気仙町砂盛地区は、陸前高田市役所の南西約2kmのところ
道の駅高田松原・東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)が併設されていて、JR釜石線BRTの「奇跡の一本松駅」にもなっています。
平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した「旧道の駅高田松原(タピック45)」でしたが、新たに「重点道の駅」に選定され、震災の犠牲者への追悼と鎮魂、復興への強い意志を国内外に向けて明確に示すことを目的として整備されました。
「高田松原津波復興祈念公園」は、約130 ㌶( 東京ドームおよそ30 個分)という広大な面積を誇り、国、県、市による復興プロジェクとの一環として、令和3年(2021)に完成しました。
「国営追悼・祈念施設」及び「東日本大震災津波伝承館」が、たくさんの方に追悼や学習のためなどに利用され、この日も、土曜日ということもあり大勢の方々が、道の駅を利用していました。
駐車場南西端に車を止めさせて頂きました
曇り空で降ったり止んだりの一日でしたが、降らないようなので「道の駅高田松原 大屋根休憩スペース」から南西に向かいます
右手に見えるのは
巨大なベルトコンベアの基礎(土台)です
説明版です
希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎
・希望のかけ橋
東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。
その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。
気仙川をはさんで、高台の住宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。
2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月末までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。
これは、かさ上げ盛土に必要な1200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。
市内の小学生に公募し決定した希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。
・復興遺構として後世に伝える
2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存がけっていしました。
ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てるのないつり橋構造が採用されました。
復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。
対岸に「奇跡の一本松」が見えて来ました
奇跡の一本松の説明石碑です
奇跡の一本松
平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。
陸前高田市においても多くの方々が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。
そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」。
その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
この保存企業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。
みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。
平成25年3月 陸前高田市
橋を渡って北側から、後方にはユースホステルの残骸です
震災遺構 奇跡の一本松
・震災前の「奇跡の一本松」
東日本大震災津波被害前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風、防潮林としての植林がその始まりでした。
その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。
しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。
「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老樹のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。
・被災状況
2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した大津波は、5.5mの防潮堤(当時)を倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。
過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツが流失しました。
その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
震災津波で深く傷ついた人々の心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡った「奇跡の一本松」でしたが、海水により深刻なダメージを受けており、震災翌年の2012年(平成24年)5月には、枯死が確認されました。
しかし、保存を願う市民、また内外からの温かい支援により、モニュメントとして保存され、今も震災の記憶を伝え続けています。
・保存活動ーー奇跡の一本松プロジェクトーー
枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指したプロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。
屋外でのこのような保存例はありませんでした。そこで幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるため芯棒を入れ、その素材には航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。
2013年(平成25年)6月に完成しました。
東側から見上げました
「奇跡の一本松」の南側には、震災遺構「陸前高田ユースホステル」です
陸前高田ユースホステルの説明石碑です
震災遺構 陸前高田ユースホステル
「陸前高田ユースホステル」は風光明媚な高田松原公園内にあった宿泊施設でした。
1969年(昭和44年)竣工の鉄筋コンクリート2階建て、延べ床面積698㎡、玄関ホールを中心に左右に客室がのびた美しい建物でした。
2011年(平成23年)1月から休館中だったため東日本大震災津波の発災当日は無人でしたが、津波によって建物は完全に水没。
砂地だった地盤が大きくえぐられ、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿は、津波の脅威を如実に物語っています。
「奇跡の一本松」は、この建物があったために津波の直撃を免れ、倒れることなく残ったと考えらてれます。
北東側から
東側から見ました
奇跡の一本松の東側には「被災したマツの根株」がありましたが、ほぼ残っていません
説明石碑です
被災したマツの根株
巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。
津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がった沢山のマツの根株が残されていました。
大防潮堤に登って見ましょう
