令和6年(2024)最後の投稿です
中里3丁目は、清瀬市役所の西約1kmのところ
前回の「清瀬の名木・巨木百選No.40ウスギモクセイ」のある中里駐在所前から東北東へ柳瀬川通りを下って直ぐの信号を右(南)へ
坂道を登って行くと「富士塚」が見えました
北側に参道石段があります
鳥居です
清瀬10景説明版です
中里富士山
中里富士山は、富士山を信仰する人々の集まりである富士講によって江戸時代文化年間頃築かれたといわれ、高さが約10m、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
毎年9月1日には、ここで、東京都指定無形民俗文化財である中里の「火の花祭り」が行われます。
この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものです。
清瀬市
文化財説明版です
東京都指定有形民俗文化財
中里の富士塚
所在地 清瀬市中里4ー1132
指定 昭和60年3月18日
丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。
文政8年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。
明治7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは9mである。
北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。
山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、冨士山5合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。
少し下った先には富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路に詣でる「道了大菩埵」の碑が建つ。
富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。
また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。
なお、講に関する中里九嘉講関係資料が附としてしていされている。
初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。
平成23年3月 建設 東京都教育委員会
手水舎です
東側に大きな富士講の石碑です
こちらも冨士講の石碑の様ですが薄くなっていて読めません
石仏と庚申塔も並んでいます
ジグザグに富士塚に登ってみましょう
五合目の「小御嶽神社」の石碑です
七合目の石祠です
山頂広場に成っています、祠は「仙元大菩薩」(浅間神社)でしょうか
北側の柳瀬川方面です
北東側の金山緑地方面です
西側に富士山は見えませんでした
次へ行きましょう・・・ってところで、令和6年(2024)の投稿件数756件(ほとんどが巨木・大木でした)となりました、令和5年(2023)の791件にはおよびませんでしたが、平均すると毎日2件の投稿が出来ました
地元の関東は埼玉 27、東京 68、群馬 25、栃木 26、茨城 20、千葉 6
春には甲信越北陸東海へ山梨 28、長野 11、新潟 7、富山 58、岐阜 27、愛知 26、静岡 16
梅雨入り前にはには淡路島・四国へ、四国88カ所の35番まで行きました兵庫 17、徳島 125、高知 55
秋には東北へ東日本大震災の跡も多数見て来ました岩手 181、宮城 24
その他 9件でした
*このブログを見て頂いてありがとうございます、良いお歳(年神様)をお迎えくださいませ<m(__)m>
中里3丁目は、清瀬市役所の西約1kmのところ
前回の「清瀬の名木・巨木百選No.40ウスギモクセイ」のある中里駐在所前から東北東へ柳瀬川通りを下って直ぐの信号を右(南)へ
坂道を登って行くと「富士塚」が見えました
北側に参道石段があります
鳥居です
清瀬10景説明版です
中里富士山
中里富士山は、富士山を信仰する人々の集まりである富士講によって江戸時代文化年間頃築かれたといわれ、高さが約10m、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
毎年9月1日には、ここで、東京都指定無形民俗文化財である中里の「火の花祭り」が行われます。
この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものです。
清瀬市
文化財説明版です
東京都指定有形民俗文化財
中里の富士塚
所在地 清瀬市中里4ー1132
指定 昭和60年3月18日
丸嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた。
文政8年(1825)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから、文化文政年間(1804~1830)の築造と考えられる。
明治7年(1874)に2m程かさ上げされ、周囲よりの高さは9mである。
北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中1合目から9合目までを記した小さな石柱がある。
山頂には文政8年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を象ったもの。中腹には、冨士山5合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。
少し下った先には富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間に、帰路に詣でる「道了大菩埵」の碑が建つ。
富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。
また全山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。
なお、講に関する中里九嘉講関係資料が附としてしていされている。
初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。
平成23年3月 建設 東京都教育委員会
手水舎です
東側に大きな富士講の石碑です
こちらも冨士講の石碑の様ですが薄くなっていて読めません
石仏と庚申塔も並んでいます
ジグザグに富士塚に登ってみましょう
五合目の「小御嶽神社」の石碑です
七合目の石祠です
山頂広場に成っています、祠は「仙元大菩薩」(浅間神社)でしょうか
北側の柳瀬川方面です
北東側の金山緑地方面です
西側に富士山は見えませんでした
次へ行きましょう・・・ってところで、令和6年(2024)の投稿件数756件(ほとんどが巨木・大木でした)となりました、令和5年(2023)の791件にはおよびませんでしたが、平均すると毎日2件の投稿が出来ました
地元の関東は埼玉 27、東京 68、群馬 25、栃木 26、茨城 20、千葉 6
春には甲信越北陸東海へ山梨 28、長野 11、新潟 7、富山 58、岐阜 27、愛知 26、静岡 16
梅雨入り前にはには淡路島・四国へ、四国88カ所の35番まで行きました兵庫 17、徳島 125、高知 55
秋には東北へ東日本大震災の跡も多数見て来ました岩手 181、宮城 24
その他 9件でした
*このブログを見て頂いてありがとうございます、良いお歳(年神様)をお迎えくださいませ<m(__)m>