形をとどめていたが、延宝2年(1674)
二本松藩主丹羽光重が改築を行い、享保元年(1716)に再び修理を加えた。明治になって初
層を残して付近の倒木により破損したので、大修理を行っている。初層は、総じて和様を呈して
いる。
本県には、会津高田町の法用寺、いわき市の高蔵寺に三重塔があるが、いずれも江戸中期以降
のものである。
福島県教育委員会
南東側から
社殿へ行きましょう
拝殿です
本殿です、立派なものです
縁起です
説明版です、二本松市指定有形文化財です
拝殿前から三重塔を見下ろしました
境内社です、本殿西側から経塚群へ行きましょう
天明為民の碑です、飢饉に対する教えが刻まれています
先へ進むと
三十三観音の祠が並びます
観音堂の裏側から、尾根道の階段になりあす、まもなく中間です7番の分岐です
まだまだ階段が続きます
経塚群入口です、ここまで約30分かかりました
説明版です
福島県指定史跡
木幡山経塚群
昭和54年3月23日指定
所在地 東和町大字木幡字治家70番地
所有者 隠津島神社
木幡山は、神仏習合の山として古くから栄えた信仰の山である。山頂に、蔵王宮、山腹に延喜式内社
といわれる隠津島神社、麓に「三代実録」所載の天台別院、安積弘隆寺の後身と言われる地陸寺の旧跡
がある。
山頂尾根には、東西一線上に経塚6基がならび、西端に花崗片磨岩の立石がある。経塚は小形の積石
式で、円形、方形、長形をしており、高さは1m前後である。昭和53年7月の発掘調査時にはすでに
盗掘にあって破壊され、経文を埋納した容器、伴出物の完全な物は失われていたが、石製外筒片、和鏡
片、刀子、古銭、灰釉陶片、土師器、須恵器など多数出土した。出土品から12世紀の経塚であると考
えられる。また、蔵王信仰の立石祭祀遺跡を伴う、まれにみる宗教遺跡である。
なお、奈良国立博物館には、この経塚から発見された銅経筒・石製外筒がある。
福島県教育委員会
尾根筋の林の中に、地面が盛りあがているのが経塚です
では、戻りましょう