愛宕山古墳は、博物館入口の県道77号古墳通りの北側に接しています
駐車場にも、博物館にも近いのですが、最後に成りました
博物館への県道からの入り口です
さきたま古墳庚園案内図です
南西側県道77号古墳通り南側から愛宕山古墳です
発掘調査が行われていますが
本日はお休みでブルーシートが掛けられています、位置的には外堀の部分です
西側から前方部です
北西側から
北側から
説明版です
愛宕山古墳
全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
最小ではありますうが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した象形埴輪があります。
円筒埴輪は、高さ40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会
*さきたま史跡の博物館のホームページでは、墳丘長54.7mとなっています。また、墳丘上に愛宕神社があったようです。
北東側の丸墓山への遊歩道わきには「臨済宗 妙心寺派 海東山 天祥禅寺」山門です
築地塀に説明版です
天祥寺由来
旧藩時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外6家に過ぎず、御三家、加賀100万石より上位なり。
初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥寺の本寺たり。
9代忠尭公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の3君、この蛍城の地下に眠る。
近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
現在松平家の墓所は、行田市の文化財に指定を受けた目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。
では、今回の取材は終わりにして、自宅へ帰ります
駐車場にも、博物館にも近いのですが、最後に成りました
博物館への県道からの入り口です
さきたま古墳庚園案内図です
南西側県道77号古墳通り南側から愛宕山古墳です
発掘調査が行われていますが
本日はお休みでブルーシートが掛けられています、位置的には外堀の部分です
西側から前方部です
北西側から
北側から
説明版です
愛宕山古墳
全長53m、埼玉古墳群の中でもっとも小さな前方後円墳です。
最小ではありますうが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に巡ることが、発掘調査により確認されました。
墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した象形埴輪があります。
円筒埴輪は、高さ40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。
古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。
平成21年(2009年)3月 埼玉県教育委員会
*さきたま史跡の博物館のホームページでは、墳丘長54.7mとなっています。また、墳丘上に愛宕神社があったようです。
北東側の丸墓山への遊歩道わきには「臨済宗 妙心寺派 海東山 天祥禅寺」山門です
築地塀に説明版です
天祥寺由来
旧藩時代大名の数、270余藩というが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外6家に過ぎず、御三家、加賀100万石より上位なり。
初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。
天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥寺の本寺たり。
9代忠尭公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の3君、この蛍城の地下に眠る。
近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。
現在松平家の墓所は、行田市の文化財に指定を受けた目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。
では、今回の取材は終わりにして、自宅へ帰ります