梓川上野地区は、松本市役所の西南西約14kmのところ
国道158号線を上高地方面に向かいます、三溝新田信号を右(北)へ県道315号波田北大妻豊科線です
梓川を北側(左岸側)へ下鳥橋で渡り、すぐに左(西)へ梓川リバーサイドラインを進みます、道なりに進んで県道278号線の交差点を過ぎて上り坂を登って行きます、「舟つなぎ桜」を過ぎて交差点を左へ、次を右へ進むとリンゴ畑の中に・・・
幟の支柱が建っています、
すぐ脇に車を止めさせて頂きました
参道です
参道は防獣柵に覆われています、防獣柵を開けて中へ入ります
参道の鳥居です
鳥居の左手(南側)に目的のメグスリノキです
説明版です
長野県天然記念物
八幡宮鞠子社のメグスリノキ
文化財保護条例(昭和35年長野県条例第43号)
第2条の規定の規定により平成により平成15年9月16日指定
カエデ科メグスリノキは温帯の山地に生える落葉高木。日本固有の植物で、本州(宮城県以南)四国・九州に分布するが、北陸地方や近畿地方以西では少ないといわれている。市内でも地理的に北陸に近いためか、まれにみられる程度である。
樹皮を煎じて洗眼薬として使ったことから、名付けられたものらしい。幹が真直ぐに伸び、上方で四方に分かれていて、これだけ大きなメグスリノキは、北相木村に生育する天然記念物より樹高は高く、近隣市町村はもちろん県下にも数少ないものである。
目通り周囲 3.06m
高さ 28m
平成17年4月
長野県教育委員会
松本市教育委員会
南西側から
西(奥側)から
北側参道から
水盤です
杉並木の参道です
参道左にモミの大木です(境内に4本のモミの大木を確認出来ました)
石段を登ると神楽殿です
拝殿側から
拝殿はもう一段上です
本殿です
拝殿の軒下に説明版です
八幡宮鞠子社
祭神 応神天皇
建御名方命
当神社の創建年代は不詳なれども、信濃国旧上野村の内中村・田屋・寺屋・上丸田の産土神なり。
古は鞠子大明神と称され、境内地一町三反余を有する古社にして、安曇野南部の大社なれば、旧松本藩主代々の崇敬篤く、社領として田畑二反六畝余を献じ、厚く祭祀を司さどらしむ。
文久年間社殿造営に際しては役人を派遣し、また、境内整備のため郡奉行をして禁制札を建立せしめらる。
明治5年11月村社に列せられ、大正2年社務所を新築、氏子の敬神の念年と共に高まり、大正9年幣殿を新築し、同年長野県告示を以て、神饌料並幣帛料共進神社に指定される。
昭和16年拝殿,同32年神楽殿の改築をなし、社殿境内の整備全くなり今日に至る。
5月5日の例大祭には氏子の中区田屋区寺屋区より山車に飾物をなし引出、又、獅子舞を奉納し、上丸田区は鞠子大明神の幟二流を押し建て来たり盛大なる祭典を執行するを例としていたが近時は獅子舞のみ奉納せられている。
昭和57年10月
社務所前にはヒノキの大木です
境内左手のモミの大木です
では、次へ行きましょう
国道158号線を上高地方面に向かいます、三溝新田信号を右(北)へ県道315号波田北大妻豊科線です
梓川を北側(左岸側)へ下鳥橋で渡り、すぐに左(西)へ梓川リバーサイドラインを進みます、道なりに進んで県道278号線の交差点を過ぎて上り坂を登って行きます、「舟つなぎ桜」を過ぎて交差点を左へ、次を右へ進むとリンゴ畑の中に・・・
幟の支柱が建っています、
すぐ脇に車を止めさせて頂きました
参道です
参道は防獣柵に覆われています、防獣柵を開けて中へ入ります
参道の鳥居です
鳥居の左手(南側)に目的のメグスリノキです
説明版です
長野県天然記念物
八幡宮鞠子社のメグスリノキ
文化財保護条例(昭和35年長野県条例第43号)
第2条の規定の規定により平成により平成15年9月16日指定
カエデ科メグスリノキは温帯の山地に生える落葉高木。日本固有の植物で、本州(宮城県以南)四国・九州に分布するが、北陸地方や近畿地方以西では少ないといわれている。市内でも地理的に北陸に近いためか、まれにみられる程度である。
樹皮を煎じて洗眼薬として使ったことから、名付けられたものらしい。幹が真直ぐに伸び、上方で四方に分かれていて、これだけ大きなメグスリノキは、北相木村に生育する天然記念物より樹高は高く、近隣市町村はもちろん県下にも数少ないものである。
目通り周囲 3.06m
高さ 28m
平成17年4月
長野県教育委員会
松本市教育委員会
南西側から
西(奥側)から
北側参道から
水盤です
杉並木の参道です
参道左にモミの大木です(境内に4本のモミの大木を確認出来ました)
石段を登ると神楽殿です
拝殿側から
拝殿はもう一段上です
本殿です
拝殿の軒下に説明版です
八幡宮鞠子社
祭神 応神天皇
建御名方命
当神社の創建年代は不詳なれども、信濃国旧上野村の内中村・田屋・寺屋・上丸田の産土神なり。
古は鞠子大明神と称され、境内地一町三反余を有する古社にして、安曇野南部の大社なれば、旧松本藩主代々の崇敬篤く、社領として田畑二反六畝余を献じ、厚く祭祀を司さどらしむ。
文久年間社殿造営に際しては役人を派遣し、また、境内整備のため郡奉行をして禁制札を建立せしめらる。
明治5年11月村社に列せられ、大正2年社務所を新築、氏子の敬神の念年と共に高まり、大正9年幣殿を新築し、同年長野県告示を以て、神饌料並幣帛料共進神社に指定される。
昭和16年拝殿,同32年神楽殿の改築をなし、社殿境内の整備全くなり今日に至る。
5月5日の例大祭には氏子の中区田屋区寺屋区より山車に飾物をなし引出、又、獅子舞を奉納し、上丸田区は鞠子大明神の幟二流を押し建て来たり盛大なる祭典を執行するを例としていたが近時は獅子舞のみ奉納せられている。
昭和57年10月
社務所前にはヒノキの大木です
境内左手のモミの大木です
では、次へ行きましょう