ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・中二子古墳」です!!

2024-12-08 18:31:06 | 遺跡・史跡
 「大室古墳群・前二子古墳」に続いては「中二子古墳」です

 大室古墳群で一番大きな前方後円墳が中二子古墳です

 大室古墳群南駐車場から西へ進むと中二子古墳の後円部です、手前に外堀、中提を隔てて奥に二段築造の古墳です

 古墳群の案内図です

 「史蹟 中二子古墳」の標柱です

 説明版です
   ~大富豪の栄華~  国指定史跡 中二子古墳
 中二子古墳は、大室古墳群の中で最も大きく立派な古墳です。内堀や中堤、外堀が全周し、墳丘は葺石で覆われ、内堀に工事や儀式のときに通った「わたり」が存在します。
 かつて中堤は新堤沼を造るため、南側を大きく削り取られてしまったため、その部分を復元して中堤が一周している様子を再現しました。復元された中堤の上には、古墳を外敵から警護するために立てられた盾持人埴輪と円筒埴輪が、密接して並べられた様子も復元されています。
 この古墳からは、たくさんの埴輪が出土しましたが、その中から、円筒埴輪に人の顔が小さく表現された珍しい埴輪がみつかりました。日本全国でも数例しかないものです。
 また、形象埴輪のほとんどと円筒埴輪の一部に、海面骨針の化石と結晶片岩の砂粒が入ることから、藤岡市周辺で製作された埴輪が運ばれてきたと考えられています。
 中二子古墳では、石室が見つかっていません。どのような石室に、どのような副葬品が納められているかという謎が残されています。そこで、この古墳は墳丘に立ち入らず、外から見学するようにしてあります。いつの日かその謎が解明される時がくるかもしれません。

 左手(南側)には、前二子古墳です
 
 史跡標柱の所を右(北西)へ進むと、中提への降り口です

 中提から前方部です

 後円部です

 中提の上が遊歩道に成っています、西側から東側を見ました

 古墳の北西側の内堀と中提そして外堀です

 内堀のブリッジと後円部です

 前方部です

 北西側の説明版です
   史跡 中二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「中二子 威容きわだつ 埴輪列」
 大室古墳群の中で最大の前方後円墳です。周りには二重の堀をめぐらしています。
 墳丘や中提上には、密接して並べられた埴輪列が確認されています。
 埋葬施設としては、後円部に横穴式石室が営まれていたと推定されています。
 この古墳が造られたのは6世紀前半とみられます。

 北西側の内堀です

 中提を南へ進むとまた前方部へ渡るブリジットです

 南西側から前方部です、木の大枝が倒れていました

 中提に円筒埴輪が並べられています

 外堀を渡って南西側から中提に並べられた円筒埴輪です

 前方部です、外堀の外側(南側)の遊歩道を東へ進みます

 南東側から前方部を見ましたが、木々のためよく分かりませんね~

 後円部(南側から)も墳丘の様子はよく分かりません

 東側から外堀です

 説明版です
   史跡 中二子古墳
 墳丘の長さは111mで、二重の堀を含めると170mにもなります。
 この大きさや内容から赤城南麓地域を支配していた大豪族の勢力が最も栄えた頃の首長の墓と考えられます。
 ■埴輪
 墳丘の上下の平坦面や中提には、いろいろな形象埴輪やたくさんの円筒埴輪が並べられていました。
 ■中提の復元
 円筒埴輪の間に盾持人と朝顔形埴輪が規則的に配置されていました。これをもとに埴輪列を再現しました。
 ○葺石ーーー二段に築かれた墳丘や中提内側の斜面は山石や河原石で覆われています。
 ■中提複眼前の断面
 中提は6世紀初頭の榛名山の火山灰層の上に土を盛って築かれています。
 このことから古墳は6世紀の前半に造られたことがわかります。

 中提の円筒埴輪を見ました

 次は、五料沼の西側を北へ進んで「後二子古墳」へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬県前橋市、西大室「大室古墳群・前二子古墳」です!!

