ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・稲荷山古墳」です!!

2024-12-02 18:30:15 | 遺跡・史跡
 続いて、前回の丸墓山古墳頂から東側に見えた稲荷山古墳です

 稲荷山古墳は、国宝指定の「金錯銘跌剣」を初めとする多数の遺物が出土しています

 丸墓山南西側のさきたま古墳公園案内図です、稲荷山古墳は図の左端(さきたま古墳公園北の端)にあたります

 南西側の稲荷山古墳入口です

 左手(西側)に丸墓山古墳を見ました

 前方部です

 説明版です
   稲荷山古墳
 全長120mの前方後円墳です。
 周囲には長方形の堀が中提をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中提には造出しと呼ばれる張出しがあります。
 古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。
 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。
 そのうち礫槨は良く残っており、多くの副葬品が発見されました。
 その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。
      平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 左手の二重堀跡です、中提に遊歩道が通っています

 復元された前方部に登ります

 前方部から後円部です

 一度くびれ部に下って行きます

 後円部に登ります

 後円頂部です

 頂部西側に頭部が北東に向いた埋葬施設です

 南東側から

 説明版です
   国宝武蔵稲荷山古墳出土品
 115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。
 多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。 
 これらの資料は詳しく解説とともに博物館に展示しています。
   稲荷山古墳 礫槨
 1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。
 舟の形に堀た竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。
 棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。
 実物の礫槨は、地下1mに保存されています。

 頂部の南西側には二つ目の埋葬施設が石の列で表現されています

 説明版です
   稲荷山古墳 粘土槨
 この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。
 盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。


 西側に丸墓山古墳です

 南側に将軍山古墳です

 北東側に下りて来ました

 北側から稲荷山古墳を見ました

 中提部の遊歩道を南西へ進みます

 北側の造出しです

 南側から後円部です

 では、公園内広場を真っ直ぐ南へ出て、「将軍塚古墳」へ行きましょう
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埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・丸墓山古墳」です!!

2024-12-02 06:37:00 | 遺跡・史跡
 ここからは、2024年11月14日埼玉県民の日の埼玉(さきたま)古墳公園の取材分を古墳毎の紹介させて頂きます

 埼玉古墳群は、行田市役所の南東約2kmのところ、市役所は忍城跡に当たります

 まず最初は、丸墓山古墳です、豊臣秀吉の小田原攻(北条氏)の際に、石田三成が陣を置いた事でも有名です。
 和田竜による日本の歴史小説として、またそれを原作とする2012年の日本映画、野村萬斎さん主演の「のぼうの城」でも描かれていますね
 忍城跡や石田堤の考察は、「余呉くんのお城のページ」に詳しく出ていますので参考にしてくださいね

 今回は、赤城山(群馬県前橋市:深田久弥の日本百名山第40番)にキャンプに行った帰りで、利根大堰(行田市大字須加字 船川)で魚道の様子を見て(魚はいませんでした)から、県道20号から県道306号へと南下して、「野合新橋信号」を左(東南東)へ

 間も無く左手の駐車場の入り、奥(北)側に車を止めさせて頂きました

 駐車場脇の「さきたま古墳公園 案内図」です。丸墓山古墳は図の上方に丸い黄緑で表現されています

 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の北側の県道入口から北へ伸びる遊歩道北東へ進みます

 丸墓山への入口です、桜並木は石田堤に上に植栽されています

 古い「さきたま古墳公園案内図」です

 石田堤説明版です
   石田堤
 この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。
 長さ約28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川のミスを流入させたと言われています。
 三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。

 「史跡埼玉村古墳群」の標柱です

 「埼玉村古墳群」石碑です
    埼玉村古墳群
 武蔵北部は隣国上野と共に古墳の依存殊に多く、凨に人煙稠密交運の発達熾なるを察せしむ本村は、寶年真中樞を占めて埼玉郡名北基く所、縣名また此属に由来し百越沼で算する大小の古墳累々起伏するもの故なきに非ず。
 昭和13年8月特に顕著なる丸墓山、二子山・・9基は埼玉村古墳群として文部大臣より史跡の指定を受けしが、古墳群の指定は僅かに九州に1例のみ、まして未だ他余見ざる所なり。
 丸墓山は規模壮大に圓境として布有の・・に属し、天正18年豊臣氏の小田原征討の際、部将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると傳へられ、今回保存の・・全うせん為め挙村の協力に依り指定地域を村有と為に堂召建碑の議あり、本史跡は指定に関係なること前後久しき放を以て予に其汜残属せらるのち一言を氏・に叙す。
     昭和14年10月   柴田常恵・・撰  ・村担・書
 *読めない文字が沢山ありました<m(__)m>
 *柴田 常恵は、明治10年(1877)~昭和29年(1954)、日本の歴史考古学者で、慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任しています。

 丸墓山古墳説明版です
    丸墓山古墳
 直径105mあり円墳では日本最大級です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約17mあります。
 墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。
 出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。
 埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
 南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。
 水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。
        平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会

 *ウィキペディアによると・・・
 最大の円墳は埼玉古墳群中にある丸墓山古墳(墳径105m)とされてきた。しかし奈良県奈良市にある円墳の富雄丸山古墳を市教育委員会が平成29年(2017)に測量調査した結果、従来直径86mとされていたこの古墳が直径110m前後に復元できることが判明した。
 そうなれば富雄丸山古墳が丸墓山古墳を抜いて最大の円墳となる。ちなみに前方後円墳最大の大山古墳の後円部径は250mであり、後円部径が100mを超える前方後円墳は約50基を数える。
 と、なっていて、説明版の「最大級」の上張りされた理由ですね

 丸墓山へ登りましょう

 丸墓山に上がって来ました

 振り返って南西側の上り口です

 北西側です

 忍城の御三階櫓を模した「行田市郷土博物館」です

 北西側には説明版です
   丸墓山古墳と忍城
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。
 丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。
 北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。 

 東側には、左手に金文字鉄剣で有名な「稲荷山古墳」と右手に古墳が展示館に成っている「将軍山古墳」が見えます

 北東側の下り口です

 北東側に下って来ました

 丸墓山古墳頂部です

 丸墓山古墳の北西側にはの石だ堤の跡のような高まりです

 では、次は「金錯銘鉄剣」出土の「稲荷山古墳」へ行きましょう 
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