埼玉県立さきたま歴史の博物館は、この日は「埼玉県民の日」で、無料で観覧出来ました
(通常一般は200円・高校生100円で、将軍山展示館も見る事が出来ます)
駐車場側からの通路です
「埼玉県立さきたま歴史の博物館」まで150mです
埼玉県の名前の石碑です
由来の文面です
埼玉県名の由来
明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設定するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。
以後、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による國郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見られる。また、延喜式神名帳も埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て県名発祥の記念とする。
昭和62年4月 埼玉県
博物館入口です
埼玉の日の催し物として博物館前の通路では「火起こし体験」が行われていました
左手に「古墳時代の装い」の企画展示です
ロビーの航空写真です
埼玉県内の国・県史跡の図の中に、埼玉古墳公園は特別史跡に指定されています
埼玉県の史跡
県内に約11000か所ある古墳や城跡などの遺跡のうち、特に価値の高いものを、国や県では、それぞれ「史跡」に指定して保護しています。
さらに、国が指定する史跡のなかでも、学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴とされる史跡は、特別史跡に指定されています。
また、2023年からは国の史跡に相当する遺跡が「指定相当の埋蔵文化財」として認定、公表されています。
埼玉県内史跡数(2024年3月31日現在)
国指定史跡 25、うち特別史跡1、県指定史跡105、国指定相当埋蔵文化財1
*国指定相当埋蔵文化財の1か所は、最近なにかと話題になっている北本市の「デーノタメ遺跡」です
企画展展示場の中心には古墳時代の衣装です
埴輪を見る上での注意点です(*展示を見る上で重要な内容ですね)
人物埴輪から古墳時代の「装い」を考える際の注意点
古墳時代とは、前方後円墳を代表とする、土を高く盛り上げたお墓(古墳)が多く造られた3世紀中頃から7世紀の間を指します。
この時代の「おしゃれ」や「装い」を考える手がかりとして、人物埴輪があげられます。
人物埴輪は人物を模して作られた埴輪で、髪型や衣服、装身具などの表現があり、絵画や文字資料がほとんどない古墳時代の「装い」を復元する際にはいくつかの注意が必要です
①人物埴輪の出現時期
人物埴輪は古墳時代の中頃(5世紀)から作られるようになりました。
それ以降の古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀代)には、人物を模した考古資料はほとんどなく、「装い」に関する情報が非常に少ない状況です。
本展示でも紹介する資料の大半が、古墳時代中期から後期のものに成ります
②人物埴輪の意味
人物埴輪の意味については様々な説がありますが(首長権継承儀礼説、死後の近習説など)、どの説でも人物埴輪は古墳時代のごく一部の人々、基本的には首長とその周辺の人々を表現していると考えられています。
さらに、彼らの日常生活というよりは、特殊な場面を切り取って表現した可能性が高いとされています。
③人物埴輪の表現技法
埴輪は粘土を成形して焼き上げて作るため、表現を省略、抽象化、誇張する傾向があります。
さらに人物埴輪には上半身と下半身の両方を表現する「全身像」と上半身のみを表現する「半身像」があります。
「半身像」の埴輪の方が多いため、下衣や沓の表現などの下半身の「装い」に関する情報は少ない状況にあります。
右側の壁面から順に見て行きました、女子埴輪です
説明です
女子埴輪 伝東松山市 三千塚古墳群出土 個人蔵
髷や櫛を挿し、首や腕には玉飾りを着けています(脚の玉飾りは推定復元)。
耳の位置に貼り付けられた円環状の粘土は耳環と呼ばれる耳飾りの表現です。
右肩から左脇にかけた袈裟状の布やその下げ緒には曲線や直線の赤彩で文様が表現されています。
非常に「おしゃれ」な女性埴輪といえるでしょう。
男子埴輪です
説明です
男子埴輪 伝美里町出土 さきたま史跡の博物館 所蔵
男子の前身像で、上衣と下衣が表現されています。
鈴を付けた太い帯を胴部に締め、身体の中央に太刀をさげた姿から、身分の高い人物を表現していると考えられます。
腕には籠手を着け、左の腰には鞆(左手首の内側につけて弓の弦が腕に当たるのを防ぐ道具)が表現されています。
*頭部は復元
馬形埴輪です
説明です
馬形埴輪 熊谷市 北島遺跡第5号墳出土 埼玉県教育委員会 所蔵
日本列島では、古墳時代の中期に馬が伝わったと考えられており、馬を模した馬形埴輪が出土しています。
馬形埴輪の多くは馬に乗るための実用的な道具(鞍や鐙など)以外にも多くの装飾品が表現されており、実際にきらびやかな馬具が多く出土しています。
また、鬣を髷状に結った表現もよく見られ、馬の全身が「おしゃれ」に飾り立てられていた様子が想像できます。
農夫埴輪です
説明です
農夫埴輪 伝熊谷市東別府出土 さきたま歴史の博物館 所蔵
笠を被り、鍬を担いで腰には細い帯を締め、帯からは鎌をさげています。
一見、素朴な農夫を表現しているように見えますが、耳には耳環をつけています。
「果たして農夫が耳飾りをつけるのか?」と研究者の興味を引く埴輪です。
ヘアスタイルについての展示です
かぶり物コレクションです
入れ墨や化粧の展示です
古墳時代のファッション展示です
女性埴輪のファッションです
古墳時代のアクセサリーです
耳飾りの展示です