奇跡の一本松付近に「松坂新右衛門翁顕彰碑」が設置されました。この碑は東日本大震災津波で流され気仙川水門工事の際に発見されたものです。松坂新右衛門はかつて江戸時代に不毛の地であったこの場所に私財を投じ松を植え高田松原の礎を築き、初めて植林に取り組んだ菅野杢之助と並ぶ偉人の一人です。(高田松原の北東側にあったとされる菅野杢之助翁顕彰碑はまだ見つかっていません)
顕彰碑の文面には・・・
松坂新右衛門定宣翁
顕彰碑
岩手県知事 千田正 書
この旧称今泉松原は、その始め享保年中気仙町和名倉松坂家第4代の租松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたのである。
当時此の地は一木も無く、海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し、収獲皆無こと再びに及んだ。
翁は此のことを深く憂え、之が対策は防風林の造成にあるのみと、多額の私財を投じて苗木を求め、人夫を雇い、自らも身を挺して赤松の数千を植え付け、更に幾多の悪条件を克服し、かつ補植をつづける管理をよくし、以て今日の美林の基をつくりあげた。
それより歳月を経ること250余年、我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り、安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ。是皆翁の深慮の賜と言うべきである。
気仙川の清流は、滔々として千載に語り、太平洋の碧浪は白砂を打って賛歌を奏で、翁の功業を常してに称えようとしている、我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し、永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て、以て顕徳の微意を表する次第である。
昭和47年仲春
三陸ジオパーク説明版です
高田松原ジオサイト
・概要
高田松原には、かつて約2kmに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防潮林として存在していました。
東日本大震災津波で甚大な被害を受け、奇跡的に残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなっています。
南部三陸海岸は、入り組んだ岬や入り江で知られるリアス海岸が天然の良港となるとともに、複雑な岩礁が海洋資源を育んでいます。
一方で、湾の入り口から奥へ狭くなる形状と、水深が浅くなる地形的特徴から、津波の波高が大きく増幅されるため、繰り返し大きな被害に見舞われてきました。
①繰り返される津波被害
②災害文化の伝承と次世代への継承
周囲の見どころ
③玉山金山跡
④氷上山
⑤気仙縄文遺跡(「中沢浜貝塚」)
⑥南部北上帯の古生界
三陸地域の成り立ち
三陸ジオパーク推進協議会
③
防潮堤の斜面を上がると西側に気仙川水門が良く見えます
防潮提に上がりました、右(西側)から
南側です、松原の再生が進められています
東側ははるか遠くまで防潮提が続いています
高田ユースホステルと奇跡の一本松を見下ろしました
気仙川水門へ行ってみます
防潮堤上から南側(広田湾)側に下りて水門を見上げました
東側は波に洗われていますので諦めて戻ります
水門脇から高田ユースホステルと奇跡の一本松を見ました
防潮堤上を東へ進みましょう
「道の駅高田松原」正面(南東側)の「海を望む場」から西側の松原です
南側です
東側です
「道の駅高田松原」へ戻りましょう
戻って来ました、右側(北東側)が東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)です
賑わって居たので、トイレだけ借りて、今回の宮城・岩手の取材旅行2024年10月15日からの5日間を終わりにし、三陸道から東北道で埼玉へ戻ることにしました
2024・10・19・15・00
今回は、かなり長いブログに成ってしまいました、ご覧いただきありがとうございます<m(__)m>
道の駅高田松原・東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)が併設されていて、JR釜石線BRTの「奇跡の一本松駅」にもなっています。
平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した「旧道の駅高田松原(タピック45)」でしたが、新たに「重点道の駅」に選定され、震災の犠牲者への追悼と鎮魂、復興への強い意志を国内外に向けて明確に示すことを目的として整備されました。
「高田松原津波復興祈念公園」は、約130 ㌶( 東京ドームおよそ30 個分)という広大な面積を誇り、国、県、市による復興プロジェクとの一環として、令和3年(2021)に完成しました。
「国営追悼・祈念施設」及び「東日本大震災津波伝承館」が、たくさんの方に追悼や学習のためなどに利用され、この日も、土曜日ということもあり大勢の方々が、道の駅を利用していました。
駐車場南西端に車を止めさせて頂きました
曇り空で降ったり止んだりの一日でしたが、降らないようなので「道の駅高田松原 大屋根休憩スペース」から南西に向かいます
右手に見えるのは
巨大なベルトコンベアの基礎(土台)です
説明版です
希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎
・希望のかけ橋
東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。
その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。
気仙川をはさんで、高台の住宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。
2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月末までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。
これは、かさ上げ盛土に必要な1200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。
市内の小学生に公募し決定した希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。
・復興遺構として後世に伝える
2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存がけっていしました。
ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てるのないつり橋構造が採用されました。
復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。
対岸に「奇跡の一本松」が見えて来ました
奇跡の一本松の説明石碑です
奇跡の一本松
平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。
陸前高田市においても多くの方々が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。
そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」。
その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
この保存企業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。
みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。
平成25年3月 陸前高田市
橋を渡って北側から、後方にはユースホステルの残骸です
震災遺構 奇跡の一本松
・震災前の「奇跡の一本松」