2024-12-08 06:36:10 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月25日に群馬県に行った帰りの取材分です

 西大室地区は、前橋市役所の東約12km、前橋市役所大胡支所の南東約6kmのところ

 前橋市役所大胡支所は、以前にも紹介している大胡城址の南側です

 大胡支所前を南へ出て、直ぐの県道34号線を左(東南東)へ、次の「大胡信号」を右(南南西)へ、県道40号線です

 約250mの「宮寺橋西詰」信号を左(南東)へ、県道72号線です、間も無く上毛電鉄の踏切を越えます

 約2.8kmの「下大屋町信号」を左(東)へ、県道76号線です

 約2.8kmで「南口駐車場」の標識を左(北)へ入り、約300mで広い駐車場の西端列に車を止めることが出来ました

 古墳群の案内図です

 南駐車場南側の草むらを通って、住宅沿いの南側の道路を西へ進むと

 前二子古墳の後円部が見えました

 更に西へ進むと道路脇に「史蹟 前二子古墳」標柱です

 説明版です
   黄泉の国へのタイムトラベル
     国指定史跡 前二子古墳
 明治11年に石室が発見されました。狭くて長い石室は、まるで黄泉の国への入り口です。
 石室からは土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土しました。
 詳しい調査記録から、副葬品の配置状態や日本全国から6000人にものぼる見学者があったことを知ることができます。
 さらに明治13年英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れました。
 調査によって周堀のほかに外提と外周溝があり、上段墳丘に葺石があることがわかりました。
 従来から門や扉があり複雑な構造とされた横穴式石室は、床面に加工された凝灰岩が敷かれ「べんがら」によって赤く塗られていることが分かりました。
 また、円筒埴輪は大室古墳群の中で最も大きなものです。杖形埴輪(石見型埴輪)は遠く離れた奈良県のものと良く似ています。
 出土遺物には従来「四神付飾土器」と呼ばれた装飾器台(須恵器小像付筒形器台)があります。朝鮮半島の南部のものと共通した小像が付けられています。

 北西側から見ました

 西側から

 説明版です
   史跡 前二子古墳 昭和2年(1927)4月8日指定
     「前二子 長い石室 古きあかし」
 大室古墳群で最初に造られた前方後円墳です。この古墳からは円筒埴輪の他に人物・馬・家・大刀・靫・蓋などの埴輪が出土しています。
 特徴的な細長い石室から、武具・馬具・装身具・鏡・土器などたくさんの副葬品が発見されました。
 関東地方で最も古い時期の横穴式石室を持つ6世紀初めの古墳です。 

 西南西側から前方部です

 南西側から

 南側の中提から後円部です

 説明版です
   史跡 前二子古墳 (6世紀初め)
 墳丘の長さ93.7m、後円部の高さ13.6m、周堀と外周溝を含めると148mにもなる。大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳です。
 ・墳丘の上段部の葺石部分をササで表現しています。・墳頂部、下段の平坦面、周提上に埴輪列がめぐります。
 〇細くて長い石室
 石室は小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴です。床面には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られています。玄室は扉石を立て閉じられていました。
 これらのことから、関東地方に横穴式石室が取り入れられた最初の頃のものであることがわかります。
 石室全長 13.89m。
 〇形象埴輪
 人物・盾持人(たてもちびと)・馬・家・大刀・靫(ゆき)・蓋(きぬがさ)などがあります。中でも蓋・威杖形埴輪が注目されます。
 〇上毛野氏(かみつけぬ(の)し)の先祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の墓と言い伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきました。
 明治11年(1878)3月、村人により石室が開かれた際、多くの貴重な副葬品が発見され、記録が残されました。
 主な出土品
 ○武具ーーー鉄鉾・大刀・鉄鏃
 ○馬具ーーー轡・杏葉・鏡板・帯金具
 ○農耕具ーー刀子・斧・鋤・鑿・針
 ○装身具ーー耳環・銀製空玉・管玉・臼玉・ガラス小玉
 ○鏡 ○その他ーーー鉤状金具・釘
 〇出土品は当時の人々の興味をひき、県外からもたくさんの人々が訪れました。
 明治13年(1880)には、イギリスの外交官、アーネスト・サトウもこれを見て、「上野地方の古墳群」(日本アジア紀要8巻3号)で外国にも紹介されました。

 南側に玄室です

 覗いてみましたが奥までは見えません

 墳丘に登って見ました、前方部です

 後円部です

 後円部から前方部を見ました、左奥には八ヶ岳北部の山々、右のマツの間に浅間山が見えました

 後円部から次に廻る中二子古墳を見ましたが、木々に覆われているので、前方後円墳の形が分かりませね

 北側の中段を西側から

 南側の中段を西側から見ました

 南東側に戻って来ました

 次は、中二子古墳を見て回りましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする