四本龍寺は本宮神社と日光幼稚園の間に有ります
本殿の右手を北側に進むと祭祀場(紫雲石)です
紫雲石説明版です
ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石
で、勝道上人が、ある日、礼拝をささげた折、こ
の石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方
へたなびくのを見たということから、紫雲石と呼
ばれる。そしてこの地を四神守護の霊地として、
四本龍寺を建てたという。
現在は、観音堂と三重塔のみだが、日光発祥の
地であり、奈良、平安時代の日光の中心地であっ
た。
三重塔です四本龍寺です
説明版です
重要文化財
世界遺産
四本龍寺 三重塔(しほんりゅうじ さんじゅうのとう)
日光山24世座主「弁覚上人」が将軍源実朝の
供養のために仁治2年(1241)に東照宮境内
付近くに建立し、その後この地に移築されました
。貞享元年(1684)の大火で焼失しましたが
翌年再建されたのが現在の塔です。三間四方(約
6m)で、最下層の軒下に「十二支」の彫刻があ
ります。
三重塔と観音堂の間にある石像「不動明王」と
「石護摩壇」は、日光修験の往時をしのぶ遺跡と
なっています。特に「石護摩壇」は「採灯護摩壇
」といい、山伏が屋外で護摩修行するためのもの
ですが、この様に石造りで常設されている例は全
国でも珍しく、日光山独特のものといわれていま
す。
御不動様です、手前に石造護摩壇が有ります
観音堂です
説明版です
重要文化財
世界遺産
四本龍寺(しほんりゅうじ)
四本龍寺観音堂(県指定文化財・世界遺産)
四本龍寺は、天平神護2年(766)、日光山
を開山された「勝道上人」(735~817)に
よって創建された日光山で最初の寺院です。
勝道上人は下野国(現在の栃木県)の生まれで
27歳で下野薬師寺において唐僧鑑真和上の高弟
であった如宝僧都から戒をうけて僧侶となり、長
年修学の後、深い観音信仰のもと、十人の弟子た
ちとともに日光開山を志します。
天平神護2年(766)32歳のとき、深沙王
の助けによって無事に大谷川を渡った上人一行は
、東の空に神々しい「紫の雲」が立ち昇るのをみ
て、この地に小さな草庵を結び「観音様」と「氏
神様」を祀りました。はじめは紫の雲が立ち昇っ
たので紫雲立寺とし、後に音の似ている「四本龍
寺」となったといわれています。
上人はその後、四本龍寺お基点として弟子達と
ともに苦修練行され、天応2年(782)、つい
に補陀洛山(二荒山=男体山、標高2486m)
の頂上を極めます。そして中禅寺湖畔に生えてい
た桂の大木に千手観音像を自ら刻み「中禅寺」を
開創しました。さらに、雨を祈って雲をおこすな
ど、さまざまな霊験を伝えます。これは、日本仏
教の二大教祖である「最澄」「空海」の活躍する
20年ほど前のこととなります。
「観音堂」は四本龍寺の本堂で、現在の建物は
大同2年(807)、下野国司「橘利遠」が建立
したもので、千手観音が本尊として祀られていま
す。4間四方(約8m)で、二社一寺の建造物の
中では数少ない素木造りとなっています。
なお、このお堂は明治7(1874)年に金剛
童子を合祀したもので「金剛堂」とも呼ばれ、下
野三十三観音巡りの第三番札所ともなっています
。
説明版です
深沙王堂(じんじゃおうどう)
伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一
行が大谷川を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放
って一行を助けたという「深沙大王」(蛇王権現)
が祀られています。深沙王は{毘沙門天」の化身
であり、その昔、仏教経典を求めてインドに向う
玄奘三蔵を危機から救ったといわれています。
橋渡しの神という信仰から「縁結び」、また蛇
信仰から「商売繁盛」としても崇められています
。現在の社殿は、昭和53年(1978)の再建
です。
では、輪王寺へ行きましょう
日光開山の勝道上人像です
輪王寺ですが三仏堂前の金剛桜は、訪問時まだまだ蕾でしたので
日光二荒山神社へいきましょう{/arrow_t/