最後の展示は、勾玉や黄金アクセサリーです
では、常設展示場(国宝展示場)へ行きましょう
(通常一般は200円・高校生100円で、将軍山展示館も見る事が出来ます)
駐車場側からの通路です
「埼玉県立さきたま歴史の博物館」まで150mです
埼玉県の名前の石碑です
由来の文面です
埼玉県名の由来
明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設定するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。
以後、幾度かの変遷を経て、明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による國郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見られる。また、延喜式神名帳も埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て県名発祥の記念とする。
昭和62年4月 埼玉県
博物館入口です
埼玉の日の催し物として博物館前の通路では「火起こし体験」が行われていました
左手に「古墳時代の装い」の企画展示です
ロビーの航空写真です
埼玉県内の国・県史跡の図の中に、埼玉古墳公園は特別史跡に指定されています
埼玉県の史跡
県内に約11000か所ある古墳や城跡などの遺跡のうち、特に価値の高いものを、国や県では、それぞれ「史跡」に指定して保護しています。
さらに、国が指定する史跡のなかでも、学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴とされる史跡は、特別史跡に指定されています。
また、2023年からは国の史跡に相当する遺跡が「指定相当の埋蔵文化財」として認定、公表されています。
埼玉県内史跡数(2024年3月31日現在)
国指定史跡 25、うち特別史跡1、県指定史跡105、国指定相当埋蔵文化財1
*国指定相当埋蔵文化財の1か所は、最近なにかと話題になっている北本市の「デーノタメ遺跡」です
企画展展示場の中心には古墳時代の衣装です
埴輪を見る上での注意点です(*展示を見る上で重要な内容ですね)
人物埴輪から古墳時代の「装い」を考える際の注意点
古墳時代とは、前方後円墳を代表とする、土を高く盛り上げたお墓(古墳)が多く造られた3世紀中頃から7世紀の間を指します。
この時代の「おしゃれ」や「装い」を考える手がかりとして、人物埴輪があげられます。
人物埴輪は人物を模して作られた埴輪で、髪型や衣服、装身具などの表現があり、絵画や文字資料がほとんどない古墳時代の「装い」を復元する際にはいくつかの注意が必要です
①人物埴輪の出現時期
人物埴輪は古墳時代の中頃(5世紀)から作られるようになりました。
それ以降の古墳時代前期(3世紀中頃~4世紀代)には、人物を模した考古資料はほとんどなく、「装い」に関する情報が非常に少ない状況です。
本展示でも紹介する資料の大半が、古墳時代中期から後期のものに成ります
②人物埴輪の意味
人物埴輪の意味については様々な説がありますが(首長権継承儀礼説、死後の近習説など)、どの説でも人物埴輪は古墳時代のごく一部の人々、基本的には首長とその周辺の人々を表現していると考えられています。
さらに、彼らの日常生活というよりは、特殊な場面を切り取って表現した可能性が高いとされています。
③人物埴輪の表現技法
埴輪は粘土を成形して焼き上げて作るため、表現を省略、抽象化、誇張する傾向があります。
さらに人物埴輪には上半身と下半身の両方を表現する「全身像」と上半身のみを表現する「半身像」があります。
「半身像」の埴輪の方が多いため、下衣や沓の表現などの下半身の「装い」に関する情報は少ない状況にあります。
右側の壁面から順に見て行きました、女子埴輪です
説明です
女子埴輪 伝東松山市 三千塚古墳群出土 個人蔵
髷や櫛を挿し、首や腕には玉飾りを着けています(脚の玉飾りは推定復元)。
耳の位置に貼り付けられた円環状の粘土は耳環と呼ばれる耳飾りの表現です。
右肩から左脇にかけた袈裟状の布やその下げ緒には曲線や直線の赤彩で文様が表現されています。
非常に「おしゃれ」な女性埴輪といえるでしょう。
男子埴輪です
説明です
男子埴輪 伝美里町出土 さきたま史跡の博物館 所蔵
男子の前身像で、上衣と下衣が表現されています。
鈴を付けた太い帯を胴部に締め、身体の中央に太刀をさげた姿から、身分の高い人物を表現していると考えられます。
腕には籠手を着け、左の腰には鞆(左手首の内側につけて弓の弦が腕に当たるのを防ぐ道具)が表現されています。
*頭部は復元
馬形埴輪です
説明です
馬形埴輪 熊谷市 北島遺跡第5号墳出土 埼玉県教育委員会 所蔵
日本列島では、古墳時代の中期に馬が伝わったと考えられており、馬を模した馬形埴輪が出土しています。
馬形埴輪の多くは馬に乗るための実用的な道具(鞍や鐙など)以外にも多くの装飾品が表現されており、実際にきらびやかな馬具が多く出土しています。
また、鬣を髷状に結った表現もよく見られ、馬の全身が「おしゃれ」に飾り立てられていた様子が想像できます。
農夫埴輪です
説明です
農夫埴輪 伝熊谷市東別府出土 さきたま歴史の博物館 所蔵
笠を被り、鍬を担いで腰には細い帯を締め、帯からは鎌をさげています。
一見、素朴な農夫を表現しているように見えますが、耳には耳環をつけています。
「果たして農夫が耳飾りをつけるのか?」と研究者の興味を引く埴輪です。
ヘアスタイルについての展示です
かぶり物コレクションです
入れ墨や化粧の展示です
古墳時代のファッション展示です
女性埴輪のファッションです
古墳時代のアクセサリーです
耳飾りの展示です
最後の展示は、勾玉や黄金アクセサリーです
では、常設展示場(国宝展示場)へ行きましょう