二子山古墳は、武蔵野国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の古墳で最大の前方後円墳です
丸墓山古墳の南、稲荷山古墳の南南西、将軍山古墳の南西側に当たります
二つ山古墳は、二つの山があるように見えることからこの名がります。
墳丘長132.2メートル[1]
後円部径67.0メートル・高さ11.7メートル
前方部幅83.2メートル・高さ13.7メートル
方形の二重周濠をもつ。現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。
西側くびれ部に造り出しがある。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。
古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。
浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。
将軍山古墳南西側の駐車場から二子山古墳の後円部が見えました
北西に進んでこの先を左へ入ります
二子山古墳の北側へのルートです
二子山古墳内堀の西側の端近くから見ました
堀跡の草刈作業が行われていましたが、中提と内堀の間には背の高い草があって写真が撮れませんでした
内堀南西側角から
.
南西側から、堀の中の草苅が済んで見やすくなったのかな
説明版です
二子山古墳
全長138mの前方後円墳です。
かつての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
現在遊歩道になっている高まりが中提にあたります。
内堀は、今は水彫になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています
本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。
出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀始め頃と推定されています。
平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会
*ウィキペディアでは、違った数値が出ていました
*墳丘長132.2m、後円部径67m高さ11.7m、前方部幅83.2m、高さ13.7m、西側くびれ部に造り出しがあります。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳(通称仁徳天皇稜)に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なります。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれ、未発掘のため内部埋葬施設は不明ですが周濠からは1mを越える円筒埴輪が、多数出土しています。
古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられています。
南側から、内堀は空堀に成っていますね
すぐ南側の県道77号古墳通りから見ました
では、次は県道77号古墳通りを渡った南側の鉄砲山古墳です
丸墓山古墳の南、稲荷山古墳の南南西、将軍山古墳の南西側に当たります
二つ山古墳は、二つの山があるように見えることからこの名がります。
墳丘長132.2メートル[1]
後円部径67.0メートル・高さ11.7メートル
前方部幅83.2メートル・高さ13.7メートル
方形の二重周濠をもつ。現在の内堀は水をたたえているが、元々は空堀だったことがわかっている。
西側くびれ部に造り出しがある。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なる。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれる。 内部埋葬施設は不明であるが、周濠からは1メートルを越える円筒埴輪が、多数出土している。
古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられている。
浸食作用で墳丘外周の崩落が深刻化したため、内堀の水を抜いて埋め立てて「空堀」にする工事が進んでいる。
将軍山古墳南西側の駐車場から二子山古墳の後円部が見えました
北西に進んでこの先を左へ入ります
二子山古墳の北側へのルートです
二子山古墳内堀の西側の端近くから見ました
堀跡の草刈作業が行われていましたが、中提と内堀の間には背の高い草があって写真が撮れませんでした
内堀南西側角から
.
南西側から、堀の中の草苅が済んで見やすくなったのかな
説明版です
二子山古墳
全長138mの前方後円墳です。
かつての「武蔵国」(埼玉県・東京都・神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
現在遊歩道になっている高まりが中提にあたります。
内堀は、今は水彫になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています
本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。
出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀始め頃と推定されています。
平成20年(2008年)3月 埼玉県教育委員会
*ウィキペディアでは、違った数値が出ていました
*墳丘長132.2m、後円部径67m高さ11.7m、前方部幅83.2m、高さ13.7m、西側くびれ部に造り出しがあります。
墳形は稲荷山古墳および鉄砲山古墳と同様大仙陵古墳(通称仁徳天皇稜)に類似し、稲荷山古墳を1.15倍すると二子山古墳に重なります。
もと東側裾に観音寺があったところから「観音山」とも呼ばれ、未発掘のため内部埋葬施設は不明ですが周濠からは1mを越える円筒埴輪が、多数出土しています。
古墳の造営年代は出土した埴輪や須恵器の特徴から、6世紀の前半と考えられています。
南側から、内堀は空堀に成っていますね
すぐ南側の県道77号古墳通りから見ました
では、次は県道77号古墳通りを渡った南側の鉄砲山古墳です