さいたま市大宮区の氷川神社の北側に大宮公園が有ります
開花宣言が出された3月31日に電車で花見ついでに埼玉護国神社の参道にあるアカシデを見て来ました
平成5年(2023)5月に幹の腐朽が進んだために幹の約2mの所から伐られてしまっています
東武アーバンラインの北大宮駅から北東約500mですので、住宅街を進みます
大宮簡易裁判所の南側の横断歩道で裏参道通りを渡って大宮公園に入りました
すぐに左(北)へ進むと
公園の中では多くの人々が
花見を楽しんでいましたよ
埼玉護国神社東側の参道沿いの土手に目的のアカシデです
南西側から
説明版です
アカシデ カバノキ科
アカシデは樹高10~15mになる落葉高木で、北海道南部から九州、朝鮮半島に分布しています
低地から丘陵地の雑木林に生育し、樹皮は灰白色で滑らかですが、幹は肥大成長が均等に行われないため凹凸ができ、老木になると太い脈状の出入りが多くなります。
名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄に垂れ下がる紙(しで)に似て、新芽が赤いことによります。
床柱、家具などに利用される他、盆栽界ではイヌシデとともにソロの名で親しまれています。
このアカシデの木の樹齢は定かではありませんが、優に100年は越えていると推測され、大宮公園開園以来の歴史を見守り続けてきた木の一つです。
平成20年9月 埼玉県大宮公園事務所
東側から
西側から
幹の伐採から1年になろうとしていますが、まだ芽吹きにはいたっていませんね~
護国神社にお参りしましょう
社號標です
由緒説明版です
由緒略記
鎮座地 さいたま市大宮区高鼻町3丁目149番地
祭神 鳥羽伏見の役以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊5万1千余柱を祀る
沿革 昭和9年4月9日埼玉県招魂社として設立鎮座し、同14年3月神社制度の改正により、埼玉県護国神社と改称され、4月に指定護国神社となり、例大祭には神饌弊帛の供進がなされてことになった。
同21年2月神社制度の変革により宗教法人埼玉県護国神社と改められ、更に同23年10月埼霊神社と改称、同27年再び埼玉県議国神社と改称し現在に至る。
昭和30年1月奉賛会が設立せられ、以来年々の例大祭は埼玉県民挙げて厳粛盛大におこなっている。
皇室の御崇敬 昭和9年鎮座に際し、天皇陛下の畏き祭粢料御下賜があり、朝香宮殿下の御参列があった。
以来、天皇陛下を始め皇族の祭粢料御奉納は度々に及び、
昭和38年 9月 皇太子殿下御参拝
昭和42年10月 天皇 皇后両陛下御同列の御参拝を賜った
平成 5年 5月 天皇 皇后両陛下御同列の御参拝を賜った
裏参道通りの西側に埼玉県護国神社を見ました
手水舎です
銅鳥居と社殿です
境内南側には砲弾です、説明書きには・・・
奉納 艦砲弾 経24cm、全長約90cm
天皇陛下のもと、国家安寧を願い見事玉と砕けた御英霊等の鎮魂の一助になればと思い謹んで捧げ奉ります。
この艦砲弾は古い型の砲弾であります。東郷元帥が聯合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。
その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその際出撃致した戦艦を始め各艦の砲弾を御奉納なされたとの説があります。
譲り受けた老爺(故人)に伝え聞いたところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社に御奉納され境内のいずれかにあったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出致しておりました。
艦砲の砲撃手は俗に自ら鉄砲屋と呼び、一弾一弾を我が子のように慈しみ(見事命中してくれよ)と祈りを籠めて懸命に磨き上げたときいております。この砲弾もそうであったに違いないと思います。
この砲弾を使用した艦名が判明致しておりません。御存じの御方がおられましたら、是非御教示、御指導頂けますれば幸甚に存じます。
平成25年6月吉日 大宮住 加藤芳夫
出征兵士の像です
境内北側には「特攻花」の案内板です、知覧より移植されたテンニンギクですがまだ芽を出していないようです
埼玉県特攻勇士之像です
銅鳥居北側の桜は、ほぼ満開の状態になっていました
では、次へ行きましょう