東日本大震災津波被害前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風、防潮林としての植林がその始まりでした。
その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。
しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。
「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老樹のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。
・被災状況
2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した大津波は、5.5mの防潮堤(当時)を倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。
過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツが流失しました。
その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
震災津波で深く傷ついた人々の心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡った「奇跡の一本松」でしたが、海水により深刻なダメージを受けており、震災翌年の2012年(平成24年)5月には、枯死が確認されました。
しかし、保存を願う市民、また内外からの温かい支援により、モニュメントとして保存され、今も震災の記憶を伝え続けています。
・保存活動ーー奇跡の一本松プロジェクトーー
枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指したプロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。
屋外でのこのような保存例はありませんでした。そこで幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるため芯棒を入れ、その素材には航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。
2013年(平成25年)6月に完成しました。
東側から見上げました
「奇跡の一本松」の南側には、震災遺構「陸前高田ユースホステル」です
陸前高田ユースホステルの説明石碑です
震災遺構 陸前高田ユースホステル
「陸前高田ユースホステル」は風光明媚な高田松原公園内にあった宿泊施設でした。
1969年(昭和44年)竣工の鉄筋コンクリート2階建て、延べ床面積698㎡、玄関ホールを中心に左右に客室がのびた美しい建物でした。
2011年(平成23年)1月から休館中だったため東日本大震災津波の発災当日は無人でしたが、津波によって建物は完全に水没。
砂地だった地盤が大きくえぐられ、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿は、津波の脅威を如実に物語っています。
「奇跡の一本松」は、この建物があったために津波の直撃を免れ、倒れることなく残ったと考えらてれます。
北東側から
東側から見ました
奇跡の一本松の東側には「被災したマツの根株」がありましたが、ほぼ残っていません
説明石碑です
被災したマツの根株
巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。
津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がった沢山のマツの根株が残されていました。
大防潮堤に登って見ましょう
奇跡の一本松付近に「松坂新右衛門翁顕彰碑」が設置されました。この碑は東日本大震災津波で流され気仙川水門工事の際に発見されたものです。松坂新右衛門はかつて江戸時代に不毛の地であったこの場所に私財を投じ松を植え高田松原の礎を築き、初めて植林に取り組んだ菅野杢之助と並ぶ偉人の一人です。(高田松原の北東側にあったとされる菅野杢之助翁顕彰碑はまだ見つかっていません)
顕彰碑の文面には・・・
松坂新右衛門定宣翁
顕彰碑
岩手県知事 千田正 書
この旧称今泉松原は、その始め享保年中気仙町和名倉松坂家第4代の租松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたのである。
当時此の地は一木も無く、海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し、収獲皆無こと再びに及んだ。
翁は此のことを深く憂え、之が対策は防風林の造成にあるのみと、多額の私財を投じて苗木を求め、人夫を雇い、自らも身を挺して赤松の数千を植え付け、更に幾多の悪条件を克服し、かつ補植をつづける管理をよくし、以て今日の美林の基をつくりあげた。
それより歳月を経ること250余年、我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り、安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ。是皆翁の深慮の賜と言うべきである。
気仙川の清流は、滔々として千載に語り、太平洋の碧浪は白砂を打って賛歌を奏で、翁の功業を常してに称えようとしている、我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し、永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て、以て顕徳の微意を表する次第である。
昭和47年仲春
三陸ジオパーク説明版です
高田松原ジオサイト
・概要
高田松原には、かつて約2kmに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防潮林として存在していました。
東日本大震災津波で甚大な被害を受け、奇跡的に残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなっています。
南部三陸海岸は、入り組んだ岬や入り江で知られるリアス海岸が天然の良港となるとともに、複雑な岩礁が海洋資源を育んでいます。
一方で、湾の入り口から奥へ狭くなる形状と、水深が浅くなる地形的特徴から、津波の波高が大きく増幅されるため、繰り返し大きな被害に見舞われてきました。
①繰り返される津波被害
②災害文化の伝承と次世代への継承
周囲の見どころ
③玉山金山跡
④氷上山
⑤気仙縄文遺跡(「中沢浜貝塚」)
⑥南部北上帯の古生界
三陸地域の成り立ち
三陸ジオパーク推進協議会
③
防潮堤の斜面を上がると西側に気仙川水門が良く見えます
防潮提に上がりました、右(西側)から
南側です、松原の再生が進められています
東側ははるか遠くまで防潮提が続いています
高田ユースホステルと奇跡の一本松を見下ろしました
気仙川水門へ行ってみます
防潮堤上から南側(広田湾)側に下りて水門を見上げました
東側は波に洗われていますので諦めて戻ります
水門脇から高田ユースホステルと奇跡の一本松を見ました
防潮堤上を東へ進みましょう
「道の駅高田松原」正面(南東側)の「海を望む場」から西側の松原です
南側です
東側です
「道の駅高田松原」へ戻りましょう
戻って来ました、右側(北東側)が東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)です
賑わって居たので、トイレだけ借りて、今回の宮城・岩手の取材旅行2024年10月15日からの5日間を終わりにし、三陸道から東北道で埼玉へ戻ることにしました
2024・10・19・15・00
今回は、かなり長いブログに成ってしまいました、ご覧いただきありがとうございます<m(__)m>