本殿の右手を北側に進むと祭祀場(紫雲石)です
紫雲石説明版です
ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石
で、勝道上人が、ある日、礼拝をささげた折、こ
の石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方
へたなびくのを見たということから、紫雲石と呼
ばれる。そしてこの地を四神守護の霊地として、
四本龍寺を建てたという。
現在は、観音堂と三重塔のみだが、日光発祥の
地であり、奈良、平安時代の日光の中心地であっ
た。
三重塔です四本龍寺です
説明版です
重要文化財
世界遺産
四本龍寺 三重塔(しほんりゅうじ さんじゅうのとう)
日光山24世座主「弁覚上人」が将軍源実朝の
供養のために仁治2年(1241)に東照宮境内
付近くに建立し、その後この地に移築されました
。貞享元年(1684)の大火で焼失しましたが
翌年再建されたのが現在の塔です。三間四方(約
6m)で、最下層の軒下に「十二支」の彫刻があ
ります。
三重塔と観音堂の間にある石像「不動明王」と
「石護摩壇」は、日光修験の往時をしのぶ遺跡と
なっています。特に「石護摩壇」は「採灯護摩壇
」といい、山伏が屋外で護摩修行するためのもの
ですが、この様に石造りで常設されている例は全
国でも珍しく、日光山独特のものといわれていま
す。
御不動様です、手前に石造護摩壇が有ります
観音堂です
説明版です
重要文化財
世界遺産
四本龍寺(しほんりゅうじ)
四本龍寺観音堂(県指定文化財・世界遺産)
四本龍寺は、天平神護2年(766)、日光山
を開山された「勝道上人」(735~817)に
よって創建された日光山で最初の寺院です。
勝道上人は下野国(現在の栃木県)の生まれで
27歳で下野薬師寺において唐僧鑑真和上の高弟
であった如宝僧都から戒をうけて僧侶となり、長
年修学の後、深い観音信仰のもと、十人の弟子た
ちとともに日光開山を志します。
天平神護2年(766)32歳のとき、深沙王
の助けによって無事に大谷川を渡った上人一行は
、東の空に神々しい「紫の雲」が立ち昇るのをみ
て、この地に小さな草庵を結び「観音様」と「氏
神様」を祀りました。はじめは紫の雲が立ち昇っ
たので紫雲立寺とし、後に音の似ている「四本龍
寺」となったといわれています。
上人はその後、四本龍寺お基点として弟子達と
ともに苦修練行され、天応2年(782)、つい
に補陀洛山(二荒山=男体山、標高2486m)
の頂上を極めます。そして中禅寺湖畔に生えてい
た桂の大木に千手観音像を自ら刻み「中禅寺」を
開創しました。さらに、雨を祈って雲をおこすな
ど、さまざまな霊験を伝えます。これは、日本仏
教の二大教祖である「最澄」「空海」の活躍する
20年ほど前のこととなります。
「観音堂」は四本龍寺の本堂で、現在の建物は
大同2年(807)、下野国司「橘利遠」が建立
したもので、千手観音が本尊として祀られていま
す。4間四方(約8m)で、二社一寺の建造物の
中では数少ない素木造りとなっています。
なお、このお堂は明治7(1874)年に金剛
童子を合祀したもので「金剛堂」とも呼ばれ、下
野三十三観音巡りの第三番札所ともなっています
。
説明版です
深沙王堂(じんじゃおうどう)
伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一
行が大谷川を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放
って一行を助けたという「深沙大王」(蛇王権現)
が祀られています。深沙王は{毘沙門天」の化身
であり、その昔、仏教経典を求めてインドに向う
玄奘三蔵を危機から救ったといわれています。
橋渡しの神という信仰から「縁結び」、また蛇
信仰から「商売繁盛」としても崇められています
。現在の社殿は、昭和53年(1978)の再建
です。
では、輪王寺へ行きましょう
日光開山の勝道上人像です
輪王寺ですが三仏堂前の金剛桜は、訪問時まだまだ蕾でしたので
日光二荒山神社へいきましょう{/arrow_t/